Neetel Inside 文芸新都
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千文字前後掌編小説集
モルヒルネ

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「雨期が始まるんだよ」とセーナは言った。

 原作:一色伸幸 作画:山本直樹による、漫画版「僕らはみんな生きている」第一巻ラストページ最後のコマの中、彼女は褐色の肌を表わすスクリーントーンの上に絆創膏を貼り付けて、日本人サラリーマンの主人公にそう語りかけている。
 何年か振りに読み返してセーナの美しさと逞しさに惚れ直しているのに、第三巻だけが見当たらない。仕方なく最終巻である四巻を先に読み終える。主人公(映画版では真田広之が演じている)はタルキスタン(作品の舞台となった架空の発展途上国)に舞い戻り、祭りの風景の中に消えていった。

 現実ではいつの間にか梅雨が始まっていたらしくて、毎日のように傘を持ち歩いている。
 六月に入ってから既に二本無くした。
 電車の中でうとうとするのがよくないのだと思う。以前ならあくまで目を瞑って軽く目と頭を休ませるだけの時間だったのに、通勤時も帰宅時も本格的に夢を見始めている。乗り過ごすところまでいってないのが奇跡みたいなものだ。電車から降りる際に手に取るのを忘れたのか、駅のベンチに置いていたのか、それともどこか違うところ、例えば家を出てすぐに乗ったエレベーターの片隅に立てかけたままだったのでは、なんてところまで疑い始めてしまう。

 セーナはタルキスタンのかつての有力部族の一員で、フランスに留学していたエリートでもあった。だが軍事クーデターにより立場は急変、帰国した彼女は親族の処刑された姿を目の辺りにして我を失い、道端に倒れていたところを、長期出張中の日本人サラリーマン(主人公の上司、映画版では山崎努)に拾われ、運転手兼愛人となる。後に革命軍に参加、彼女の家族を虐殺した政府を転覆させることに成功する。漫画ではたびたび彼女の裸体や性交場面が描かれる。映画版ではセーナは男性だったらしいが(当然愛人設定や色っぽいシーンはなかっただろう)、よく覚えてない。

 見たはずだ、とは思う。
 どこかで忘れた傘の、最後の姿も。
 灰色の折り畳み傘で、少し長過ぎて、鞄には斜めに傾けなければ入らなくて、それでも少しはみ出して。畳んだのを入れる縦長の袋はとっくになくしていたけれど、その融通のきかなさとかのせいで妙に愛着があって。
 なくしたもう一本の普通の傘は色も忘れた。

「なんだ、そこにいたのか」と高橋は言った。今さらだけど主人公の名前だ。セーナと何度もセックスしている。最終話最後のページは祭りの遠景を映して終わっていて、そこにはセーナも高橋の姿も見えず、前述の台詞があるだけ。
 傘のカヴァーだけは本棚の間で既に見つけてあるのだけれど、あっても意味ないんだよね。そこにいたのか、と感傷的に言うこともない。

「雨期が始まるんだよ」と彼女は言った。
「こっちでは『梅雨』って言うんだよ」と僕は言った。
 真昼の家の中で、目を瞑ってもいないのに夢を見るようになってしまった。

(了)

       

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