Neetel Inside 文芸新都
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 初めて授業をさぼった。
 四時限目の数学だった。数学担当の石田先生は堅苦しくて小うるさいから、クラスの担任にこの話が行くのは必定であろう。次に顔を合わせる瞬間が今から億劫だ。
 四十人分の奇異の目線から逃げ出した僕はつまるところメンタル面が弱い。スポーツ界に偉大な業績を残すトップアスリートたちでさえ、肉体と違い実体のない精神は鍛えるのが難しいと苦心惨憺しているのだから、僕のような一介の男子高校生に至ってはそれも当然といえる話だ。そうだろ?
 勢い込んでさぼってみてもどこへ行けばいいのか誰も教えちゃくれない。
 不良高校生の真似をしてみようにも煙草もライターも持っていなかった。そもそも猛毒である紫煙の臭いは大嫌いだった。あんなもののどこに魅力があるのかわからない。
 保健室で休ませてもらうのが最善の言い訳になるだろうか。そこには先客がいるかもしれない。それこそ筋金入りの不良がたむろしている可能性が高い。そこへ単身乗り込んでいく度胸など当然ない。
 図書館にいるのが見つかったらこっぴどく問いただされるだろう。
 いや、なにも学校に留まっている必要もないではないか。そうだこの際自宅に引っ込んでしまおう。でも次の日どうするつもりだ。
 何事もなかったように登校しなきゃならんのか。そして担任に体制に従うことの意義を教え諭され、自分はまたどこからかいつからか流れ出した大きな奔流の中で浮き沈みする木の葉の一枚に過ぎないのだと、諦めのため息を吐くしかないんだろうか。
 それじゃあ本当は一体何がしたいんだと訊かれると、きっと僕はその質問に答えることができない。どこにでもいる高校生だ。これといって悩みがないことを悔やみ、その数十年後、理想はと訊かれれば普通のサラリーマンですと答えるテレビの中の小学生をみて、なんとなくがっかりする中年中間管理職なんかになっているんだろう。
 僕はどうしようもないくらい普通の高校生だ。
 普通の高校生は普通に学校に行って、たまにさぼって、ときどき嘘をついて、そのたびに正直者を志して、吊り革にぶら下がって電車の窓の外を眺めるような人生を送るのだ。たぶん。
 だから僕にとって桜田とは、ただの隣の席の女子生徒以外の、それ以外のなにものでもないよ。お前らが勝手に決め付けるな。お前らが僕の価値観を操作するな。ほっといてくれ。



「お、戻ってきた」
 教室の戸をくぐる僕を赤司が目ざとく発見する。ぶん殴った左の頬は、時間が経つにつれて赤く大きく腫れ上がっていた。メガネは傾いたままだ。
「おかえり」
「ただいま。お前は病院行ったほうがいいと思うよ」
「気にするな。俺も動転していた。むしろ目を覚ましてくれてありがたかったぜ」
 再三の主張になると思うが彼はいわゆる変態であった。二人のあいだにそれ以上の会話は続かない。
 誰とも目を合わさないようにして席に着くと、やはり背後と左隣にわだかまる空気が重たく、肌にまとわりついてくるような不快感があった。
 机に肘を突いて沈み込んで、残りの課程のあと二コマを地蔵のような無心で過ごそうと心に決めたそのときだ。
「おい、放課後空けとけ」
 亡霊のうわごとのような低い声で、後ろの席の生徒がぼくの背中に語りかけた。
 当然返事なんかしない。



 帰りのホームルームの直後、担任が呼びつける声を完全に無視して、宇山が僕の腕を強い力で引っぱって行く。
 教室じゅうが俄かに静まり返って様子を眺めていた。担任さえも呆気に取られて口を半開きにしたまま見送ってくれた。
 桜田はどんな顔をしていたっけ。よく見えなかった。

 学校を後にして、最寄の駄菓子屋に連れて行かれた。そこで宇山は冷凍ボックスからブラックモンブランを二つ引っ張り出し、一つをぼくに寄こした。
 自分の置かれた状況が上手く飲み込めないでいた。
「なんだ、ミルクックのほうが好みか」
「違う。お前が何をしたいのかわからんだけだ。これでも竹下製菓とは十年来の付き合いだよ」
「だったら受け取れ。俺のオゴリでいい」
 ほとんど押し付けるようにして宇山はそれを手渡すと、残った一つの袋を破き、中身にかじりついた。
 宇山は財布から百六十円取り出して冷凍ボックスの上に置き、
「行こうぜ」
 と言って、僕の返事を待たずに歩き出した。
 二人の縁はいま八十円の当たりつきアイスで繋がっている。強力な冷凍庫に長いこと放り込まれていたようなそれにはまるで歯が立ちそうになかったが、宇山は平気で食いちぎって咀嚼している。なるほどアイスとは舐めるものでなく噛むものだったのだなと納得させる後姿である。
「かってーなこのアイス」
 なんて言っている。それもそのはず、アイスの時期にはまだ少し早いのだ。まさか前のシーズンのものがそのまま冷凍保存されていたわけもないだろうが、傾きかけた駄菓子屋の構えを鑑みると間違っていないかもしれなかった。僕はタダのアイスを手にぶら下げたまま彼の後に続いた。
 彼の背中に追いつくと、気配を察知したのだろう。宇山は背中越しに語りだした。こいつもこいつで、なんだか格好つけた奴だと思う。
「お前さあ、俺のことあんまり良く思ってないだろ」
「よくわかってるじゃないか」
「お互い様だ。だからあまり長引かせない。単刀直入に、だな」
 宇山は突然立ち止まった。僕も足を止める。鞄を漁ると、彼は封筒を取り出して、
「ほら、やるよ」
 僕に差し出した。カチカチのアイスを咥えてそれをあらためると、遊園地の開園記念イベントの招待券が二人分入っていた。
「お前にやる」
「いわん」
 変な声が出た。半開きの口の中に唾液が溜まりはじめる。咥えたアイスを一口かじって一緒に飲み込んだ。
「なにをさせたいか言わなくてもわかるだろ?」
「わからん、返す」
 宇山はため息をついて背中を向ける。そして逃げるような早足で歩き出した。
「おいっ、ふざけるな。気持ちが悪い。お前一体何がしたいんだ」
「俺じゃ駄目なんだよ。お前じゃなきゃ駄目なんだとさ」
「はあ? いい加減にしろ。狐につままれてるような気分だ。はっきり言え」
 僕は宇山に追いすがり、肩に手を掛けてこちらを振り向かせた。
「おいっ」
「この鈍亀が。じゃあはっきり訊いてやる。お前、桜田のことどう思ってるんだ」
 宇山は僕のことを、やはりいつものように、何か汚らわしいものでも見るような目つきで睨みつける。ひそめた眉に不快感が顕に出ている。
「好きか、嫌いか、はっきりしろ」
「そんなん知るかっ」
「お前のそういうところが気に入らねえんだよ。お前を見ていると虫唾が走る。でたらめを言っていつも煙に巻こうとする。ふざけやがって」
 宇山は肩に掛かった僕の手を払い落とし、ついでにお返しとでも言わんばかりに僕の左肩を突き飛ばした。
「本当ははらわた煮えくり返ってるんだぜ。ぶん殴ってやりたいくらいにムカついてるんだ」
「だったらやりゃあいいだろ。僕は根っから正直者で他人の嘘には鈍感なんだ。はっきり態度で示してくれなきゃこっちが困るわ」
 と言うが早いか宇山は僕の頬を力一杯に殴りつけた。拳を振りぬく渾身の殴りっぷりで、視界から宇山がいなくなったと思ったのと、首が九十度横を向いていることを関連付けるのに少しだけ時間が掛かった。左頬に流れる血液が沸騰したかのように騒ぎたて、痛覚神経をこれでもかと揺さぶる。
 僕は何度か頭を振って、ぐらぐらする視界になんとか二本足で踏ん張ろうと必死だった。そこに洗脳テープのような宇山の声が響いている。
「とにかくお前は桜田と付き合え。そして彼女を笑わせろ。悲しい顔をさせるな」
 顎を動かしてみて、なんとか声を出すことが出来るらしいことがわかった。
「何でそんなことを、お前に言われなきゃならねーんだ」
「お前は彼女のことを好きなくせに、そういうわけのわからん意地を張っているんだ。自分に正直になれくそやろう」
 宇山は泣きそうな顔をして、怒っていた。
 なんだかよくわからないが。



 翌日も良く晴れた日だった。青天白日。まっちろけなのは空の上だけで、大地に這いつくばる僕たちはドロドロした重力から逃れることなど到底叶わないのである。
 鳥になりたいなあとよく思う。はるか昔に、太古の地上に君臨したあの恐竜たちの子孫は、体を作り変え重力から逃れる術を得た。
 カラスなんかは電信柱の上から、儚い憂き世に身をやつす現代人の汚れた魂を眺めては笑っている。いい気なもんだ。そういう傍観者になりたい。なりたかったが僕は当事者に他ならないのである。
 だって現代社会を生きる人間だもの。人間社会を生きる現代人だもの。目の前の面倒事に一つひとつ立ち向かわなきゃいけない宿命のうえに生まれた。
 どう生きるのかを決めなきゃいけない。
 まとわりつく何もかもに対して、一つひとつどうするのかを決めなきゃいけない。
 桜田とどうなりたいのかも決めないといけない。
 僕は誰からも指示されることなく、自分の考えを自分ひとりで決めなきゃいけないらしい。
 きっと人生の先輩である大人たちや宇山なんかはそうやって生きている。
 色々と世話を焼いてくれるのは余計なおせっかいだと思うけれど。
 全然大人なんかになりたくないと思っているけれど。当然宇山になんかもなりたくないけれど。
「桜田はさあ」
 と声をかけると、桜田は口許に笑みを湛えて振り返った。
「遊園地とか好き?」
「うん、あんまり行ったことはないけど」
「そう」
「それがどうしたの?」
「いや……」
 背後の席の宇山をちらと見やる。文庫本に視線を落として空想の世界にのめり込んでいた。お前みたいな奴も本を読むんだなあ。
「別に。訊いただけだよ」
「ん、そう?」
「うん、なんとなく気になっただけ」
 ガン、
 という音と、尻を突き上げるような振動。宇山が僕の椅子の座面を裏側から蹴り上げたのだ。
 宇山はやはり、なにかしら感情のある光をその眼に湛えつつ、こちらを見据えるのだった。
「悪い、悪い。足が滑ったわ」
 どうでもいいけど。
 お前の読んでる本の背表紙が逆さまになってるのは僕の気のせいなのかな。

〈オワリ〉

       

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