Neetel Inside 文芸新都
表紙

彦一少年と蟲くだしの姫
『桜田のダンス』

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 雨はいつも唐突に降ってほしい。
 例えば毎朝欠かさず天気予報をチェックし、
 念入りに備えて立ち向かうべきものが雨か?
 果たして否。
 迫りくる低気圧を恐れるべからず。
 空は今朝、こんなに晴れ渡っている。
 出掛けに母親から傘を押し付けられた少年少女よ、
 その傘は誰がためにある。
 そんなものはくそ喰らえだ。
 高らかに宣言せよ、
「五十パーセント? 降るわけないよ」



 昼下がり、町の空にどこからとなく暗雲が流れ込んだ。
 それが勿体をつけて分厚く膨れ上がったあと、
「へいらっしゃい」とばかりに勢いづく雨の音。

「お前はそう言うがな」
 と、得意顔の赤司は僕の友人の一人だ。カクカクした眼鏡をクイと持ち上げ、にやにやと意地の悪い笑顔で僕を見下ろす。
「魚群の期待度は雑誌のリサーチによるとあれで四十パーセントに満たないのだよ。まあ、もちろん百発百中というわけではないのは経験が実証している。だがな、大抵は当たる。わかるか、四十で当たるなら五十で外れるわけがないだろう。お前はわざわざ予報を見たというのにどうして傘を持ってこないのだ。間抜けめ」
 彼はといえば、しっかり傘を自分の机に立てかけていた。花柄のオバサンくさい傘だった。
「備えあればというだろう」
「ふん、不良学生め。例えの悪い訓辞を垂れやがるよ」
「なんとでも言え。ちなみに俺の傘には入れてやれないからな。先客がいる」
「誰がお前と相合傘なんか。こっちからお願い下げだ」
「仲が良いな、ほんと」
 と、サワヤカに笑いながら会話に混ざろうとするのは、後ろの席の宇山博一である。
「中学から同級だって言ったっけ」
 と、僕と赤司を交互に見やる彼は短髪の好青年。人見知りをせず、女子の知り合いも多い今どきの男子高校生で、正直に言うと僕や赤司のような人間とは正反対の立ち位置にいる奴だ。
「そうさ」
 黙っていると、代わりに赤司が芝居がかったクサイ物言いで受け答えした。
「こいつは中学のころからこうだった。微妙な予報のときは必ず家に傘を置いてくる」
「五十パーは微妙じゃないだろう」
 宇山は口だけで笑う。なんとなく、嫌な笑い方だと思った。
「そう言い続けて何年になるかな。ちっとも聞かないんだ。変な所で意固地な性格をしてるのさ、こいつは」
 宇山がふうん、とか言いながらこちらに向ける目線は、いつもどこかむずがゆい。だからあまり印象は良くない。誰だっているだろう? なんとなく好きになれないタイプ。僕にとっての宇山がそれだった。
「マイペースといえば聞こえはいいけど、……どうなんだろうね、それ」
 至極どうでもよさそうな言い草である。少なくとも僕はそう感じた。赤司はそれを受けて調子に乗る。
「どんどん言ってやってくれ。おい、相良。お前もその癖は早く直しておいたほうがいいぜ」
 心から、余計なお世話だと思った。
 赤司はその後、宇山と携帯をつき合わせて何事か話し合っていた。
 ちらと目をやった先、宇山の机にもビニール傘が立てかけてあった。コンビニで売っているような安っぽい傘は、それこそ今どき男子高校生である宇山の象徴のように目に映った。



 雨脚はだんだん強まって行った。大勢の雨の精がいちどきに地団太を踏むような午後三時を境に、少しは落ち着いたというものの、放課後も未だにじわじわざわざわと降り続いている。
 帰りのホームルームが終わったあと、クラスメイトたちが帰途に着くのをすっかり見送った。
 宇山が去り際に「じゃあ」と肩を叩いて通り過ぎていった。触られた肩甲骨あたりの感覚が尾を引く。その日何度目かのため息をついた。
 ちなみに赤司は鼻息を荒くして真っ先に飛び出していったから、また例の先輩によからぬ企みを仕掛けようとでもしているのだろう。言うまでもなくこれは蛇足である。
「相良くん、最後だから電気消しといてね」
 これから生徒会の会合に出向くらしい学級委員が念を押した。僕は教室の隅にわだかまって、椅子の背もたれに体重を預けて天井を眺めていた。
 彼女が出て行ってすぐに席を立ち、照明のスイッチを切ると教室からひと気が失せた。
 薄闇に沈んだ教室では、今日に限ってはグラウンドを走り回る運動部の声は聞こえてこない。
 吹奏楽部が音合わせする豆腐屋の笛のような音も響いてこない。
 職員会議を召集する校内放送も今日は流れない。
 ただ雨の音が午後じゅうずっと鼓膜に張り付いている。
 いつになったら小降りになってくれるのか。それまでいったいどれだけ待てばいいのだろう。
 じめじめした空気が纏わりついて、頭の中までどろどろしてくるような気がする。
 読みさしの文庫本が鞄の中に入っているけれど、湿気でふやけて印字もにじんでしまっていやしないか。まるで読もうという気が起きない。
 窓を開けたって、乾いた涼風が吹き込んでくるはずもないし。
 腕を組んで椅子に沈み込んでいるとずぶずぶと生ぬるい空気が肺を侵食してくるような気がした。それにはきっとなんらかの毒が含まれているに違いない。自分の行動全てを否定する第二の人格を芽生えさせる悪意の微生物。
 居心地が悪いと感じたのもつかの間。
 いつの間にか眠りの世界に逃げ込んだ自分の背中を見ている。



 夢の中で、
 同じ顔をした人達が同じ服を着て、
 巨大な街頭モニタの天気予報を見て、
 それから傘を手に持って、
 晴れたビル街を整列して歩いて行く。
 僕は手ぶらでそれを眺めていた。
「相良くんはお寝坊さん」
 背後から声がした。
「相良くんはいい寝顔をするなあ」
 その声は自分が寝ていることを思い出させてくれた。



 桜田が僕の机に手を突いて笑っている。
「よっす」
 思わず椅子に座ったまま後ずさり、頭を二度振ってまなじりを指でこすった。
「おはよう、少年」
 彼女の笑った顔。
 深く息を吸ってこの世の空気を思考に送り込む。そうやって無理やり意識を叩き起こした。
 薄闇の中で目を瞬かせると、そこにいるのは間違いなく桜田だというのが分かった。
「……なにしてんの」
「きみこそこんな暗い教室で何をしてるんです」
「明るいと眠れないんだよ」
「そっか、納得」
 桜田は身を翻すと、彼女の席、――隣の窓際の席につき、椅子を引いた。
「あたしさ、今朝傘を忘れててさ。さっきね、――」
 窓枠の向こうは分厚い曇天がはるか上空の陽光を受けてほの白んでいる。
 薄暗い教室から窓枠に収まる桜田の姿を眺めていると、知られざる画家の描いた少女の画に魂が宿り動き出したかのようにも見えた。
「下駄箱まで行ってそれを思い出したのです」
 でもそれは寝ぼけ眼で垣間見た夢の続きだったに違いない。にへらと顔全体で笑う桜田は、僕の知っている桜田以外の何者でもなかったわけだし。



 桜田のことを説明すると、隣の席の女子生徒、それだけの言葉でこと足りる。
 それほど僕と親密だというわけではないし、おぼろげな記憶を辿っても、まともに話したことなんか一度か二度しかないはずだ。
 目立たないくせになぜか印象に残る、ちょっと不思議なクラスメイト。そんなイメージ。
 桜田には何度か消しゴムを借してあげたことがある。しかし彼女はそのことをすっかり忘れていたし、僕のほうは彼女からシャーペンの芯を分けてもらったことを覚えていなかった。
「ひどい、恩に着るとか言ってたくせにっ」
 それも記憶にない。
 窓の向こうに依然として聞こえてくる雨の音が、僕達を教室に閉じ込めているような錯覚を与える。
 だからそんな話になったと思うんだけど。
「相良くん、きみは女子にそこそこ人気があるって知ってた? 決して少なくはない人数の女子から」
 雨のせいにして聞こえない振りをしようかな。
 桜田のことをもう少し説明すると、彼女はどぎつい香水の匂いを振りまくことはないし、下品な金切り声でぎゃあぎゃあ騒いだりすることもない。
 かといって教室の隅に数人で負の力場をつくり、その狭いコミュニティに籠もっているわけでもない。
 要するに最も目立たないタイプの女子生徒であるけど、クラスじゅうの男子の誰ひとりとして、彼女の笑った顔を見たその後、仲間内で何かしらの褒め言葉を協議しない生徒はいなかった。
 黙っていても評判を呼ぶのは美少女の証明らしい。赤司がいつかそんなことを言っていた。
「大好評だ、あたし」
 やや大げさに言うと、桜田は盛大に照れてみせる。
「ええと、うむ。……弱ったな」
 意味もなく両手を振り、俯いたり天井を仰いだり、挙動不審になる。やがて手を両膝に据えると、身を乗り出して取り繕った。
「そ、それはともかく。そういう相良くんとお話できる私は、結構ラッキーだと言えたりするのですよ」
 だからなんなんだ、とはどうしても言えない屈託のなさが桜田にはあるんだよな。



 恋とか、愛とか。
「相良くんはそういうことに興味がないのですか」
「ないっていうか」
「じゃあ、あるんだね」
「……ていうか、ぴんと来ないんだよ」
 それこそ桜田はぴんと来ていない表情で僕を見つめ返した。雨宿りの教室は薄暗く、もうぼんやりとしか見分けがつかないけど、たぶんそういう顔をしていた。
「どういう意味?」
「これを僕が僕以外の人にうまく説明できるんなら、人類の歴史に戦争なんていう悲惨な出来事は起きなかったし、アメリカは訴訟社会になんかなっちゃいないし、近所の苦情のせいで僕んちの犬が去勢されることもなかったし、数学の石田先生だって居眠りを見過ごしてくれるし、ジャニーズのニューシングルが毎回ランキング初登場一位だってことさえ僕は甘んじて受け入れるよ」
「ほほう」
 ほほうときたか。
「それで? どうして?」
 桜田は苦し紛れの煙幕をすいすいと抜け出して迫ってくる。
「どうしてって、……」
 口籠もる僕を見据えて、桜田は静かに息を吐いた。
「私は、すばらしいことだと思いますよ」
 と言って続ける。
「人が人を好きになる。恥ずかしくて照れくさくて、ときどき自分ひとりじゃ抱えきれないくらい大きく膨れ上がるけど、それでもきらきらと輝いているじゃないですか。きっとどんな宝石よりも美しいに決まってます」

 誰かに見られている。
 むずむずする。
 ああ、お前はさっきの悪意の生きもの。
 口の動かし方を覚えたか。
『きのう見た夢の話を聞かされてるような気分だって、言ってやれ』

 随分たってから僕は言った。
「傘」
「え?」
 桜田は首を伸ばして目をぱちぱちさせた。
「どうする? 探しにいこうか」



「何でもっと早く気付かなかったんだろう」
 昇降口の隅に設置された傘立てには、遠い昔に主人と離れたであろう、埃を被った放置傘が何本か忘れ去られていた。
「これで帰れるな」
 なあ桜田、と振り返る。
 靴を履き替えた桜田は「フフフ」と昔見たアニメに出てくる悪役のような調子で笑うと、傘など手に持たず、降り止まない雨のなかに飛び出していった。
「おいばかっ」
 僕は適当に放置傘を一本引き抜くと、両腕を広げ天を仰ぎ、でたらめなステップを踏んでくるくる回る桜田の許に走り寄り、傘を開いた。
「お前さあ、……」
「えへへ」
 すっかり濡れそぼった桜田の前髪が束になって額に張り付いている。彼女は笑いながら指で目許を拭う。
「ほら、相合傘だ」
 そう言って見上げてくる。
 背ぇ低いなあ、と思った。



 翌朝の通学路で百円玉を拾った。自販機の足許。俯いて歩いていたのは僕が根暗な奴だからという訳じゃなくて、昨日の雨が至るところに水溜りを作っていたからで。
 拾い上げたニッケル合金の欠片は濡れていて水滴をひっつけていた。天にかざすと眩しくきらめいて太陽の光を反射させる。空には雲ひとつ浮かんでいない。

 清々しい朝は校門までだった。
 そこここで立ち話をするクラスメイトの人林を縫ってようやく自分の席に辿り着く。朝からみんな、元気のいいことで。そんなに昨日のテレビが面白かったか、そうか。
「あ、相良くん」
 窓際から声がした。隣の席の桜田は他のクラスメイト同様、朝っぱらからニコニコしている。
「おはヨ」
 彼女との朝の挨拶は、近頃習慣となりつつある。
「おはよう」と返事をすると、
 宇山の低い声が続けざまに返ってきた。
「おっす、」
 言うまでもないが朝からあまりまじまじと見つめたくはない顔だ。
 宇山は桜田の机に手を突き、身を乗り出すように彼女と向き合っていた。どうやら僕が教室に入るよりも前から、二人はなにやら話し込んでいたように見てとれる。
 何を言うでもなく、その様子を立ったまま見つめる。心の中で唾を吐いた。
 ――手当たり次第、という印象。とりあえず間近の席のオンナノコから、ってか? イケメン宇山様は違うね。勝手にやってろ。僕は関与しない。
 清々しい朝が台無しになったと実感したのはきっとこのときだ。昨日の夜まで降り続けた雨は、瘴気に霞む街を丸ごと洗い流し、澄んだ空気の中では遠くの景色まで見渡せたというのに。
 頭の中で宇山の顔面が増殖していくのをどうにかして阻止しなければならなかった。気分が悪いときは机に突っ伏して寝てしまうのが一番いいと僕は知っているぜ。
 だから、勝手にやってろ、ふたりとも。
「ねえ相良くん」
 しかし桜田はなおも僕の袖を引っ張ろうとするのだった。
「ほらほらっ」
 桜田が満面に、――この場合、少々おバカな印象のする笑みを湛えつつ、机の脇に立てかけられたあるものを示す。
 それは黒が褪せてぼんやりと変色した、ボロっちい傘。
 それに見覚えがあったのは、昨日の放課後、下駄箱の傘立てから引き抜いた放置傘を思い出したからだ。同じ傘だった。
 傘と、尻尾を振る仔犬みたいな顔をした桜田と、陰気に僕を睨みつける宇山の眼を順番に見比べる。
 何か言わなきゃいけないのかな。仕方がないから口を開いた。
「そんなボロ傘、捨てちまえよ」
「いえいえ、捨てらんないのですよ」
「今日はこんなにいい天気だぞ」
「天気は関係ないもの」
「意味わかんねえ」
 本当に勝手にしやがれ、僕は寝るぞ。気分が悪いから寝てしまうのだ。ふて寝だなんだと蔑まれても構わん。
 ホームルームが始まって担任の石田先生が来たって起こしてくれるなよ。起立、礼、おはようございます。それらを机に突っ伏してやり過ごすのに少し憧れがあるんだ。
「その傘がどうしたの? 何の話?」
 宇山の妙に明るい素っ頓狂な声が鼓膜をざわつかせる。
 表情までどこか胡散臭いその顔を桜田に近づける。
「俺にも教えてよ。相良ばっかと話さないでさあ」
 桜田の無尽蔵に思われたテイクフリーの笑顔がこわばる。駅前のホットペッパーが雨風に曝されてしわしわになる。それを定点観測して早回し再生したような感じ。
 桜田は「え、えと。……」なんてうろたえつつ、宇山と僕を交互に見比べる。やがて僕をじっと見つめて動かなくなり、口もぴたっと閉じて黙り込んでしまった。
 それに釣られるように、宇山も僕を見る。こいつは桜田から目を背けると、その双眸から光が消え失せてしまうらしい。口だけは笑っていて気味が悪い。
 僕は桜田に言った。
「……なんで僕を見るんだよ」
「だって」
 だって、じゃないわい。
 そのとき誰かの舌打ちが聞こえたような気がした。振り返ってその悪意を確かめようとした瞬間、なにかトゲトゲしたものをティッシュに包んで差し出すような声で、宇山が訊いてきた。
「相良あ、教えろよ」
 無性に、どうしてかはわからないが無性に腹が立って、びっくりしたぼくの胃袋は地団太を踏み、丹田震撼、そのせいでみぞおちの真ん中辺りにある怒りのゴングが「カチン」とひとつ鳴った。
「俺が昨日桜田にあげた傘がどうしたよ」
「イミわかんねー」
「あいにくこっちもわからん。それはなぁ、それ以上でもそれ以下でもない、骨の錆びた、ただのボロ傘だ。説明はそれで充分すぎるほど果たしてんだよ。なあ、桜田、」
 と、ここで桜田に同調を求めたのがいけなかった。

「うん。きのう、その傘で一緒に帰ったんだよね。これはただのボロっちい傘」

 エヘヘ、だと。百点満点の笑顔。指で頬を掻くおまけつき。
 さっきまで真冬の電気毛布並みの熱を持っていた頭が急激に冷える。低温やけどは免れたわけだ。しかしながら、
(あ、マズい)
 と思った。

「てめえええ女の子と相合傘だあふざけやがってええええ! ぶへあ」
 憤怒の形相さながらに喚き、金剛力士もかくやといった勢いで人波を掻き分け、いかり肩で歩み寄る赤司の大馬鹿を筆頭に、あれよと言う間に僕と桜田は、クラスじゅうの男と女から囲まれ、質問責めに遭ってしまう。赤司を反射的に殴り飛ばした直後からだ。
 桜田と、僕と、棒磁石の両極に引き寄せられる砂鉄の如きクラスメイトたち。彼らに取り囲まれ身動きがとれない。桜田は女子の嬌声に籠され、僕は男子の血走った眼に包囲されていた。
 その騒ぎは、朝のホームルーム開始を伝えるチャイムが聞こえぬほどに発展した。
「おおおお前ら! いつからだ! いつから付き合ってたんだ!」
 級友たちはいくら否定しても聞く耳をもたない。アホかこいつら。女子に囲まれた桜田は、大勢の後ろ姿に埋もれてしまい、その姿を隠していた。
 喧騒のさなかに、人垣の隙間から一度だけ、こちらを見つめている宇山の姿が見えた。射抜かれようものなら、背中に鳥肌も立とうかというほどの冷たい視線! 何がしかの黒い感情。

       

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