ペッティング・フィクション



 最近僕が書いた小説『小説工場にて』『River Of Pain』などに出てきた人妻には実在のモデルがいる。小説の中で僕と彼女は肉体関係を持っているように描かれているが、実際は仕事中二人きりになれる隙があれば軽く抱き合う、といった程度の関係だった。マスク越しのキスはしても、尻や胸に手を伸ばすことを僕はためらっていた。
 以前から仲は良かったが、ここ一ヶ月ほどで急速に親密さを増したのは、携帯のメアドを交換してからだった。こういうことは出会った初期に気軽に交換しておかないとタイミングを失い、意味合いが重くなってしまう。ある日二人きりになった際、別の女性と僕が噂になってるよ、ということを、彼女は何故か怒り気味に僕に伝えてきた。そんなこと初耳だよ、考えたこともなかった、と言い訳する僕はまるで彼女の恋人みたいで、そのことが嬉しく、三日後にメアドを交換し、その二日後に初めて職場で抱き合った。
 私小説風の話を書いているからか、僕は時折小説の登場人物みたいな行ないをすることがあった。恥ずかしいメールも臆面もなく打てた。大したことのない用件を書いた後、最後に「それから、あと会いたい」と付け加えたり「今日はしんどかった、君が休みだったから」など平気で書けた。彼女からの返信には段々とハートの絵文字が混ざるようになり、それを何度も見返しながら眠りにつくような、気持ち悪い男に僕はなっていた。
 それから初めてのデートで僕らはマスク越しでないキスをした。
 夕方五時までには帰らなければならない彼女とは遠くまでは出かけられなかった。近場の映画館を調べたが面白そうな映画はやっていなくて、「周りを気にせず話が出来るし、酒も飲めるし、歌いたくなったら歌えるし」ということで、カラオケボックスに行くことにした。僕が時々一人カラオケに利用する店で、近くに新規オープンした別系列の店が派手に宣伝しているため、客足は遠ざかっていた。そこに監視カメラはなかった。平日の昼間で客も少なく、注文を聞いた店員が慌ただしく走り回っていることもない。外からの死角で僕らは至近距離で会話を交わし、それから呆れるくらいにキスをした。三時間半のうち二曲しか歌わなかった。どちらも僕で、どちらも「くるり」で、「ばらの花」「犬とベイビー」。
「後悔するよ」と彼女は二十回くらい言った。
「別にいいよ。僕だって人間のクズだし」
「でも村野君て仕事真面目じゃない」
「うちは経済的に完全に破綻してるし、僕個人にも借金があるし」
『小説工場にて』の台詞をなぞるように言いながら僕は彼女の胸を触ろうとしたけれど、「それは駄目」と断られた。少しした後、ジーンズ越しに股間を触ることは何故か許された。彼女の顔がすごく熱くなっていて「風邪?」と聞くと怒られた。
 結論から言うと僕は振られることになる。
 三時間半のキスの最中、彼女は実は他に付き合っている男がいるとカミングアウトしてくれた。相手は二ヶ月前に仕事を辞めた元同僚のNで、胃潰瘍で入院して以来、我慢することを辞めて露悪的になった男で、僕はそんな彼を嫌いではなかった。
「一年くらい前から。一度別れたけど」僕が彼女と親しくなっていく過程で、とっくに彼女は別の男のものになっていた。書いていて時々忘れてしまうが彼女は人妻で、夫については人間扱いすらされていない。
「だから村野君とはキスまでの関係。わかった?」僕は頷かなかった。「はい、は?」無理やり手をあげさせられた。彼女には中学一年生の娘と小学四年生の息子がいた。着ている服を脱げない僕らは、唇以外には耳と首筋に口づけをした。部屋を出る直前の最後のキスは、化粧直しをした彼女が口紅が落ちるのを嫌がったので、二人で舌先を出して激しく舐め合った。その日一番のキスだった。
 僕は彼女に優しくて、彼女は僕に甘えていた。だけどそれは恋愛関係とはいえなかったかもしれない。その日の夜、要約すると「二人で会ってみてわかったけれど、Nには私がいないと駄目。村野君にはもっと他にいい人が現れるよ」という残酷なメールが届いた。
 翌日の僕は魂の抜け殻のような精神状態だったが、大量のキスの効果か体調はこの一年間で一番というくらい絶好調で、残業が四時間だろうが全く疲れを感じなかった。

 翌週、もう恋人同士にはなれない僕らはホテルで落ち合い、裸になってベッドの上で「キスだけの関係」を続けた。服を脱げばキスをする所をいくらでも見つけることが出来た。近すぎる距離にいても決して最終的に結ばれることはないという悲しみの中、僕は半分泣きそうになりながら「このことを小説に書こう」と考えていた。

(了)