○
「お前さあ、最近付き合い悪くなったよな」
鋭いことを言ってぼくに詰め寄るのはメガネの彼である。
「毎日すたすた帰って、何してんだよ」
これに色黒の彼が乗っかる。
「怪しいな。白状しろ」
困った奴らだ。なにこれ、自己批判? 総括が始まるの今から。
ぼくは鷹揚に笑ってやって言った。
「何を疑ってるか知らんが、ぼくは早いとこ家に帰って読みさしの本を消化したいだけさ」
にじり寄る仲間たち。おい、くせーんだよ汗かいたデブは向こうへ行け。ブーブー言うな。よし、いい子だ。
「ほんとか?」
「ほんとだ」
メガネと色黒がジト目で睨みつける。小太りのアイドルオタクは少し離れて。ぼくは一歩も引かずにそれらを受けた。
やがてまとめ役の色黒が言う。
「わかった。疑って悪かったな」
当時、ぼくらの学校生活は日比谷先輩を中心として回っていたように思う。だからみんな精いっぱい一生懸命で、一生懸命なりに愚かだったのだ。
その日も喫茶店を訪れ、窓際の席に陣取った。そこで初めて気がついたが、道向かいのマックに先輩の姿が見えない。
驚いた。思わず立ち上がってしまった。手に持った北杜夫からしおりが舞い落ちる。
ぼくはヤモリみたいな動きをして窓ガラスに張り付いた。そこへ店主らしき上品なじいさんがアイスコーヒーを運んできた。
「今日はいないみたいだねえ」
「え?」
「君の憧れの女性だよ」
このときのぼくの驚きといったら! 先ほどの比ではない。驚いたのも束の間、ぼくの体内に恥ずかしさが充満する。
「え、あの。それはつまり」
「つまりはそういうことだよ。向かいのバーガーショップの、きみと同じ学校の制服を着た、美しい黒髪の女性を、きみはいつもここから眺めていたね」
もう、ぼくは爪の先まで真っ赤になってうつむいてしまった。
何たる道化だよ。今まで話したのはコーヒーの注文のときくらいだというのに、このじいさんは全て知っていたのだ。大した年の功だ。
そのうえじいさんよ、どうしてぼくを辱めるのだ。あれか、年寄りの道楽か。
「なにを恥ずかしがる。ひとを想う心は純粋で美しい感情だよ」
じいさんはコーヒーの入ったグラスをテーブルの上に置き、毅然とした声で続けた。
「君は少々引っ込み思案の気があるらしいが、君の彼女を見つめる瞳には一片の曇りもなかった。私はそれを知っているよ」
恐る恐るじいさんの顔を覗き返すと、そこには背の低い、ベストを着付けた姿勢のいいバーテンが、長い白眉をたおやかにしならせて、ぼくに微笑を送っていた。
「この次は胸を張って、彼女に会いに行きなさい。いいね?」
その笑顔のなかに、言い返すことを躊躇してしまうような、どこか有無を言わせない荘厳さを垣間見る気がした。
ぼくはテーブルのコーヒーグラスを手に取り、立ったままそれを一息にあおると、
「ごちそうさま」
勘定を済ませようと尻ポケットの財布をまさぐるぼくを、小柄だが偉大なじいさんが制した。その行為にぼくは目を瞬かせるだけだった。
「今日は私のおごりでいいよ」
じいさんはそう言って、まるで孫を愛でるような表情でぼくを眺めている。そして、
「いってらっしゃい」
と大きく頷いた。
ぼくは鞄に北杜夫を突っ込むと、それを引っ掴んでじいさんの店を出る。
○
先輩がマックにいなくとも。
それでもまだこの近辺にいるはずである。マックにいなかったのは、一種どぎついあの味付けにようやく嫌気が差したのか、それかただの気まぐれだ。
もちろんその他のイレギュラーはいくらでも思い浮かぶ。帰宅を急がねばならぬ理由など、高校生にだって無い訳はないのだ。
しかし今日は。今日こそぼくは、なにが何でも先輩と話さねばならない。そしてぼくの名前を憶えてもらうのだ。結果、先輩への想いを断ち切らねばならぬことになっても、それとも想いを繋ぐことができても、どちらだって構うものか。
ぼくはずっと、あの完璧無比な日比谷先輩と自分なんぞが釣り合おうはずもないと思っていた。しかしあのじいさんは気付かせてくれた。ぼくの内々に眠る先輩と張り合える唯一の自信、絶対の自負。
もともとぼくの内にあった。なんて、あのじいさんは言うもんだから我が身ながら笑える。笑えるがこれこそ欲していたものである。
なんてことはない。それこそがきっかけである。生来女性を苦手とするぼくだが、背中を押してもらえさえすれば、あとはなんだって出来る。先輩に声をかけて「遊園地にでも行きませんか」一言誘うことだってたやすいのだ。
息も絶えだえに、ぼくは街を駆ける。あの凛々しい長身を往来に探し、あの艶やかな黒髪をショーウインドーに探す。先輩はきっとまだこの街にいる。
春一番に乗ってすごい勢いで飛ばされてきた紙切れが、ぼくの顔面にぶち当たって音を立てる。それを引っぺがしたぼくは誰が悪意でと辺りを見渡すが、大通りに人影はなし。
良く見るとそれは包みに入ったままの一組のチケットだった。なんでも近日オープンするテーマパークの開園記念イベントの招待券。場所は下関とある。
渡りに船とそのチケットを学生服のポケットにねじ込んだぼくは、通りを駆け、筋を走り、上辺だけの都会的な街で日比谷先輩の姿を探し続けた。
足がもつれる。呼吸が荒らぐ。高校生になってからこっち、めっきり運動不足のぼくは妙な汗でドロドロになっていた。こんな姿では先輩に合わす顔がないと思いながらも、そんな心配より先輩を見つけるのが先決だと考え、なんとも心地の悪い思いで心臓は不規則な脈を打っていた。小さな消耗も蓄積すれば馬鹿にならない。最早ぼくは地を這うように走っている。
鉄の芋虫が鉄道高架を何度も行き来する。カラスが電線の影絵の上を飛び、鳴いている。街灯に電力が供給される。
ようやくぼくは、夕闇の街に煌々と照り映える照明の中、スターバックスの窓際から街並みを眺める先輩を見つけることができた。
日比谷先輩窓際の法則である。
○
宵闇のスタバでも、日比谷先輩はやはり本を読んでいた。店舗内は暖色の薄ぼんやりした照明がぶら下がっていて、スピーカーからラッパの音がピープー鳴っている。ジャズっぽい。でも、そんなに古くなさそうな曲。ようはオシャレっぽい曲。
「待ってたよ」
先輩は背中に目でもついているのか、ぼくの気配を察知するなりそう言った。天国にでも通じているかのように透き通った声だ。その言葉は確かにぼくに向けられていた。
傍から見れば読書の最中に発する言葉としては到底不適当である。先輩の隣の席のサラリーマンが不審そうに横目をやる。
先輩はというとそれを気にも留めない様子で、今度はぼくに肩越しの流し目を送った。
穏やかな黒い瞳、口元に薄く笑みを湛え、少しだけ顔を俯かせて、整った横顔には漆黒の美しい髪が掛かっている。いつも遠目で見ている先輩そのものが目の前にあった。
思わず息を呑む。近くで見ると迫力が違うってもんだ。
「隣は空いてるよ」
先輩はそれだけ告げると再び首を振った。
ぼくは冷静に背後を振り返り、それが本当にぼくに向けられた言葉だったのかを確認することだけは忘れなかった。
どうやらそのようである。
「きみで全員かな」
ぼくが椅子を引くなり先輩はそう言った。初めて面と向かって話すはずなのに、それにしては的外れな台詞だった。
「全員って、なんのことです?」
当然、ぼくは聞き返す。
次の瞬間、ぼくは確かに己が心臓が止まるのを実感する。
「『私を学校中で追い掛け回す二年生の集団』――心当たりはないかい?」
先輩は人から借りてきた言葉を喋るように言った。
「これまで会った三人が洗いざらい話してくれたよ。赤司直太君と、白浜慎二君、それに廣塚博之君。――」
友人たちの名前が列挙され、先輩の言葉に真実味が加味される。即ち『お前らの行動はまるっとお見通しだゾ』と言っているのだ。
今までのストーカーまがいの追跡や、浮気調査もかくやと言わんばかりの探偵行為など、秘密裏に活動していたはずのぼくらの存在は既に先輩にばれていたのだ!
――もうおしまいだ。
甘く切ないはずの想い人とのドキドキ初会話になるはずだった。それが今となっては死刑宣告のようなもんである。
余りの衝撃にぼくは固まった。椅子を引いて座ろうとした中途半端な格好である。
「残るひとりはきみだ。ゴトウフジカツヒコ君」
「あ、ゴトウです」
「え?」
「後藤、不二克彦です」
「ああ……」
先輩の無表情な相槌。
「兎も角。きみらは一体何のつもりだ。この私を学校の内外で尾け回していたことに対して、納得いく説明を聞かせてもらいたいね」
「ええとですね。……」
両顎の奥歯が浮く感覚が広がる。キャン玉がヒャンッとして先輩の目線をまともに受け止められない。
帰りたくなった。
「……すいません」
ぼくは引いたばかりの椅子を戻そうとした。
先輩の顔色を窺うことすら億劫だった。
「――ま、とりあえず座りなよ」
先輩の言葉。
「きみとは少し話をしたかったしね」
ぼくがハッとして俯けた顔を上げたとき、先輩は再び文庫本を開き、その目は文面を追い始めていた。
――まあ、そう仰るのであれば断る理由なんて。どうせ今後一切先輩とこの距離で会話することもないのだろうし。
まな板の上の鯉の心地は否めないが、ぼくは再び椅子を引くと、座面におずおずと尻を乗せた。
それにしても脚の長い椅子である。
先輩は思わせぶりなことを言ってぼくを引き止めておいて、自分は本の世界に集中しきっていた。いくら負い目があるぼくとはいえ、さすがに痺れを切らしてしまう。
「あの、聞いても良いでしょうか」
先輩は文庫本を読むのは止めなかったが、それでもきちんと返事をしてくれた。
「なんだい?」
何だいも変態も無いもんだが、ぼくは『これまで会った三人』について詳しく聞いておかねばならなかった。
メガネの赤司、小デブの白浜、色黒の廣塚の三名は、言うまでもなくぼくの愛すべき友人たちの名だったのだ。
しかし事によると、彼らはぼくに対し、とてつもない不義を働いていたのかもしれない。あるいはぼくだけにでなく、お互いがお互いに嘘を取り繕ってつらつき合わせていた可能性もある。
先輩の語ることは、果たしてその通りだった。
「彼らはちょうど今のきみみたいに、放課後に私を尾け回しては私の前に回りこんで、恋文を渡すなり思いのたけを告白するなりして、しょっちゅう私を困らせたものさ。めいめい一度や二度じゃない」
彼らにはほとんど失望した。何たる不道徳、はた迷惑。かように破壊的な友情もあったものよ! ぼくは彼らに騙されていたのだ。あれほど「放課後は先輩を追い回すな」と言っていた彼らが!
「許されざるやつらですね。もはや犯罪行為だ」
先輩は文庫本に落とした視線をちらとぼくに向けては、また戻した。
「いい加減しつこいから、この間一人一人に色々と問い詰めてね。私がにじり寄ると何故か鼻息が荒くなって、不気味で仕方がなかったけど、全部喋ってもらったよ。きみのこともそのときに聞いた。三人が三人同じことを喋るから面白かったな。『悪いのはゴトウフジと言う男です。あいつが全ての元凶なんです』って」
なんてえ奴らだ。友を売るとは。それに三人がそれぞれぼくの名前を出すってどういうことだよ。あいつらぼくに何か恨みでもあるのかよ。一人くらい別の名前を出せってんだ。泣くぞ。それに名前の下半分を端折るんじゃねえよ。
「はは、あれは面白かったなあ」
先輩はまぶたの裏にその光景を思い出したのだろう。よほど面白かったらしい。ぼくにとっては友情とは砂の城であるという確信を得た瞬間であった。
(本当に、許されざるやつらよ……!)
彼らを恨むことで、ぼくの考える最悪の想定を少しでも楽観できるようになればいいのだが。先輩の笑う声で少し楽になったとはいえ、現状彼女の一一〇コールひとつで、ほぼ確実にお縄を引かれてしまいかねないのだ。
恋焦がれた相手と同席しているはずなのに、おちおち背もたれに寄りかかることもできない。
――と思ったのにこの椅子、せいぜい腰もたれ程度にしか役に立ちそうにないデザインである。オシャレも行き過ぎたら不便、行く果ては滑稽ではないだろうか(問題提起)。
そこでぼくは雑念を振るい落とそうと頭を振って、今は先輩と校外で一緒の場所にいられるこの幸運を讃えることに専念した。
なに、聡明な日比谷先輩である。ぼくの人柄を見たらいかがわしい先入観などすぐに取り払ってくれることだろう。
ぼくはキャラメル巻きアートなるドリンクを啜った。オカシイと思って蓋をあけて中身を覗くも、キャラメルのアートなんぞ浮かんではいなかった。そのくせ高い金を取りやがって。詐欺だ。
先輩は小説を読みながら話すから、自然と会話は途切れ途切れになる。やがて再び口を開く。潤んだサクランボみたいなつやつやの唇だ。
「それで、私は名前ばかり聞いて姿のちっとも見えないゴトウフジ君に……」
「あ、後藤です」
「――失礼。ゴトウ君に興味を持っちゃったりしてあれこれ想像を巡らせていたわけなんだけど、きみがその、ええと」
「後藤不二克彦です、はい」
「――君てわけだ。ふむ。私の想像よりも割合貧相な男の子だね」
先輩の容赦ない言葉も、飾り気がないといえば愛嬌があるってもんだ。そう思おう。
「それで、きみもあの三人と同じように、私になにか物申したかったりするのかな?――」
先輩は、どこか挑戦的な目つきでぼくを見据えるのでした。
○
どうとでもなれ、南無三。半ば自棄っぱちである。そもそもぼくと日比谷先輩の間には、失うものなど始めから何もないのだ。
「先輩、多くは語りません。ぼくと二人でここに行ってはくれませんか」
ぼくは件の遊園地のチケットを取り出し、テーブルの上に差し出した。
先輩はその券を取り上げて、内容をなぞった。
「これはまた、……よく手に入ったね」
先輩はチケット越しにぼくをすがめた。
その視線は「どこでこれを手に入れたのだ、盗んできたのであろ!」とでも言われてしまいそうな鋭ささえある。
そう言われてみれば拾ったチケットである。ぼく自身ろくに行き先も確認していない。
余った片方のチケットを手に取る。考えてみてもオイスターランドというふざけた名前のテーマパークは聞いたことがない。
眉根をひそめて矯めつすがめつ、そんなぼくを見て小さく噴き出した先輩はこう教えてくれた。
「下関に新しく開園する遊園地だよ。大型の乗り物と新鮮な海の幸を売りにした、遊んで良し、食べて良しの新感覚テーマパーク。大々的に宣伝しているじゃないか。ほら」
先輩が見やった窓越しの建物には大きく張り紙がしてあった。
『オイスターランド近日開園!』本当だ。
「しかし名前がふざけてますよね」
はははと先輩は鷹揚に、それでいて上品に笑った。
話して分かったが実はこの先輩、よく笑うのである。それは決して下卑た笑い方ではなく、話し相手をもなんだか愉快な気分にさせるのだ。
「私もそう思うよ。しかしきみは楽しいやつだな、ひとをデートに誘っておいてその場所の詳細すら知らないとは」
おまけに人の話ははぐらかすし。――付け加えたその一言のほうが痛恨である。
「あの、すいませんさっきの話のバカな三人ですけど、あいつらはあれでおかしな奴らですけどそういうところばかりじゃないんです。でも嘘つきなのは間違いないんです。全ての元凶がどうこう言ったらしいですけどあれはその、」
「その、なんだい?」
「つまりはぼくが一番先輩のことを好きだってことですっ」
ぼくの決死の告白、先輩はへらへらと笑う。
「照れるね、もう」
真面目に言ってるのに通じないのは少しへこむ。かくして当初の目的は達せられたのでした。
「すいません。初めて話すのに図々しくて」
と言うと、なんだか今後も二度、三度と話す予定があるように聞こえる。ぼくは急激に恥ずかしくなってくる。
「あの、ごめんなさい。顔洗って出直してきます」
ぼくはキャラメル巻き巻きアートを引っ掴み、椅子を引いた。
「ちょっと、待ちなよ。私もいい加減本ばかり読んでると肩が凝ってしょうがないし、たまには出歩かなきゃいけない。どうせ誘ってくれないとそんなところには縁が無いんだ。きみが私なんかで良いと言うんなら、一緒に見物して回ろうじゃないか」
肩が凝るのは女性的に豊満な胸のせいもあるんじゃないですかなんて、そんなことはこの際どうでもよろしい。
「私で良いのかですって? ……な、なにをそんな」
謙遜? 違う。なんと言ったら良いのだろう。何でも良い。
「ええ、いいですとも。もちろんですとも! だったら行きましょう! やった、今夜は赤飯炊きますよ!」
先輩は苦笑いと愛想笑いとが半々に混ざったような表情を浮かべて、狂喜するぼくを優しくなだめるのでした。
「後藤君、とりあえず落ち着きなさい」
○
こうして、日比谷先輩はぼくの名前を知ったのでした。
それ以後ふたりがどうなるかなんて、めいめい勝手に想像してもらったらよろしい。
〈オワリ〉