Neetel Inside 文芸新都
表紙

涙雨
◆第四話「たとえばその一歩が」

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 多分忘れようとしていた。
 忘れて、どうにかしてしまえば済むとさえ思っていた。
 彼女にとって僕はきっとその程度の存在であったのだと思っていたし、興味の消え失せた僕など……。
「浅野君、大丈夫?」
「え、ああ、大丈夫……」
 動揺を隠せずに彼女の挙動の一つ一つにどきりとしながらも、僕は必死に彼女の言葉にしがみつく。そうでもしなければ、なにかきっかけが見つかった瞬間に僕はきっと席を立ってしまっていると思う。
「久しぶりね」
 だが、そんなきっかけを作らせる気配もなく、理衣子はあの時と何も変わらない様子で僕に声をかける。あの時とても好きだった仕草が、口調が、視線が、今ではとても息苦しくて、僕の首をゆっくりと締めつけていた。
「あれから会わなかったことに驚きだわ」
「まあ……うん」
 恐らく理衣子の言っているのは“踏切”のことではないだろう。
それくらいの予測はついた。あの時彼女は隣の男性のことで興味が一杯であった筈なのだから。そう、客の心の隙間に入り込むという行為に……。
「もっと偶然会うこともあるかと思ったけど、意外ね――」
 理衣子の言葉が僕の中で輪郭をなくしていく。座って、落ちついている筈なのに彼女の言葉がしっかりと僕自身の中に入ってこないのだ。まるで油膜を張ったみたいに、彼女の言葉、いや音を弾いてしまっている。
 よく聴こうとしても、それは無駄な努力で終わってしまう。
 ああ僕はここまで彼女のことを強く意識していたのかと思い知らされてしまうこの状況が、とても悔しかった。
「それで、そっちの子は大丈夫?」
 そこで、やっと僕は椎森の存在に意識が向いた。僕の知り合いがやってきたことで確実に入りにくい空気を感じているのは彼女である筈なのに、僕は何故頭が回らなかったのだろうか。
 椎森はじっと下を向いていた。それまで軽快だった言葉も消え、怯えすら感じるその姿に僕は戸惑った。
「椎森さん……?」
 その言葉を言い終わるか否かのタイミングで彼女はがたりと立ちあがると、無言のまま店の出口へと歩いて行ってしまった。
 椎森は、一体どうしてしまったのだろうか。彼女がそこまでの人見知りであるわけはないと思うのだが。
 元彼女という立場の理衣子が来た事で、何か居心地の悪さでも感じたのだろうか。
「行かないの?」
「え?」
 理衣子はいつもの笑みを浮かべたまま、出口を指差す。まだ椎森の後ろ姿は若干であるが、視認できる。
「遠慮しないで、本当に偶然なの。君と会ったのはね」
 僕は無言のまま立ち上がると、極力理衣子を見ないようにして歩きだす。
「今の子、彼女?」
 背後から聞こえてきた声に、僕は「ちがう」と一言、本当に単純な三文字を返した。
けれども、はっきりとした答えは出ていないような気がして、僕は心の中で頼りなさげに「多分」という言葉を付け足した。
「今度は、その彼女のこと、ちゃんと見てる?」
 これは、挑発なのだろうか。僕は思わず胸の内側で何かがこみ上げてくる感覚を覚える。見ようとしているさ、と言おうとして、押し留まる。
「……ちゃんと見るさ」
「浅野君はよく“見落とす”子だから。ちゃんと受け止めてあげなさいね」
 僕はその言葉に対する言葉がうまく見つからず(というよりもその言葉自体を頭の中で消化しきれなかった)、返事をしないまま店を出た。

   ―第四話―

 周辺を見回すと、椎森の姿はすぐに確認することができた。僕は力なさげに歩く彼女の許へと駆け寄る。
「突然飛び出して、どうしたの?」
「なんでもないわ」
 でも、と僕が呟くと、彼女は少しだけ顔を上げて、濁った視線で僕を見つめる。
「大丈夫だから」
 そう言うと彼女は再び歩き始める。僕は戸惑いながらも椎森に、一緒に歩くと言うよりも、ついていくカタチで歩き始めた。
 ちゃんと見ているのか。
 その言葉が僕の喉元に突き刺さっていた。僕は果たしてちゃんと彼女を見つめることができているのだろうか。そう考えると、出てくるのは多分やきっとなんていう曖昧なものばかりで、とてもじゃないが確実という二文字が出てくる気配はなかった。
「椎森……」
 気がつけば、僕はその名前を出していた。
 彼女は足を止めて、じっと僕を見つめていた。口から思わず出た言葉は、彼女にも聞こえていたらしい。
 僕は、どうするべきなのだろうか。揺らいでいるこの気持ちに名すらつけられないでいるのに、椎森を呼んでなにをしようというのだろうか。
 僕は、一歩だけ彼女に近づく。
 彼女は動かずに、ただじっと僕を見つめている。
 僕は、もう一歩、足を出す。
「……浅野君」
 そこで、彼女はやっと口を開いた。
あと一歩で多分、僕は“椎森”に足を踏み入れられる。そんな気がしたし、彼女もそれを感じて僕の名を呼んだのだと思った。
「もう、時間だから」
 椎森から出た言葉は、僕にその一歩を踏ませる事を拒否するようなものだった。
「そっか……」
「うん」
 僕の足はそこで止まった。いや、止めなくてはならなかった。ここが僕の限界であり、今の僕らの距離なのだということを実感した。
 僕はまだ、彼女をちゃんと見れてはいない。

   ―――――

 一つの事象というものは、人を、いや人の視界をも変化させるものだ。
「……」
 再び錐によって穴でも空けられたかのように、僕と椎森の間には隙間が広がっていた。これは互いに何かに気づいてしまった結果なのだろう。いや、もしくは僕自身が感じた距離感がより明確に僕の目の前に現れただけなのかもしれない。
「おはよう」
「うん……」
 精一杯の返事。
 何故自然と返しの言葉が出てこなかったのか、そのたった四文字に対して一体どんな恐れを抱いているのか。僕自身よく理解できなかった。けれども、その四文字を吐きだすほどの距離の中に僕は果たして居続けられるのだろうか、今もいるのだろうかと考えると、とてつもなく恐ろしかったのだ。
「昨日はごめんなさい」
「いいや、気にしていないよ」
 そうして彼女の言葉に対し、僕は静かに薄い膜で包んだ言葉を返した。嘘ではないけれど、本質を隠している言葉。多分彼女は僕が気にしている事くらい理解しているだろうと思う。けれども、僕はそれを聞いてはいけないと思ったのだ。
 聞いたら、この距離でさえもいられなくなってしまう気がしたのだ。
「あの……」
「そうだ、椎森、実は幾つか読んでみてほしいものがあるんだ」
 椎森の言葉を遮るようにして僕は、鞄を探り、そして数冊の文庫本を取り出した。最早これだけが僕らを繋いでいる糸である。そんな感覚さえ覚えていた。
 だからこそこの糸を絶やしたくなかった。
「僕と趣味が似てるみたいだからさ、気にいると思うんだ」
 読んだ事あるものなら言ってくれ。そう言ってきょとんとした表情をする椎森の手に文庫本を載せた。
「え、うん……」
「気にいらなかったら感想なしで返してくれればいいからさ」
 そうさ、これが今の僕にできる精一杯なのだと。そう信じたい。
 文庫本のタイトルを一つ一つ丁寧に眺めてから、椎森は少しだけ頭を傾ける。それが頷きだと気付き、思わず笑みをこぼす。
「今日は?」
 その言葉に、彼女は即座に意味を察知したようだった。とても愛おしげに文庫本を撫でる姿から一転して、彼女の瞳に再び冷淡さが戻ったように見えた。
 つまりは、そういうことなのだ。
「ごめんなさい、今日は……」
「そっか、また誘ってもいい?」
 椎森はええ、と二文字を返答としてこちらに返すと、一礼して歩いて行ってしまった。僕はそんな椎森の後ろ姿を眺め、そして一つ溜息を吐きだした。

 それから、予想は付いていた事であるが、椎森は何かにつけて僕の誘いを断る様になった。こちらがすぐに気付きそうな程適当な言葉を並べたり、たまに整合性のある言葉を答えたり、どれが本当でどれが本当でないのかが次第に分からなくなるような、そんな返答を繰り返していく。
 けれども、そんな中で、本の貸し借りだけは必ず行われた。多分、椎森自身も完全に断ち切りたくはないと思ってくれているのだと感じた。いや、実際のところそうでも思っていなければどこかが挫けて、そのまま崩れ落ちてしまう気がしたのだ。
 彼女の渡してくる本の数々は、とても面白くて、僕に新しい観点を与えて行く。
 数日前の椎森ならばこの貸し借りの後でいつものように喫茶店へと出向き、互いに読みあった本の考察をぶつけ合うことができたのかもしれない。
 いつの間にか広がっていく椎森の観点と好みが、僕を更に締めつけていた。

   ―――――

 ほんの少し前までは二人で歩いていた帰路も、今では僕一人となってしまった。夕闇に照らされて空虚を孕む駅をぼんやりと見つめ、そして構内へと足を踏み入れる。
 椎森のことを見ると言っておきながらこの体たらく。理衣子が知ればきっと「またなのね」とくすりと笑っただろう。そうして理衣子は僕をじっと見つめて、分かりきった僕の心を見透かして遊ぶのだ。
「ああ、また理衣子か」
 思えばいつだって存在する理衣子の影。椎森のことを見ているようで、結局理衣子の姿をどこかに宿していたではないか。そんな男が何を粋がっていたのだ。
「……僕はどうするべきだろう」
 決まっている。けれども、それは果たしてうまく行くのだろうか。
「……理衣子の影すら捨てきれていないのに?」
 そんなことは関係ない。今何がしたいのか、答えは出てる筈だ。
 すれ違うようにして吐き出される外と内の僕の言葉が、僕に動く事を拒否させていく。この問答が済めば、答えが出るのだろうか。いや、出る筈などないだろう。
――見てあげてる?
 理衣子の言葉を思い出して、僕は両手を強く握り締める。
 僕自身のことを知ってもらう事で、果たして分かり合えるのだろうか。だとしても僕自身が彼女を“見る”為にはもうそのチャンスしかないとしか思えない。
僕らはあまりにも段階をうまく踏み過ぎてきた。
 この流れていく感覚に、僕はまず気付くべきだったのだと思う。そうすることでその感覚からどうにか抜けだして、僕らなりの歩数で歩き続けるべきだったのかもしれない。今となっては後の祭りであるが。
 時間を戻すことはできはしないし、元の関係となることはできない。この先僕が選択すべき事象は彼女に関わるか関わらないかであり、どちらかを選ばなければどちらも失ってしまう。
 僕の中にある想いを、果たして椎森との関係を、どこまで望んでいるのか、ということを……。
 手を繋ぎたいのか、キスをしたいのか、互いに想いを曝け出したいのか。セックスをしたいのか。その全てから目を逸らす事はもうしてはいけない気がしたのだ。
 どれだけ僕は椎森を見れているのか。その実感が欲しい。
「……椎森」
 彼女に関わると決めたならば、しなければいけないことは、幾つもある。
 ただ流され続けることはできない。けれども待ち続ける事が何かを生み出すわけもまたないのだ。


 駅から三駅程進んだところだろうか。
 そこで、見覚えのある人影を見たような気がした。
「……理衣子?」
 とてもよく似ていたのだ。
 服装は違っていたものの、その歩く姿や髪の長さ、雰囲気がとても彼女に似ていた。いや、一瞬だけ捉えただけの情報だ。他人の空似であるかもしれない。
 久々に姿を見た為か、確信がどうも持てない。例えばこれで彼女が「客」に会いに行く途中だった場合、僕は一体どんな反応をすればいいのだろうか。全くもって僕はまた同じ傷を負うかもしれないのに、と自らを嘲笑してみる。
 電車を降りるとすぐさまに階段を駆け下りて改札から飛び出す。
 その時ふと、「何故理衣子を追っているのだろうか」という疑問を覚えていることに気がつく。彼女に対しての執念はもうない、もう抱いていない筈だと思っていたのに、今僕はただ理衣子に似た姿を見ただけでこうやって追いかけている。そして同時に同じ傷を負う恐怖さえも覚えているのだ。
――結局僕は逃れられていないのかもしれない。
 そんな考えの後に続くように、僕の脳裏に「今度は、その彼女のこと、ちゃんと見てる?」という、あの時の言葉が浮かび上がってくる。一体どうしろと言うのだろうか。どうすれば見ていたことになるのだ。
 疑問で塗り固められた不安定な思考を落ちつけようとしても、それが叶う気配はまるでなかった。脆くて、とても見ていられるようなものではない。

 プラットホームから踏切までの距離を考えると多少離されてしまったかもしれないが、見つけられない距離ではない筈だ。
 閉まりかけの踏切を潜り抜け、そこら中に視線を巡らせる。
 理衣子を求めている自分が分からない。けれども、ここで見つけられないと、僕は何か大切なことを見落としてしまうような気がしていたのだ。

 暫く必死に街中を探したが、どうしても見つかる気配がない。
「……勘違い、だったのかな」
 また会ったとしても、この見間違いについては聞くべきではないだろう。彼女に対して僕がまだ未練を残している姿を、見せたくはないし、見せれば僕はまた戻れなくなってしまう気がするのだ。
「――リコ」
 似たような名前だと、僕は思わず聞こえた声の主へと視線を向けた。
 そして、それが僕にとって最も悲しい条件反射であったことを思い知った。
「……椎森?」
 僕の言葉に、向こうも気づいたようであった。

 男性を連れ、そして色のない冷え切った表情を、僕に向けて浮かべた椎森の姿が、そこにはあった。

       

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Neetsha