Neetel Inside 文芸新都
表紙

千文字前後掌編小説集
ONE LIFE

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 青い芥子の花びらが揺れる横で溜息をついていた彼女の腕には注射針の痕が点々と張り付いて、鼻の下はこすりすぎて赤くなっていて、「全身の皮膚が薄くなってきてるんだって」と笑いながら彼女は言って。もう長くないんだなあと残念に思う僕の視界の隅には芥子畑を蹂躙するササクレジカの群れが映っているのだけれどそいつらを追い払う勇気も元気も僕にはなくなっていて。とりあえず抱きしめようとした彼女はふらふらと歩いて去ってしまい、落ちていたカタツムリから殻を奪っていた。
「食べられないよ」
 でも彼女はやっぱり殻を口に入れてバリバリと噛み、歯の方が砕けた。

 ササクレジカは芥子畑だけでなく稲も小麦も菜の花も大根畑も襲う。足腰の弱い老人に集団で襲い掛かり蹂躙もする。かつてこの町は老人ばかりだったがシカ共に食い散らかされてもういない。病んで壊れて抜け殻になった都会帰りの若者達をササクレジカは襲ってはくれない。本当は僕らは老人達よりずっと弱くて死にかけで、それでも腰が曲がっていないからといって襲われずに済んでいる。僕と彼女が踏み荒らされた芥子畑の中で抱き合っている横でササクレジカは仲間の内で一番体の小さい同族を食らっている。

 僕と彼女の住む部屋には鏡がない。ダンスをする彼女と、身だしなみをきっちり整えたがる僕の為にかつては大きな姿見があったのだけれど。そこには二人だけではなく、僕と彼女の両親と友人と、迷い込んできた猫達が時々映っていたのだけれど。その頃の彼女の皮膚は薄くはなっていなかった。映る人が減っていった姿見は汚れて煤けてぼやけてしまい、自ら命を絶つように内側にめりこんで割れてしまった。鏡が隠した反転した世界の中で、僕らはまだ健康優良児の振りして踊っている。小さくステップを踏んで、時々お互いの足を踏んでしまって微笑みながら。

 政府が余計なササクレジカ対策をしてくれたせいで、獣用の罠にかかって彼女の左足首はもげた。生命力が弱くなっているせいかあまり血は流れなかった。片方の靴と軽く巻いた包帯で作られる彼女の足跡は見分けが付きやすく、僕が寝ている間にふらふらと出て行ってしまってもすぐに追いかけていける。
 僕の足跡を見つけてくれる人はいない。

 ササクレジカは名前にシカとついてはいるが実際は大型犬と猿の混血だと言われており、毛むくじゃらの顔は猿よりヒトに似ている。人語を話すわけではないが、断末魔だけ人のそれに似ている。だから人を襲っている時と共食いの際の騒ぎの区別が付きにくい。
 彼女の足跡を辿っているうちに誰かの叫び声が聞こえてきた。そういえば僕らはいつの間にか歳を取っていた。
 それから、とても静かになって、僕は歩くのを、止めた。
 地面に落ちた青い芥子の花びらは泥にまみれて破れている。

(了)

       

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