Neetel Inside 文芸新都
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千文字前後掌編小説集
少女ゲルニカ

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「ゲルニカ」を見ると「ゲルニカ」と呼ばれていた少女のことを思い出す。

 ピカソの「ゲルニカ」がプリントされたTシャツを着ていた彼女は美術仲間からゲルニカと呼ばれていた。あの恐ろしい絵からはかけ離れた華奢な少女には、白と黒よりもっと似合う色があるだろうに、と私は思った。それが赤だとか青だとかは思わずに。何か他の色が、今の彼女にはないものが、などと漠然と感じた。そういう私は地味な無地の黒シャツを着て、ふらり立ち寄った学園祭の美術展で彼女の作品を見つめていたのだった。キャンバス一面に縦横の黒い線が無数に引かれており、線の交差で出来た三角形や四角形が、特に法則性もなく黒で塗りつぶされていた。神経症的なその作品に私は見覚えがあった。中学の頃、テスト用紙の裏に似たようなものを描いていたのだ。私の場合は、絵が下手なことに対する必死の抵抗のようなものであったけれど。

 やがて私もゲルニカと呼ぶことになる少女は、照れながら私の元へ近付いてきて感想を求めた。幾人かの学友が彼女の背を押していて、告白めいてもいた。事実その晩私達は寝ることになるのだが、彼女の若さゆえの背伸びと、私の性欲から生じたもので、愛などどこにも見当たらなかった。彼女はしきりに激しい動きを求めるくせに、酷く痛がっているようでもあった。
「私の絵を誉めてくれた人と、セックスしようって決めてたんです」
 ゲルニカの体はTシャツを脱いでもいまだ「ゲルニカ」を身に纏っているような色気の無さだった。もし彼女が着ていたのが「青の時代」のピカソの絵がプリントされたものであったら、血の気のない彼女の体は冷えていて、もっと抱き心地の悪いものだっただろうか。
「誉めたつもりはなかった。はっきり言って、あそこに誉めたくなるような代物なんて一つもなかったよ。でも、失敗作であれ稚拙な作品であれ、その乱雑さの中に身を置くのが好きなんだ。とてもとても眠くなる。後で思い出そうとしても思い出せないものばかり」
 でも時折目が覚める時もある、と付け加えると、「けなしてるようで誉めてるよ」とゲルニカは言った。彼女が鞄から取り出した着替えのショーツは「ゲルニカ」には使われていない薄いピンクで、彼女は毎日のように誰かと寝ているのだと何故か私は思った。

「ヴラマンクが好きなんだ」
「誰それ?」とゲルニカは無邪気に言った。
 それから二週間、一人暮らしの彼女のアパートで私達は毎晩交わり、彼女が別の男を連れてきたことで関係は終わった。その眼鏡をかけたガリガリの男は「彼女は天才なんです」などと口走っていた。「勘違いだよ」と諭す私にゲルニカはもう怒ることはなかった。

 数年後、ゲルニカと邂逅した時、私は彼女に気付けなかった。相も変わらずろくでもない生活を送っていた私は見かけも変わり映えがないため、彼女が雑踏の中から拾い上げてくれたのだ。二分間のキスをするまで彼女の味は忘れていた。
「絵、やめたの?」
 リクルートスーツに身を包む彼女に私は不躾な質問をぶつけた。デリカシーのなさで毎晩のように怒られていたことも思い出した。
「やめるわけないよ。やめらんないよ。やめたいよ」
 彼女が示した定期入れの中には「ゲルニカ」をプリントアウトした写真が入っていて、私は目を背けた。私は彼女が来ていたTシャツの中の「ゲルニカ」が好きだった。
 詩は書いてるの、と聞かれ、まあぼちぼち、と私は返した。
「それより今日一緒にどっか泊まらない?」と聞くと、「死ね」と即座に彼女は返してくれた。
 別れ際にかつての少女ゲルニカは「ヴラマンク、私も好きになったよ」と言った後、足早に去っていった。就職活動中の学生達がそこかしこに見えるオフィス街で、彼女の姿は大勢の似た者達に溶け込んですぐに見失ってしまった。
 
「ゲルニカ」と弱々しい声で呼びかける私の声は、すれ違う誰彼に少し怪訝な表情を作らせただけだった。

(了)

       

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