Neetel Inside 文芸新都
表紙

彦一少年と蟲くだしの姫
『白煙に巻く』

見開き   最大化      

 透明人間を気取っているつもりはないけれど、クラスの中でとくべつ人気者というわけでもないぼくは、他校にもその名を響かせるくらいの有名人である彼女と釣り合うなんて思っていなかったし、彼女のほうもまた、只のクラスメイトのひとりに過ぎないぼくのことなんて気にも留めなければ、露ほども意識すらしたこともないんじゃないだろうかと思っていた。
 ぼくの名前、せめて苗字くらいは憶えていてくれているんだろうか。授業中なんかはよく、彼女の横顔の隙のない輪郭を目で辿りながら、そんなことを考えたりする。



 ぽす、と頭の上で何かが弾んだ。振り返ると級友の山田君が立っていて、その手には丸めた数学のテキストが握られていた。
「またぼんやりしていたな、ため息なんかつきやがって」
 彼は腰に手をやって、聞き分けのない子供を叱る母親みたいな態度で喋る。
「おまえ、羽山周子のこと、見すぎだ。ストーカーとして被害届が出されても文句が言えないくらいにな」
「ばかっ。……デカイ声でそんなこと言うな」
 ひやひやものである。彼女と席は離れているとはいえ、世間は壁に耳ありなのだ。
 ぼくは山田君の袖を引いてひそひそ声。
「もし聞こえたらどうすんだよ」
「なにを。知れたところでどうだというんだ。いいかげん諦めろよ、たとえ地球がひっくり返ったって、おまえと羽山周子は釣り合わん」
 歯に衣着せぬ物言いに、ぼくはちょっとむっとする。
「地球なんて毎日一回はひっくり返ってるぜ」
「屁理屈捏ねるな。問題から目を逸らすな。甘い夢を見るのも結構だが、その中には絶対に叶わない夢ってのがあるもんだ」
 自分が一番分かってるだろう。と付け加える山田君の言葉は針のように鋭い。無防備なぼくの心はきりきり痛むのだ。
 ――うるせーこの、デコ眼鏡。
 彼には聞こえないようにそう呟いたのだが、しっかり聞こえていたらしい。さっきよりは強い調子で数学テキストが脳天に振り下ろされた。
「おまえもバイクなんかやめて、もっとほかのことに打ち込めよ。いいかげん流行らねえよ。いまどき走り屋なんて――」
 その後山田君は自分の所属するロックバンドの話やら、メンバーの不満やらを愚痴ぐちとこぼし始め、終いには「おまえとは音楽の趣味も合うし、いっそ俺と新しくバンド組まないか」なんて言い出す始末だったけれど、ぼくは羽山さんの凛とした表情を記憶に焼き付ける作業で忙しく、それどころではなかった。



 ――いまどき走り屋なんて。

 山田君、よく言ったもんだ。峠に一度さえそういう目的で来たこともないだろうくせに、見事に世相を言い当てているのである。
 最近の新車ラインナップを見たって、そんなことは一目瞭然ではあるんだけど。若者のバイク離れ、ねえ。……
 他人の趣味にけちをつける気なんて毛頭ないけれど、興味のない人たちが興味のある人たちよりもずっと数が多いせいで、補修部品の供給ラインが細くなったりするのは困りものだ。現にぼくのバイクなんか既に生産中止であり、部品供給もメーカー在庫分だけで大終いである。創始者の遺志を継がない拝金主義の現経営者どもめ。血も涙もない丸太ん棒め。――愚痴はさておき、いつまでも乗ってやることはできないのだ。
 だからといって、そう頻繁に部品交換しなきゃならないほど激しく走り込んでるわけでもないけどね。高校生だし。貧乏ライダーだし。
「最後の世代だよな、ぼくたち」
 皮製の派手なレーシングスーツを着て、ごっついブーツを履いた、戦隊ヒーローのリーダーみたいな格好をした相棒に声を掛ける。
 彼女はアスファルトに寝っ転がって、半ばうとうとしていたらしい。目をこすりながら首をもたげた。
「なに。……なんか言った?」
「もう公道でレーサーの真似事する学生って、ぼくらで最後なんじゃないかなって」
 峠の頂上、早朝の駐車場。たまに先客として鹿とか、猪はいたりするけど、たいていはぼくたち二人以外、誰の姿も見えない。
「ああ? 何言ってんだよ、あんたとじゃ、レースにもなりゃしないよ。調子に乗るな」
 彼女はそう言って再びアスファルトに頭を寝かせ、またまどろみだす。
 ――なんて口の悪い女だ。もっとぼくに気を遣えよな。傷つくだろ。
 それにしても、ぼくの知り合いには口の悪い奴しか揃ってないらしい。山田君もさることながら、隣の赤レンジャーは女だというのに、乱暴な物言いでいつもぼくを見下すのだ。
 どちらかといえば山田君よりも彼女のほうが語気がキツイ。言葉遣いさえもっとおしとやかであれば、その容姿になびく男共も多いことだろうが、それは今のままでは決して叶わぬことだ。
 山田君との馴れ初めなんてたいした話じゃないから省くけれど、かの赤レンジャー、――平木巡との出会いはある意味衝撃的だった。



 その前に。
 そもそもぼくがゼロハンスポーツに乗っているのは、とくべつ以前から憧れを抱いていたからとかそういうわけではない。その昔はそれなりのライダーだったという父の趣味を押し付けられる形で手に入れた十二インチレーサーレプリカであった。
 ぼくは実際にバイクに乗り出すまで、スクーターとスポーツバイクの見分けもつかないようなど素人だったというわけである。ネイキッド? ぺけじぇ? なにそれ、もっかい言って。みたいな。
 バイクを単なる移動手段としてしか意識していなかったから、どっちかというと、スクータータイプのほうがたくさん物が入って便利だなと思っていたくらいだ。
 とはいえ、もともと好奇心旺盛なほうだと自負しているぼくである。乗るからには知識もなからにゃあならん、と雑誌なんかを読み漁ったりしているうち、どうやら自分のバイクは『そういう』バイクなのだ、と分かってしまった。
 あとは、ペダルに足を置く位置を気にしたり、ブレーキレバーの握り方を試行錯誤したり、体重をバイクのどこに預けるとバランスが取れるものか想像したりするうち、自然にこの通りである。
 バイクを操るのは楽しいことなのだ。峠少年になったのはそれから。そして平木と出会ったのは、更にそれからしばらく後のこと。
「親父、ツナギ買ってくれよ。バイトの給料じゃとても手が届かん」
「いいぞ。ただし、一つ貸しだからな」
 家庭内のレアキャラ、普段は朝が早すぎる父と、珍しく一緒に朝食をとりながら、そんな会話をして家を出た日の、夜更けである。



 バイトを終えたぼくは帰宅の前にひとっ走りと、そこから近い峠を目指した。
 過去には多数の少年ライダーが集ったとか集わなかったとかいう、それなりに道幅もあって舗装も整った山道である。ぼくんち周辺はまだまだ田舎なのだ。緑も多い。
 ぷいー、と軽く流して上り詰め、展望台へと続く駐車場で折り返す。上り下りで二十分もかからないだろう小さな峠道がぼくは好きだった。好き嫌い以前に、手近な走行スポットはここしかなかったのだが。そして、その日は珍しく先客がいた。
 それがヒラキである。もちろん名前は後で知ったし、そのときは男か女かもはっきりしなかった。なんせ真っ暗なのだ。てっぺんの駐車場には明かり一つない。
 しかし先客がレーシングスーツを着ていることは、ぼくのバイクのヘッドライトに照らし出された一瞬で、既に分かっていた。バイクはぼくのと同じ、十二インチのレーサーレプリカだ。
 ――おお、モノホンの走り屋さんじゃなかろうか。そう思ってしまうほどの貫禄さえ漂わせていた。
 羨望と警戒と嫉妬の念で、ぼくはしばらく動けずにいた。先客はぼくのことなど気にも留めず、バイクに跨ったまま、精神を集中させているみたいに腕を組んでいた。
 やがてその様子を観察することより、かねてからの空腹が勝って、ぼくは峠を下ることにした。
 バイクを走らせてしばらくすると、サイドミラーに後続車の気配。ヘッドライトは一灯で、どうかすると自分のバイクと同じような形をして、……
 ――さっきの走り屋じゃないか。と気付いた時は既に追い抜かれた後だった。
 ぼくはヘアピンカーブの進入で競り負け、あっさりと抜き去られてしまった。
 それからなんとしても追いつこうと一生懸命に攻め込んでみるけれど、すぐにテールランプの赤色は見えなくなり、オイルの焼けた臭いが、実力の差を屈辱的な形でぼくに教えるのでした。

 それだけならまだいい。当然悔しいけれど笑い飛ばせもできよう。次の日に山田君に話したりなんかしてね。
 笑い話で済まなかったのは、奴は最初からぼくをコケにする気で勝負を挑んできたのが分かったからだ。

 麓に下りると奴がいた。いかにもぼくが降りてくるのを待っていた体をして、アイドリングに震えるバイクで道路を塞いでいた。あぶねーっつうの。
 素通りもできたのにわざわざぼくは停車し、エンジンを切り、彼の走り屋の言葉を待った。奴もイグニッションキーを捻って、辺りは途端に夜山の静寂に包まれる。
 麓の沿道には街灯があった。頼りない光に照らされて、ヘルメットを脱いだ走り屋は、なんと若い女であったことが解った。それもぼくと同じくらいの年齢らしい。
 あんまり驚いてぼくは言葉を失った。女に負けたのか、という念も浮かんだ。女性がバイクをうまく操れるはずがない、という思いが、本当に恥ずべきことであるけれど、それまでのぼくにはあったということだ。
 そして彼女は言った。
「ざまあないなあ。へったくそ」
 当然、ぼくの頭は真っ白になる。
 ――なんでぼくは初対面のひとに開口一番けなされてるんだろう。
 一瞬遅れて怒りが沸々と湧いてくる。
「なっ、……なんだとコノヤローっ」
 しかし、その先が続かない。仮にもバイクの腕は彼女のほうが上手である。その事実がぼくの思考を卑屈にさせたのだ。
「ぐぬぬ」
「ここ何日か張り込んで、ようやく鉢合わせたかと思ったら。なんだ、大したことない。ちょっとでも期待した私がバカだった」
 ――え、なに? その言い方。まるでぼくのことを前から知っていたとでも言うんですか?
「ふん、気になるなら勝手に調べればいいだろ。私もそうしたんだ」
 じゃあね。と言って彼女は去った。
「へたくそ」
 最後にそう付け加えて。
 ――むかつく女!
 そういう第一印象。

 次の日、登校して朝一番に下駄箱で再会した。なんと彼女は同じ高校に通う同学年の生徒だったのだ。
「よくわかったな」と彼女が言ったから「目つきの悪さですぐにわかった」と返すと、直後に尻を蹴っ飛ばされてしまった。
 足癖の悪い女である。ただ、レーシングスーツを脱いだその曲線は、なかなか見栄えがするようだ。



 自己紹介が遅くなったけれど、ぼくの名前は健二という。
 隣家に住む幼馴染は、ぼくのことを「ケンちゃん」と呼ぶ。
「ケンちゃん。最近、面白いことあった?」
 彼女は一日おきくらいにそう尋ねてくる。
 年じゅう開けっ放しのガラス戸から、ぼくの部屋に押し入る。
 薄手のカーテンを猫みたいにじゃれて。
 夜風とともに顔を見せる。
「よっす」
 うちなんかに来たって、スーパーファミコンくらいしか置いてない。彼女はいつも気まぐれにサムスやマリオを操り、それに飽きるとぼくと中身の無い雑談を二、三交わし、最終的には眠くなったと言って帰ってゆく。彼女がうちの玄関から訪れたことは、高校生になってからこっち、一度もない。
 彼女が夜な夜なぼくんちに入り浸るようになって、もうどれくらい経つだろう。思い返せば今年からのような気がする。
 話は飛ぶがぼくの通う高校は、一応は進学校であり、全クラス普通科の体裁をとる。他の多くの普通校と同じように、一年に一度クラス替えがある。
 ぼくと咲は危なげなく二学年に進級し、初めてのクラス替え、そこでぼくらは、お互いの人生で初めて、所属の学級を別々にすることとなった。
 腐れ縁もこれまでだなと、ぼくの方はせいせいする思いだったが(なにしろ咲はあれやこれやと世話を焼きたがり、うるさいことこの上ないのだ)、咲はそこでもなんだかんだと愚痴をこぼしていた。挙句はこうだ。
「ケンちゃんは、あたしがそばに居なくても平気?」
 ぼくはうんざりしてため息をつき、
「いい加減弟離れしてください」
 そういえばその日の夜からだ。バイトから帰った後の、夜も遅い時間。
 初めは久々にぼくの部屋に上がりこんで何事かと思った。それから今に至るまで、ひたすらスーパーメトロイドである。なにがしたいんだよもう。ゲームか。
 そしてお馴染みになった質問が今日も。
「ケンちゃん、最近面白いことあった?」
「お前、昨日もそれ聞いたぞ」
「いいじゃん。昨日から今日までの間に何かあったかもしれないし」
「何かって何だ」
「あたしが知るわけないじゃない」
「あのね、そんなに毎日がハッピーとラッキーの連続でたまるかってんだ。ぼくは昨日も今日も明後日も、朝起きて学校行って、帰って少し食べてバイトに行って、また帰ってめし食って風呂入って寝るだけだよ。そんなに毎日確認しに来なくたって変わり映えしないぜ」
「あの子とはどうなった?」
「あの子?」
「ほら、一目惚れしたって言ってた。……どうせ何の進展もないんでしょうけど」
 ぞんざいな予測だったが、的中しているのが腹が立つ。
「当たりだ。そりゃそうよね、相手は何せ学校じゅうで評判の羽山周子ちゃんですものね」
 からかうような口調になって、俄然勝ち誇る幼馴染。まったく腹が立つ。
「うるせえバーカ」
「バカとはなによ」
「ぼくのことは良いから自分の心配しろってんだ。せっかくだから言うけどな、おまえの隠れファンも少なからずいるんだ。紹介してやっても良いぞ」
「いらないわよそんなサンピン」
「名前も聞かずにさんピンって、……」
 山田君、可哀想に。
「じゃあ何か。おまえにゃ現在、好きな男でもいるってのか」
 ぼくはバイク雑誌を流し読みながら、咲はテレビ画面のサムスを操りながら話をしていたわけだが、唐突に声が返ってこなくなったから、ぼくは不審に思って彼女を見た。
 咲は心配しなくともそこにいた。忽然消えたわけじゃない。いることにはいるが、微動だにしない。
 惑星ゼーベスのサムスも、灼熱の噴石が飛び交うノルフェア深部で立ちすくんでいた。カッチョ良いステージサウンドがじわじわと鳴っている。
「おい」
 声をかけると、
「いるわよ」
 と言ってサムスの操作を再開した。そこらじゅうに破壊的な高エネルギーを撒き散らす、銀河の凄腕バウンティ・ハンター。
「名前は?」
「教えない」
「なんだよそれ。ぼくは教えたのに、フェアじゃないね」
「あれはあんたが勝手に言っただけじゃん。ばか。鈍感」
「鈍感? 俺の知ってるやつってこと?」
 それよりバカって言うな。

 そんなこんなで、今日も昨日みたいな一日が終わろうとしています。



 約束どおりぼくは親父からレーシングスーツ(言うところの皮ツナギである)を買ってもらった。ブーツやグローブも揃えて装備を整えたぼくは、ようやく見た目だけはマトモな走り屋の仲間入りである。
 ヒラキには前々から装備をあつらえろと指摘されており、ぼくが普段着で走り屋の真似事をしているのをあまり良く思ってはいなかったらしい。
「あんたは、ただでも危なっかしいから。たとえば時速三十キロでも人は死ぬ。もっと速いなら尚更だ。こんな格好したってグランプリじゃ毎年死人が出てるってのに」
 ぼくが土方のおっさんが着るようなジャンパーとデニムの半ズボンという格好のとき、ヒラキは真面目な顔をしてそう言った。
「最低限の条件」だと、口癖のように言っていた。そして、「最高の機能性」とも。
 専用設計品は違うのだそうだ。

 その日の昼休み、ぼくはヒラキのクラスに出向いて打ち合わせ中。
 いつかはサーキット走行と憧れを抱いていたぼくである。親父というスポンサーを得たぼくは準備万端、晴れてサーキットを走行する資格を得たというわけだ。あとはそこへ行くだけ。
 ヒラキは小さい頃から彼女の父親に連れられ、やれ河川敷だサーキットだと走り回っていたらしい。
 中学半ば以降、ぱったり行かなくなったとは言っていたが、それでも家にはデカイ車もあるだろうし、まだまだ土地勘も働くはず。
 彼女に頼み込んで便乗すれば、ぼくの小さな夢は簡単に叶えられるだろう。
 相談してみるとヒラキも乗り気だった。

「そういえば、ちょうどひと月後の日曜日にイベントがあるって聞いたな。二時間耐久のサンデーレース。なに、全体が視界に収まるようなミニコースだからあんたも楽勝だよ。あたしも久々に出てみようか」
 ひと月後か。
「待ち遠しいな」
「――ああ、鼻を明かしてやりたい奴もいるしね」
 ヒラキは口の端を吊り上げて、薄く笑う。怪しげな企てを含んだ笑みである。
 ――『鼻を明かしてやりたい奴』
「なにそれ」
「え?」
「鼻を明かしてやりたい?」
 ヒラキはほとんど無意識だったのか、なかなかぴんとこないらしかった。
「ああ、――大したことじゃない。ちょっとした因縁があるだけ」
 ふむ。
 中学半ばまで生活の中心がサーキットだったという彼女のことだから、勿論そこでしか顔を合わさないような知り合いなども多くいることだろう。
 傍から見ていると、彼女の人付き合いは浅く狭い。器用なのはバイクを扱っているそのときだけという性格だ。そんな彼女が『鼻を明かしてやりたい』なんて。……
「ははあ、分かったぞ。男だ」
 ヒラキは目を丸くして、言葉を失った。
「なっ、……!」
「当たりらしいな」
 呆然とする彼女の表情。
 すっと伸びた細い首が、付け根から朱色に染まってゆく。
「なにを言い出すんだっ。この変態!」
 変態ってなんだよ。
「顔真っ赤にして強がるんじゃないぜ。どうせお前のことだ、いつの間にか好きになったけど、どうしたら良いか分からないうちに疎遠になっちゃいました的な、甘酸っぱい青春メモリーを改ざんいってえ!」
 ヒラキは弁慶の泣き所であるぼくの向うずねを思い切りトゥキック(爪先蹴りである)
 つまりは痛い!
「なにすんだっ」
「う、うるさい! なんにも知らないくせに生意気だっ」
 ヒラキは珍しく、動揺している様子だ。本当に珍しい。――そういう表情もできるじゃないか。醒めた部分の思考では、ぼくはそう思った。
 熱した部分のぼくはというと、目に涙を浮かべて脛をさすっている。
「なんだよ、そもそも大したことじゃないなら教えてくれたって良いだろ。言わないから想像したくなるんじゃないかっ」
「いらんこと思い出したくないんだよっ。このトンチキ! どサンピンっ!」
「おい、ちょっと待っ……」
 椅子を引きながらまくし立てると、彼女は「バカヤロー」と叫びながら廊下へ飛び出していった。追いすがる暇もない全力疾走。
 他所の教室でひとり取り残されたぼくは、周囲の白い目を浴びてただ恐縮するばかり。



「平木さんの機嫌が悪かったら先生が怖気づいて授業どころじゃないんだから。あなた、何とかしなさいよ」
「そうよ。あんたみたいな人のせいで教科書が進まなかったら、次の模試の結果に関わるんだから」
「そうよ。C判定なんか出たらあなたのせいなんだから。二組の、中野君?」
「そうよ。二組の中野君、このまま平木さんを放って自分の教室に戻ったりしたら、知らないんだから」
「そうよ。憶えておきなさいよ」
「そうよ。この時期に色気づいちゃって、いやらしいわ」
「そうよ」
「そうよ」
 瓶底メガネと三つ編みという型押しのがり勉女子生徒を筆頭に、そのクラスの勉強大好きな連中に囲まれて、ぼくはヒラキの機嫌取りを命ぜられた。無理な目標を掲げた受験生は狂気で目が血走っている。ぼくは平身低頭の体でその命を拝した。
 ということで第二校舎の屋上を目的地に定める。
 ヒラキはタバコ呑みだから、よくそこで隠れて一服ふかしていることがある。ぼくは当てずっぽうで足を向けた。
 とはいえ望まざる面倒である。当然、足取りは重かった。

 その途中。
「ケーンちゃん」
 その教室の廊下に面した窓から顔を出し、ぼくに手を振るのは、声を聞いただけも分かる。幼馴染の宮原咲だ。
「なにしてんの」
 ぼくはその質問が嫌いだった。
『なにしてんの』――他人の精神的不可侵領域に、泥のついたブーツで足型をつけるような思いやりの無い言葉よ!
 ぼくがどこでなにしてようが勝手だろうが。そもそも挨拶代わりに他人の行動をコレクションしたがるなんて、どうかしてる。
 相手が十数年来の幼馴染だろうと、ぼくはこの質問を浴びせられるたび不快に思う。
「あいにく今はお前の無遠慮を咎めている暇なんてないんだ。じゃあな」
 ぼくは一旦は止めた足を再び動かした。
「ちょ、ちょっとまってよっ」
 咲は廊下に出した上半身を引っ込めるとき、ガタガタと窓枠と苦戦したのち、教室を出て、短い髪を揺らして小走りにぼくに走り寄った。
「なによっ、あたし何か気に触るようなこと言った?」
「別に」
「ほら怒ってるじゃん! どうして?」
「いや怒っちゃいない。他に気に病むことがあるんだよ。めんどくさいの」
「そう。じゃ、私の無遠慮ってなによ」
 細かい発言も見逃さない幼馴染である。追いすがる咲の語気は強い。
 そこで初めて気がついたが、咲はどうやら頭に来ているようだ。
 もともとぼくの苛立ちを彼女に当てつけたのが発端であるが、相手が怒ったとなると張本人であるぼくの思考は急激に冷える。
 失言だった。ひとにはもっと寛容でなければと思っていても、少し余裕がなくなるとすぐにこうなる。相手をいら立たせたり、傷つけたりする。
 ――ヒラキにとっても、それは同じではないのか。
 ヒラキももしかしたら、教室でのあれは、本当に触れてほしくなかった過去話なのかもしれない。
 聞き流す技術の未修得。思いやりがないのはこのぼくだ。まだまだ子供である。ガキである。
 ヒラキに会えたら、開口一番謝るべきであろう。
「悪かった。ごめん」
 まずは咲からだ。言い訳など一切せずに謝って謝り倒してしまえ。
 だが、そこでぼくはまた失敗をした。
 咲は早足で歩くぼくを追い越し、ぼくの正面に向かい合って立ち止まると、自ら立ちはだかってぼくの足を止めた。
「なんで背中越しに言うわけ?」
 咲は口をへの字に曲げて、眉根を寄せていた。大きな瞳が上目遣いに睨み上げている。
 ぼくは再度「ごめん」と呟いた。二度目のごめんは効き目が薄い。
 膨れて睨みをきかせる幼馴染。
 どうすべきかしばし逡巡、やがて頭上の豆電球が点灯した。
「今度さ、鯛焼き奢るから」
 駅前に店を構える老舗屋台の鯛焼き屋は、ここらの地域では昔からウマイと評判なのだ。地元住民に鯛焼きと言うと、大抵はその店のものを想像してしまうほど。
「だったら許す!」
 親指を立てる幼馴染はすっかりにこやかである。

 せっかくだから咲も連れて目的地へ向かう。渡り廊下を歩いて、第二校舎へ。
 第二校舎は新校舎が出来るまで主として使われていた以前までの教室棟である。五、六年前からは全ての学級は新校舎に移り、現在では主に文化部や同好会の活動拠点として使用されている。
 つまりは学校側も持て余しているというわけだ。今となってはあくまで場繋ぎの案だった文化部利用が評判を呼び、地域一多種多様な課外活動が行われている高校として、教育関係者の間で有名になっていたりする。
 そういう説明はあまり関係ないのでその辺りで止めておく。
「久々来たなあ。怪しげな看板もあるねえ。えー、オカルト研究会。漫画研究会、活動漫画研究会。……」
 咲は興味津々であった。
「こら、窓ガラスを覗くんじゃない。中に人がいたらどうすんだ」
 ぼくに言われて窓から離れた咲は、漫研の入り口脇に備えられたコピー紙の活動報告を手に取り、目を通しつつ歩き始める。
「ねえ、第二校舎に来て、一体何の用なの? ケンちゃん」
「そういや言ってなかったか」
「うん」
「人探しだよ」
「ふうん、友だち?」
「まあ、そうなるかな」
 漫研のフライヤーを折りたたんで上着のポケットに収めると、咲の声音は少しだけ明るくなって聞こえた。
「私の知ってる人? 一緒についていってもいいの?」
「いいんじゃない? 遠慮はいらんだろ」
「どんな人だろ。いい男だったらあたし、ときめいちゃうかも」
 咲はニヤニヤ笑いながらぼくを肘で小突いてくる。こういうところがいちいち鬱陶しい。
 ぼくはため息混じりに答えた。
「心配しなくても、そいつは女だよ」
 そこまで歩きながら話して、急に咲が足を止める。
 また新入部員歓迎のフライヤーでも手に取ってるんだろうかと振り返ったら、違った。
 咲はぼくの不審そうな視線に気付くと、早足でぼくの後を追ってきた。
「ちょ、ちょっと興味あるわねえ、それ。是非ともご一緒させてもらおうじゃないの」
「勝手にしていいよ。そう言ってるだろ」
 それから咲は手首と指先の柔軟運動でコキコキ音を立て、首を左右に倒し、しきりに深く息を吐き、まるで格闘家の試合前みたいにせわしなく身震いした。
「さっきからなんだ、挙動不審な奴」
「うるさいっ」



 屋上へと続く階段を上りきり、その扉の前で立ち止まる。
 この扉はドアノブの鍵が破壊されていて、代わりに新しくかんぬきが設置されている。鍵はもちろん職員室で管理されているが、誰かが作った合鍵が、踊り場の隅にある枯れた植木鉢の水受けに置いてある。それが開錠されていることからも、この先に誰か人がいることは自明だった。
 恐らくはヒラキで間違いないだろう。ヒラキはこの場所がお気に入りで、一服ついでによく一人で街並みを見下ろしに来る。
 ぼくも何度か彼女に連れられてここに来たことがある。合鍵は無造作に放置されているというのに、いつ来たってヒラキとぼく以外には人影の見当たらない、不思議な隠れ場所でもあった。
 咲はぼくの背後でシャドーボクシングをやっていた。この向こうでヒラキは煙草を吸っているだろうことについて、ひとこと言い置いておこうかと思ったけど、やめた。
 ドアノブに手を掛けると、薄暗いじめじめした踊り場に、乾いた熱気と眩しすぎる陽光が差し込んできた。
 屋外の光の奔流に目を細めると、やがて視界に二人ぶんの生徒の影が入る。お互い向かい合って話しているようだ。
 スカートを穿いているから二人とも女子生徒だ。ひとりは言うまでもなくヒラキ。
 そして誰だろう、もうひとりは、――
「え、羽山さん? ……」

「ケンジくん」
 驚くなかれ、ほとんど想うばかりで、これまで口を利いたことなど二度三度もなかった羽山さんは、なんとぼくのことを下の名前で呼ぶのだ。
「いまね、平木と話してたんだけど。バイク乗ってたんだ」
 可憐である。鈴の音のように耳に優しい声、表情に浮かべた微笑は親しげで、日光に照り映える黒髪が艶めいて麗しい。
 そんな彼女に声をかけられる幸福! なにものに例えられようか。いや、例えられるべくもない。
 ぼくの思考は感動と恍惚に打ちひしがれ、ほとんどその機能を失っていた。
 だから鸚鵡返しに彼女の言葉を繰り返すばかりである。
「あ、乗ってたんです」
 ところで屋上という場所は、四六時中風の吹き荒れる過酷な場所でもある。時折吹く強風に髪をすくい上げ、はためくスカートの裾を押さえたりする羽山さんのまたいじらしいこと!
 もう少しばかり強い風が吹いてもらうとなお良いのだが。
「おい、デレデレするな、色ボケ」
 反してとげとげしい声。ぼくは花の夢から意識をグイと引き戻されてしまう。
 咥え煙草に苦みばしった顔をするこの女、いかにもカタギではない。気弱な本校教師陣が気後れするのも頷ける貫禄である。
「何しに来た」
「何しにとはなんだ。クラスメイトからお前の機嫌取りを命ぜられたんだ。ヒラキさんが機嫌悪かったら授業の進行の妨げになるんだから、どうにかしなさいよ、って。お前も迷惑な奴だ、――」
 あ。
「へえ、いい度胸だな。誰のせいで私が腹を立ててるのか、わかってものを言ってるんだろうな」
 またやってしまった。
 ヒラキに会ったら真っ先に謝ろうと思っていたはずなのにこれだ。喧嘩腰で突っかかってどうするんだ。アホか。我ながら呆れる。
「まあまあ」
 睨み合うぼくとヒラキの間に割って入ったのは羽山さんである。
「平木もそんなにツンツンしないで。ケンジくんも、ね。広い心でお互いを受け入れましょう」
 なんだか隣人愛を説く宣教師のような台詞だが、お互い羽山さんには頭が上がらないらしく、ヒラキはぼくを睨みつけていた眼を脇へ逸らした。
 ぼくはというと、一度噛み付いた手前、そうそう手のひらを返してごめんなさいと言うのも、誠意の欠片もない男だと思われやしないかと中々言い出せないでいる。
 羽山さんが仲裁に入ってくれたのはありがたいが、こう着状態は依然継続中である。
「もう、素直じゃないんだから。……」
 羽山さんは綺麗な眉をへの字に曲げて、誰にでもなく呟いた。

「あの、ちょっといいでしょうか」
 誰かの声がする。視界に入らないがどこだろう。
「え、誰?」
「後ろだ、後ろっ! このボケっ」
 背中を小突かれて彼女の存在を思い出した。
「ああ。咲か、まだいたのか」
「ふざけんなっ」
 それはあんまりよ、と苦笑いする羽山さん。
 視線が咲に集中し、この場の全員がその次の言葉を待つ。
「すいません。あの、お二方、ウチのケンちゃんとはどういった関係で? ……その、なんというか」
「あのな、どうもこうもないんだけど?」
「だって、あんたこんなひと気のない屋上で、それにひとりは、……煙草吸ってるし」
 あ、やっぱり咲はそういうの気にするんだな。幼馴染は根がいい子ちゃんなのである。
 最後はぼくだけに分かるような小声だったつもりらしいが、あいにくヒラキは地獄耳らしく、彼女は鼻を鳴らして背を向けた。
 ――ああ、尚更へそ曲げちゃったんじゃないだろうな。
 再び状況が悪化の一途を辿ろうとしている。
 咲なんか連れてきたのは間違いだったとちらと考えたとき、そこで唐突に羽山さんは両手の平をぱちんと合わせた。
「わかったっ」
 ――なにが? そう聞き返す代わりに皆で視線を彼女に送った。
「その子、ケンジくんの彼女さんね?」
 ぼくはずっこけて、
 咲は変な声を上げて、
 少し離れてヒラキが大きくむせ込んだ。
「はあっ? まさか!」
「あ、あぅ……」
「げほごほっ。……ほんとかっ、それ!」
 あははうふふなーるほど、と笑っているのは羽山さんだけだった。
「えと。……そ、そうなの?」
 と俯きがちにぼくの表情を覗く幼馴染、
 ――何故に頬を染めとるのだ。



 それからヒラキと羽山さんに咲の紹介をした。そうしないと収拾がつかなくなってしまったのだ。
 これは小さい頃からの幼馴染の宮原咲です、なんてアホらしくて仕方なかったが、しょうがない。
「へえ、なるほどね」
 なにがなるほどなんだヒラキよ。
「ほうほう、そういうことね」
 なにを納得してるんですか羽山さん。
「どうでもいいけど、あまり賑やかにして生徒会にでも見つかったら面倒だ。静かにしてくれよ」
 ヒラキは言いながら、短くなったマイルドセブンを雨染みだらけのコンクリートに押し付けて火を消すと、――思わず笑ってしまったのだが、携帯灰皿を取り出してその中に吸殻を仕舞った。
「なんだよ。こんなトコに吸殻ポイ捨てすると、後々どうなるか考えりゃわかんだろ」
 それにしても携帯灰皿とは。なんだか普段の荒々しさが霞んで見える。
 バレたら面倒だからな。なんて言うヒラキだが、彼女は未成年で喫煙常習者のくせ、ポイ捨てなどのマナーにはもともとうるさいのだった。
 今までだって風下を選んで立ち、煙の行く末に気を配っていた。本当は悪ぶって本音を隠そうとする捻くれ者なのだ。
「お前さ、なんで煙草なんか吸いだしたんだよ」
 何気ない一言だった。でも彼女は取り合ってくれなかった。
「どうでもいいだろ。――それより、結局あんたらはなにしに来たんだっけ?」
 風が穏やかにそよぎ、ぼくもヒラキもお互い敵対心がリセットされたみたいな気分だったんだろう。
「ごめん」は自然と口をついた。
「謝りにきた。面白がっていらんこと言って悪かった。もう聞かない」
「……いいよ、もう。昔の話だし。それに大体あんたの想像通りで合ってるんだ。本当のことを言われて少し、私も、なんて言うかな。――とにかく、暴れて悪かったよ」
「あらあら。何の話をしてるのかな?」
「お、お前らっ、怪しいぞ!」
 羽山さんと咲はいつの間にか二人並んで、仲良く野次馬を演じていた。その通りこれはぼくとヒラキにしか通じない会話であった。
 勿論こと細かに説明する気なんてない。
 仲直りと言ったらいいものか、そもそも喧嘩をした憶えもないのだが。今となってはお互いがごめんと謝っているのがばかばかしくも思う。
「あ、そうだ。ケン坊、耐久イベントの話だけど」
 ケン坊と呼ばれたのには少し面食らった。今までヒラキからは『お前』か『あんた』としか呼ばれたことがなかったのだ。
「ケン坊ですって?」
 過敏な反応を見せたのは咲だった。ぼくはそれをおくびにも出さずに黙っていたというのに。
「あ、あなたねえっ、馴れ馴れしいわよ。一体誰の許可を取ってそんな呼び方をしてるのよッ」
 誰彼構わずぼくの保護者気取りの幼馴染には、この通りいつも苦労させられるのだ。
 羽山さんは上品に口許を押さえ、
「あらあら、まあまあ」
 一方ヒラキのぼくを見据える視線がじっとりと痛い。
 ――すいませんねこういう奴なんですよ。
「あのね、めんどくさい奴だなお前も。呼び方がどうしたってんだよ。なんだっていいだろそんなもん」
「だって。それにタイキューイベントってなによ。二人でどっか遊びに行くのね? 私を置いてっ!」
「バイク乗りに行くんだよバカッ。お前誘っても仕方ねえだろうが」
「バカって言うな!」
 なんで涙目なんだよ面倒だなもう。
 ヒラキは完璧にうんざりした様子で、もともと険のある顔をさらに難しくし、大きな溜息を吐いた。
「あー、中野健二君。きみの連れ合いが鬱陶しくてしょうがないから、詳細は追って知らせることにする。ケータイ教えてたよな、確か」
「え。――ああ、うん」
 それじゃあ、と手を上げてヒラキはぼくらの横を通り過ぎた。
 そして一度も振り返らずにぼくらの前から去る。
 咲はというと、じっと親の仇を見るような眼でヒラキの背中を睨みつけていた。
「ケンジくん」
 可憐な声に振り返ると、予想以上に近い距離に羽山さんの顔があって、ぼくは思わず後ずさりした。
「な、なに?」
 彼女は満面にこにこして、それと対照的にぶすくれた咲の肩に手を回した。
「後は私におまかせあれっ」
 そして高らかに宣言すると咲を促し、二人は連れ立って屋内への扉の向こうに消えてゆくのでした。
 そのとき何度もぼくの方を振り返る咲の姿は、まるで女衒の手で引き離される娘と父親にも見えなくもないような、そんな哀愁が漂ったり、漂わなかったり。
「なんなんだ。……いったい」



 初めは着慣れなかったゴテゴテした装備一式も、何度か袖を通せばすっかり皮膚の一部のように感じられた。その表面に神経が通ってしまったんじゃないかというほど、ぼくの体に完璧に順応してくれていた。
 ヒラキの言う通り、専用設計品は使えばわかる。操作性の向上はもとより、守られているという安心感から、スピードに対する恐怖心もいくらか薄れる。
 いやあ、いいもんだなあ。高価なだけはある。
 まあ、少し蒸し暑いけど。
 
 ぼくとヒラキは夜の峠の駐車場にあぐらを掻いていた。
 ヘルメットを傍らに置いて、派手なデザインのレーシングスーツをまとった二人組の姿は、さながら深夜にヒーローショーを演じる奇妙な好事家である。
 辺りは夜鳥の鳴く声が途切れ途切れに聞こえるくらいの静けさである。
「お前、羽山さんと仲良かったんだな」
「まあね、中学一年からの付き合いだよ」
「全然共通項が見えないんだけど?」
 強いて言えば性別くらいのものだ。
 いや、下手をすればそれも怪しい。ヒラキの場合、実は女装好きの男子生徒でしたと言われたら信じてしまいかねない。
「よく言われるよ」
 ヒラキは一つ息を吐いた。暗闇に煙草の火が赤く浮かんでいる。
「かたや学年一の美少女だもんなあ。それに比べりゃ私は乱暴だしがさつだし、女らしいところなんて一つもない」
 おや、てっきりいつもの調子で反論されるだろうと思っていたのに。
「おいおい、しおらしいじゃないか。らしくないぜ」
「らしくないか、そうか」
 ヒラキはなんだか寂しそうに笑った。月夜に乾いた笑顔が浮かぶ。
「あんたもああいう、女の子女の子した、可愛らしいのが好みなんだろ?」
「おい、お前熱でもあるんじゃないのか。一体どうしたってんだ」
 ほとんどヒラキは自虐的な口振りだった。悪く言うと僻みにも聞こえるくらい。
「べつに? どうもしないさ。自分の性別を久し振りに思い出しただけ」
 ヒラキは煙草の火をアスファルトに押し付けて消してしまうと、一度大きな欠伸をした。
 そして目に浮かんだ涙の粒を猫の手で拭いながら教えてくれた。
「私が煙草を吸い始めたのは、全くアホらしい事だけど、失恋が原因なんだ」
 夜に沈んだ黒々した木々も、彼女の話に聞き耳を立てているようだった。もちろんぼくも。
「ん、笑わないんだな」
「バカ。笑えないんだよ」
「そうか。――それで、それをきっかけにサーキットから足が遠のいて、ようするに当時バイク友達だった好きな男の子を取り逃がしちゃってね。初めての煙草は親父の買い置きでした」
 今夜のヒラキは瞳の奥が透き通って見える。月の光に延びる影がどこまでも濃い。
「鼻を明かしてやりたい奴、ってのもそいつ。――私の、あんまり大っぴらにしたくない記憶だね」
 彼女も彼女なりの半生を、色んな波にもまれて送って来たのだと思うと、失恋の一つも知らぬ自分がなんだかひどく子供に見えてくる。
「よっし、この話はもう終わり」
 彼女は膝を打って立ち上がり、閑たる静けさにひと蹴りキックスターターで快音を放つと、ぼくに帰宅の旨を告げた。
「あ、そうだ」
 ヒラキがヘルメット越しにくぐもった声で付け足すことには、
「私と周子の共通点。あいつもバイクが好きなんだ、観戦専門だけどね。と言うわけで来月のイベントは周子も同伴だからな」
 よかったなあケン坊。と言い置くと、ぼくを取り残して夜の峠を下っていった。
 すごい速さで遠ざかるテールライト。

       

表紙
Tweet

Neetsha