Neetel Inside 文芸新都
表紙

彦一少年と蟲くだしの姫
『白煙に巻く』

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 透明人間を気取っているつもりはないけれど、クラスの中でとくべつ人気者というわけでもないぼくは、他校にもその名を響かせるくらいの有名人である彼女と釣り合うなんて思っていなかったし、彼女のほうもまた、只のクラスメイトのひとりに過ぎないぼくのことなんて気にも留めなければ、露ほども意識すらしたこともないんじゃないだろうかと思っていた。
 ぼくの名前、せめて苗字くらいは憶えていてくれているんだろうか。授業中なんかはよく、彼女の横顔の隙のない輪郭を目で辿りながら、そんなことを考えたりする。



 ぽす、と頭の上で何かが弾んだ。振り返ると級友の山田君が立っていて、その手には丸めた数学のテキストが握られていた。
「またぼんやりしていたな、ため息なんかつきやがって」
 彼は腰に手をやって、聞き分けのない子供を叱る母親みたいな態度で喋る。
「おまえ、羽山周子のこと、見すぎだ。ストーカーとして被害届が出されても文句が言えないくらいにな」
「ばかっ。……デカイ声でそんなこと言うな」
 ひやひやものである。彼女と席は離れているとはいえ、世間は壁に耳ありなのだ。
 ぼくは山田君の袖を引いてひそひそ声。
「もし聞こえたらどうすんだよ」
「なにを。知れたところでどうだというんだ。いいかげん諦めろよ、たとえ地球がひっくり返ったって、おまえと羽山周子は釣り合わん」
 歯に衣着せぬ物言いに、ぼくはちょっとむっとする。
「地球なんて毎日一回はひっくり返ってるぜ」
「屁理屈捏ねるな。問題から目を逸らすな。甘い夢を見るのも結構だが、その中には絶対に叶わない夢ってのがあるもんだ」
 自分が一番分かってるだろう。と付け加える山田君の言葉は針のように鋭い。無防備なぼくの心はきりきり痛むのだ。
 ――うるせーこの、デコ眼鏡。
 彼には聞こえないようにそう呟いたのだが、しっかり聞こえていたらしい。さっきよりは強い調子で数学テキストが脳天に振り下ろされた。
「おまえもバイクなんかやめて、もっとほかのことに打ち込めよ。いいかげん流行らねえよ。いまどき走り屋なんて――」
 その後山田君は自分の所属するロックバンドの話やら、メンバーの不満やらを愚痴ぐちとこぼし始め、終いには「おまえとは音楽の趣味も合うし、いっそ俺と新しくバンド組まないか」なんて言い出す始末だったけれど、ぼくは羽山さんの凛とした表情を記憶に焼き付ける作業で忙しく、それどころではなかった。



 ――いまどき走り屋なんて。

 山田君、よく言ったもんだ。峠に一度さえそういう目的で来たこともないだろうくせに、見事に世相を言い当てているのである。
 最近の新車ラインナップを見たって、そんなことは一目瞭然ではあるんだけど。若者のバイク離れ、ねえ。……
 他人の趣味にけちをつける気なんて毛頭ないけれど、興味のない人たちが興味のある人たちよりもずっと数が多いせいで、補修部品の供給ラインが細くなったりするのは困りものだ。現にぼくのバイクなんか既に生産中止であり、部品供給もメーカー在庫分だけで大終いである。創始者の遺志を継がない拝金主義の現経営者どもめ。血も涙もない丸太ん棒め。――愚痴はさておき、いつまでも乗ってやることはできないのだ。
 だからといって、そう頻繁に部品交換しなきゃならないほど激しく走り込んでるわけでもないけどね。高校生だし。貧乏ライダーだし。
「最後の世代だよな、ぼくたち」
 皮製の派手なレーシングスーツを着て、ごっついブーツを履いた、戦隊ヒーローのリーダーみたいな格好をした相棒に声を掛ける。
 彼女はアスファルトに寝っ転がって、半ばうとうとしていたらしい。目をこすりながら首をもたげた。
「なに。……なんか言った?」
「もう公道でレーサーの真似事する学生って、ぼくらで最後なんじゃないかなって」
 峠の頂上、早朝の駐車場。たまに先客として鹿とか、猪はいたりするけど、たいていはぼくたち二人以外、誰の姿も見えない。
「ああ? 何言ってんだよ、あんたとじゃ、レースにもなりゃしないよ。調子に乗るな」
 彼女はそう言って再びアスファルトに頭を寝かせ、またまどろみだす。
 ――なんて口の悪い女だ。もっとぼくに気を遣えよな。傷つくだろ。
 それにしても、ぼくの知り合いには口の悪い奴しか揃ってないらしい。山田君もさることながら、隣の赤レンジャーは女だというのに、乱暴な物言いでいつもぼくを見下すのだ。
 どちらかといえば山田君よりも彼女のほうが語気がキツイ。言葉遣いさえもっとおしとやかであれば、その容姿になびく男共も多いことだろうが、それは今のままでは決して叶わぬことだ。
 山田君との馴れ初めなんてたいした話じゃないから省くけれど、かの赤レンジャー、――平木巡との出会いはある意味衝撃的だった。



 その前に。
 そもそもぼくがゼロハンスポーツに乗っているのは、とくべつ以前から憧れを抱いていたからとかそういうわけではない。その昔はそれなりのライダーだったという父の趣味を押し付けられる形で手に入れた十二インチレーサーレプリカであった。
 ぼくは実際にバイクに乗り出すまで、スクーターとスポーツバイクの見分けもつかないようなど素人だったというわけである。ネイキッド? ぺけじぇ? なにそれ、もっかい言って。みたいな。
 バイクを単なる移動手段としてしか意識していなかったから、どっちかというと、スクータータイプのほうがたくさん物が入って便利だなと思っていたくらいだ。
 とはいえ、もともと好奇心旺盛なほうだと自負しているぼくである。乗るからには知識もなからにゃあならん、と雑誌なんかを読み漁ったりしているうち、どうやら自分のバイクは『そういう』バイクなのだ、と分かってしまった。
 あとは、ペダルに足を置く位置を気にしたり、ブレーキレバーの握り方を試行錯誤したり、体重をバイクのどこに預けるとバランスが取れるものか想像したりするうち、自然にこの通りである。
 バイクを操るのは楽しいことなのだ。峠少年になったのはそれから。そして平木と出会ったのは、更にそれからしばらく後のこと。
「親父、ツナギ買ってくれよ。バイトの給料じゃとても手が届かん」
「いいぞ。ただし、一つ貸しだからな」
 家庭内のレアキャラ、普段は朝が早すぎる父と、珍しく一緒に朝食をとりながら、そんな会話をして家を出た日の、夜更けである。



 バイトを終えたぼくは帰宅の前にひとっ走りと、そこから近い峠を目指した。
 過去には多数の少年ライダーが集ったとか集わなかったとかいう、それなりに道幅もあって舗装も整った山道である。ぼくんち周辺はまだまだ田舎なのだ。緑も多い。
 ぷいー、と軽く流して上り詰め、展望台へと続く駐車場で折り返す。上り下りで二十分もかからないだろう小さな峠道がぼくは好きだった。好き嫌い以前に、手近な走行スポットはここしかなかったのだが。そして、その日は珍しく先客がいた。
 それがヒラキである。もちろん名前は後で知ったし、そのときは男か女かもはっきりしなかった。なんせ真っ暗なのだ。てっぺんの駐車場には明かり一つない。
 しかし先客がレーシングスーツを着ていることは、ぼくのバイクのヘッドライトに照らし出された一瞬で、既に分かっていた。バイクはぼくのと同じ、十二インチのレーサーレプリカだ。
 ――おお、モノホンの走り屋さんじゃなかろうか。そう思ってしまうほどの貫禄さえ漂わせていた。
 羨望と警戒と嫉妬の念で、ぼくはしばらく動けずにいた。先客はぼくのことなど気にも留めず、バイクに跨ったまま、精神を集中させているみたいに腕を組んでいた。
 やがてその様子を観察することより、かねてからの空腹が勝って、ぼくは峠を下ることにした。
 バイクを走らせてしばらくすると、サイドミラーに後続車の気配。ヘッドライトは一灯で、どうかすると自分のバイクと同じような形をして、……
 ――さっきの走り屋じゃないか。と気付いた時は既に追い抜かれた後だった。
 ぼくはヘアピンカーブの進入で競り負け、あっさりと抜き去られてしまった。
 それからなんとしても追いつこうと一生懸命に攻め込んでみるけれど、すぐにテールランプの赤色は見えなくなり、オイルの焼けた臭いが、実力の差を屈辱的な形でぼくに教えるのでした。

 それだけならまだいい。当然悔しいけれど笑い飛ばせもできよう。次の日に山田君に話したりなんかしてね。
 笑い話で済まなかったのは、奴は最初からぼくをコケにする気で勝負を挑んできたのが分かったからだ。

 麓に下りると奴がいた。いかにもぼくが降りてくるのを待っていた体をして、アイドリングに震えるバイクで道路を塞いでいた。あぶねーっつうの。
 素通りもできたのにわざわざぼくは停車し、エンジンを切り、彼の走り屋の言葉を待った。奴もイグニッションキーを捻って、辺りは途端に夜山の静寂に包まれる。
 麓の沿道には街灯があった。頼りない光に照らされて、ヘルメットを脱いだ走り屋は、なんと若い女であったことが解った。それもぼくと同じくらいの年齢らしい。
 あんまり驚いてぼくは言葉を失った。女に負けたのか、という念も浮かんだ。女性がバイクをうまく操れるはずがない、という思いが、本当に恥ずべきことであるけれど、それまでのぼくにはあったということだ。
 そして彼女は言った。
「ざまあないなあ。へったくそ」
 当然、ぼくの頭は真っ白になる。
 ――なんでぼくは初対面のひとに開口一番けなされてるんだろう。
 一瞬遅れて怒りが沸々と湧いてくる。
「なっ、……なんだとコノヤローっ」
 しかし、その先が続かない。仮にもバイクの腕は彼女のほうが上手である。その事実がぼくの思考を卑屈にさせたのだ。
「ぐぬぬ」
「ここ何日か張り込んで、ようやく鉢合わせたかと思ったら。なんだ、大したことない。ちょっとでも期待した私がバカだった」
 ――え、なに? その言い方。まるでぼくのことを前から知っていたとでも言うんですか?
「ふん、気になるなら勝手に調べればいいだろ。私もそうしたんだ」
 じゃあね。と言って彼女は去った。
「へたくそ」
 最後にそう付け加えて。
 ――むかつく女!
 そういう第一印象。

 次の日、登校して朝一番に下駄箱で再会した。なんと彼女は同じ高校に通う同学年の生徒だったのだ。
「よくわかったな」と彼女が言ったから「目つきの悪さですぐにわかった」と返すと、直後に尻を蹴っ飛ばされてしまった。
 足癖の悪い女である。ただ、レーシングスーツを脱いだその曲線は、なかなか見栄えがするようだ。



 自己紹介が遅くなったけれど、ぼくの名前は健二という。
 隣家に住む幼馴染は、ぼくのことを「ケンちゃん」と呼ぶ。
「ケンちゃん。最近、面白いことあった?」
 彼女は一日おきくらいにそう尋ねてくる。
 年じゅう開けっ放しのガラス戸から、ぼくの部屋に押し入る。
 薄手のカーテンを猫みたいにじゃれて。
 夜風とともに顔を見せる。
「よっす」
 うちなんかに来たって、スーパーファミコンくらいしか置いてない。彼女はいつも気まぐれにサムスやマリオを操り、それに飽きるとぼくと中身の無い雑談を二、三交わし、最終的には眠くなったと言って帰ってゆく。彼女がうちの玄関から訪れたことは、高校生になってからこっち、一度もない。
 彼女が夜な夜なぼくんちに入り浸るようになって、もうどれくらい経つだろう。思い返せば今年からのような気がする。
 話は飛ぶがぼくの通う高校は、一応は進学校であり、全クラス普通科の体裁をとる。他の多くの普通校と同じように、一年に一度クラス替えがある。
 ぼくと咲は危なげなく二学年に進級し、初めてのクラス替え、そこでぼくらは、お互いの人生で初めて、所属の学級を別々にすることとなった。
 腐れ縁もこれまでだなと、ぼくの方はせいせいする思いだったが(なにしろ咲はあれやこれやと世話を焼きたがり、うるさいことこの上ないのだ)、咲はそこでもなんだかんだと愚痴をこぼしていた。挙句はこうだ。
「ケンちゃんは、あたしがそばに居なくても平気?」
 ぼくはうんざりしてため息をつき、
「いい加減弟離れしてください」
 そういえばその日の夜からだ。バイトから帰った後の、夜も遅い時間。
 初めは久々にぼくの部屋に上がりこんで何事かと思った。それから今に至るまで、ひたすらスーパーメトロイドである。なにがしたいんだよもう。ゲームか。
 そしてお馴染みになった質問が今日も。
「ケンちゃん、最近面白いことあった?」
「お前、昨日もそれ聞いたぞ」
「いいじゃん。昨日から今日までの間に何かあったかもしれないし」
「何かって何だ」
「あたしが知るわけないじゃない」
「あのね、そんなに毎日がハッピーとラッキーの連続でたまるかってんだ。ぼくは昨日も今日も明後日も、朝起きて学校行って、帰って少し食べてバイトに行って、また帰ってめし食って風呂入って寝るだけだよ。そんなに毎日確認しに来なくたって変わり映えしないぜ」
「あの子とはどうなった?」
「あの子?」
「ほら、一目惚れしたって言ってた。……どうせ何の進展もないんでしょうけど」
 ぞんざいな予測だったが、的中しているのが腹が立つ。
「当たりだ。そりゃそうよね、相手は何せ学校じゅうで評判の羽山周子ちゃんですものね」
 からかうような口調になって、俄然勝ち誇る幼馴染。まったく腹が立つ。
「うるせえバーカ」
「バカとはなによ」
「ぼくのことは良いから自分の心配しろってんだ。せっかくだから言うけどな、おまえの隠れファンも少なからずいるんだ。紹介してやっても良いぞ」
「いらないわよそんなサンピン」
「名前も聞かずにさんピンって、……」
 山田君、可哀想に。
「じゃあ何か。おまえにゃ現在、好きな男でもいるってのか」
 ぼくはバイク雑誌を流し読みながら、咲はテレビ画面のサムスを操りながら話をしていたわけだが、唐突に声が返ってこなくなったから、ぼくは不審に思って彼女を見た。
 咲は心配しなくともそこにいた。忽然消えたわけじゃない。いることにはいるが、微動だにしない。
 惑星ゼーベスのサムスも、灼熱の噴石が飛び交うノルフェア深部で立ちすくんでいた。カッチョ良いステージサウンドがじわじわと鳴っている。
「おい」
 声をかけると、
「いるわよ」
 と言ってサムスの操作を再開した。そこらじゅうに破壊的な高エネルギーを撒き散らす、銀河の凄腕バウンティ・ハンター。
「名前は?」
「教えない」
「なんだよそれ。ぼくは教えたのに、フェアじゃないね」
「あれはあんたが勝手に言っただけじゃん。ばか。鈍感」
「鈍感? 俺の知ってるやつってこと?」
 それよりバカって言うな。

 そんなこんなで、今日も昨日みたいな一日が終わろうとしています。



 約束どおりぼくは親父からレーシングスーツ(言うところの皮ツナギである)を買ってもらった。ブーツやグローブも揃えて装備を整えたぼくは、ようやく見た目だけはマトモな走り屋の仲間入りである。
 ヒラキには前々から装備をあつらえろと指摘されており、ぼくが普段着で走り屋の真似事をしているのをあまり良く思ってはいなかったらしい。
「あんたは、ただでも危なっかしいから。たとえば時速三十キロでも人は死ぬ。もっと速いなら尚更だ。こんな格好したってグランプリじゃ毎年死人が出てるってのに」
 ぼくが土方のおっさんが着るようなジャンパーとデニムの半ズボンという格好のとき、ヒラキは真面目な顔をしてそう言った。
「最低限の条件」だと、口癖のように言っていた。そして、「最高の機能性」とも。
 専用設計品は違うのだそうだ。

 その日の昼休み、ぼくはヒラキのクラスに出向いて打ち合わせ中。
 いつかはサーキット走行と憧れを抱いていたぼくである。親父というスポンサーを得たぼくは準備万端、晴れてサーキットを走行する資格を得たというわけだ。あとはそこへ行くだけ。
 ヒラキは小さい頃から彼女の父親に連れられ、やれ河川敷だサーキットだと走り回っていたらしい。
 中学半ば以降、ぱったり行かなくなったとは言っていたが、それでも家にはデカイ車もあるだろうし、まだまだ土地勘も働くはず。
 彼女に頼み込んで便乗すれば、ぼくの小さな夢は簡単に叶えられるだろう。
 相談してみるとヒラキも乗り気だった。

「そういえば、ちょうどひと月後の日曜日にイベントがあるって聞いたな。二時間耐久のサンデーレース。なに、全体が視界に収まるようなミニコースだからあんたも楽勝だよ。あたしも久々に出てみようか」
 ひと月後か。
「待ち遠しいな」
「――ああ、鼻を明かしてやりたい奴もいるしね」
 ヒラキは口の端を吊り上げて、薄く笑う。怪しげな企てを含んだ笑みである。
 ――『鼻を明かしてやりたい奴』
「なにそれ」
「え?」
「鼻を明かしてやりたい?」
 ヒラキはほとんど無意識だったのか、なかなかぴんとこないらしかった。
「ああ、――大したことじゃない。ちょっとした因縁があるだけ」
 ふむ。
 中学半ばまで生活の中心がサーキットだったという彼女のことだから、勿論そこでしか顔を合わさないような知り合いなども多くいることだろう。
 傍から見ていると、彼女の人付き合いは浅く狭い。器用なのはバイクを扱っているそのときだけという性格だ。そんな彼女が『鼻を明かしてやりたい』なんて。……
「ははあ、分かったぞ。男だ」
 ヒラキは目を丸くして、言葉を失った。
「なっ、……!」
「当たりらしいな」
 呆然とする彼女の表情。
 すっと伸びた細い首が、付け根から朱色に染まってゆく。
「なにを言い出すんだっ。この変態!」
 変態ってなんだよ。
「顔真っ赤にして強がるんじゃないぜ。どうせお前のことだ、いつの間にか好きになったけど、どうしたら良いか分からないうちに疎遠になっちゃいました的な、甘酸っぱい青春メモリーを改ざんいってえ!」
 ヒラキは弁慶の泣き所であるぼくの向うずねを思い切りトゥキック(爪先蹴りである)
 つまりは痛い!
「なにすんだっ」
「う、うるさい! なんにも知らないくせに生意気だっ」
 ヒラキは珍しく、動揺している様子だ。本当に珍しい。――そういう表情もできるじゃないか。醒めた部分の思考では、ぼくはそう思った。
 熱した部分のぼくはというと、目に涙を浮かべて脛をさすっている。
「なんだよ、そもそも大したことじゃないなら教えてくれたって良いだろ。言わないから想像したくなるんじゃないかっ」
「いらんこと思い出したくないんだよっ。このトンチキ! どサンピンっ!」
「おい、ちょっと待っ……」
 椅子を引きながらまくし立てると、彼女は「バカヤロー」と叫びながら廊下へ飛び出していった。追いすがる暇もない全力疾走。
 他所の教室でひとり取り残されたぼくは、周囲の白い目を浴びてただ恐縮するばかり。



「平木さんの機嫌が悪かったら先生が怖気づいて授業どころじゃないんだから。あなた、何とかしなさいよ」
「そうよ。あんたみたいな人のせいで教科書が進まなかったら、次の模試の結果に関わるんだから」
「そうよ。C判定なんか出たらあなたのせいなんだから。二組の、中野君?」
「そうよ。二組の中野君、このまま平木さんを放って自分の教室に戻ったりしたら、知らないんだから」
「そうよ。憶えておきなさいよ」
「そうよ。この時期に色気づいちゃって、いやらしいわ」
「そうよ」
「そうよ」
 瓶底メガネと三つ編みという型押しのがり勉女子生徒を筆頭に、そのクラスの勉強大好きな連中に囲まれて、ぼくはヒラキの機嫌取りを命ぜられた。無理な目標を掲げた受験生は狂気で目が血走っている。ぼくは平身低頭の体でその命を拝した。
 ということで第二校舎の屋上を目的地に定める。
 ヒラキはタバコ呑みだから、よくそこで隠れて一服ふかしていることがある。ぼくは当てずっぽうで足を向けた。
 とはいえ望まざる面倒である。当然、足取りは重かった。

 その途中。
「ケーンちゃん」
 その教室の廊下に面した窓から顔を出し、ぼくに手を振るのは、声を聞いただけも分かる。幼馴染の宮原咲だ。
「なにしてんの」
 ぼくはその質問が嫌いだった。
『なにしてんの』――他人の精神的不可侵領域に、泥のついたブーツで足型をつけるような思いやりの無い言葉よ!
 ぼくがどこでなにしてようが勝手だろうが。そもそも挨拶代わりに他人の行動をコレクションしたがるなんて、どうかしてる。
 相手が十数年来の幼馴染だろうと、ぼくはこの質問を浴びせられるたび不快に思う。
「あいにく今はお前の無遠慮を咎めている暇なんてないんだ。じゃあな」
 ぼくは一旦は止めた足を再び動かした。
「ちょ、ちょっとまってよっ」
 咲は廊下に出した上半身を引っ込めるとき、ガタガタと窓枠と苦戦したのち、教室を出て、短い髪を揺らして小走りにぼくに走り寄った。
「なによっ、あたし何か気に触るようなこと言った?」
「別に」
「ほら怒ってるじゃん! どうして?」
「いや怒っちゃいない。他に気に病むことがあるんだよ。めんどくさいの」
「そう。じゃ、私の無遠慮ってなによ」
 細かい発言も見逃さない幼馴染である。追いすがる咲の語気は強い。
 そこで初めて気がついたが、咲はどうやら頭に来ているようだ。
 もともとぼくの苛立ちを彼女に当てつけたのが発端であるが、相手が怒ったとなると張本人であるぼくの思考は急激に冷える。
 失言だった。ひとにはもっと寛容でなければと思っていても、少し余裕がなくなるとすぐにこうなる。相手をいら立たせたり、傷つけたりする。
 ――ヒラキにとっても、それは同じではないのか。
 ヒラキももしかしたら、教室でのあれは、本当に触れてほしくなかった過去話なのかもしれない。
 聞き流す技術の未修得。思いやりがないのはこのぼくだ。まだまだ子供である。ガキである。
 ヒラキに会えたら、開口一番謝るべきであろう。
「悪かった。ごめん」
 まずは咲からだ。言い訳など一切せずに謝って謝り倒してしまえ。
 だが、そこでぼくはまた失敗をした。
 咲は早足で歩くぼくを追い越し、ぼくの正面に向かい合って立ち止まると、自ら立ちはだかってぼくの足を止めた。
「なんで背中越しに言うわけ?」
 咲は口をへの字に曲げて、眉根を寄せていた。大きな瞳が上目遣いに睨み上げている。
 ぼくは再度「ごめん」と呟いた。二度目のごめんは効き目が薄い。
 膨れて睨みをきかせる幼馴染。
 どうすべきかしばし逡巡、やがて頭上の豆電球が点灯した。
「今度さ、鯛焼き奢るから」
 駅前に店を構える老舗屋台の鯛焼き屋は、ここらの地域では昔からウマイと評判なのだ。地元住民に鯛焼きと言うと、大抵はその店のものを想像してしまうほど。
「だったら許す!」
 親指を立てる幼馴染はすっかりにこやかである。

 せっかくだから咲も連れて目的地へ向かう。渡り廊下を歩いて、第二校舎へ。
 第二校舎は新校舎が出来るまで主として使われていた以前までの教室棟である。五、六年前からは全ての学級は新校舎に移り、現在では主に文化部や同好会の活動拠点として使用されている。
 つまりは学校側も持て余しているというわけだ。今となってはあくまで場繋ぎの案だった文化部利用が評判を呼び、地域一多種多様な課外活動が行われている高校として、教育関係者の間で有名になっていたりする。
 そういう説明はあまり関係ないのでその辺りで止めておく。
「久々来たなあ。怪しげな看板もあるねえ。えー、オカルト研究会。漫画研究会、活動漫画研究会。……」
 咲は興味津々であった。
「こら、窓ガラスを覗くんじゃない。中に人がいたらどうすんだ」
 ぼくに言われて窓から離れた咲は、漫研の入り口脇に備えられたコピー紙の活動報告を手に取り、目を通しつつ歩き始める。
「ねえ、第二校舎に来て、一体何の用なの? ケンちゃん」
「そういや言ってなかったか」
「うん」
「人探しだよ」
「ふうん、友だち?」
「まあ、そうなるかな」
 漫研のフライヤーを折りたたんで上着のポケットに収めると、咲の声音は少しだけ明るくなって聞こえた。
「私の知ってる人? 一緒についていってもいいの?」
「いいんじゃない? 遠慮はいらんだろ」
「どんな人だろ。いい男だったらあたし、ときめいちゃうかも」
 咲はニヤニヤ笑いながらぼくを肘で小突いてくる。こういうところがいちいち鬱陶しい。
 ぼくはため息混じりに答えた。
「心配しなくても、そいつは女だよ」
 そこまで歩きながら話して、急に咲が足を止める。
 また新入部員歓迎のフライヤーでも手に取ってるんだろうかと振り返ったら、違った。
 咲はぼくの不審そうな視線に気付くと、早足でぼくの後を追ってきた。
「ちょ、ちょっと興味あるわねえ、それ。是非ともご一緒させてもらおうじゃないの」
「勝手にしていいよ。そう言ってるだろ」
 それから咲は手首と指先の柔軟運動でコキコキ音を立て、首を左右に倒し、しきりに深く息を吐き、まるで格闘家の試合前みたいにせわしなく身震いした。
「さっきからなんだ、挙動不審な奴」
「うるさいっ」



 屋上へと続く階段を上りきり、その扉の前で立ち止まる。
 この扉はドアノブの鍵が破壊されていて、代わりに新しくかんぬきが設置されている。鍵はもちろん職員室で管理されているが、誰かが作った合鍵が、踊り場の隅にある枯れた植木鉢の水受けに置いてある。それが開錠されていることからも、この先に誰か人がいることは自明だった。
 恐らくはヒラキで間違いないだろう。ヒラキはこの場所がお気に入りで、一服ついでによく一人で街並みを見下ろしに来る。
 ぼくも何度か彼女に連れられてここに来たことがある。合鍵は無造作に放置されているというのに、いつ来たってヒラキとぼく以外には人影の見当たらない、不思議な隠れ場所でもあった。
 咲はぼくの背後でシャドーボクシングをやっていた。この向こうでヒラキは煙草を吸っているだろうことについて、ひとこと言い置いておこうかと思ったけど、やめた。
 ドアノブに手を掛けると、薄暗いじめじめした踊り場に、乾いた熱気と眩しすぎる陽光が差し込んできた。
 屋外の光の奔流に目を細めると、やがて視界に二人ぶんの生徒の影が入る。お互い向かい合って話しているようだ。
 スカートを穿いているから二人とも女子生徒だ。ひとりは言うまでもなくヒラキ。
 そして誰だろう、もうひとりは、――
「え、羽山さん? ……」

「ケンジくん」
 驚くなかれ、ほとんど想うばかりで、これまで口を利いたことなど二度三度もなかった羽山さんは、なんとぼくのことを下の名前で呼ぶのだ。
「いまね、平木と話してたんだけど。バイク乗ってたんだ」
 可憐である。鈴の音のように耳に優しい声、表情に浮かべた微笑は親しげで、日光に照り映える黒髪が艶めいて麗しい。
 そんな彼女に声をかけられる幸福! なにものに例えられようか。いや、例えられるべくもない。
 ぼくの思考は感動と恍惚に打ちひしがれ、ほとんどその機能を失っていた。
 だから鸚鵡返しに彼女の言葉を繰り返すばかりである。
「あ、乗ってたんです」
 ところで屋上という場所は、四六時中風の吹き荒れる過酷な場所でもある。時折吹く強風に髪をすくい上げ、はためくスカートの裾を押さえたりする羽山さんのまたいじらしいこと!
 もう少しばかり強い風が吹いてもらうとなお良いのだが。
「おい、デレデレするな、色ボケ」
 反してとげとげしい声。ぼくは花の夢から意識をグイと引き戻されてしまう。
 咥え煙草に苦みばしった顔をするこの女、いかにもカタギではない。気弱な本校教師陣が気後れするのも頷ける貫禄である。
「何しに来た」
「何しにとはなんだ。クラスメイトからお前の機嫌取りを命ぜられたんだ。ヒラキさんが機嫌悪かったら授業の進行の妨げになるんだから、どうにかしなさいよ、って。お前も迷惑な奴だ、――」
 あ。
「へえ、いい度胸だな。誰のせいで私が腹を立ててるのか、わかってものを言ってるんだろうな」
 またやってしまった。
 ヒラキに会ったら真っ先に謝ろうと思っていたはずなのにこれだ。喧嘩腰で突っかかってどうするんだ。アホか。我ながら呆れる。
「まあまあ」
 睨み合うぼくとヒラキの間に割って入ったのは羽山さんである。
「平木もそんなにツンツンしないで。ケンジくんも、ね。広い心でお互いを受け入れましょう」
 なんだか隣人愛を説く宣教師のような台詞だが、お互い羽山さんには頭が上がらないらしく、ヒラキはぼくを睨みつけていた眼を脇へ逸らした。
 ぼくはというと、一度噛み付いた手前、そうそう手のひらを返してごめんなさいと言うのも、誠意の欠片もない男だと思われやしないかと中々言い出せないでいる。
 羽山さんが仲裁に入ってくれたのはありがたいが、こう着状態は依然継続中である。
「もう、素直じゃないんだから。……」
 羽山さんは綺麗な眉をへの字に曲げて、誰にでもなく呟いた。

「あの、ちょっといいでしょうか」
 誰かの声がする。視界に入らないがどこだろう。
「え、誰?」
「後ろだ、後ろっ! このボケっ」
 背中を小突かれて彼女の存在を思い出した。
「ああ。咲か、まだいたのか」
「ふざけんなっ」
 それはあんまりよ、と苦笑いする羽山さん。
 視線が咲に集中し、この場の全員がその次の言葉を待つ。
「すいません。あの、お二方、ウチのケンちゃんとはどういった関係で? ……その、なんというか」
「あのな、どうもこうもないんだけど?」
「だって、あんたこんなひと気のない屋上で、それにひとりは、……煙草吸ってるし」
 あ、やっぱり咲はそういうの気にするんだな。幼馴染は根がいい子ちゃんなのである。
 最後はぼくだけに分かるような小声だったつもりらしいが、あいにくヒラキは地獄耳らしく、彼女は鼻を鳴らして背を向けた。
 ――ああ、尚更へそ曲げちゃったんじゃないだろうな。
 再び状況が悪化の一途を辿ろうとしている。
 咲なんか連れてきたのは間違いだったとちらと考えたとき、そこで唐突に羽山さんは両手の平をぱちんと合わせた。
「わかったっ」
 ――なにが? そう聞き返す代わりに皆で視線を彼女に送った。
「その子、ケンジくんの彼女さんね?」
 ぼくはずっこけて、
 咲は変な声を上げて、
 少し離れてヒラキが大きくむせ込んだ。
「はあっ? まさか!」
「あ、あぅ……」
「げほごほっ。……ほんとかっ、それ!」
 あははうふふなーるほど、と笑っているのは羽山さんだけだった。
「えと。……そ、そうなの?」
 と俯きがちにぼくの表情を覗く幼馴染、
 ――何故に頬を染めとるのだ。



 それからヒラキと羽山さんに咲の紹介をした。そうしないと収拾がつかなくなってしまったのだ。
 これは小さい頃からの幼馴染の宮原咲です、なんてアホらしくて仕方なかったが、しょうがない。
「へえ、なるほどね」
 なにがなるほどなんだヒラキよ。
「ほうほう、そういうことね」
 なにを納得してるんですか羽山さん。
「どうでもいいけど、あまり賑やかにして生徒会にでも見つかったら面倒だ。静かにしてくれよ」
 ヒラキは言いながら、短くなったマイルドセブンを雨染みだらけのコンクリートに押し付けて火を消すと、――思わず笑ってしまったのだが、携帯灰皿を取り出してその中に吸殻を仕舞った。
「なんだよ。こんなトコに吸殻ポイ捨てすると、後々どうなるか考えりゃわかんだろ」
 それにしても携帯灰皿とは。なんだか普段の荒々しさが霞んで見える。
 バレたら面倒だからな。なんて言うヒラキだが、彼女は未成年で喫煙常習者のくせ、ポイ捨てなどのマナーにはもともとうるさいのだった。
 今までだって風下を選んで立ち、煙の行く末に気を配っていた。本当は悪ぶって本音を隠そうとする捻くれ者なのだ。
「お前さ、なんで煙草なんか吸いだしたんだよ」
 何気ない一言だった。でも彼女は取り合ってくれなかった。
「どうでもいいだろ。――それより、結局あんたらはなにしに来たんだっけ?」
 風が穏やかにそよぎ、ぼくもヒラキもお互い敵対心がリセットされたみたいな気分だったんだろう。
「ごめん」は自然と口をついた。
「謝りにきた。面白がっていらんこと言って悪かった。もう聞かない」
「……いいよ、もう。昔の話だし。それに大体あんたの想像通りで合ってるんだ。本当のことを言われて少し、私も、なんて言うかな。――とにかく、暴れて悪かったよ」
「あらあら。何の話をしてるのかな?」
「お、お前らっ、怪しいぞ!」
 羽山さんと咲はいつの間にか二人並んで、仲良く野次馬を演じていた。その通りこれはぼくとヒラキにしか通じない会話であった。
 勿論こと細かに説明する気なんてない。
 仲直りと言ったらいいものか、そもそも喧嘩をした憶えもないのだが。今となってはお互いがごめんと謝っているのがばかばかしくも思う。
「あ、そうだ。ケン坊、耐久イベントの話だけど」
 ケン坊と呼ばれたのには少し面食らった。今までヒラキからは『お前』か『あんた』としか呼ばれたことがなかったのだ。
「ケン坊ですって?」
 過敏な反応を見せたのは咲だった。ぼくはそれをおくびにも出さずに黙っていたというのに。
「あ、あなたねえっ、馴れ馴れしいわよ。一体誰の許可を取ってそんな呼び方をしてるのよッ」
 誰彼構わずぼくの保護者気取りの幼馴染には、この通りいつも苦労させられるのだ。
 羽山さんは上品に口許を押さえ、
「あらあら、まあまあ」
 一方ヒラキのぼくを見据える視線がじっとりと痛い。
 ――すいませんねこういう奴なんですよ。
「あのね、めんどくさい奴だなお前も。呼び方がどうしたってんだよ。なんだっていいだろそんなもん」
「だって。それにタイキューイベントってなによ。二人でどっか遊びに行くのね? 私を置いてっ!」
「バイク乗りに行くんだよバカッ。お前誘っても仕方ねえだろうが」
「バカって言うな!」
 なんで涙目なんだよ面倒だなもう。
 ヒラキは完璧にうんざりした様子で、もともと険のある顔をさらに難しくし、大きな溜息を吐いた。
「あー、中野健二君。きみの連れ合いが鬱陶しくてしょうがないから、詳細は追って知らせることにする。ケータイ教えてたよな、確か」
「え。――ああ、うん」
 それじゃあ、と手を上げてヒラキはぼくらの横を通り過ぎた。
 そして一度も振り返らずにぼくらの前から去る。
 咲はというと、じっと親の仇を見るような眼でヒラキの背中を睨みつけていた。
「ケンジくん」
 可憐な声に振り返ると、予想以上に近い距離に羽山さんの顔があって、ぼくは思わず後ずさりした。
「な、なに?」
 彼女は満面にこにこして、それと対照的にぶすくれた咲の肩に手を回した。
「後は私におまかせあれっ」
 そして高らかに宣言すると咲を促し、二人は連れ立って屋内への扉の向こうに消えてゆくのでした。
 そのとき何度もぼくの方を振り返る咲の姿は、まるで女衒の手で引き離される娘と父親にも見えなくもないような、そんな哀愁が漂ったり、漂わなかったり。
「なんなんだ。……いったい」



 初めは着慣れなかったゴテゴテした装備一式も、何度か袖を通せばすっかり皮膚の一部のように感じられた。その表面に神経が通ってしまったんじゃないかというほど、ぼくの体に完璧に順応してくれていた。
 ヒラキの言う通り、専用設計品は使えばわかる。操作性の向上はもとより、守られているという安心感から、スピードに対する恐怖心もいくらか薄れる。
 いやあ、いいもんだなあ。高価なだけはある。
 まあ、少し蒸し暑いけど。
 
 ぼくとヒラキは夜の峠の駐車場にあぐらを掻いていた。
 ヘルメットを傍らに置いて、派手なデザインのレーシングスーツをまとった二人組の姿は、さながら深夜にヒーローショーを演じる奇妙な好事家である。
 辺りは夜鳥の鳴く声が途切れ途切れに聞こえるくらいの静けさである。
「お前、羽山さんと仲良かったんだな」
「まあね、中学一年からの付き合いだよ」
「全然共通項が見えないんだけど?」
 強いて言えば性別くらいのものだ。
 いや、下手をすればそれも怪しい。ヒラキの場合、実は女装好きの男子生徒でしたと言われたら信じてしまいかねない。
「よく言われるよ」
 ヒラキは一つ息を吐いた。暗闇に煙草の火が赤く浮かんでいる。
「かたや学年一の美少女だもんなあ。それに比べりゃ私は乱暴だしがさつだし、女らしいところなんて一つもない」
 おや、てっきりいつもの調子で反論されるだろうと思っていたのに。
「おいおい、しおらしいじゃないか。らしくないぜ」
「らしくないか、そうか」
 ヒラキはなんだか寂しそうに笑った。月夜に乾いた笑顔が浮かぶ。
「あんたもああいう、女の子女の子した、可愛らしいのが好みなんだろ?」
「おい、お前熱でもあるんじゃないのか。一体どうしたってんだ」
 ほとんどヒラキは自虐的な口振りだった。悪く言うと僻みにも聞こえるくらい。
「べつに? どうもしないさ。自分の性別を久し振りに思い出しただけ」
 ヒラキは煙草の火をアスファルトに押し付けて消してしまうと、一度大きな欠伸をした。
 そして目に浮かんだ涙の粒を猫の手で拭いながら教えてくれた。
「私が煙草を吸い始めたのは、全くアホらしい事だけど、失恋が原因なんだ」
 夜に沈んだ黒々した木々も、彼女の話に聞き耳を立てているようだった。もちろんぼくも。
「ん、笑わないんだな」
「バカ。笑えないんだよ」
「そうか。――それで、それをきっかけにサーキットから足が遠のいて、ようするに当時バイク友達だった好きな男の子を取り逃がしちゃってね。初めての煙草は親父の買い置きでした」
 今夜のヒラキは瞳の奥が透き通って見える。月の光に延びる影がどこまでも濃い。
「鼻を明かしてやりたい奴、ってのもそいつ。――私の、あんまり大っぴらにしたくない記憶だね」
 彼女も彼女なりの半生を、色んな波にもまれて送って来たのだと思うと、失恋の一つも知らぬ自分がなんだかひどく子供に見えてくる。
「よっし、この話はもう終わり」
 彼女は膝を打って立ち上がり、閑たる静けさにひと蹴りキックスターターで快音を放つと、ぼくに帰宅の旨を告げた。
「あ、そうだ」
 ヒラキがヘルメット越しにくぐもった声で付け足すことには、
「私と周子の共通点。あいつもバイクが好きなんだ、観戦専門だけどね。と言うわけで来月のイベントは周子も同伴だからな」
 よかったなあケン坊。と言い置くと、ぼくを取り残して夜の峠を下っていった。
 すごい速さで遠ざかるテールライト。

     

 恋する乙女を気取っているわけでもないけれど、鏡の前で可愛らしい自分を演出する上手な方法を練習することに慣れていない私は、小さい頃から同じ場所で遊んでいた男友達のことを、結局そういう事態に陥るまで只の友達としてしか見ていなかったし、私からその場所を遠ざけるきっかけとなった親友に対しても、にこやかな表情と共に語られるノロケ話に水を差すような態度なんか、今まで一度だって取ったことはなかった。
 私はいつだって鈍感で、もういっそ男を好きになんかならずに、一生をただ一人で勝手気ままに生きていくんだ、なんて。昼休みに屋上で風に吹かれながら、度々そんなことを考えてたりしてた。

 ○

 ケン坊の幼馴染らしい宮原咲という女子生徒が私のクラスへ来て、何の用かと思ったら自分もサーキットに連れて行けと言う。私とケン坊が参加する二時間耐久の草レースイベントに。
 ケン坊は彼女について「バイクのことを何も知らない」と言っていたが、今まで関心が無かったような場所にまでついて行きたがるとは。
 もし私が男だったなら、彼女もここまで意固地になって、口をへの字に結んだついでに頬をほんのり赤らめてまで私に頭を下げに来ることもなかったんだろう。
 仮にも頼みごとがあるんなら、しっかり相手の目を見て言うべきなんじゃないだろうか。返事をすると彼女はぱっと顔色を明るくして「ありがとう」と言った。
「ねえ、平木さん」と続ける。
「なに?」
「その、平木さんは、ケンちゃんのこと。……」
 やめてくれ。もじもじしながら頬を染めながら、恋する乙女を気取ってこの私に誘導尋問をしようなんて、勘弁してくれ。
 あたしはそういうのは苦手なんだ。
「どうとも思ってやしないよ。あんなヘタレのどこに惚れたか知らないけど、あんたも今どき押しの弱い女だね」
 表情の固まった咲は首の付け根から徐々に肌色を紅くしてゆき、表情いっぱいを染め上げたところで我に返り「余計なお世話よっ」と一言言い残すと肩を怒らせて廊下を向こうに歩いていった。

 ○

 真昼の屋上はすでに夏の予感を漂わせており、少しばかり陽気が過ぎる日差しはもはや快適とは言いがたい。日陰をつくる壁面に逃げのびてうな垂れる私には、細く煙を伸ばす指先の煙草の熱すら鬱陶しく感じた。
 羽山周子はそんな私を見て、そんなに不味そうに不健康な煙を吸うくらいなら止めた方がいい、そんな風なことを投げやりに言った。
 彼女はここ数日俄かに夏めいた陽気に少々気を弱くしており、普段の快活な性格が少しばかり翳っていた。髪をポニーテイルにまとめ上げ、細く白いうなじに束になった襟足が張り付いていた。
 咲ちゃんって面白い子よね、なんて言って笑った。
「咲といつの間に仲良くなったんだよ」
「いつだっていいじゃない」
「あいつから見ればあんたは恋敵だろう」
「あら、よく知ってるわね」
「なにが」
「咲ちゃんがケンジ君のこと好きだってこと。それにケンジ君が私のこと好きだってこと」
「見てりゃわかるよ。……自分で言うとはすごいねあんたも」
 だってそうじゃないと言ってブラウスの胸元に風を扇ぎ入れる。暑いわね。
 私に友達が少ないのには特別な理由はない。ほとんど自分から喋らないからだ。そんなもんだから友達どころか知り合いすら少ない。
 周子と話すようになったのも彼女のほうから私に話しかけてきたからだし、どういう経緯でその世界を知ったのか知らないが彼女はバイクのレースに興味があるらしく、共通の話題がふたりの間にあったからだ。
 出会ったときから自分とはまるで異質の女の子らしい彼女は、出会ったときからその胸に理想の恋愛観を携えていた。曰く、レースで優勝して表彰台に上がり、沢山の拍手と紙吹雪の中でトロフィーを掲げる彼の頬にキスしてあげるの。
 その後、サーキットで私のバイク友達に一目惚れした周子は、間もなく自身の理想を実現せしめた。
 何年も一緒に競い合った仲は、私の無意識のところではそれ以上にずっと大事なものに変化していたらしい。私以外の女のものになった彼は既に遠くに感じられた。
 私はなんだか馬鹿らしくなってバイクに乗るのも楽しいと思わなくなった。それでも結局今もバイクに乗っている。乗ってる間はその男の顔か、周子の顔かしか思い浮かばないっていうのに。だから自分はバカなんだろうと思う。
 いつも鈍感なバカ。
「……ばか」
「え?」
「――なんでもない」
「そう」
 日差しは堪らないくらい暑い。吹きさらしの風だけは涼しげだ。夏の一歩手前。エアコン無しのコンサートホールで蝉が羽化するのを待っているような春の終わり。
「平木は我慢のしすぎなんだよ」
 うずくまった私のうなじに降って来る言葉に震え、煙草の灰がコンクリートの地面に落ちた。
 私は顔を上げなかった。どんな表情で周子がそんなことを言ったのか確かめたくなかったからだ。こめかみに悪い虫がのたくりまわって、息を止めてそれを飲み込もうとしたら笑いがこみ上げてきた。
「なに、笑って」
「いや、周子さん。そういや私はケン坊にあるドッキリを仕掛けてるんだ。仕掛けてるというかあんたも共犯になるんだが。あんたさ、きちんとあいつを振っておかなくていいのかい」
「告白も何もされてないんだから、振りようがないじゃない」
「だったらいつも通りバカップルを見せつけてやれよ。あいつの失恋の瞬間の表情が楽しみなんだ、私は」
「残念だけど」
「なに?」
「私のことは咲ちゃんにちゃんと説明済みですから。彼女の口を通じてケンジ君にも話が行くはずよ」
「ばかめ、裏は取ってある。咲は既にこっち側の人間だよ。あいつもケン坊のがっくりするところを見たがってる」
「なによそれ。……私が気まずいじゃない」
「だったら当日来なくたって良いんだぞ」
「それは嫌。デートだもん。むしろ私たちの邪魔しないでよっ」
「のろけだしやがったよ。その調子で本番も頼むよ」

 恋する女は輝くと言うが、周子や咲がいわゆるそれであろう。私には眩しくて見ていられない。



 日差しがゴムの臭いを立ち上らせ、排煙が鼻を突いて喉をひりひりと痛ませる。耳を突く甲高い音があちこちで起こり、汗が滲む肌に焼けたオイルの粒子が纏わりつき、薄い膜を張る。戦化粧が全身に浮かび上がるようだった。
『受付を済ませていない耐久レース参加者の方はお早めに受付をお願いします。車検も同時に行っております混み合いますのでこちらもお早めにお願いします。受付と車検が前後しても構いませんので円滑なプログラム進行に御協力くださあい』
 拡声器を持って何故か法被を羽織った係員が強い日差しを受けながら渋い顔でかれた声を叫んでいる。
 目の前を横切る背を屈めた軍手をしたおじさんがラメの入った目立つ塗装が施された十二インチレプリカを押している。いや、もはやレプリカとは言うまい。完璧なレーサーである。
 首の後ろがぞくぞくと神経を震わせた。ほんの少し前までの記憶が甦る。指先から変な痛みが伝わってくると思ったらかざした目の前で小刻みに震えていた。握力の限り握り締めると爪の先が白くなった。その手を広げて隣で間抜けな顔を晒しているケン坊の背中を張った。
「ぼうっとするな。私たちは喧嘩をしに来たんだ」
 おう、おう。オットセイのしゃっくりみたいな返事をする頼りない相棒。その視線はふらふらと定まらず、誰かを探していた。再び彼の体が揺れる。幼馴染が私を真似して背をはたいたのだ。私の時よりもずっと優しく。
「そうよ。ケンちゃん、いいトコ見せてよね。あたしはそれを見に来たんだから。ケンちゃんが先頭を走ってくれなきゃこの場所に私の楽しみは一つもないんだから」
 ああ、そうね。ケン坊はまだ寝ぼけているのかうわ言のように生返事をするだけだ。相変わらず首だけキョロキョロ動かして周囲を窺っている。
 ケン坊は行きの車内でずっと腕を組んで黙っていた。待ち合わせ場所に周子の姿がなく、代わりに宮原咲が手を振って待っていたことに呆然とした彼は、まず私に問い詰めた。
「羽山さんはこないのか」
 私が彼女は別働隊だ、ちゃんと言っておいただろうと言うと聞いていないと言ってその後はむっつりして、車内ではやけに静かだと思っていたら寝息を立てていてそのまま到着まで一度も目を覚まさなかった。私はルームミラーに少しだけ映る彼の寝顔を見て惨めなやつだと腹の中で笑っていた。
 そしてようやく目を覚ましたコイツは待ちきれない様子で周子の姿を探しているというわけだ。バカなやつめ。周子が周囲を顧みず公然わいせつと言ってもいいほどいちゃいちゃ乳繰り合うバカップルだと知らずに恋する片思い少年の顔をしていやがる。ばかなやつだ。いや、公然わいせつは言い過ぎた。
 とにかくケン坊はあと数十秒もしないうちに周子には男がいて自分が入り込む隙など一枚の紙ほどもないのだと思い知ることになる。恋愛ごっこをしに来たつもりで浮かれているとそういう目に遭うんだ覚えておけ。
 周子と圭二はケン坊より私が先に見つけた。圭二とは私の『元』バイク友達で周子と中学半ばから付き合っている男の名前だ。私とはほとんど幼稚園児の頃からの付き合いだったが幼稚園や小学校や中学校で一緒に学んだことはない。私が親父に河川敷やサーキットに連れられていった時だけそこに居て、その場所だけでの遊び仲間だった。もう過去形で語るべき関係になった。中背の痩せぎすな男で短い髪を赤く染めている。目つきが鋭く薄い唇は笑うと横に広く伸びる。笑顔はそれなりに好感がもてる奴だった。耳には小さな銀色のピアスが刺さっている。
「おい、ケン坊。後ろ見てみろ。周子がいるぞ」
 囁くとケン坊は跳ねるようにして上半身を捻らせる。私は同時にかの二人を大きな声で呼んだ。
 周子は軽く手を振ってこっちに歩いてくる。立ち上がるときに自分の連れ合いを引き起こした。圭二はなんだか当惑した様子でこっちを見たり周子を見たりしている。
 足早に近付いてきたのは圭二の方だった。私の前で立ち止まり、目を見開いてでかい声で笑う。
「うわあ、マジかよっ。巡っ! 久し振りだな、一体どうしたんだよ」
 周子は薄く笑顔を作って「おっす」と一言呟いただけだ。
「どうもしない。なんとなく来ただけだよ。お前、相変わらずちゃらちゃらしてるな」
「三年ぶりだぜ。もっと嬉しい顔しろよお前さあ」
「お断りだね。そんなことよりも、今日がサーキット初走行の少年を連れてきたんだ。まあ、お手柔らかに頼むよ」
 さあ、ここだ。ケン坊の恋よさようなら。
「へえ、名前、は――」
 と、そこで圭二は固まった。継ぐ言葉を失っただけではなく間抜けに口を半開きにしたまま表情も失っていた。
 周子がいぶかしんで圭二の袖を引いた。
「ケージ君?」
「おい、どうしたんだよ」
 圭二の視線の先のケン坊を窺うと彼も同じような顔をしていた。眉根が寄っていた。彼は喉を一回動かして苦しそうなかすれ声を出した。
「……こんなところで会うとはなあ」
 そして圭二は乞食でも見るような目をして苦々しく吐き捨てる。
「同感だ。おあつらえに宮原まで連れてくるとはね」
 睨み合った二人は二人だけに通じる言葉で喋る。私も周子もなにがなんだかわからない。
 咲を見ると口を結んで俯いてしまった。何だこの三人。なにかが彼らを結び付けているっていうのか。私にはどうしてもそれが見えなかった。見ようとして見えるものではない。その上その糸に触れると心臓に繋がった血管がずるずると引っ張り出されてしまうほどの痛みが彼らのうちの誰かが味わう羽目になるのだろう。この場の誰もいい顔をしていないからだ。三人は勿論、私も、周子も。
 どうやら私は禁忌の縁を再び結び付けてしまったらしい。
「お前ら、知り合いだったのか。……もっと、早く言えよ」



 人のいじけているところを見るのは苦手だ。それを慰めたり励ましたりする役目なんてのもまっぴらだ。好きに落ち込むがいい、そして勝手に立ち直るがいい。どうせ私の言葉には他人を奮い立たせるような成分は含まれていない。バファリンの半分は優しさでできているらしいけど私の言葉の半分はとげとげしさで出来ているらしい。そんな陰口をわざわざ告げ口してくれるバカヤロウもいた。それを聞く以前も以後も変わらず私は落ち込む人に声を掛けない。誰かの優しい言葉を待っているように見えて腹が立つからだ。どうせなら誰もいない場所でため息を吐け。迷惑だ。
 まあ、レースの相棒が戦意喪失となってはさすがに放置するわけにもいかないから、今回は例外。

 ケン坊はチェアに腰掛けて死人のような顔を足元に落としていた。咲は私の隣で棒立ちになってばつの悪い表情を彼に向けている。なんだよお前らは揃いも揃って根暗な奴らだ、と威勢よく声を出すことが出来れば話は早かろうがどうもそういう空気ではない。ケン坊は浅く長く病人のような呼吸で色素を薄くしていくばかりで、陰気に中てられてうんざりしているのはむしろこっちのほうだった。
「おい、早いとこツナギに着替えてくれ。もうすぐ練習走行が始まるぞ。時間がない」
 視界の端から咲の視線が突き刺さってくるが無視した。
「あんたらの間に何があったか知らないけど、何しにここに来たかを思い出してくれよ」
「平木さんっ」
 咲が袖を引く。軽く腕を揺すると簡単に離れた。
「それとも忘れたって言うなら別だけどね。あんたが望むなら、それでもいい」
 うな垂れたケン坊は頭を掻いてぼそぼそと呟く。
「お前さあ、なんの罰ゲームだよこれ」
「なんのことだ。なにか不都合でも起きたのか」
 ケン坊の周子への恋愛感情について、私はしらを切り通すことに決めた。もともとケン坊の口からは何も聞いていないのだ。義理立てするいわれはない。
 案の定、ケン坊は裏切り者を見るような目で私を睨みつけたが、正面きって睨み返す。
 根負けしたのはケン坊のほう。
「ま、それでこそヒラキさんらしいや」
 嫌味ったらしい皮肉を言って目を逸らす。嬉しくもなんともない個性の尊重である。
 しばらく誰も口をきかなかった。他のレース参加者たちが慌しく準備をしている音、声が鼓膜に張り付く。
「あ、あのさ。あたし喉渇いちゃったなあ。平木さんジュース買いに行こう! あそこの自販機までっ!」
 咲のわざとらしく明るい声が上がった。

 半ば腕を引っ張られるようにして咲の後を追った。歩くところまで歩くと立ち止まって咲は腕を組んで唸った。数学の授業中に難しい数式を与えられたような表情で顔をしかめている。目の前に並んだ自販機たちが一斉に低い音を立てる。
『練習走行は各チーム必ず最低二回は周回してください、同時に発信機とゼッケン番号の整合をとります。練習走行に参加できなかった場合周回数が記録されませんのでレースに参加できなくなる場合があります』
 高い所からアナウンスが流れ進行を急かす。私は咲の言葉を待っていたが、待ちきれなかった。なにしろ時間がない。
「あいつ、どうにかならないのか」
 正直なところ、ケン坊が根性なしをこじらせてレースに出ないと言うならそれでも構わなかった。それは本人に言ったとおりだった。その際は一人で走るのも気が引けるからさっさと帰り支度に移るだけだ。もし出ようという気があるのなら、余計なことを考えてないで早いところ気持ちを切り替えてほしかった。
「むずかしいかも」
「だったら帰るぞ」
 決めてくれるなら咲の意見でも良いような気分だった。
「そんな、せっかくここまで来たのに」
「じゃああのヘタレのやる気を引っ張り出してやってくれよ。色仕掛けでも魔法でもなんでもいいから」
「ばか」
「なんだってんだよ、お前ら。圭二とどんな繋がりがあるんだよ」
「え、うん。あのね、」
「ああ、時間がないから二分以内で頼む。それ聞いたらもう一度ケン坊のところへ行く」
「うーん、難しいな。なんていうか、三角カンケイ?」
「はあ? 誰とだれが」
「だから、あたしを間において、ケンちゃんと圭二君が」
「いつの話だよ」
「小学校の、六年生? うん、圭二君は五年生のときに転校してきて、それから一年後にまた転校していったから。最後に二人は大喧嘩して、それっきり。だから何年振り? 五年振りね。顔見た瞬間そのころの記憶を全部思い出しちゃった」
「なんだそりゃ」
「いや、あたしも昔はモテモテだったのよ。圭二君もケンちゃんも、ね。うん。あのころは愛されてたなあ、あたし」
 ――ばかばかしい。口の中で呟いた。
 小学生が高学年とはいえ生意気にも恋の三角関係だと? 揃いも揃って幼稚な愛憎劇の出演者か。五年の時を経て再会、安っぽいドラマだ。
「結局曖昧なまま別れちゃったから、そういうわだかまりが残ってるのかも」
「なにが」
「え?」
「だからなにが曖昧なままなのか、って」
「その、あれよ。あたしは、その、どっちのものなのかっていう、」
 咲の声は尻すぼみに細くなっていった。何を思い出しているのか頬を赤くする。
 とても聞いていられない。くだらない。ばかげてる。
 結局そこか。他人を好きだの嫌いだの、それにどんな意味があるっていうんだ。恋愛感情なんて未成熟な精神の揺らぎに過ぎないじゃないか。ひとに支えてもらわなきゃ立てないような弱い心なんて情けないとは思わないのか。周子も咲もそれに気付いていないだけなのだ。あるいは屈折した解釈で納得しているだけなのだ。理想の中で生活しているつもりの現実逃避が恋愛の正体だ。
「あほくさ」
「なによ、そこまで言うことないじゃない。昔の話よ」
「だったら訊くけど」
 私は低い声で言って咲を見据えると、彼女が身構えるのがわかった。
「恋ってなんなんだよ」
 私の質問にしばらく咲はきょとんとしてその直後、思い出したように笑い出した。
「平木さんらしいわね」
 そう付け加えてまた笑う。腹が立った。

 頭に血が昇って体が熱を帯びている。こめかみを汗が一筋伝った。握った拳を振ってパドックに戻るとケン坊はツナギに着替えていてヘルメットを被るところだった。アイドリングするバイクを私の父が支えている。
 こちらに気付くとケン坊は手のものを下ろした。私が何か言おうとしたところを、咲の声が遮った。何を言おうとしたんだろう。ああ、そうだ。
「ケンちゃんっ」
 私を追い越した咲は彼の許へ駆け寄り、何事か心配そうな声を掛けた。
 参加費がもったいないからどうこうと受け答えするしみったれた相棒を睨み付けたまま、真っ直ぐに歩み寄った私はその腕を乱暴に引っつかみパドックの外へ連れ出した。
「なあ。ケン坊にとって恋とは、いわゆる何だ」
「何言ってんだ、こんなときに」
 追いかけてきた咲の不機嫌な視線。ケン坊は私の手を振り払ってパドックに戻った。そしてヘルメットを被るとバイクに跨り、ピットロードに流れて行った。
 膨大な熱量が髄膜を膨らませて頭蓋骨を破裂させてしまいそうだった。つまり頭が痛い。血液が脳まで昇ってそのまま溜まり続けているみたいに重い。
「なんだ、知恵熱でもこじらせたか」
 何も知らない呑気な父が私に言う。その脇腹を力の限り強く突くと妙な声を出して体を折った。これ以上私をイラつかせないでくれ馬鹿親父。



 ケン坊は十分間の練習走行から帰ってくると自分ひとりではバイクも降りられないくらい消耗していた。パドックで待ち構えていた父にバイクを預けて、ヘルメットを脱ぐと茹でたタコみたいに赤くなった顔がへらへら笑っていた。ついでに膝も笑っている。
「いや、みんな速いわ」
 なんて呑気に言う。彼がチェアに腰を落とすと咲はスポーツドリンクを差し出した。次いで手に持ったタオルで汗を拭おうとする。煙たがるケン坊。自分でやるよ。
 たくさんのバイクと人垣の向こうに圭二が周子と話している姿が見える。何を話しているかはもちろん聞き取れない。
 もし彼の隣にいるのが周子でなく私だったら、という想像は今までに何度となく繰り返した。それに耐えかねてというか、考えるのが面倒になってというか、だから私はこの場所に近づかなくなった。
 初恋は実らないというから私のそれも実らなかったことにしてしまえ。箱に詰めて蓋をして物置に放置。今になって取り出してみると腐りもせず干からびることもなく、そのときのまま全く変わらない痛みとして残っていた。こんなものは町のごみ焼却施設もリサイクルセンターも引き取ってくれないらしいから、どうしよう。処分に困る。それとも肌身離さずに一生抱えていろと仰るのかモッタイナイの神様よ。
「おい」
 父の声で振り返る。垂れた眉、心配そうな顔が見える。
「お前、やっぱり無理してないか。久しぶりなんだから具合が悪いなら、」
 ケン坊と咲の二人に背を向けて小声で話す父の声はヘルメットを被ると聞こえなくなった。シートに跨るとエンジンの振動が私の体の芯を震わせた。
 体に染み付いた飽きることのない恍惚が人格を切り替える。体の自由が第二の自分に取って代わられるその直前、私はようやく自分の弱さを認めることができた。弱い弱い。貧弱、貧弱。私は自分の足で立つことさえ不安がるような奴なのだ。ばぶばぶ。
 バイクに乗ることで全部を忘れたつもりになっていたんだなあ。コース上の点と点をアクセルとブレーキで繋ぐ作業。制限時間までひたすら繰り返される精密動作。なにしろ集中しなきゃならないから他のことを考える余裕がなかったのだ。バイクを降りるとすぐ思い出す。音を立ててきしむ脆弱な精神が自分のものだとは思いたくないからまたコースに出る。私は馬鹿だ。
 それでも今は乗るしかないじゃないか。だってもうすぐレースが始まるんだから。こうやって、考えるのを後回しにしてきた。

 ピットロードから坂を下り、コースイン。軽く流す程度にコースを半周した後グリッドに並ぶ。指定された場所に着くとコントロールラインにパネルを持った係員が立っている。『各車両エンジン停止』と掲げている。
 徐々に静かになってゆく小サーキット。干上がったプールの底。パドックは大人の身長ほど高い場所に位置する。フェンスにはピットクルー、その他見物客。咲がいる。ケン坊がいる。周子も見つけた。圭二は私の斜め前、私と同じ高さでバイクに跨っている。
 俄かに騒音が耳に飛び込んでくる。見渡すと各ライダーがエンジンの調子を確かめるようにアクセルを煽っていた。係員の掲示が変わっている。『エンジン始動』。周囲に倣う。この日のために車庫の奥から引っ張り出したサーキット専用車両は三年前と変わらない好調さを教えてくれているのか、彼の言語で叫び声を上げる。なんと言っているのかはわからないけど。
 不思議な気分だった。久しぶりだからだろうか。勝つ気がまるでないからだろうか。こんな調子でレースなんかやったら怪我をするかもしれない。弱い私が弱い私のままバイクに跨っている。
 係の掲示がまた変わる。『スタート一分前』。
 頭を振って気を取り直す。いつもは自動的だったのに。もう一人の私はどこに隠れた? 好戦的で単純なあいつは? 大丈夫か、いったいどうしたんだ私は。
 無線を耳に当てた係員がパネルを脇に置いて旗を掲げる。両手で広げた日章旗が風に勢いよくはためく。じきに振り下ろされてレースが動き出すのだ。各選手の緊張が高まりそれと比例して大きくなるエンジン音。毒蜂の大群が外敵を刺し殺さんと威嚇しているような音。その群れの中で一人怖気づいているような私がいる。
 しっかりしろ、なにをびびってる。なんども繰り返してきたことじゃないか。
 なんて考えているうちに旗が振り下ろされた。周囲の景色がまとまって動いたと思ったらスタートに出遅れていた。
「くそっ」
 ヘルメットの中で毒づくと、それからは体が自然と動いた。アクセルグリップをもぎ取らんばかりに全開して、エンジンパワーを捻り出す。金属の獣が咆哮する。その叫びを全身で受け止める。
 ――なんだ、ここにいたのか。
 目の前を遠ざかってゆく大きな塊を視界にとらえる。まだいける。この位の差なら。
 体重を後輪に全て預ける。最初のコーナーはすぐに迫る。えぐる様な低速コーナー、減速中に一台追い越し、出口で競り合う二台をまとめて抜き去った。
 直後のS字でわだかまる数台を白線の外からパスし、短いバックストレートを燃料タンクにへばりついて加速するとヘアピンカーブ。急激なブレーキにタイヤが軋む。立ち上がりで一台が道を譲ってくれた。リヤタイヤはちゃんと地面についているだろうか。
 短く二度うねったような浅いカーブを過ぎると鋭角カーブが同じ咆哮に二回続く。抜けて、忙しく車体を起こした直後、今度は逆側に倒しこむ。最終カーブは小さい円が口を開けた形をしている。バンク角をゆっくり深めて冷静さを取り戻させようとする。車体を倒すタイミングを間違えた先行車を回り込んで追い越す。
 鈍足は道を開けろ。私の邪魔をするな。ホームストレートに戻るとすでに各車一列に並んでいた。先頭まで、あと何台追い抜けばいい。
 あとはこれの繰り返し。
 繰り返し。
 そうだ私は、ひたすらこれを繰り返すだけだ。加速と減速を、シフトアップシフトダウンを、不安定と安定を十二インチタイヤの上でいつまでも繰り返すのだ。



 父のピットサインが出たのを確認してピットへ戻る。三十分経ったら教えてくれるようになっていた。
「おまえ、すごいな」
「言ってる場合か、早くコースに出ろ。やばかったら戻れよ、私はいつだっていいからな」
 背中を叩いてケン坊を送り出す。私が乗っているときとは若干排気音もおとなしい。あのヘタレめ、アクセルはオンかオフだとあれほど言ったのに。思い切りのない奴。
「ほら、飲め」
 と父が差し出したスポーツドリンクをう受け取る。コース際のフェンスに立ったままそれをあおる。水分が喉から体内に吸収されてゆくような気がした。
「やけにぶっ飛ばしてたな」
「うん、でも相棒のことを忘れてた。勝とうと思っても今日は無理だったね」
「お前が周りに煙たがれるような走りをするときは、大抵めちゃくちゃに腹が立ってるとき」
 父は口を結んで私を見据える。親ってのはこういうところが細かくて嫌だ。無言でパドックに戻ると咲が迎えてくれた。
「すごいね、平木さん。全員追い抜いちゃうかと思った」
 目が爛々と輝いて、身振りを交えて幼稚園児みたいにはしゃいでいる。
「ありがと。あたしの相手よりケン坊見てやりなよ。それが目的だろ」
 ――それにあまり人と喋りたくないし、とは思っていても口には出さない。
 バイクを降りたらすぐ思い出す。棚上げしてた問題が膝の上に転がり落ちる。
 ――いや、あたしも昔はモテモテだったのよ。
 咲の言葉を思い出していた。
 あんなののどこがいいのかなあ、ってそれは僻みというものだ。
 私は、圭二にとってどういう存在だったんだろう。圭二が咲とケン坊と同級だったずっとそれ以前から私と彼とはバイクで遊んでいた。タイムを競って好きなレーサーの話をした。ただそれだけの存在だったんだろうか。
 そうなんだろうな。私もずっとそうだったし。失恋から始まった片思いだし、何も生まないのはもとよりだ。
 考えるだけ無駄、か。今日のレースみたいだな。初心者のケン坊を連れてる限りどうあがいても勝ちは見込めない。つまりはどうしようもないこと。
 圭二には周子がいて、ケン坊には咲がいる。それで終わり。それ以上はない。
 ため息交じりのあくびが甲高い排気音にかき消される。

 十分後、ケン坊が何の前触れもなくピットへ戻ってきた。
 トラブルかどうしたと父と二人で駆け寄るとヘルメットを脱いだ彼はふにゃふにゃとバイクに覆いかぶさった。
「ごめん、もう無理。暑い、背中攣る。もういっぱいいっぱい」
 父が愉快そうに笑った。
「ま、意識があるうちに戻ってきてくれてよかった」

 ヘタレを引き摺り下ろして私は再びコースへ出た。
 突然のことだったので現在の順位が何番手だとか把握しきれていなかった。後で父が出してくれたサインボードを見て大幅に順位を落としていることを知る。その次の周のピットサイン。
『気楽にやれ』
 なんだそれ。やる気のないピットクルーだよ。
 三十分経って再度ピットへ戻る。ケン坊は少しは回復しただろうか。

 予想はしていたが打ち上げられたタラみたいになった男の尻を叩きバイクに乗せてやる。
「いいか、頭で考えなくていい。手首と指先だけ動かして道の真ん中走ってりゃ、あんたはそれでいい」
 うろんな表情でゆっくり何度も頷くヘタレ。送り出したあと父が呟いた。
「健二君大丈夫かね」
「そうでなきゃ困る」
 はたから見て想像するよりもライダーの消耗は大きい。ケン坊の走る姿は決して速いとはいえないが、見た目だけはそれなりに走っていた。
 咲はコース際で胸の前に手を合わせ、心配そうな表情をコースに向けている。近づいて横に並んでも視線はずっと彼をとらえたままで、きっと彼女の頭の中は彼のことでいっぱいなのだろう。余り深刻な顔をしているのも気になって声を掛けた。
「心配しなくたって大丈夫だよ」
「そうかな」
 咲は納得してくれなかった。
「なあ、ちょっと私の話を聞いてくれ」
 咲は私のほうを振り向く。少しめんどくさそうな顔だった。
「咲はケン坊のことを昔から好きなんだろう、それっていつからか覚えてるか」
 咲は少しの間も置かずに答える。
「うん、ずっと前から」
「だから、いつからだよ」
「そんなの覚えてないよ。家は隣同士だったし、両親が仲良くて記憶にないころから一緒に遊んでたもん」
「だったら、どうしてあいつのことをはっきり好きだって言えるんだ」
「ひとを好きになるのに理由なんか必要ないでしょ。ある日突然ああ、私はこの人のことが好きなんだってわかるのよ。わたしはたまたま、それが幼馴染のケンちゃんだったってだけ」
 ――平木さんにもあるでしょ、そういう経験。と咲は付け加えた。
「そんなのでいいのか、そんなくだらない――」
「くだらないことなんてないよ。何故だかわからないけどひとはひとを好きになるのよ。男と女はそうやって大昔から続いてきたんじゃない」
「でも、それが」
「平木さんがもし」
 と私の言葉を咲は遮った。そして続ける。
「私と同じ人を好きになったりしても、私の気持ちは変わらないのよ。私の好きな人が平木さんと付き合っちゃったりして、何年後かに結婚しちゃったりしてもその気持ちがなくなることはないと思う。本当に好きならそうだと思う。そういうときはどうしようかなあ、どんな嫌がらせをしようかなあ」
 にへへと笑う咲。一息ついて、まっすぐ私を見据える眼差しはとても優しかった。
「周子ちゃんと圭二君のこと話してるんだよね。なんとなく、わかっちゃった」
 私は息を呑んだ。体から血の気が引くような、あるいは激しく煮えたぎるような妙な感じがする。
「どうせ平木さん、告白も何もできてないんでしょう。そういう嫌がらせもありなんじゃない?」

 パドックでは父がサインボードに水性ペンを走らせていた。
「なに、もう戻すつもり?」
「いや、健二君の応援」
 ボードを返してわざわざ私に見せる。『冷たいビールが待ってるぞ!』。高校生に酒を勧めるな。
 無言で侮蔑の目線を送ると父は子供みたいな声を出してごねた。
「なんだようこれくらいいいじゃんかよう。ヒマなんだよう」
 ボード上部に私たちのチームのゼッケン番号が表示されている。とはいえこれだけ突飛な表示は他チームのライダーの目も惹いてしまうかもしれない。迷惑この上ない。だがこんな遊びさえ許容するのが草レースの懐の深さである。
「勝手にするといいよ。何も言わないから」
「ライダーはコース上で独りきりなんだぜ。こういうのがなきゃ殺伐とするばっかりだろ」
「余計なお世話じゃない?」
「お前もあとで使っていいぞ」
 ピットロードへ小走りに駆け出てゆく父の後ろ姿に「いいよ」と言いかけてあることを思いついた。
 それはあまりに馬鹿げた『嫌がらせ』だったけれど。
 想像すると笑いがこみ上げてきた。それで少しでも悩まずに済むなら、立ち止まることが苦痛ならもがくしかない。
 オトナになったとき酒の肴にでもして笑いとばしてやろう。
 と、父が大慌てで舞い戻ってきた。
「健二君戻ってくるぞ、すぐ用意しろっ」
 直後に私のチームメイトがピットに滑り込んでくる。時計を見た。
「時計で測ったみたいに正確な奴だ。きっかり十分で電池切れかい。カラータイマーでもついてんのかね」

 大急ぎで支度を済ませ、バイクに跨る。父に一つ二つ言い置く。
「わかった、健二君に伝えとく」
 終盤のコース状況は混沌としていた。既に周回遅れが頻発し、疲れきったライダーがペースを落として走っていたり、どこが先頭でどこが最後尾か、コースインしたあとはまるで分からない。なにしろ小さいサーキットなのだ。
『まだまだこれから!』to13
『速度オーバー!』to27
『あんたが大将!』to46
 父はサインボードに相変わらずでたらめなことばかり書き散らした。
 私がそう頼んだのだ。私の企みのうちの下準備だった。もちろん私の真意を父が知るわけはない。「いっそのこと他のチームも励ましてやりなよ」というと父は顔色を輝かせた。でたらめに選んだゼッケンナンバーに更にでたらめな文句を並べている。そもそも出走者数から二十台そこそこで27だとか46なんてゼッケンは誰もつけていなかった。それとも世界チャンピオンか。ちなみに13は私の番号。
 それでいい。私が戻るまでそれを続けてくれ、ボードに書かれた一つ一つのその意味を、どんどん薄くしていってくれ。……
 ある周回遅れを追い越したら見覚えある背中があった。一瞬背後を振り返ったそのライダーは圭二だった。バックストレートに入ってもアクセルを全開にしないでふらふらと走る。そこで彼は私に向かって左手の指を振った。
 次いでがばと身を伏せるとそれまでの夢遊病者のような走りを豹変させ、本気を出した猫みたいな動きでヘアピンカーブに滑り落ちてゆき、私を引き離しにかかった。
 私をからかっているのだ。
 なにやってんだ、遅くなったな。そうとでも言いたいのだろうか。馬鹿にして。
 受けて立ってやろうじゃないか。そっちが負けても言い訳は聞かんからな。
 二連の低速コーナーをベタ付けで追いすがり、最終コーナーに漂っている周回遅れを内と外から追い抜き、ホームストレートでじりじりと距離を縮める。昔から体重差のぶんだけ、私は圭二に対してアドバンテージがあった。
『インド人を右に!』to17
 ゼッケン17は圭二の番号だった。
 それでも直線の短いミニコースだ、すぐに第一コーナーが迫る。途中で角度が異なる複合コーナーの捌き方は走りなれた圭二のほうがほんの少し上手だった。
 そうだった、私はここで唯一このコーナーが苦手だった。圭二に教えを乞うたこともあった。ヘアピンで跳ね飛ばされてしたたか体を打ちつけたときもあいつが一番に駆け寄ってきた。二連の低速コーナーで接触して順位を落としたときはあとで散々文句を言いに行った。
 相変わらず速いなあ。と頭の冷静な部分がぼんやりと呟いた。
 なあ、圭二くん。私たちはこうやって小さいころから一緒に遊んでたんだ。覚えていてくれるか。私はきっと忘れることはないぞ。大人になって結婚しても、孫ができておばあさんになっても。ずっとだ。

 父が私のゼッケン番号宛てにピットインを示した。
 あらかじめ頼んでおいた通りだった。最後の十分間はケン坊に走らせるからそのつもりでよろしく、と。
 戻ると今度はケン坊の用意は整っていた。
「ようやくやる気が出た?」
「精一杯がんばります」
 ケン坊を送り出したあと、私は父が手離さないでいるサインボードを奪い取った。
「なんだよ、これからいいとこなのに」
 父はごねたが口だけの抵抗だった。水性の黒いペンを手渡してくれる。
「なんて書くの?」
 横から咲が覗き込んでくる。どうやら父のアレがツボにはまったらしい彼女は興味津々である。
「見るなよ。恥ずかしいから」
 なにそれ、と面食らう咲。ゼッケン番号の表示を入れ替え、彼女に見えないようにしてさらさらと書き上げてすぐに立った。
 向かうはピットロード。父が立っていた位置と同じ場所に立って、コース上のあるライダーを探す。
 ケン坊じゃない。私が探すのは、このメッセージを伝えたいのは、ゼッケン17番のあいつ。
 ヘアピンを立ち上がったところに圭二を見つけて、彼はすぐに低速二連を通過。そろそろか。
 よく見とけよ、最初で最後だ。もうこんなことしないからな。



 チェッカーフラッグが狂おしいほどにはためいてレースは幕を閉じた。
 全てのエンジンが停止し、運動会が終わった後みたいな達成感と疲労感がじんわりと漂う中で表彰式が執り行われている。
 一着も二着も三着も知らない男の人たちだった。観衆のまばらな拍手。シャンメリーが手渡されると一目散に逃げる。宙に弾かれる瓶の栓。ぽこん。
 楽な格好に着替えて、撤収の準備も終わりかけている。あとはこのチェアを折りたたんでしまえば、残るものは何もない。それにゆったり腰掛けて、ぼうっと表彰式を眺めていた。
 ケン坊は片付けも手伝わず、着替え終わったあとも車の後部座席から降りようとせず、あろうことかそのまま眠ってしまった。一体こいつはここに何しに来たんだろう。咲は彼の肩に頭を預けて同じく寝息を立てていた。
 父が催促する。混まないうちに出よう。ちょっと待って、もう少し。
 日が傾いて空気が湿り気を帯びてくる。低く漂う焼けたオイルの薄い臭い。耳の中で音叉がいくつも鳴り続けていて、私はまだ聴力を取り戻しきれていない。目を瞑ると暗闇が間近に迫ってくるような気配を感じる。眠りに落ちる予兆だ、と思った。
 目を開けると圭二が立っていた。
「よう」
「びっくりさせないで」
「こっちの台詞だ。なんだよ、あのサイン」
「なんのこと?」
「だから、ず、」
 言葉を遮る。
「忘れた」
 圭二は口を結んで、息を吐く。
「そうですか」
 風が吹く。周囲の木々がざわめいて、さらけ出した腕をぬるい風がなでる。
 ふと圭二の向こうに目をやると、周子が私たちに気付いて、ゆっくりと歩み寄ってくるところだった。 
「ねえ、周子のことは好き?」
 そんなことを訊くことができたのは、私が前に進もうとしているからだ。立ち止まっているのはもうやめた。
「好きになった。なっちゃった」
「そう」
 即答されたって、私の心はちっとも揺れやしないぞ。
「そりゃよかった」
「なに話してんの」
 圭二の腕に絡みつく女の腕。周子の目が私を見据える。自分の所有物を誇示するような態度。
 今でもそう見えてしまう。私の濁った思考回路。それを否定しない。全部まとめて飲み込んで全てを精神の栄養に変えてやろうと思う。
「じゃ、私たちは帰るから」
 そう言って立ち上がる。チェアを抱くようにして折りたたんで車に放り込む。
 助手席に乗り込もうとしたときに圭二が声を掛けてきた。
「健二に、また来いって伝えといてよ。もちろんおまえも」
 圭二の顔は、恐る恐る、伺いを立てるような様子で、少しだけ情けなく見えた。
 私の知らない顔だった。しばらく会ってないだけで、ずいぶんしょぼくれたように思う。
 私は彼の目にはどういう風に映っているだろう。懐かしいだけの思い出以外のものを見出していたとしたら、私の勝ちなんだけれど。
 私はできる限り明るくを装って、圭二の目だけを見て約束した。
「そうね、また遊ぼう」


 今日から禁煙しようと思った。

       

表紙

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Neetsha