Neetel Inside 文芸新都
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さよならのリズム
さよならのリズム

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 雨降りの日。傘を片手に、行き付けの喫茶店に向かっている途中、ふと気がついた。以前よりも、随分遅く歩くようになっていたこと。



 つい先日、恋人と別れた。
 彼女が最終的に僕の世界の何割を占有していたのか、もう今となっては知る術はない。三割くらいかもしれないし、五割以上かもしれない。
 僕の世界の何割、なんて分かりづらい言い方だけど、僕はソレを他になんて言うのか知らない。ソレは僕が彼女に割いていた心の容積であり、彼女に実際に割いていた時間でもある。僕が主体的に関わる実世界と精神世界の両方に、彼女なしでは意味のない空間を拓いた。その割合を僕はそんな風に呼んでいる。
 僕らが一緒に歩いて行くことを止めた時、ソレは一瞬のうちに消失した。寂しいとか悲しいとかいうよりも、なんだか胸がぽかんと空いた感じだった。
 情けないことに未だにその感覚が消えやしない。僕はもう彼女に何の希望も持ってはいないのに。未練がないと言ったら多分嘘になってしまうけど、それでも僕は彼女との関係性をもう一度変えたいとは思わないから。
 ただ、寝ようとする時、地下鉄の待ち時間、何気なく集中を切らした作業中、そんな意識の空白に、するりとあの空虚な感情が入り込む。彼女に割いていた世界は、あの時一瞬で消えてくれなどしなかったのだと気付いた。一切の色彩を失って、今でもそれは僕の世界に漆黒の影を残している。少しずつ溶け出し、形を失い、やがて小さくなっていくものなんだろう。
 考えてみれば当たり前のことなのかもしれない。今まで多くの時間を共有した相手を、そんなに簡単に忘れられるはずなどないのだから。



 ベッドの上で、不意に誰かを抱擁したくなった。あるいは、されたくなった。
 不思議なものだと思う。その温かさを知るまでは、そんなことを求めるなんて思いはしなかったのに。
 ちょっとだけ現実が遠く感じた。
 ガラス一枚隔てたような、鈍く濁った世界の認識が、伸ばした指先の感覚に、奇妙に馴染んだ。



 いつの間にか遅くなった歩調は、彼女に合わせて歩いたからだ。
 あの人と一緒に何度も歩いた道を、僕はこれからも一人で辿る。
 きっと歩く速度は、またいつの間にか速くなる。
 零色の世界が溶け出す速さで。

 早く慣れてしまえばいい。
 忘却に加速する歩調が刻む、さよならのリズムに。

       

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