Neetel Inside 文芸新都
表紙

彦一少年と蟲くだしの姫
『日比谷先輩は容赦しない』

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 本ばかり読むとても美人な先輩が居て、彼女は日比谷先輩とみんなから呼ばれている。それはとても大人っぽくて、トレードマークともいえるしっとりした黒髪は、校内じゅうの女子の羨望の的であるらしい。もちろん、それは男から見たってとても色っぽい。
 なにしろ片ときも本を手離さないひとで、姿を見たと思ったら、図書館でも中庭でも格好良く背筋を伸ばして活字を目で追っている。たまに歩きながら本を読んでいたりもする。寡黙な先輩は同級生と接するよりも本を読んでいるほうが好きらしく、常にその小さな口をぴたっと結んでいて、潤んだサクランボみたいなその唇は、せいぜい昼食のときくらいしか開くことはないのだそうだ。

 人付き合いの面だけで言うなら、日比谷先輩の評判はすこぶるよろしくない。大勢の同級生やその他教師の面々は、本の世界の想像上の人物と比べて優先順位で常に劣っている。そういう風を装って、人と喋る時間を削ってさえ、読書の時間を確保したいのが先輩の性格であるらしい。
 しかし、黙っていても評判を呼ぶのが美人の美人たる証明である。そのうえ読書家の先輩は謎めいた雰囲気を常に漂わせ、世間知らずの本の虫だと見下されることもあり、また不思議ちゃんとからかわれることもあり、あるいは極めて知的な鷹が鋭利な爪を隠しているのだと一目置かれたり、生徒たちは勝手な妄想でもって彼女の人格を捕らえた気になっていた。それで各々満足していたのだ。
 だがその実、彼女の素性を事細かに至るまで知っているほど付き合いの深い人物は、果たしてこの学校には一人もいない、というのがぼくらが結論に至った共通の見解である。

『ぼくら』と言った。ぼくは仲のいい友人その数人と、しばしば雁首を揃えては日比谷先輩の生態について、各々の得意分野を生かした研究成果を報告しあった。――ここで改めておくがぼくらは至って健全である。そのうちの誰もが社会通念、模範倫理および普遍的道徳を遵守する高潔な精神を胸に携えているのだ。
 決して誰からも蔑まれることなく、もちろん法を犯すことはなく、また自分たち自身も後ろ暗い思いなど欠片すら抱くこともなく、それぞれの好奇心と義務感とに忠実に彼女を研究していた。
 まァ、平たく言うとどうやって先輩とお近づきになろうか、一致団結してあれこれ策を練っていたというわけだ。なにしろ相手は神話的存在ともいえるほど浮世離れした美少女なので、たった一人の、どこのロバの骨とも知れないような男の力のみで篭絡するのは到底困難であろう。ぼくの仲間のうち誰もがそう考えていた。
 ようするに各人色々と自信がなかった。愛すべきぼくの仲間たちは各々それまでの人生を、自分は他人の華やかなそれの脇役ではなかろうか、という空しい思いと共に歩んできた連中であるから、考えてみればそれも無理のない話である。
 そしてその実、その内の誰もが、我先に抜け駆けせんとぎらついた目を光らせていたりもする。
 ぼくらは本人が傍にいないのをいいことに『本気を出せば今すぐにでも日比谷先輩と恋仲になることが可能だ』なんて空虚な妄想を口に出し合ったりして、お互いを牽制し、蔑み、笑いあっていたが、本当は誰もが理解していたと思う。先輩とそういう関係になるのは地球がひっくり返ったついでにあの大きな青空が落っこちてきたって不可能だってこと。
 だって、そうだろう。相手はあの日比谷先輩だぜ?
 彼女は考えるまでもなくぼくのことなど、それこそ名前だって知らないでいるはずなのだ。

 ○

 放課後は基本的に寄り道はしない主義(理由は無駄遣いするから)のぼくだったが、ある日、ふと思いついて校門を出たあと、平時とは反対の方向へ歩いてみることにした。
 今日に限ってぼくの同志たちは、それぞれ用があるからと言ってそそくさと教室を去った。その日一日なんとなくつまらなかったぼくは、まっすぐ家に帰る気分ではなかったのだ。その前に何でもいいから暇を潰しておきたかった。
 自宅から電車で三十分以上かかるこの界隈は丸きりアウェイで物めずらしかった。わざと細い路地に入ったりすると暖簾のかかった定食屋、小汚い提灯を下げたラーメン屋、土の乾いた植木鉢、換気扇のぬるい排気、油っぽいにおい、岡持ちの自転車が店に帰る途中。
 お腹が減ってくるのを自覚するが、これから年季の入った暖簾をくぐり、カウンターのごく近い距離で店主のおじさんに言い慣れない世辞なんかを言う、今日はそんな気力がない。
 そこから少し歩くと鉄道の高架が見えた。ぼくの町と逆方向へと電車が走り去る。次の駅までは遠いけど、街並みは都会的になって、そこらには大手チェーンのコンビニなんかが軒を連ねる。どこかで見たようなつまらない景色。もう家に帰りたい。ぼくは早々と散歩に飽きてしまった。振り返れば学校が見えてしまうんじゃないかという距離しか歩いてない気もする。
 おやおやなんだか声が聞こえるぞ。誘惑の声だ。横断歩道の向こう側のドナルドがぼくを呼んでる。こういうのが無駄遣いって言うんだよなまったく。とにかくお腹が減った。ハンバーガーでも食べようか。今日はできるだけ人の温かみの感じないものがいい。ああいう機械的で、型押しの、ロボットみたいな店員のいる、……
 近付くとガラスの向こうにせわしなく動いている制服が見える。いろんな服を着た客たちはケータイとかPC画面とかを覗きながら忙しそうにバーガーを口に詰め込んでいる。なんとなく家畜の飼育場のようだった。
 あいつは豚で、あいつは馬で、あいつは、うん、ブロイラーだな。飾り立てた髪の毛がちょうどトサカにそっくりだ。うむ、マックはやめとこう。やっぱハンバーガーはモスだよな。モス、モス。……ちょっとまて。
「おいおい、……牧場に天女が紛れ込んでるぞ」
 制服姿の日比谷先輩がウインドーガラスの向こうに座っていた。

 ○

 ぼくは道向かいのマクドナルドに先輩の姿を見つけたとき、直ちに己が身を隠すべしという天啓を突如賜り、慌てて信号機の柱の裏に背中を張り付けた。先輩に対してやましい思いなどこれっぽちも抱かないはずのぼくが、一体何ゆえ泥棒みたいな真似をしなけれねばならんのだ。おお、神よ。どうか次の指示を与え給え。
 神の指示に従って、ぼくは目の前のビルに飛び込み、その二階の喫茶店に駆け入った。窓際の空席に座れば、向かいのバーガーショップでやはり読書に耽る先輩の私生活を覗き見、もといそこから見守ることができそうだ。
 ――汝には日比谷先輩を悪漢その他下賎な誘惑から守る責任があべし。
 どこのなんという神様だか知らないが、仮にも神だ。あんたがそう言うんなら従わねばなるまい。雲の上の存在をおろそかにはできんからな。
 うむ、決して邪な衝動がぼくを動かしているわけじゃないということだ。神様に頼まれたんだから、しょうがない。

 重たい木製のドアがからころ。カウンターでグラスを磨いていた、上品そうなじいさんと一つ二つ言葉を交わす。
「どうもこんちは」
「いらっしゃい。御注文は」
「え、うん。コーヒー」
「少々お待ちを」
 ぼくは窓際の席に陣取り、壁のメニューで値段を確認し、財布から三百円を取り出してテーブルの上に置いた。何かのテレビ番組を見て、カフェというものは勘定は前払いだと知っていたのだ。でもじいさんは湯気の立ったコーヒーカップを持ってきただけで、三百円には見向きもしなかった。
 正直なところ、冷たいのが来ると思っていた。
 すっかり陽気になったこの頃だ。そのうえぼくは生来の猫舌であるから、白地に花柄という野暮ったいそのコーヒーカップには長いこと手を伸ばさなかった。

 さて、道を挟んだバーガーショップでは、先輩のテーブルに店員がトレーを運んでくるところだった。先輩は少しも動じずに本に集中している。店員はお辞儀をして去る。ページをめくる先輩。目が紙面を追う。さらにめくる先輩。おいおいバーガーが冷めちまうよ。本の虫もここまで来れば天晴れだね。ぼくのコーヒーもアイスになっちゃうかも。
 自分の腹が空いていることを思い出して、ぼくもなにか注文しようかと思ったけれど、その間に先輩が席を立ってしまうとまずい。一見すると先輩は誰かと待ち合わせている風にしか考えにくいのだから。読書の場としてはマックはうるさ過ぎる。モスなら分からんこともないのだが、マックに女子高生ひとりきりというのが悪い。いかにもな若者の待ち合わせ風景ではないか。もしそうだとしたらけしからんよ。先輩に失望しかねないよぼくは! それにあののんびり屋の先輩が、放課後だけはいそいそと靴を履き替え、校門をまたぎどこかへ(まっすぐ帰宅するとは限らないだろう?)歩いていく理由が今日こそはっきりするかもわからんのだ。ぼくとしてはすぐにでも動ける状態で待機しておきたい。
 ということで空腹と戦いながら未確認の男の影に神経を研ぎ澄ませていたぼくであるが、だんだんじれったくなって、最終的には集中力が底を尽いた。
 バタートーストかハムエッグか、ちょっと迷っていた隙に向かいのバーガー屋から先輩の姿が消えていた。ぼくは慌てて立ち上がると鞄を引っつかんで喫茶店から飛び出した。
「ちょっと、お勘定!」
「テーブルの上に置いてるからっ。ごっそさん!」

 往来に降りてきたところで、ぼくは唐突な冷めた気持ちに支配された。これから探したって見つかるわけがないという脱力感だった。周囲を見渡しても先輩のの後ろ姿はすでになかった。暮れ始めた空のまだぼんやりした茜色にため息を漏らすと、やがてぼくは駅に向かって歩き出した。

 ○

 ある日の教室、気だるい午後。誰が呼ぶわけでもなく集まるのはお馴染みの面々。くだらない冗談を言っては騒がしく笑い合ったりする。
 興が乗ってくると下品な話題さえ大声で話す連中だ。気付かないうちに周囲のヒンシュクを買ってしまっていることも多い。しかしそういうときこそ彼らは実に愉快そうに笑うから、それを咎める気にはどうしてもなれないぼくであった。それさえなけりゃ、お前らも少しは女子に縁があるかも知れないのにな。
「おい、お前らちょっと耳貸せ」
 ひとりがそう言ったので、ぼくらは身を屈め、一つの机の上にむさ苦しい顔を寄せ合った。カクカクした眼鏡をかけたそいつは、レンズを怪しく光らせながら小声で語りだす。
「日比谷先輩の放課後の行動だが……」
「おい」
 言うが早いかすかさず横槍を入れるやつがいる。これも小声で、ひそひそと。
「放課後の研究活動は御法度だぜ」
 肌の浅黒い彼がそう言って、一重まぶたの鋭い眼をメガネ君に向ける。
 もはや言うまでもないだろうが、先に記しておいた日比谷先輩の熱心な研究者たちこそこいつらであり、すなわちぼくらのことだ。
 ぼくらは先輩のことをもっとよく知りたいという願望を共有する健気な求道者だった。それでも先輩に迷惑をかけぬように、こちらの身元が割れぬように、そのためのこまごました制約をあらかじめ自らに課しておいたのである。
『先輩が学校の敷地外に出たときは、いかなる研究、調査活動であっても、即時中断して近づかないこと』結成当初にぼくらが自分の生徒手帳にボールペンで書き記した条文のうちのひとつがそれだ。
 色黒の彼は、しばしば自慢の口舌にも乗る筆ペン検定国家資格一級の腕を存分に発揮し、メンバーの中でもっとも威厳に満ち溢れる誓いの条文を彼の生徒手帳にしたためている。その手帳は仲間内でも扱いが神格化され、それを持つ彼自身を条文の番人として祭り上げる材料にもなった。もともと彼は義理堅く生真面目で、長定規を一本背中に差し込んだような人柄をしている。メンバーの中で最もマトモな人間ではなかろうか。欠点といえば少々肌が黒いということくらいだ。超がつくほどのインドア派のくせに。
 この集団を自動車でたとえるならブレーキ役を務めている彼であるが、少々その許容熱量は大きめである。ようは少し堅すぎる奴だと言っているのだ。
 ――話を戻そう。色黒の彼は例の条文が破られたのではと思い、メガネの彼を諌めたというわけだ。メガネの彼はというと、
「なに、ルールは破っちゃいないさ。まあ聞け。それとも知りたくないってんなら別だがな」
 この言葉には誰も反論しなかった。代わりにゴクリと喉を鳴らす面々。それもそうだ。ここにいるやつらは、日比谷先輩に関する情報なら、飼い犬に与えるドッグフードの銘柄さえ知っておきたいような連中なんだから(先輩の家で犬を飼っているかは知らないが)。もちろん色黒の彼も例外ではない。
 メガネの彼は満足そうに頷き、語り始める。
「よし。これは確かな筋から仕入れた情報なんだが、――」

 実を言うと、ぼくはこのときメガネの彼が話した内容のほとんどを忘れてしまっている。初めから聞き流すつもりだったのだ。どちらかというとクラスじゅうの女子から向けられる怪訝な視線の方を気にしていた気がする。
 メガネの彼が言ったように、先輩は毎日中学時代の友人とカラオケに通い、聞かれざる美声を披露しているわけでは決してない。
 君らには絶対教えてやらないが、先輩は連日、坂下交差点のマックで電車待ちの時間つぶしに、やはりそこでも本を読んでいるのだよ。決して教えてやらないけどな。

 ○

 ぼくらの間では先輩のプライベートについて、様々な憶測と妄想が前々から活発に議論されていた。
『先輩が学校の敷地外に出たときは、いかなる研究、調査活動であっても、即時中断して近づかない』
 という独自の取り決めがあろうがなかろうが、ストーカー行為は犯罪であるという常識は当然ぼくらにも通用する。だから先輩またはそれと近い人物とお近づきにならない限り、そういう情報は一切入らない。仮にお近づきになれたとて、
『先輩に我が団体の存在を知られてはならない』
 この条文を破らぬよう細心の注意を払わねばなるまい。そうなると手っ取り早く妄想を議論した方が楽しかった。仲間の一人にこんなことを言う男もいる。
「先輩は早くに両親に先立たれてこっち、家で帰りを待つ幼い弟や妹の世話を一手に担っているんだ。だから趣味にも余りお金をかけられないし、古本ばかり読んで時間を潰してるし、友達も作ろうとせず休日遊びに出かけることも少ないんだろう。放課後はまっすぐ家に帰って、弟たちに夕ご飯を作ってあげなきゃいけないんだよ。スーパーの安売りに間に合わなきゃいけないんだよ」
 そのほとんどが彼の妄想であると付け加えておく。ちなみに彼は小太りの男で、暑苦しい汗っかきだ。
 そしてぼくらは、
『その活動によって収集した先輩に関する情報の全てを、虚実に関わらず共有する』
 最終的には皆で幸せになろうと活動を続けている。まァ、その都度裏切り者も出ることだろうが。

 先輩の放課後について誤報や未確認情報は多い。
 放課チャイムとともに用意どん、先輩の教室から校門までのラップタイムはそれこそ機械のように正確だ。それが連日なので「先輩は毎日いったいどこへ急いでいるのだ」という問題はぼくらの中で深刻なものとして扱われていた。
 今回メガネの彼は「別の高校に進学した昔馴染みとカラオケ三昧」なんてデマを流したが、小太りの彼は「弟妹がお腹を空かせて待っている」と固く信じているし、浅黒い彼は以前「付近の市立図書館の閉館時間に間に合わせるためだ」と入念な下調べとともにレポートを提出したりした。
 皆、誰もが『先輩はお付き合いしている男性の許へ急いでいる』とは言わない。いちばん納得しやすい推測であるのに、それを全身全霊をもって否認し続けているのがぼくらだった。それに、幸い先輩の周囲に彼氏なる物の怪の影など(少なくともこの校内には)見えていないようだ。
 定期的に先輩の放課後についてのデマや妄想が議論されるのはそのせいもあろう。嘘で取り繕って、とりあえず安心する。そして各々心の平穏を保っている。
 冷静に考えると涙が出てくるほどに情けない連中である。
「皆で幸せに」なんて結構なお題目を掲げてはいるが、ぼくらの腹の底にある思いは「どうせ不幸になるなら皆で」という後ろ暗い、卑屈な精神なのかもしれない。

 とにかく、これまで先輩の放課後は全く謎だらけであったのだ。唯一尻尾を掴むことができたのは、仲間内ではおそらくこのぼくだけだ。
 だが、このそもそもはきっかけさえ偶然から生まれたものであり、研究行為の結果がもたらした新情報とはいえないから、従って条文違反にあたらなければ報告義務も生まれない。
 ぼくはここ数日というもの、ただ学校帰りに坂下交差点のビル二階にある喫茶店に寄って、コーヒーを啜りながら街並みを眺め下ろしているだけだ。そこで目に映る人々のうちの一人が、偶然にも日比谷先輩だったというだけだ。
 ぼくのこの個人的な放課後の道草について、今現在誰にだって口外する気はない。

 ○

「帰りに駅前のCDショップに寄らないか。新曲が出てるはずだ」
 小太りの彼が帰りのホームルーム前にぼくを誘ってきた。倉敷アミという新進気鋭のアイドルをこよなく愛する彼は、CDだかグッズだか発売されるから一緒に来てくれ、とかなんとか言っては、ぼくをそっちの道へ引きずり込もうとする策士でもある。ぼくだけに限らず、しばしばその魅力を額に汗して語っていた。
 あるとき、意地悪い思い付きをしたメガネの彼が「日比谷先輩とそのアイドル、どっちが大切なんだ」と問うたことがあったが、小太りの彼は考え過ぎで目を回し、しばらくすると仰向けにバタンとひっくり返ってしまった。それからこっち、その質問は禁句となっていたりする。
 そんなことはどうでもいい。当然ぼくはその誘いを断った。なんといっても今のぼくにはいつもの道草が最優先であるのだ。

 重たい木製のドアがからころ。カウンターでグラスを磨いていた、上品そうなじいさんと一つ二つ言葉を交わす。
「こんちわ」
「いらっしゃい。コーヒーかい?」
「おねがいしゃす」
「アイスだったね。少々お待ちを」
 ぼくはいま、通いの店で『いつもの』が通用するという幸運を体験している! まあ、この店はいつ来てもお客は少ないし、言っちゃ悪いがぼくの他に先客がいるところなんて見たこともない。おまけにぼくはいつも同じ学生服を着て、いつも同じ時間にここへ来るから、店主らしいじいさんもぼくの顔を覚え易かったんだろう。それにいちばん安いアイスコーヒーしか注文しないし。胸を張って言おう、貧乏学生であると。
 それでもって、座るのもいつも同じ窓際の席。そこからは道向かいのマクドナルドが良く見える。そちらで同じくいつもの席に着いて読書に耽る日比谷先輩の姿が良く見えるという訳だ。
 今日も先輩はマックで時間を潰している。先輩はここで電車の時間を選んでいるのだ。そういう確信めいた自信がぼくにはあった。
 時刻表を調べ上げて推理したところ、先輩の帰宅経路のおおよその予測がついた。あくまで予測であるが、先輩は高校最寄のJR線を二駅下り、そこで私鉄八隈線の急行に乗っているように思われる。
 というのも、先輩がマックを後にする時間(これも毎日正確だ)と最寄のJR駅までの距離を考えると、その後の電車に乗るのが最もスムーズに八隈線下り急行に乗り換えられる段取りとなるからだ。ついでに先輩の住まいが八隈線界隈だということも予想できる。なんとも一石二鳥の考察である。
 これは我ながら名推理であった。色黒の彼の真似をしてみると、思いのほか都合よく点と点が繋がり、楽しささえ覚えたほどだ。ふたを開けてみれば、先輩の放課後に謎なんてなかったのだ。
 ただしぼくはそれを確かめようとはしない。それは先輩の行動の研究行為となり、ぼくの仲間たちに知らせる必要が生まれるとともに、校外でのそれら活動は厳しく制限してあるからだ。なにより、ストーカー行為は良くない。
 いま? ぼくは道草を肴に喫茶店でコーヒー呑んでるだけだぜ。勘違いしてほしくないね。ストーキングなんてとてもじゃないよ。
 ぼくが潔白だってことは、先輩の習慣を察知したいま、休日にリサイクルショップで双眼鏡を探すことなどせず、古本屋へ過去の名作なんかを買いに走ったということからも理解してもらえると思う。
 ぼくは先輩を見習い、小説文化に親しもうとこの喫茶店に通っているのだ。先輩と同じ趣味を同じ時間に同じ(ような)場所で楽しめているんだから、ぼくは仲間のうちでも最も幸せな人間だと言えるだろうね。はっはっは。
 誰にも言わなかったけど、それはもう楽しい、心穏やかな秘密だった。

 でも、そういう平穏は決まって長いこと続かないのだ。

     


 ○

「お前さあ、最近付き合い悪くなったよな」
 鋭いことを言ってぼくに詰め寄るのはメガネの彼である。
「毎日すたすた帰って、何してんだよ」
 これに色黒の彼が乗っかる。
「怪しいな。白状しろ」
 困った奴らだ。なにこれ、自己批判? 総括が始まるの今から。
 ぼくは鷹揚に笑ってやって言った。
「何を疑ってるか知らんが、ぼくは早いとこ家に帰って読みさしの本を消化したいだけさ」
 にじり寄る仲間たち。おい、くせーんだよ汗かいたデブは向こうへ行け。ブーブー言うな。よし、いい子だ。
「ほんとか?」
「ほんとだ」
 メガネと色黒がジト目で睨みつける。小太りのアイドルオタクは少し離れて。ぼくは一歩も引かずにそれらを受けた。
 やがてまとめ役の色黒が言う。
「わかった。疑って悪かったな」

 当時、ぼくらの学校生活は日比谷先輩を中心として回っていたように思う。だからみんな精いっぱい一生懸命で、一生懸命なりに愚かだったのだ。

 その日も喫茶店を訪れ、窓際の席に陣取った。そこで初めて気がついたが、道向かいのマックに先輩の姿が見えない。
 驚いた。思わず立ち上がってしまった。手に持った北杜夫からしおりが舞い落ちる。
 ぼくはヤモリみたいな動きをして窓ガラスに張り付いた。そこへ店主らしき上品なじいさんがアイスコーヒーを運んできた。
「今日はいないみたいだねえ」
「え?」
「君の憧れの女性だよ」
 このときのぼくの驚きといったら! 先ほどの比ではない。驚いたのも束の間、ぼくの体内に恥ずかしさが充満する。
「え、あの。それはつまり」
「つまりはそういうことだよ。向かいのバーガーショップの、きみと同じ学校の制服を着た、美しい黒髪の女性を、きみはいつもここから眺めていたね」
 もう、ぼくは爪の先まで真っ赤になってうつむいてしまった。
 何たる道化だよ。今まで話したのはコーヒーの注文のときくらいだというのに、このじいさんは全て知っていたのだ。大した年の功だ。
 そのうえじいさんよ、どうしてぼくを辱めるのだ。あれか、年寄りの道楽か。
「なにを恥ずかしがる。ひとを想う心は純粋で美しい感情だよ」
 じいさんはコーヒーの入ったグラスをテーブルの上に置き、毅然とした声で続けた。
「君は少々引っ込み思案の気があるらしいが、君の彼女を見つめる瞳には一片の曇りもなかった。私はそれを知っているよ」
 恐る恐るじいさんの顔を覗き返すと、そこには背の低い、ベストを着付けた姿勢のいいバーテンが、長い白眉をたおやかにしならせて、ぼくに微笑を送っていた。
「この次は胸を張って、彼女に会いに行きなさい。いいね?」
 その笑顔のなかに、言い返すことを躊躇してしまうような、どこか有無を言わせない荘厳さを垣間見る気がした。
 ぼくはテーブルのコーヒーグラスを手に取り、立ったままそれを一息にあおると、
「ごちそうさま」
 勘定を済ませようと尻ポケットの財布をまさぐるぼくを、小柄だが偉大なじいさんが制した。その行為にぼくは目を瞬かせるだけだった。
「今日は私のおごりでいいよ」
 じいさんはそう言って、まるで孫を愛でるような表情でぼくを眺めている。そして、
「いってらっしゃい」
 と大きく頷いた。
 ぼくは鞄に北杜夫を突っ込むと、それを引っ掴んでじいさんの店を出る。

 ○

 先輩がマックにいなくとも。
 それでもまだこの近辺にいるはずである。マックにいなかったのは、一種どぎついあの味付けにようやく嫌気が差したのか、それかただの気まぐれだ。
 もちろんその他のイレギュラーはいくらでも思い浮かぶ。帰宅を急がねばならぬ理由など、高校生にだって無い訳はないのだ。
 しかし今日は。今日こそぼくは、なにが何でも先輩と話さねばならない。そしてぼくの名前を憶えてもらうのだ。結果、先輩への想いを断ち切らねばならぬことになっても、それとも想いを繋ぐことができても、どちらだって構うものか。
 ぼくはずっと、あの完璧無比な日比谷先輩と自分なんぞが釣り合おうはずもないと思っていた。しかしあのじいさんは気付かせてくれた。ぼくの内々に眠る先輩と張り合える唯一の自信、絶対の自負。
 もともとぼくの内にあった。なんて、あのじいさんは言うもんだから我が身ながら笑える。笑えるがこれこそ欲していたものである。
 なんてことはない。それこそがきっかけである。生来女性を苦手とするぼくだが、背中を押してもらえさえすれば、あとはなんだって出来る。先輩に声をかけて「遊園地にでも行きませんか」一言誘うことだってたやすいのだ。
 息も絶えだえに、ぼくは街を駆ける。あの凛々しい長身を往来に探し、あの艶やかな黒髪をショーウインドーに探す。先輩はきっとまだこの街にいる。
 春一番に乗ってすごい勢いで飛ばされてきた紙切れが、ぼくの顔面にぶち当たって音を立てる。それを引っぺがしたぼくは誰が悪意でと辺りを見渡すが、大通りに人影はなし。
 良く見るとそれは包みに入ったままの一組のチケットだった。なんでも近日オープンするテーマパークの開園記念イベントの招待券。場所は下関とある。
 渡りに船とそのチケットを学生服のポケットにねじ込んだぼくは、通りを駆け、筋を走り、上辺だけの都会的な街で日比谷先輩の姿を探し続けた。
 足がもつれる。呼吸が荒らぐ。高校生になってからこっち、めっきり運動不足のぼくは妙な汗でドロドロになっていた。こんな姿では先輩に合わす顔がないと思いながらも、そんな心配より先輩を見つけるのが先決だと考え、なんとも心地の悪い思いで心臓は不規則な脈を打っていた。小さな消耗も蓄積すれば馬鹿にならない。最早ぼくは地を這うように走っている。
 鉄の芋虫が鉄道高架を何度も行き来する。カラスが電線の影絵の上を飛び、鳴いている。街灯に電力が供給される。
 ようやくぼくは、夕闇の街に煌々と照り映える照明の中、スターバックスの窓際から街並みを眺める先輩を見つけることができた。
 日比谷先輩窓際の法則である。

 ○

 宵闇のスタバでも、日比谷先輩はやはり本を読んでいた。店舗内は暖色の薄ぼんやりした照明がぶら下がっていて、スピーカーからラッパの音がピープー鳴っている。ジャズっぽい。でも、そんなに古くなさそうな曲。ようはオシャレっぽい曲。
「待ってたよ」
 先輩は背中に目でもついているのか、ぼくの気配を察知するなりそう言った。天国にでも通じているかのように透き通った声だ。その言葉は確かにぼくに向けられていた。
 傍から見れば読書の最中に発する言葉としては到底不適当である。先輩の隣の席のサラリーマンが不審そうに横目をやる。
 先輩はというとそれを気にも留めない様子で、今度はぼくに肩越しの流し目を送った。
 穏やかな黒い瞳、口元に薄く笑みを湛え、少しだけ顔を俯かせて、整った横顔には漆黒の美しい髪が掛かっている。いつも遠目で見ている先輩そのものが目の前にあった。
 思わず息を呑む。近くで見ると迫力が違うってもんだ。
「隣は空いてるよ」
 先輩はそれだけ告げると再び首を振った。
 ぼくは冷静に背後を振り返り、それが本当にぼくに向けられた言葉だったのかを確認することだけは忘れなかった。
 どうやらそのようである。

「きみで全員かな」
 ぼくが椅子を引くなり先輩はそう言った。初めて面と向かって話すはずなのに、それにしては的外れな台詞だった。
「全員って、なんのことです?」
 当然、ぼくは聞き返す。
 次の瞬間、ぼくは確かに己が心臓が止まるのを実感する。
「『私を学校中で追い掛け回す二年生の集団』――心当たりはないかい?」
 先輩は人から借りてきた言葉を喋るように言った。
「これまで会った三人が洗いざらい話してくれたよ。赤司直太君と、白浜慎二君、それに廣塚博之君。――」
 友人たちの名前が列挙され、先輩の言葉に真実味が加味される。即ち『お前らの行動はまるっとお見通しだゾ』と言っているのだ。
 今までのストーカーまがいの追跡や、浮気調査もかくやと言わんばかりの探偵行為など、秘密裏に活動していたはずのぼくらの存在は既に先輩にばれていたのだ!
 ――もうおしまいだ。
 甘く切ないはずの想い人とのドキドキ初会話になるはずだった。それが今となっては死刑宣告のようなもんである。
 余りの衝撃にぼくは固まった。椅子を引いて座ろうとした中途半端な格好である。
「残るひとりはきみだ。ゴトウフジカツヒコ君」
「あ、ゴトウです」
「え?」
「後藤、不二克彦です」
「ああ……」
 先輩の無表情な相槌。
「兎も角。きみらは一体何のつもりだ。この私を学校の内外で尾け回していたことに対して、納得いく説明を聞かせてもらいたいね」
「ええとですね。……」
 両顎の奥歯が浮く感覚が広がる。キャン玉がヒャンッとして先輩の目線をまともに受け止められない。
 帰りたくなった。
「……すいません」
 ぼくは引いたばかりの椅子を戻そうとした。
 先輩の顔色を窺うことすら億劫だった。
「――ま、とりあえず座りなよ」
 先輩の言葉。
「きみとは少し話をしたかったしね」
 ぼくがハッとして俯けた顔を上げたとき、先輩は再び文庫本を開き、その目は文面を追い始めていた。
 ――まあ、そう仰るのであれば断る理由なんて。どうせ今後一切先輩とこの距離で会話することもないのだろうし。
 まな板の上の鯉の心地は否めないが、ぼくは再び椅子を引くと、座面におずおずと尻を乗せた。
 それにしても脚の長い椅子である。

 先輩は思わせぶりなことを言ってぼくを引き止めておいて、自分は本の世界に集中しきっていた。いくら負い目があるぼくとはいえ、さすがに痺れを切らしてしまう。
「あの、聞いても良いでしょうか」
 先輩は文庫本を読むのは止めなかったが、それでもきちんと返事をしてくれた。
「なんだい?」
 何だいも変態も無いもんだが、ぼくは『これまで会った三人』について詳しく聞いておかねばならなかった。
 メガネの赤司、小デブの白浜、色黒の廣塚の三名は、言うまでもなくぼくの愛すべき友人たちの名だったのだ。
 しかし事によると、彼らはぼくに対し、とてつもない不義を働いていたのかもしれない。あるいはぼくだけにでなく、お互いがお互いに嘘を取り繕ってつらつき合わせていた可能性もある。
 先輩の語ることは、果たしてその通りだった。
「彼らはちょうど今のきみみたいに、放課後に私を尾け回しては私の前に回りこんで、恋文を渡すなり思いのたけを告白するなりして、しょっちゅう私を困らせたものさ。めいめい一度や二度じゃない」
 彼らにはほとんど失望した。何たる不道徳、はた迷惑。かように破壊的な友情もあったものよ! ぼくは彼らに騙されていたのだ。あれほど「放課後は先輩を追い回すな」と言っていた彼らが!
「許されざるやつらですね。もはや犯罪行為だ」
 先輩は文庫本に落とした視線をちらとぼくに向けては、また戻した。
「いい加減しつこいから、この間一人一人に色々と問い詰めてね。私がにじり寄ると何故か鼻息が荒くなって、不気味で仕方がなかったけど、全部喋ってもらったよ。きみのこともそのときに聞いた。三人が三人同じことを喋るから面白かったな。『悪いのはゴトウフジと言う男です。あいつが全ての元凶なんです』って」
 なんてえ奴らだ。友を売るとは。それに三人がそれぞれぼくの名前を出すってどういうことだよ。あいつらぼくに何か恨みでもあるのかよ。一人くらい別の名前を出せってんだ。泣くぞ。それに名前の下半分を端折るんじゃねえよ。
「はは、あれは面白かったなあ」
 先輩はまぶたの裏にその光景を思い出したのだろう。よほど面白かったらしい。ぼくにとっては友情とは砂の城であるという確信を得た瞬間であった。
(本当に、許されざるやつらよ……!)
 彼らを恨むことで、ぼくの考える最悪の想定を少しでも楽観できるようになればいいのだが。先輩の笑う声で少し楽になったとはいえ、現状彼女の一一〇コールひとつで、ほぼ確実にお縄を引かれてしまいかねないのだ。
 恋焦がれた相手と同席しているはずなのに、おちおち背もたれに寄りかかることもできない。
 ――と思ったのにこの椅子、せいぜい腰もたれ程度にしか役に立ちそうにないデザインである。オシャレも行き過ぎたら不便、行く果ては滑稽ではないだろうか(問題提起)。
 そこでぼくは雑念を振るい落とそうと頭を振って、今は先輩と校外で一緒の場所にいられるこの幸運を讃えることに専念した。
 なに、聡明な日比谷先輩である。ぼくの人柄を見たらいかがわしい先入観などすぐに取り払ってくれることだろう。
 ぼくはキャラメル巻きアートなるドリンクを啜った。オカシイと思って蓋をあけて中身を覗くも、キャラメルのアートなんぞ浮かんではいなかった。そのくせ高い金を取りやがって。詐欺だ。

 先輩は小説を読みながら話すから、自然と会話は途切れ途切れになる。やがて再び口を開く。潤んだサクランボみたいなつやつやの唇だ。
「それで、私は名前ばかり聞いて姿のちっとも見えないゴトウフジ君に……」
「あ、後藤です」
「――失礼。ゴトウ君に興味を持っちゃったりしてあれこれ想像を巡らせていたわけなんだけど、きみがその、ええと」
「後藤不二克彦です、はい」
「――君てわけだ。ふむ。私の想像よりも割合貧相な男の子だね」
 先輩の容赦ない言葉も、飾り気がないといえば愛嬌があるってもんだ。そう思おう。
「それで、きみもあの三人と同じように、私になにか物申したかったりするのかな?――」
 先輩は、どこか挑戦的な目つきでぼくを見据えるのでした。

 ○

 どうとでもなれ、南無三。半ば自棄っぱちである。そもそもぼくと日比谷先輩の間には、失うものなど始めから何もないのだ。
「先輩、多くは語りません。ぼくと二人でここに行ってはくれませんか」
 ぼくは件の遊園地のチケットを取り出し、テーブルの上に差し出した。
 先輩はその券を取り上げて、内容をなぞった。
「これはまた、……よく手に入ったね」
 先輩はチケット越しにぼくをすがめた。
 その視線は「どこでこれを手に入れたのだ、盗んできたのであろ!」とでも言われてしまいそうな鋭ささえある。
 そう言われてみれば拾ったチケットである。ぼく自身ろくに行き先も確認していない。
 余った片方のチケットを手に取る。考えてみてもオイスターランドというふざけた名前のテーマパークは聞いたことがない。
 眉根をひそめて矯めつすがめつ、そんなぼくを見て小さく噴き出した先輩はこう教えてくれた。
「下関に新しく開園する遊園地だよ。大型の乗り物と新鮮な海の幸を売りにした、遊んで良し、食べて良しの新感覚テーマパーク。大々的に宣伝しているじゃないか。ほら」
 先輩が見やった窓越しの建物には大きく張り紙がしてあった。
『オイスターランド近日開園!』本当だ。
「しかし名前がふざけてますよね」
 はははと先輩は鷹揚に、それでいて上品に笑った。
 話して分かったが実はこの先輩、よく笑うのである。それは決して下卑た笑い方ではなく、話し相手をもなんだか愉快な気分にさせるのだ。
「私もそう思うよ。しかしきみは楽しいやつだな、ひとをデートに誘っておいてその場所の詳細すら知らないとは」
 おまけに人の話ははぐらかすし。――付け加えたその一言のほうが痛恨である。
「あの、すいませんさっきの話のバカな三人ですけど、あいつらはあれでおかしな奴らですけどそういうところばかりじゃないんです。でも嘘つきなのは間違いないんです。全ての元凶がどうこう言ったらしいですけどあれはその、」
「その、なんだい?」
「つまりはぼくが一番先輩のことを好きだってことですっ」
 ぼくの決死の告白、先輩はへらへらと笑う。
「照れるね、もう」
 真面目に言ってるのに通じないのは少しへこむ。かくして当初の目的は達せられたのでした。

「すいません。初めて話すのに図々しくて」
 と言うと、なんだか今後も二度、三度と話す予定があるように聞こえる。ぼくは急激に恥ずかしくなってくる。
「あの、ごめんなさい。顔洗って出直してきます」
 ぼくはキャラメル巻き巻きアートを引っ掴み、椅子を引いた。
「ちょっと、待ちなよ。私もいい加減本ばかり読んでると肩が凝ってしょうがないし、たまには出歩かなきゃいけない。どうせ誘ってくれないとそんなところには縁が無いんだ。きみが私なんかで良いと言うんなら、一緒に見物して回ろうじゃないか」
 肩が凝るのは女性的に豊満な胸のせいもあるんじゃないですかなんて、そんなことはこの際どうでもよろしい。
「私で良いのかですって? ……な、なにをそんな」
 謙遜? 違う。なんと言ったら良いのだろう。何でも良い。
「ええ、いいですとも。もちろんですとも! だったら行きましょう! やった、今夜は赤飯炊きますよ!」
 先輩は苦笑いと愛想笑いとが半々に混ざったような表情を浮かべて、狂喜するぼくを優しくなだめるのでした。
「後藤君、とりあえず落ち着きなさい」

 ○

 こうして、日比谷先輩はぼくの名前を知ったのでした。
 それ以後ふたりがどうなるかなんて、めいめい勝手に想像してもらったらよろしい。



〈オワリ〉

       

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Neetsha