Neetel Inside 文芸新都
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カレンダーに赤いばってんが八つになった夜、私は大きめな皮のトランクに数日分の着替えを詰めた。
ばってんが九つになった朝、冷蔵庫の中身が空であることを確認し、新幹線に乗った。
 
車内での朝食はいつも決まっている。タマゴサンド、角砂糖を二つ入れたカフェオレ、そして100円の新聞紙だ。
盆の前という事もあり、車内は例年どおり混んではいない。ありがたいことだ。
 
結局のところ、私は何を学びに大学へ進学したのか、ましてや何のために東京に上ったのかも分からない。
ただ数学が苦手で、下宿先の近くに親戚がいる地方が東京しかなかっただけの話なのだ。もしかしたら、
人並みに英語が得意で、東北に親戚の家がある。そんな人生だってありえたかもしれない。かもしれない。
夜のベッドと新幹線は、井戸の底のような暗く陰湿なイメージを湧かせる。私は・・・
 
 潮の匂いがする。数年前までは意識しなかった匂いだ。
 駅からはタクシーに乗る。1780円。去年より30円プラス。そんなことはどうでもよいのだ。
 懐かしい坂道を登る。胸焼けしそうな蝉の声、一般的なそれより二周りは小さなバケツ、右足と鼻緒を無くしたビーチサンダル
 (あるいは業務用のゴム板か)。これらは去年通りだ。私は額に汗をぷつぷつ湧かせながら登る。

 正門を開けると、潮風でギトギトに錆びてしまった軽トラックが私を迎えてくれた。仕事を辞めた彼だけは時間の中を生きている。
 不思議なものだ。

 「ただいま。」
 「おかえりなさい。今、昼ご飯作ってるから。」
 
 声の発信源であるキッチンへと向かう。母は元気そうだった。淡い緑色の冷蔵庫を開け麦茶の入った瓶を取り出す。
 私は麦茶を二杯飲み干した。別に砂糖が入っているとかそういう訳ではないけど、ここで飲む麦茶とアパートで飲む麦茶の違いは一体何なのだろうか。

 「あんた、単位は大丈夫なの?」
 「大丈夫だよ、誰かさんと一緒にしないでほしい。それよか、今日は小野田先生は学校にいらっしゃるかな。」
 「お盆に入るまでは部活とかあるみたいだからね、今日もいらっしゃるんじゃないの。」

 
 昼食は天ぷらだった。下宿先で揚げたてのそれを食べるなんてことは滅多になかったから、母なりの気遣いだったのだろう。
 ありがたいことだ。私はいつも海老天の尻尾も頂く。パリパリ。夕食も期待しよう。

 二階へ上がり、ほぼ物置化した自室のベッドの上に寝転んだ。窓からはどこまでも透き通った空と何よりも白い雲が浮かんでおり、
 このまま融けて無くなってしまいたくなるような青空だった。

 
 部活の終わる時間を見計らい、中学校へ向かって歩いた。夕日のゆるやかで長い曲がり道はどこか寂しげで、蜩の声がひしひしと脇腹を
 刺した。
  道中、ラケットをぶらさげながらチェリオを飲んで帰る男子学生組みとすれ違う。彼らの顔は眩しげに眼を細めており、つるんとした肌を
 輝かせていた。私にもあんな時代があったのだ。最も今や青髭も目立ち見る影もないわけだが。
  金属バットの心地よい音が近づくにつれ、学校が見えてきた。
 学校内にはほとんど生徒は残っておらず、数名の生徒が校庭で器具の片づけをしているだけだった。私は誰ともすれ違わぬまま正門を抜け、
 下駄箱の前で靴を揃え、靴下のまま職員室へ向かった。今日の靴下は・・・白だ。ついていない。
  職員室の戸をノックし開けると、ひんやりとした空気。そして見知らぬ女性教師と目が合った。私の記憶にはない教師だ。

 「こんにちは。ここの卒業生の者なのですが…小野田先生はいらっしゃいますか?」
 女性教師はキョトンとした目で僕を見たが、不審に思っているような目ではなかった。
 「小野田先生なら、給湯室の方で煙草じゃないかしら。呼んでこようか?」
 「いえ、結構です。久々に帰省したので直接会って驚かせたいんです。」
 女性教師はほんの少しの笑みを浮かべて「扉、閉めて言ってね。」とだけ言った。 
 
 給湯室はガラス張りになっており、そこから見える棚にはクラスがマジックで書かれた無数の薬缶が並べられている。そしてさらに
 その奥には、すこしおなかが目立つジャージ姿の中年男性、小野田先生が見えた。

 「お久しぶりです。小野田先生。」
 戸を開けながら、少し悪戯気味に驚かせようと小野田先生を呼んだ。
 「おぉ…久しぶりだなあ…。」
 「あまり驚かないんですね。それに、煙草は止めたんじゃなかったんですか。」
 「ちょっとした弾みに煙を吸っちまったらもうだめさ。二度目の禁煙は死ぬほど辛いんだ。」
 そう言って、先生は僕にセブンスターの箱を差し出した。
 「…頂きます。」
 「お前も煙草が公に吸える年齢になったんだな。どうだ、向こうの学校生活は。」
 「自分からは買ってまで吸いません。単位も足りてるし、卒業後は親戚の紹介で文豪具メーカーに就職しようと。」
 「立派じゃあないか。」
 先生はそれだけ言うとぷっつり何も言わなくなって、次の煙草に火をつけた。私もそれ以上付け足す事は無かった。
 「…あー、浩子の事なんだが…。もう今年で七回忌になるのか。」
 「…はい。いつもは盆までには向こうに戻るんですが、今年は盆が終わるまではこっちに居ようかと思っています。」
 「そうか。俺も一度墓参りに行かなきゃならんなぁ。」
 先生は間延びした声でそう言って給湯室を後にしたが、彼なりに強く思ってくれている事があるのだろう。こっちに居る間に、もう一度
 ここを訪れてお礼を言わなければなるまい。私は先生の背中に頭を下げ、そこからは誰とも接触することは無く家路に着いた。 



 
 

 
  

       

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