Neetel Inside 文芸新都
表紙

彦一少年と蟲くだしの姫
『お下げの中学生は緋色ウサギの夢を見る』

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 流行歌のシングルCDを買いに街へ出かけるときはバスで片道一時間。同級生に馬鹿にされない程度の洋服を選ぼうとすると、汽車と電車を乗り継ぎ一時間半かけて都会へ出張らなければならないような田舎町。わたしのまち。
「そんなカメラ持って、なにを撮ろうっての?」
 言われて反論に困るような水田と果樹園の町。星空と夕焼けだけは特別にきれいだと思うけど。
「空ばっかりで君の写真にはほとんどひと気がないね」
 カメラを向けるとあんたが嫌がるんじゃないか。
「私はめずらしくて、きれいなものだけを撮るんだ」
 ふうんと生返事をしつつ、写真の束を何枚かめくってはそれを元あった場所に戻す。ほとんど投げ捨てるように、乱暴に扱う奴。たとえそうでなくとも、
「よくやるよ、いまどき新聞部なんて、流行りもしないのに」
 そう言い残しては去ってゆく。私の心を荒らしてゆく。
 農家の息子め、と恨むことにしている。先祖代々の家業を、そのじめじめした未来を甘んじて受け入れねばならぬ彼らは性根が腐っているに違いない。田舎気質の卑しいやつめ。
 と、思うことにしている。この際言うまでもなく彼と同郷の自分のことは棚に上げてしまう。
 私は自分の思うがままに生きるのだ。勝手なことを言いやがって。

「おかえりなさい」
「まちなさい」
「そこに座りなさい」
「これは一体なんなの」
 玄関を開けるなり憤怒の形相を呈した母が待ち構えていた。間髪入れぬ四連コンボにホウホウの体でひざまずく私の眼前に突きつけられたもの。
 くしゃくしゃに丸めて確かにゴミ箱に捨てたはずの進路希望調査書。
「黙ってないでさあ答えなさい」
 わかってるくせに。その紙がなんであるかは端書きにちゃんと書いてある。なのにわざわざ私の口から言わせようとする。三日徹夜して考えても思い浮かばなかったから捨てました。わざわざ図書館にも出向いたというのに、十三歳のハロー・ワークはことごとく貸し出し中だったから。そんな年じゃないけど。
「まだなにか隠してるんじゃないの? 全部出しなさい」
 なにわけのワカランことを喋っているのだ。その言葉はむしろこっちの台詞だ。まさかあなたが娘の部屋のごみ箱を漁るような頓狂な行為に及ぶとは夢にも思っていませんでしたよ。ああ、もしかするとあれも掘り起こされたりもしたんじゃなかろうか。秘密のポエム集は机の三段目の引き出し奥にしまってある。それを見られたら実の母とはいえ家族の縁を切ってしまわねばならぬ。
「一体なんのつもりなのよ。受験のこととか、もっと真面目に考えて頂戴。いい? 私があんたくらいの年のころは、――」
 そんなグッド・オールド・デイズはどうでもよろしい。それに、仮にも実の娘を上がりカマチに正座させておきながら、自身の昔話に突入するのは止めていただきたい! 長話は堪える。冷たい板に敷いた膝が痛くってかなわないのだ。
「女の子がカメラなんかに夢中になって。そうだわ、それが悪いのよ、貸しなさい。受験が終わるまで預っておくわ」
 母が言い終わるが早いか、私は飛び上がって立ち上がり、きびすを返すと先ほど脱いだばかりのスニーカーに両足を突っ込んだ。
 母の声が私を叫び呼んだ。胸に提げたカメラをしっかり握って私は駆けた。スニーカーのベロがつま先で丸まっていて走りにくかったのなんの。

 ○

 カメラの話。
 かつて私の祖父は大陸に渡っていたころ、軍属のカメラマンとして戦地を駆けずり回っていたという。いま私が持っているそれはいわば祖父の御下がりなのである。キズもある、メッキもところどころ擦り切れている。実用に適う程度まで修理するのにウェイトレスのバイト代を丸々三か月分注ぎ込んだ。カメラが戻ってくるとその日のうちにバイトを辞める旨を店長に伝えた。引き取りに行くと「好きだねえ、お譲ちゃん」と脂ぎった薄らハゲの肥った中年店主が私をじろじろと眺め回して気味が悪かった。
「ちょっとだけ安くしてあげられる方法があるけど」
 いやらしい目つきの提案には聞く耳をもたなかった。なんだかとても腹が立ったことだけを覚えている。カメラの思い入れと言えばそれぐらいのものだ。額に飾られた白黒写真の祖父の仏頂面より、脂ぎった中年店主の好色の視線の印象のほうが強い。
 祖父は私が生まれるずっと以前に他界しており、口をきいたことすらない。

 ○

 あてもなくしみったれた街をさまよう。家を飛び出したからにはそうそう帰ってやるつもりはない。
 いっそのこと汽車に飛び乗って有り金で行ける所まで遠くへ逃亡してしまいたかったが、一時間に一本しか便りのない単線無人駅である。飛び乗ろうにも間が悪い。錆だらけのベンチに腰掛けてずいぶん待たねばならないだろう。おまけに学生の帰宅ラッシュが落ち着くと更に本数は減る。そもそも財布は鞄の中である。そんなもの自宅の玄関先に置いてきてしまった。
 上着のポケットに手を突っ込むと小銭が入っていた。赤銅の硬貨が何枚もある。裸銭がしまってある理由に見当はつかなかったが缶ジュースくらいは買えるらしい。意識すると小銭の入ったポケットが心なしか重たく感じられた。意識せずとも体がそっちに傾いてしまう気がした。じゃらつくポケットを軽くしようと思って、羽虫がたかりおぞましい様相を呈す自販機に近づいた。ずいぶん日が長くなったこの季節の、日も暮れようかとしている時間だった。
 甘ったるい炭酸飲料か、いや私はもう大人だからコーヒーにする。ブラック無糖、これしかない。
 十円玉はポケットにいっぱい。いくら取り出しても湧いて出てくるような錯覚は、頑固なまでに十円玉を十円玉と認めてくれないコイン投入口への恨めしさと等しい。いらいらした。羽虫が私の体温に集まってきて、そのうちの一匹が肌に張り付くたび気が狂いそうになるほど腹が立った。コーヒーは苦いし口の中がざらざらした。

 月の光も地上に届かないような湿った夜、重たい夜。息を吸うたびに胸の奥から大事なものが腐りだしてゆくような気がする。
 私はゆっくりと、独りきりで死んでゆくらしい。感覚器を腐らせて、神経はぶよぶよに水を吸って、半覚醒の脳はやがて働くのをやめてしまうだろう。生温かい滑らかな肌色のまま、植物のようにじっと動かなくなるだろう。そして生きたまま埋められるに違いない。声ならぬ声を叫ぶが弔いの土に遮られ、絶望が諦観に達したころに私の魂は光を失うのだ。
 光を求め、光を求めて、私は蜘蛛の糸のきらめきに吸い寄せられるように足を運び、無気力な頭でぼんやりと考えるのだ。
 薄っぺらなカゲロウとどこが違う? 田舎の湿った夜に自販機に張り付いて、機嫌を損ねた客に叩き潰されて儚い命を終えるやつらと、大して変わり映えしないじゃないか。やつらはたった一日の命らしい。私はまだまだ、およそ五、六十年は無様に生き続けるだろう。蟲どもよ、少しくらい分けてやろうか。
 家に帰りたくなかった。しかし私の寝床はそこにしかないらしい。首の周りが息苦しくなった。

 ○

 巫女が舞っていた。
 夜に溶け込んだような黒髪が、炎の紅に染め上げられている。
 腕を広げゆっくりと体を一回転させると衣の白袖が膨らんで円を描く。黒髪が宙に拡がり、水鏡のように炎を映した。白足袋に赤い鼻緒の履物が土を踏みしめ、緋袴が揺れる。
 薪が爆ぜる。火の粉が立ち昇って消え失せる。
 朽ちかけた神社の境内で火を囲む数人の男女。社の正面でくるくる回る緋袴の巫女。老爺がうめくような節で祝詞をそらんじる。ワイシャツの青年が杯をあおる。一升瓶を抱いた工夫が手拍子で囃す。小さな子供が笑いながら巫女の踊りを真似ている。
 あたりは林に囲まれていて、焚き火の照らす範囲だけがひっそりとした夜に切り取られていた。
 私は背中に張り付いた夜闇の気配をじっと感じていた。目の前がちらついたかと思うと、季節はずれの蛍が宴の様子を伺いに出てきたらしい。巫女の元に吸い寄せられるように集まり、青白い光がその白衣を照らした。

 それからどういう経緯で赤ら顔の酔っ払いたちに混ざって火を囲むことになったのか。
 男どもは制服姿の私をさして気にも留めず、とってとられての酒盛りを続けている。私の隣には巫女がいた。
「ここで何してるんですか」
「見てわからぬか。酒宴じゃ」
「どういったお仲間なんです」
「わしに仲間など居ぬ、流れの身よってな」
「みんな知り合いというわけじゃないんですか」
「みな行きずりじゃよ」
「けれどあんなに仲良さそうにお酒飲んでますよ」
「酒を飲んだら皆兄弟と言うておったな」
 ほ、ほ。と水戸黄門みたいな笑い方をする。里見幸太郎演じる上品なやつ。
「わしも居心地が良いよって、長居してしまっておる」
 目を細めて、笑いあうおっさんどもを愛おしそうに眺める巫女。まぶたの上で切りそろえられた黒髪は夜中でも明らかなほど艶やかで、羽を休めようとテントウ虫が飛んできてもきっと滑り落ちるだろう。焚き火に照らされる紅唇なおいっそう鮮やかで、まとった衣の色よりもさらに白い肌はきめ細かく、透き通って見えた。こんな人間が自分と同じ世界に存在しているのを俄かに信じがたい思いがした。それとも、ほんとうにそうなのかもしれない。
「あの、あなたは」
「何ゆえ、何ゆえと、訪ねてばかりじゃな、おぬし」
 振り返ったその人の顔は優しかった。私はすっかり自信を失う。私がここにいる理由が、どうしてもこの場に必要な人物である言い訳が必要だ、と思った。
「すいません、新聞部ですから」
「謝らずともよい。ひとにへつらってばかりおると、疲れるぞ」
 自分の子供っぽい焦りを見透かされたようで、私は何も言えなくなった。
「日々は無常じゃによって、流されるままに任せよ」

「お姉ちゃん、そのカメラ」
 小さい子供が私の胸元を指差した。そのあとおそらくは機種名を教えてくれたのだろうと思うけど、私は詳しくないからわからなかった。
「へえ、そういう名前なの。戦闘機みたいね」
「知らなかったの?」
「うん」
「お姉ちゃんほんとに使いこなせてる?」
「見くびらないでよね」
「ねえ、道具には魂が宿るんだって。作った人、使った人、修理した人、そして受け継ぐ人。お姉ちゃんのカメラにもあるかなあ、魂」
「どうだろうね。わかんない」
「きっとそうだよ。だってぼくには見えるもの。息をしているのがわかるもの」
 少年は夢見がちな年頃らしい。

「形あるものだけに囚われると、いけない。形のないものにも力が宿る」
 老爺は誰にともなく喋っている。自分のヘソと話すように首を折り曲げた格好だった。
「それは思っているよりもずっと乱暴な力のことが多い。人の心なんかは簡単に傷つく。あたしらは、もっと喋る言葉にも気を遣わなきゃいけねえのさ」
 黙って聞いているとふっと頭が持ち上がり、痩せさらばえた鶴のような鎌首がこちらを向いた。皺だらけの肌、窪んだ眼窩の奥のほうから、か細いがしかし鋭い光が私に届いた。
「お譲ちゃん、頼むから、気をつけてくれなよ」
 とだけ言うと背中を丸めて安らかな息を立て始めた。
 工夫と青年は肩を組んで次の呑み屋の話をしていた。

「写真を撮ってもいいですか」
 巫女装束に訊ねた。
「かまわぬよ」
 ファインダーを覗くとませた少年が巫女装束の緋袴に覆いかぶさってきた。巫女を、少年を、酔っ払いの男たちを、廃れた社を背景に、何度もシャッターを切った、揺らめく炎が彼らをあかあかと照らしていた。
 いつも私がカメラと一緒に持ち歩いていた、私が写真を撮る理由。今まではずいぶん重たいものだと思っていたんだけど。

 ○

「おう、いるか」
 ずけずけと新聞部室に入ってくる男子生徒。彼はいつも私のことを見下して、馬鹿にするいやな奴。どうしてこうほぼ毎日冷やかしに来るのか理解しがたいんだけど。
「何の御用かしら」
「写真見に来てやったんだよ。新しいの、ない?」
 彼のこの、上から目線の偉そうな態度がいつも気に入らない。
「いつもみたいに馬鹿にするんなら見せない」
「おいおい、俺はこれでも応援してるつもりなんだけど」
「どこがよ」
「少なくとも、つまらない日常の小さな楽しみではあるな」
 彼は腕を広げて鼻を鳴らした。そういう大げさな仕草をかっこいいと思っている。じっさい少々ナルシシストの気があるらしいのがこいつだ。
 私は新聞部長として新しい記事をレイアウトしている最中、パソコンに向かっていたのだが一旦手を止め、彼の前に先日の巫女装束を撮った写真を広げる。
 男の子と緋袴の巫女が笑っている。または酔っ払いが片眉を吊り上げて管を巻いている。老爺が鼻ちょうちんをふかしている。焚き火の頼りない光源が横から差して、どの写真も影が濃く出すぎていた。
「おまえ、一体どこで何してんだよ」
「べつに。近所の神社にお参りしてきただけよ」
 彼はふうん、といって写真の束をめくった。

 〈オワリ〉

       

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Neetsha