Neetel Inside 文芸新都
表紙

彦一少年と蟲くだしの姫
『濁った願望と祓え戸の巫女』←最新

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 腹部の激烈な痛みに苦しみながらほとんど叫びに近い呻き声を上げ、目を剥いて奥歯を噛み意識が悪夢の向こうに飛んでしまいそうになるのをひたすら堪えている。
 目を開けていろ、俺を見ろ、意識を繋ぎとめていろ。耳元でやかましく喚く男の声がする。正気を保てだとか、まぶたを閉じるなとか、腹を抱えてうずくまるその肩をがくがく揺さぶっている。
 もうじきやってくるから。鶴の婆がそう言ってた。
 蟲くだしの姫がじきにやってくるから。

 ○

 鶴婆さんはその町では有名な婆さんである。二つの意味で有名だった。それ自身しわくちゃになった紙煙草みたいに細長い店の出窓から顔を出し細々と煙草を商う、背中のすっかり丸まった小柄な婆さん。または異形の怪物や奇怪な霊障のお祓いを請け負ってくれる拝み屋としての婆さん。鶴婆はふだん店のカウンターの奥で眠った猫よりもじっとして動かないが、町民が店の前を通りがかった時などしばしば彼らを引っ掛けては、
「用心しいや、背中にいやな影が覆いかぶさってるよ」
 などと聞いた者が不安になるような言葉を投げかけ、直後にすうすうと安らかな息を立てることもあれば寝言をこぼした振りもする。
 鶴婆さんのその道の感覚は常人を逸しており、そういう忠告は真摯に受け止めておいたほうが身のためだということをそこら一帯の町民たちは重々承知している。
 だったら何を気をつければよいのかと問うと、質素倹約に努め贅沢を控えよとか、毎日の食事で獣肉を控えよとか、夜更かしを控えて早寝早起きを心がけよとか、霊感的対策などとはまるで縁遠い、理想的な節制生活を勧めてくる。ただ、それを守らねば自分の身がどうなってしまうのか、恐ろしいから町民たちはこれまで素直に言うことを聞いてきた。彼らは鶴婆の言いつけを守らなかった者がどういう報いを受けたのかを詳しく知っているらしかった。対して若い世代には、そのことを詳しく知っている者が少ないらしい。
 二、三週間前に学校帰りの彦一がタバコ屋の前を通りがかったとき、鶴婆は口を開いてこんなことを言った。
「彦坊、あんた、やなもの連れて帰ってきたね」
 彦一に鶴婆がそういう忠告を聞かせたのは、それが初めてのことだった。彦一は町民の噂をそれまで散々聞いてきたし、その意味もよく知っていた。だから鶴婆の言うことを聞けば大した災難も訪れないことも知っていた。じゃあ、俺はどうすりゃ良い? 早寝早起き? 彦一は訊いた。鶴婆さんはまるであくびでもするように呑気な調子で言った。
「私がいいって言うまで家を出ちゃいけないよ」
 そんな話は聞けるわけがなかった。学校もあるし、なにより最近は出かけるのが楽しい理由があった。
「おいおい、元気を持て余した優良中学生に向かってそりゃないだろ」
 正直なところ彦一は鶴婆さんのいわく話を眉唾物だと思っていた。
「そんなの守れるか。おれ、彼女ができたんだよ。デートの計画が一年先まで一杯なんだ」
「確かに私は、そう言ったからね」
 彦一が半ば呆れてため息を吐いたとき、鶴婆もそれ以上うるさく言うつもりはないらしく、それきりカウンターの置物と化してしまった。



 農薬の銘がでかでかとプリントされた刺激的な配色のキャップを 被ったおっさんが言っていたことがようやくわかり始めてきた。 
「絶対に返事をしちゃいけない。お前のなかのそれがどんな言葉を掛けたって返事をしちゃいけない。でなければ彦坊、お前は地獄よりも苦しいところへ引き摺り下ろされちまうぞ」
 意識がねじれて別の世界まで越境してしまう途中にひどい痛みが立ちはだかり襲い掛かる。もはや痛覚の限界を通り越して熱くもあり、寒くもあり、頭痛に耳鳴りに吐き気に心臓が脈打つたび関節がぎしぎしと音を立てて収縮する。筋肉が骨を圧迫する。体中の体液が逆流するようだ。口の中にはざらざらと饐えた臭いが拡がっている。尻の穴が痙攣している。
 生きていたくない、いっそのこと死んでしまいたい。この苦しみから楽になれるのなら、そういう考えが朦朧とする頭に浮かぶたび、声がした。誰の声かはわからないがこの世にあらざるものの声だそうだ。
「何を言われてもへんじだけはするんじゃない」
 遠くに聞こえるその声よりも、もっと、ずっと近いところから声が聞こえる。
『苦しいのでしょう』
『楽にして差し上げましょう』
『私に応えてくれえるだけでよいのです』
『さあ、天上人となりましょう』
『あらゆる苦しみのない世界へいざないましょう』
『さあ、私に応えてくれるだけでよいのです』
 生者の声が遠く、魔性が彦一を誘っていた。自意識の手綱が手離されようとしていた。



 それまで彦一は胸を張って町を歩けるほどの自信すら持ちえなかったが、目を背けようのない不満ばかり自分の部屋に転がっているのははっきり自覚していた。
 恵まれた者と恵まれない者がいるらしい。この世を二つに分けると自分は後者なのだ。虐げられ、蔑まれるさだめなのだ。
 凪いで淀む精神の湖が日の光を遮られてゆっくりと腐っていく。蟲が涌いて腐臭を放つようだ。そこに現れたのがその少女である。
 ぞっとするくらい白い肌が、中学生の彦一の目に千載一遇のものに見えた。彼女は、いや、自分は彼女に出会うために今までをこのちっぽけな町で過ごしてきたのだ。という妙な確信を得る。
 彼女は彦一を見て笑った。兄の隠し持っているアダルト・ビデオに出演する女優よりもずっと淫靡でなまめかしい眼、雌の瞳が彦一の視神経を介して脊髄に侵入し、どこぞの感覚器官を貫いた。彼女が彦一にしたのはたったそれだけだった。
「おれ、彼女ができたんだ」
 と鶴婆に言ったのは、その女と草むらに隠れていかがわしい遊びに耽るため。神社の裏で、土手の橋の下で、彦一は自分の欲望の思うがままに振舞った。それから何とはなしに気が大きくなった。
「彦坊、あんた、いやなものを連れてきたねえ」
「鶴婆、おれはもう子供じゃないんだ。いい加減なことを言っておどかそうったって、引っかかったりしないぜ」



 自分の存在が希薄になってゆく。痛覚はもはや快感を伴って彦一の意識を侵していた。視聴覚には甘く囁く声、その声は紛れもなくあの女のものだった。転校生のぞっとするくらい白い肌。赤い唇。女は笑っていた。
 彼女がしたのはたったそれだけだった。その後は彦一が声を掛けた。そうして近づくことで、あの、腰が浮くような、尾骨から脳天に電流が走るような快楽が彼にもたらされ、そして繰り返されるのだ。
 彦一の口が、鉢の中で喘ぐ金魚のようにぱくぱくと空気を求めた。白目を剥いた彼の視覚にはほとんど何も映ってはいないように見えた。
 聴覚は魔性の幻聴で氾濫しており、もはや何者の声すら彦一の耳には届かない。心臓の脈動と自らの呻き声、血管が収縮するたびに聴覚神経は締め付けられ、脅かされ、それ自身が絶叫を上げる。忌まわしい音に圧迫されることで意識は聴覚さえ手離そうとしていた。
 感覚不在の限界があるならば今こそがその極点に達するときだ。
「けがらわしい」
 そこへ全く異質の声が聞こえてくる。それはやけにはっきりしていて、夏の終わりに揺れる風鈴のように透き通っており、日差しを受けてきらめく深森の清流をすくい上げたように冷たく、いまの彦一にはひどく耳障りだった。
「けがらわしい俗物め」
 目の前に赤と白が過ぎった。
 何か光るものが視界を縦に真っ二つに切り離した。
 気がつくと彦一は板張りのよく磨かれた広間に額をこすりつけた恰好で這い蹲っていた。

 ○

 蟲くだしの姫は俗称であるらしい。鶴婆は正しい呼び名を教えてくれたが、疲弊した意識にすんなり入ってくることはなかった。
「彦坊、命拾いしたね」
 そういって骨と皮だけのしわがれた婆さんは去っていった。
 農薬帽子のおっさんがしきりに頭を下げて婆を見送った。そういえば、このおっさんは一体誰だろう。

 ○

 転校生が姿を消したらしい。だけど誰もそんな女子生徒はいなかったという。この時期に転校生だとかなに言ってるんだと馬鹿にされた。夢でも見てたんじゃないのかって。
 だったら彦一は、彦一の快感は何者がもたらしたのだろう。
 いつかの草っぱらは除草作業員が根こそぎ坊主にしてしまった。土手の橋の下には余所者のホームレスが知らない間に棲み着いていた。
 ぞっとするくらい白い肌は、赤い唇は、その面影を彦一の記憶にだけ残して痕跡を消した。まるで白昼夢でも見ていたみたいに。大人になったらきっと自分も忘れてしまうのだろうと思った。なぜなら彦一は、今朝方見た夢の記憶すらすでに定かではない。
 タバコ屋の前を通りがかると鶴婆がいつものように置物の真似をしていた。
「おかえり、彦坊」
「なあ、鶴婆。蟲くだしの姫って、もう会えないのかな」
「彦坊はもう姫サンのことを忘れちまってるさ。無論、あちらさんも忙しいから、そんなことはきっとないだろうさね」
「そうか、もう会えないのか」
 この町の人々は鶴婆に従って生きてきたようなものだ。だから彦一はあまり鶴婆さんのことを好きに思えなかった。背後で糸を引く悪の意識。もちろんそんなものは自分の妄想だ。わかっていても気に入らなかった。どうして盲目に人のことを信じてしまえるのか。そういう構図が気に入らなかった。意思のない操り人形にはならないぞ、と幼心に決心していた。その結果が先日の災難である。
 だけども、彦一はやっぱり気に入らなかった。
「彦坊、あんたは見ていておっかないくらい一本気で、頑なな向きがあるからね。私みたいな婆さんは、この世にもう未練なんかないけど、特にあんたみたいな子供を見てると、つい口を出してしまいたくなるのさ。堪忍しいや」
 彦一はむすくれた顔をしたまま、鶴婆がくれた飴を口の中に放り込んだ。薄荷ののど飴だった。
「今後のあんたもずっと見守らせてくれるかい」
 彦一はなんとなくわかった。蟲くだしの姫の本名。
「ま、おれがここで煙草を買えるような歳になるまでは、長生きしててもらわなきゃな」
 鶴婆さんは置物みたいな格好をしたまま、首だけゆっくりと頷かせた。

       

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