Neetel Inside 文芸新都
表紙

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「初めまして若林さん、誠治の母です」
 そう自己紹介をした女性にあたしは、初めまして若林舞ですと返した。彼女は訝しげにあたしを見つめて、誠治お茶くらい出しなさい、と言ってキッチンに入っていった。
 最悪だ、最悪。母親と鉢合わせるなんて。何を話していいのかわからずにソファーの上で固まっていたあたしに、立花君は小声でごめんね、と言って母親の後を追ってキッチンに行った。その後にお盆を持った彼女はあたしの前に紅茶とフィナンシェを置いて、どうぞ、と手で示した。言動は優しげなのに一切笑っていなくて、溜息をつきたくなった。一先ずカップの取っ手に手を伸ばす。ふと顔を上げると、立花君は母親の横に座っていた。目を見開くと同時に、フリスクを噛み砕いた。鋭い刺激が鼻腔を抜けて目にまで届いた。
 カップのふちから覗くクリーム色のスーツは身体のラインより少し大きく、細い彼女の腕はスーツの中で泳いでいるようだった。私側のソファーは人一人眠れるくらいの長さで、彼女のスーツと似たような色に茶色のストライプが入っている。対する立花君側は一人用の同じデザインのソファーが二つ並んでいる。透明なローテーブルの上にはロココ調のような白を基調とした花柄が描かれているカップがのっている。カップというかソーサーとセットなのであろう皿はソーサーと同じく縁がぎざぎざになっていて、洗いにくそう、と思った。波線のように膨らんだ部分の先に小さく穴が開いていて、酷く凝った造りになっていた。その上にのせられているフィナンシェはよくわからないフランス語っぽい文字が書いてある包装紙に包まれていて、プレーンとチョコが一つずつ置いてあった。何となく有名店そうで、プライドが高くて面倒くさそうだと思った。良い匂いがする紅茶を一口飲むと、フリスクの清涼感と紅茶の苦味が口に広がった。
 かちゃと紅茶のカップをソーサーに置く音が響いて、口を開いたのは立花君の母親だった。
「若林さんは誠治とどういったお付き合いをされているのかしら」
「はぁ……」
 どういった、というのはこちらもよくわからない、付き合っているのですが肉体関係はまだありません、先ほどまでフェラをしていました、と言っていいのだろうか。フィナンシェの袋をいじっていると、立花君がただの学友です、と言った。
 なんだそれ、なるほど、お前はそちらにつくのか、と顔を伏せて笑った。
「学友なの、じゃあ若林さんも優秀なのかしら」
「いえ、別にそんな事はありません」
「そうなの、うちの誠治はあの学校でも優秀な成績を修めているのよ。ねぇ誠治」
「そんなでもないよ母さん……」
「若林さんはどのくらいかしら?」
「はぁ?」
「ほら、休みに入る前に期末試験があったでしょ、あれ」
「覚えていません」
 そう言ったあたしに目の前のババアは目を見開いた後に、あらーと厭らしく目を細めた。実際問題覚えていないのだ、順位は二桁だった気がする、確か全体で五十何番か、どこかそれくらい、具体的な番数なんか一桁じゃないんだから覚えているわけない。
「そうなの、そうね、覚えたくない数字もあるわよねー」
「そうですね」
「若林さんはご両親何をなさっているのかしら」
「……父は会社員、母は看護師をしています」
「あらぁ、素晴らしいわ、どちらにお勤めなのかしら」
 何故そんな事まで初めて会ったババアに喋らないといけないのか。大体面倒くさいから会社員と答えているが父は取締役だ、勝ち誇ったように笑う女が哀れで馬鹿らしくて笑えてきた。きっと知らないのだろう、自分以外の人間のテリトリーを。きっと知らないのだろう、自分の息子が目の前の女にどんな態度を取ってきたか。
 ねぇ、教えてあげようか。お前の息子は酷く気持ち悪い小説を書いていて、変な音楽をかけてセックスを要求して来て、変なこだわりで本番まではしなくて、多分皮被り野郎だって。
 手に持っていたフィナンシェを皿に戻すとあたしは顔をきちんと上げた。
「えっと、そんな事何でお答えしないといけないのでしょうか」
「え?」
 驚いた顔をした彼女に対して優越感に浸っていると、思わぬところから攻撃に遭った。
「若林さん!母さんにそんな言い草は無いだろう!」
「誠治、いいのよ……」
 強い口調で嗜めた立花君に対してババアが止める様に言った。目の前で茶番が繰り広げられている。ただ付き合っているだけの女に姑気分のババアとよくわからない正義感に溢れた息子。あまりに馬鹿らしくなってきて、フィナンシェをもう一度取って袋を開けた。やけ食いだ、食べてしまおう。バター臭くて粘っこくて喉に引っかかる菓子だ。
 目の前の茶番はまだ続いている。立花君はあたしに対して非難の目を向けてくるし、ババアは逆に優越感に満ちた顔をしている。意味がわからない、貴女の息子にあたしは何の価値も見出していない、こんな意味不明な詰問をされて直大人しくして好かれようと思うような気持ちは一切ないし、貴女の優越感はあたしがあんたの息子に好意を持っているという事が大前提だがその大前提が無いんだ。貴女はそのロクデナシを生んで今まさに庇って貰っているのかもしれないけど、あたしはそのロクデナシを射精させることが出来るんだ。人間が一番情けない姿を知っているんだ、そう、情けない姿としか思っていないんだよ、貴女の大事な大事な息子さんを。
 チョコ味のフィナンシェを食べ終えて袋を皿に戻すと紅茶で流し込んだ。それと同時に立ち上がる。
「あたし……帰ります」
「えぇ、ゆっくりしてらして、もっと若林さんのこと知りたいわ」
「いいえ、失礼します」
「そう?だったら駅まで送って行くわ、ね、誠治」
「あ、うん……」
 立花君に同意を求めながらババアは立ち上がった。車を用意しに行くみたいだ。
「ねぇ誠治君」
「…………がっかりした」
 ソファーで俯きながら立花君は声を出した。立ち上がった状態で椅子に座っている彼を見下すように視線を投げると、彼は無表情であたしを見つめた。
「舞ちゃんには年配への気遣いが無いと思う。それに僕の親なんだからもっと好意的に接してくれるべきじゃないかな」
「……ふぅん」
 だったらお前の母親がもっと好意的にしたらどうなんだ。とんだマザコン野郎だったんだな、と立花君の顔を見ると彼はあたしから目を反らさなかった。今までの少し頼りない彼はそこに居なかった。
「悪いけど、もう、家には来ないでくれる」
「…………わかった」
 何故あたしがフラれなきゃいけないのか死ぬほど腹が立つけれど、そのままババアの車で送ってもらって駅に着いた。じゃあ、と手を上げる立花君に笑顔で右手を振り替えして駅に入った。ずっと左手人差し指で親指の逆剥けを削り取って逆立てていた。途中から液体が指先に付いたのがわかった。
 電車はまだ来ていなくて、待合室に入ると、そのままピーラー行為に没頭した。指の皮を一つ一つ削り取った。クーラーの効いた室内は涼しくて、背中に寒気が襲ってくるくらいのものだった。老人が二人ほどしか居なく静かな空間に、上の方に置いてあるテレビから各地のニュースが流れてくる。暑い時期の川涼みの様子、アナウンサーの綺麗な声が響いていた。
 イライラが止まらない、何だあの親子は、勘違いも甚だしい。そして何だあのマザコン野郎は、どうしてお前からこのあたしがフラれなきゃいけないんだ。大体お前が恋人なのだとしたらババアからあたしを護る役だろうがよ、何で母親の味方してんだよガチでムカつく。
 左手のピーラーが終わると痛々しい赤が覗く指先となった。スカートの上に落ちた皮を払って、携帯を取り出した。先ほど保存したページを開いて文書のファイルを削除する。携帯に残っていたデータも削除した。デリートボタンを押して消すのも面倒くさくて全てを一気に消去した。機械はとても便利だ、ボタン一つで全て無かったことに出来るのだから。
 あたしのこの徒労、あたしを卑下したこと……絶対に許さねぇから、と心に誓って、時間通りに到着した電車に乗った。きっと二度とこの駅には降りないだろう。いや、駅は降りるかもしれないけれど、二度とあの家の敷居は跨がないだろう。この胃に入ったフィナンシェも紅茶もフリスクもあいつの体液も全部全部吐き出してしまいたかった。
 空いた電車の中でふと思った。あいつの童貞をクソみたいな方法で奪ってやろうって。残念ながらあたしはあいつが思うような処女ではないのでセックスしたところでさして大きなダメージは無い。
 そうだ、奪ってやろう全部全部。あいつの矜持、綺麗な思い出、男としての砦、あのババアが大事にしている息子の子供の部分、大事な大事な息子さんのババアには奪えない部分。指で唇の皮を剥くと、ひっかかりと共に鋭い痛みが走って、唇の上に液体が浮かび上がった。ぷっくりと膨らんだ赤い滴を舌で舐めると鉄の味がして内臓全てが鉄に侵食されたような気がした。重く錆付いた内部はきっと何にも揺らがないし冷め切っている。中途半端な熱では溶けることもないだろう。体中に流れる血液に金属片が紛れているような重みを感じる。今あたしの五臓六腑は鋼鉄だ、この身体は冷え切った鉄製だ。
 窓から少し落ちかけた日に照らされたあたしの顔は歪んで、唇から血を流しながら笑っていたと思う。


 屈辱的なフラれた男に縋り付くという行為をして、立花君をカラオケに呼び出した。二人きりになれる密室がここしか思い浮かばなかったので、仕方ない。あたしの聖域の屋上や部室には呼びたくなかったし、二人の思い出だとでも思っていそうな教室にも呼びたくなかった。だからといってラブホはあまりにも飛ばし過ぎている。彼はしおらしいあたしにいい気になったみたいで、困ったような顔をしながらカラオケの一室に入ってくれた。彼を座らせてドリンクバーでウーロン茶を二つ取って来た。いざとなったらこのウーロン茶をぶちまけてやろうと思った、腕力的なものを行使されたら敵わないから。それに後から入った方があたしが扉側に座る事が出来て逃げ道を塞げる。コップとストローをテーブルに置いて、あたしは少し距離を置いて隣に座った。 
「若林さん、用って何だろう」
 畏まってあたしに話しかける立花君が酷く滑稽で、笑いを堪えながらやり直せないかな、と呟いた。俯いてスカートを両手で握った。同時に太ももも抓る形にして表情を消す。室内は飲み物の氷を立花君がストローでかき混ぜる音とテレビから流れる音で占領されていた。二人とも制服で、立花君は気まずそうにあたしと目を合わせない。あたしは顔を上げて立花君の横顔を見つめながら、いつ強硬手段に出るかばかり考えていた。この日のためにあたしは口でコンドームを着ける練習までしたのだ、口内に広がるゴムの味は気持ち悪くて堪らなかったし、鼻を抜けるゴム臭はえずきそうで不快で仕方なかった。だけど絶対に生でしたくはなかった。あたしの内部にこいつの体液が残ると考えるだけでそこから穢れてしまいそうだと思った。
「ごめん、それは出来ない」
「……どうしても?」
「……うん、ごめん」
 想定内だ、すがっても切り捨てられることは、そしてこの気まずそうな態度も。ここまで想定内の行動ばかりされると飽きてきてしまう。想定内の行動をする男に何の魅力も感じない。どうしようか、もうこの時点であたしはこの男が本当に嫌いかもしれない。いや、嫌い以上に憎んでいるから潰すのだ、打ちのめすのだ。トラウマを作ってやるのだ。
 あたしは立花君との距離を詰めて隣に寄り添った、彼の身体はびくんと震えたがかまわずに胸と頭を押し付けた。彼の左腕を抱くように身体を寄せると、彼の耳辺りを見つめた。
「ねぇ誠治君……あたしは、好き、なの」
「……いや、えっと……」
「好き、触りたい……」
 顔を下腹部まで下ろしていくとソファーに寝転ぶように立花君の制服のチャックを下ろした。下着の上から何度か触れて、その後に引きずり出して口を付けた。ガキ臭いピンク色の性器にそれより色の濃い舌を押し付けて、吸い上げた。夏のせいかこもった体臭があたしの鼻を襲った。歪みそうになった顔を整えて、根元に手を添えた。
「ちょっと!!!若林、っさん!!!……舞ちゃん!!!!」
 気の抜けた腕で押し返されたけれど、一度強く啜ると怯えたように抵抗は弱くなった。ああ、可哀想、本当に可哀想、急所をあたしなんかに押さえられて。歯で砕いてやりたい。
 ある程度立ち上がったら、身体を動かして立花君の上に乗っかった。膝立ちをして立花君に跨って、パンツをずらして性器同士を触れ合わせる。残念なことに全然濡れていない性器に彼の性器を触れ合わせて、気持ちいいところを擦った。
「舞ちゃん!!ほんとに、ダメ、だよ!!」
「ダメ?……あたし、誠治君、と……」
 立花君の脆弱な抵抗を跳ね除けて、ポケットに入れておいたコンドームを取り出して破ると口に咥えた。やっぱりこの匂いと味には慣れない、それを立ち上がっている性器に被せていった。立花君は驚いたような顔でこちらを見つめている。萎えなくて良かった、と思いながらそのまま立花君の性器を食らった。あまり濡れていない性器を無理矢理こじ開いて飲み込んだ。痛い、とても痛い、熱い、泣いてしまいそうだ。
 立花君の、嫌だ、舞ちゃんという声と、モニターから聞こえる音楽を耳に入れながら、あたしは彼の童貞を奪った。奥まで突っ込んで一往復したくらい、あたしは性器を抜き去って、身体を立花君から離した。彼は目を見開いてあたしを見ていた。それを余所目にあたしはパンツを履いて身だしなみを整えた。
「……舞、ちゃん?」
「童貞卒業おめでとうございまーす、良かったじゃん、歌と映像の中でやりたかったんでしょう?」
 あたしの言動に立花君は性器を丸出しにした情けない格好のまま固まったようだった。顔色がさぁっと青くなり、目を見開いたまま全ての筋肉が硬直していた。そう、その顔が見たかったのだと自然とこちらは笑顔になってしまった。服装を整えると鞄を持って部屋を出ようとした。
「っ舞……」
「あ、そうだ、大変残念な事にあたし処女じゃないから。最後に小説、何だっけ、リトルグレイトセル、何とか、あれクソ気持ち悪かったよ、覚えたての言葉使いたい中学生みたいで。すごいねーあんなつまらないモノあんな量書き続けられるんだ、尊敬するよ。じゃあね、マザコン君」
 笑顔で手を振りながら部屋を出た時に見た立花君の顔は傑作だった。絶望というか驚愕というかどうとも言えない最高の顔。あんな顔出来たらきっともっと素敵な小説が書けるのではないだろうかと思う。荒く脱がさせられた性器に張り付いているコンドームのピンクと制服の黒の対比が滑稽で綺麗だった。早足でカラオケ店内を抜けると、そのまま駅まで早歩きで進んで電車に飛び乗った。
 全部計算していた、立花君の反応、カラオケを抜ける時間、カラオケから駅までの徒歩でかかる時間、それに合わせて電車が来る時間、それが全て想定通り進んで半笑いで電車の席に座ると笑い出したい気持ちを抑えた。声を上げて笑いたい、何だあの顔、想定通り過ぎて何も面白くない、こんなに上手くいくものか、童貞、矜持、プライド、全て奪ってやった、楽しい、最高に楽しい、あたしを裏切った奴の末路に相応しい。トラウマになれ、もっともっと可哀想になれ。大好きなママに話せない仕打ちで悩め、綺麗な思い出を全部汚せ、ああ声を上げたくて仕方ない。最低の童貞喪失を貴方にプレゼント出来てあたしは死ぬほど楽しいよ。性器のひりひりとした痛みも、ゴムに付着したローションの感覚も、立花君の力無い腕も、最高のスパイスでしかない。
 笑い出してしまいそうな顔を耐えて、電車内で荒い呼吸を繰り返した。
 あたしは祖父母の家の最寄駅で降りると、そのままそこに向かった。笑いたい気持ちと虚しい気持ちが共存して、誰でもいいからあたしに問答無用で優しくしてもらいたかった。無償の愛に包まれたくて、早足でおばあちゃんの家に着いた。
「あれ、どうしたんけー」
「ただいまー。暑っいーお風呂入りたくて、おばあちゃんお風呂入っていい?シャワーでいいから」
「ええけど、夕飯食べてくけ?」
「うん!」
 あまり顔を見れないまま風呂場に入ると全てを脱ぎ捨てて熱いシャワーを頭からかぶった。おばあちゃんの顔をまともに見たら泣き出してしまいそうだった。他愛も無いと思っていたけれど、身体を張ることはあたしの精神を大きく削り取っていたみたいだ。あの最高だった興奮と笑いが血と一緒にざぁっと引いていった。
 シャワーが熱い、頭皮が熱くてたまらない、出せる最高温の温度のお湯を頭からかぶって、汗と全てを流した。指を性器の中に入れてコンドームに付いていたであろうローションをかき出した。お湯の湯気が辺りを包んで、あたしの表面を熱いお湯が流れ落ちていく。
「ちくしょう…………身体……張らねぇと…っっ……何も出来ねぇ……のかよ……」
 涙と鼻水が出てきたが、熱いお湯で全てを流した。この虚無感は夏と熱湯には不釣合いだ。
「何で……あたしが……あたしが……」
 鼻水をすすっていると、風呂場の外からおばあちゃんの舞ちゃんスイカ食べるけーという声が聞こえて、涙が更にあふれた。何の重大事件も無い、何も無い、晩夏光の厳しい日なだけだ。今日はあたしにとっては何の大きな出来事なんてない、ただ熱いシャワーの熱量だけは忘れない日だった。失われた水分を補ったスイカは、薄い甘さでとろりと喉を通り抜けた。痛々しく赤くなったあたしの肌は湯気を出しながらスイカと同じ色をして、中に通る血液を表しているみたいだった。
 あと数日で夏休みは終わりの日、あたしは陽炎のような思い出を叩き潰した。残ったのは終わらせた課題と読破した冊数と大量の紙屑で、紙屑は後日燃えるごみに出した。

       

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Neetsha