虚構フィクション物語


 参加予定の同人誌に寄稿する小説をまだ一文字も書き始めていない。忘れていたわけではなかった。今さら参加表明を反故にするつもりもなかった。自分にとってのデッドラインまではまだ余裕がある、アイデアも一応ぼんやりとではあるけれど固まりつつある。焦る必要はない。全然大丈夫。
 そう思ってるのは自分だけで。
「締切十日前となりましたので、作品の出来上がってる部分だけでもいただけたらな、と。内容によっては掲載不可となる場合もあり得ますので簡単なチェックも兼ねて」
 同人誌の主催者である女性からのメールに一時間返信をしないでいると、直接電話がかかってきた。
「で、原稿は?」いやあ最近暑いですねえ、八月でこれだけ暑いと、五十六億七千万年後の地球なんて膨張した太陽のせいで灼熱の大地でしょうねえ、などと、諸星大二郎「暗黒神話」を読み返したばかりのノリで切り出そうと思っていたこちらの心を折られた。
「頭の中では完成しています。あとは清書するだけです」
「それって一文字も書き出してないってことだよね」
「実は書きはしたものの、名前を付けてファイルを保存していませんでした」
「『宿題やったけど家に忘れてきました』って言い訳小学校の時に何回使いました?」
「毎日のように言ってたので回数なんか覚えてません」
 最近はまともにアイデアのメモもしていない手帖を取り出し、「僕は言葉責めされると興奮する」と書き込んだ。今さら驚くほどの発見でもない気がした。
 はあ、と諦めの溜め息が聞こえる。
「大体のプロットだけでもいいから、聞かせて」
「舞台は深海です。深度七二〇〇メートルの海底で、主人公と人妻が世間話をしています」
「どんな話ですか」
「寒いねえ、とか、あの気持ち悪い魚食べられるのかな、ってもう食べてるし、とか、そろそろ上がらない? お風呂に入りたい、とか」
「で、何故二人は海底にいるのです」
「そこは別に何でもいいかな、と思ってまだ考えてません」
 あーもう、と彼女は切れた。
「不条理とか幻想的な雰囲気出してればいいか、みたいな考えでいつまでもいるから、あなたはいつまでも長編を書けないアマチュアなんですよ。プロットを組んで、人に説明出来るようなあらすじも用意して、何より少しずつでもいいから毎日書き進めてください。何かの出来事が起こる理由を書くだけでも文字数は増えていきます」
「特に理由なんかなくても、人は人を好きになることがあったりするじゃないですか」
「今そんな話はしてない」
「八月でこれだけ暑いと五十六億……」
「黙るか死ね」
 もしくは書け、と言い置いて彼女は電話を切った。
 それからすぐに僕は書き出した。寄稿予定の小説を書き出せていない駄目人間についての話を。詰まることなくすらすら書けた。

(了)
sage