Neetel Inside 文芸新都
表紙

ピーラー
一、スロースターター

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「てかガチで合わないっていうかー、ひゃぁ、あ、もう、お兄ちゃんっ、聞いてる!?」
「聞いてる聞いてる、どーぞ続けて」
「ちょっと、胸、触らぁ、ないっ、で、ぁ!」
 お兄ちゃんはあたしの背中に手を回してホックを外すと、ブラウスの第二第三ボタンを外して手を差し入れてきた。ブラが変な方向に持ち上がって、反抗をしてみたけれど無駄だった。お兄ちゃんはあたしの話を聞く気はないみたいだ。お兄ちゃんの部屋でベッドに転がりながらあたしは声を上げる。そしてそのまま始まってしまって、あたしもお兄ちゃんも適当に下着を下ろす形でセックスをした。お兄ちゃんはあたしの首元に顔を埋めて、あたしはぼんやりとヤニで汚れた天井を見つめた。
 あたしが小六から続くお付き合いというものは、今年で五年目を迎えようとしている。小学生だったあたしはこの春に高校生になり、大学生だったお兄ちゃんはもう社会人二年目だ。ロリコン気味のお兄ちゃんと呼べって言う変態も混じっている彼氏と、飽きっぽくて人情が薄めなあたしでよくもまぁ五年も続いたものだ。途中、音信不通や別れたこともあったけれど、今はお付き合いをしている。
 実際五年近くこの男に縛られているのもどうかと思うのだが、持ち前の男運の無さでこれ以上の男が周りに居ないから妥協策だ。学生同士の恋愛も楽しそうだけれど、大人の恋愛ってのもそれはそれで良いもののはずだ。
「お兄ちゃん部署移動出来た?」
「あー無理だった。やっぱ二年目じゃ無理だ。名刺も舞にやったまんまだよ」
「営業部平戸都ってやつ?裏に英語書いてあるやつ、タカシーヒラドーっての」
 お兄ちゃんが煙草を吸う横であたしも煙草を吸ってお互いに煙を飛ばす。あたしは細長くてメンソールの香りがする薄いの、お兄ちゃんは真っ赤なパッケージの親父臭いの。煙草を吸いながら唇の皮を逆立てて捲りとる。
「舞は高校で友達出来たか?」
「出来たって言ってんじゃん!もー話全然聞いてない!!バカ!」
「聞いてたよーだって気合わないって言うじゃんかーそーゆーの友達つうの?」
「言うよー、友達は友達だよ!」
 お兄ちゃんとはそのまま少し話して、煙草をあたしは二本、お兄ちゃんが五本消費したくらいで家に帰った。家で風呂に入って制服にファブリーズをする。夕飯を適当に作ると、テレビでプレミアリーグの録画放送を見ながら食べた。明日登校するのが気が重い。
 お母さんの分の夕飯をラップをかけて、冷蔵庫におひたしと酢の物を仕舞って、鶏肉のトマト煮と南瓜の煮物はそのままテーブルに置いておいた。最初は手紙を置いていたけれど、今はもう置かなくなってしまった。 

 

 あーそう、だから何だっていうの、チャイナもニガケも樽もトーマスも誰だかわからないし、どうでもいいのよ、そんな知らない連中の話は、何で数日で同級生の区別付いてるのよすげぇなおい、ってか噂話って何が楽しいのか全然わからないわ、本当にっっ!!
 心の中をひた隠しにしながら、そうなんだーと笑顔で相槌を打つ。イライラが止まらない。右手で箸を持ってブロッコリーを口に運び、左手では親指の逆剥けを削り取りながらその手を机の下に隠す。
 ナギーが大声でホント気持ち悪いんだって、授業中見てみてよ今度、と言うと、花音はあークッソ、私チャイナより前の席なんだよねーと笑った。私隣の席だからガチ迷惑なんだけどーと、セーラ様は周りに聞こえるような声で笑う。物凄い溜息をつきたいけれど堪える。昼食を取るために、あたしとよっしーの席を繋げた即席のテーブルでは自分の席に戻る快楽すら失われている。
 高校に入って数日、あたしはストレスフルな日々を過ごしている。どうしてこんな事になってしまったのか。それは、そもそもあたしが中学の友達が一人も居ない高校に入学してしまい、そしてあたしに初対面でその人と合うかどうか見抜く技術が無かったからだ。そんな無能のために確実に気の合わないグループに入る事になってしまったのだ。数日前に良かったぁ、友達が出来てと喜んでいた自分の頭をタイムマシーンに乗って戻って叩いてやりたい。でも今更このグループを抜けるわけにもいかない。そういうのってとっても面倒くさいのだ。
 だからあたしは全ての気持ちを仕舞いこんで人間ピーラーになる。唇はグロスを塗っているから皮剥き出来ないけれど、指の逆剥けを逆立てて剥ぎ取る。今あたしの指は肉が見えたり血が見えたりしている。これを止めるためにはスカルプを付けるしかない気がする。小汚い癖だと判っている。だけど止められない。実際皮だけ剥けるより障害があって、肉ごと剥ぎ取られる方が気持ちいいのだ。あたしは真性のMなのかも。元々の癖がストレスで悪化している、きっと一ヶ月くらい経てば治るだろう。というか治ることを願う。

     

 高校の入学式にあたしはとんでもないミスを犯して、指定ブレザーの下に指定のベストを着て来てしまった。ベストが毛糸か何かだったら良かったのだけど、ポリエステル製のものなんかだったものだから、おっさんみたいな着こなしになってしまった。そのままブレザーのボタンを外さずに居れば良かった。けれど、あたしはパンパンに着膨れしている自分が馬鹿らしくて、笑えてきて、ボタンを外して歩いた。
 だって今朝一時間もかけて支度をしてきたんだ。自分なりに頑張ったんだ。入学式でやりすぎかなとか悩みながら高校デビューを頑張ったんだ。それがホント馬鹿みたいなベストの失敗のせいでブレザーがパンパンに見える。
 何だか全てに気を使っておいて、馬鹿みたいに人がしないような失敗をしている自分に笑えてきた。入学式は我慢していたけれど、退場をして、教室に行く間に前ボタンを全て外した。教室に戻って自分の席に座ると、周りが少しこちらを見ている気がした。そこで友達を作らなきゃいけなかったことを忘れていて、焦った。こんな浮いている格好をしている子を仲間に入れてくれる人は居るのか。
「ねぇ、それマジカッコ良い着こなしっぽくない?」
「へ?」
「思った思った、ちょーカッコ良いよ、雑誌載ってたの?」
「いや、あの、間違っちゃって……あはは……」
「あはは、ガチでー!!すっげー!!」
 机に座っていたら女の子二人に話しかけられた。それがナギーとセーラ様だった。その時は、長月さんと、蜷川さんだった。第一印象は活発な子と口が悪いギャルっぽいなと思った。仲の良い二人は中学からの知り合いかと思ったら、今さっき知り合ったばかりらしい。
 三人で喋っていたら、前の席のよっしーと花音が混じってきて、今のグループが完成した。その時は吉田さんと高峰さんだったけれど。あたしはあまり大人数のグループで一緒に行動したことは無かったから、その時は高校デビューと脳内で盛り上がったものだ。


 それがぬか喜びだと発覚したのはその次の日だった。随分早いもので、大変な一日天下だった。明智もびっくりするかもしれない。明智は明智なりに覚悟していたのだろうけれど、あたしは無能故に覚悟が無かったからびっくりというより後悔しかなかった。人は自分の身の丈以上や、得意領域外に出るってストレスフル極まりないってことを悟った。
「マイちんの隣に居る原田さ、すっごい油っぽくない?顔光ってんだけどー」
「思ったーーー!!!ガチキモい!!」
「あれじゃない、牛脂?みたいな?」
「牛脂って牛脂に失礼だよー!」
「牛脂に失礼ってーーー!!あはははーーー!!」
 誰だよ原田って。そう思いながら突っ込んで、大声で笑った。何、この人達。ああ、この人達、人にあだ名付けたり噂話したりするのが大好きなんだ。しかも悪口ばかり。最悪だ、最悪。あたしの一番苦手なタイプだ。だってあたしは人に興味が無いんだもの。
 それでもあたしなりに合わせたのだ。あだ名が出てきても誰とは聞かず、皆の会話に外れないように笑っておいて。それがさらに面倒くさくなるのは数週間後なのだけれど、この現状が最悪だとあたしは思っていた。

 担任のヒエギ先生がやっている英語は予習をしていないあたしには全然わからない授業だった。ヒエギって変な漢字だった気がするのだが覚えていない。身長が高くて少しふっくらしたモデルみたいな体型の女の先生だ。何となく女の先生って好きじゃない。
 ぼんやりと黒板に書いてある字をノートに模写する。英語は高校に入ると新しい単語も文法も倍以上に一授業で出てくるようになって、あたしは予習をしないばかりに付いて行けなくなった。
 廊下側の窓に近くて一番後ろのあたしの席は、ぼんやりしていても先生にはばれないはずだ。しかも誰にも見られにくいから、あたしはがつがつと逆向けを毟った。親指、薬指、人差し指。カチカチと硬い皮の音がする。
 窓から少し涼しい風が送られる。でも、グラウンド側の景色を眺められる席の方が羨ましい。内窓で、廊下を見せもしない窓は、私の顔も反射させない。
「じゃあ次、若林さん」
「は!……はい!」
「次の段落から訳して下さい」
「わかりません」
「はぁ!?」
 だってピーラーに夢中で全く聞いていなかったのだから、まず次の段落がわからない。即座に和訳なんて出来ないから、今はどこでしょうって聞いたらやり取りは一回増えるに決まっている。だったら「わかりません」が一番楽。存分に平常点でも引けば良い。
 ナギーとセーラ様が後ろを振り向いて、こちらを見てニヤニヤしている。花音や周りの人は驚いた顔であたしを見ている。よっしーは流石に真前だから振り向きはしない。そういえば、さっきよっしーの声が聞こえた気がした、あれは当てられていたのか。
「どこがわからないの?だったらわかるところまででいいから」
「全部わかりません、すみません」
「はぁ……もういいです、じゃあ朝倉君」
 朝倉君とかいう人に睨まれた気がした。周りは驚きから、侮蔑の表情に変わった気がした。ナギーとセーラ様が笑うから、あたしもニヤついておいた。あー、うざい、だるい、逃げたい。

     

 ヒエギ先生に当てられた授業の終わりに、あたしの周りに友達が集まってきた。口々にやっぱりマイちんは良いなぁとかわけのわからないことを言われ、賞賛された。チャイムが鳴り、よっしー以外があたしの席から離散した時、よっしーが小声であたしに言った。
「でもさ、マイちん勉強しなくて大丈夫?」
 嫌味でも何でもなく只心配している様子な彼女を見て、わかんないと笑った自分が卑小に見えた。そうか、やっぱり勉強しないといけないのか、予習って面倒だからあれだけど復習ぐらいはするか。次の授業の先生が来て、あたしはまたぼんやりと教科書を開いた。
 次の授業ではナギーとセーラ様が当てられた。セーラ様はギャルのような見た目に似合わず結構出来る子みたいで、すらすらと答えた。ナギーはいつものあたし達の前で見せる姿とはうって変わって、酷く緊張した様子でしどろもどろだった。何をやっているんだろう。あたし達の前であれだけ人のこと酷評しておいて、こんなプリント配る科目プリント見ればいいのに。
 あたしがさっきの授業で当てられた時のような不穏な空気がたちこめて、あたしは欠伸を噛み殺した。おじいちゃんのような先生が行う化学は、授業を聞いてもよくわからない。だけど、この先生は空白の入ったプリントを授業ごとに配るから、それを教科書を見ながら埋めていった。
 埋め終わって先生を見ると、違う生徒を当てていた。プリントを終えてしまって、暇になった時間はこれで今日は終わりだし抜けようと思った。本音は放課後を友達とあまり居たくないのだ。幸い色白で黒髪のあたしは体が弱そうに見えるらしく、手を挙げて体調不良を訴えるとおじいちゃんは、お大事にねと言って保健室行きを許可した。
 行き先は保健室でなく屋上だ。この前行ったから、屋上の場所は把握していて直行する。
屋上の入り口は南京鍵がかかって立ち入り禁止になっていた。先日南京錠の種類を確認してホームセンターで買っておいた同じタイプの南京錠の鍵を差し込む。思った通り開いた。
 じゃらじゃらとドアに巻かれていた鎖の大きな音がする。それを持って屋上に入って、入り口の脇に置いておいた。少し陰になった場所に腰を下ろして、制服の胸ポケットから煙草を取り出した。空は白く、青く、疎らに雲も見えるいい天気だ。それから、上着を脱いで、横に置くと、煙草に火をつけた。
 一口、二口、くらいでがっちゃんとドアが開く音がして、直ぐに煙草をもみ消した。携帯灰皿に隠すような余裕は無かったから、吸殻の上に手を置いて隠す。
「おー、今年は早いな鍵開けて入る子」
 白衣を着た女の人があたしに近づいてきた。あたしは一応会釈をしたけれど、何のための会釈だったのか自分でもわからなかった。
「ああいうのはね、開けたあと外側から鍵かけないと他人入ってくるから気をつけないと」
「そうなんですか」
「どうやったの?」
「同じ南京錠買って鍵手に入れました」
「あーそりゃあそうか、量産型だもんね」
 女の人、多分先生だろう人は笑いながらあたしに話しかけてくる。面倒だなと無表情を続ける。そんなあたしの態度にも怯まず、その人は隣に腰を下ろした。白衣をふわりと跳ね除けて、タイトなスカートから出ている細い足を斜めに曲げた。顔が逆光で見えにくかったけれど、隣で見ると中々整っていて、全てのパーツが綺麗にまとまっていた。おかっぱより少し長いボブの茶髪は、丁寧にブローされているのがわかる。
「ん?煙草臭くない?」
「さぁ」
「もしかして持ってる?持ってたら一本頂戴よ」
「……持っていません」
 先生はケーチーと口を尖らせて笑った。先生を横目に、流れる雲を見た。微弱な風のせいで、ほとんど動かないけれど、ゆっくりと雲は流れていく。キーンコーンと授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。屋上は凄く大きく聞こえて、驚いた。あたしも先生も動く気配が無い。それでも、無言の空間はいつも友達とはしゃいでいる教室より何倍も居心地が良かった。
「先生、こんな所に居ていいんですか?」
「前の時間は体育も無いし、外出中って札立てといたし大丈夫」
「外出中?」
「保健室、あなたが来るはずだと思ったんだけど来ないからさー、寂しくって」
 今ようやく保健室の先生なんだと知った。先生は笑いながら、保健室から一年の廊下は見えるのよと言った。あたしはそれにつられて初めて笑った。笑った口を押さえようと反射的に吸殻を隠している手を外してしまって、先生は大笑いしながら嘘の罰金として一本ねと言った。 

     

 先生とぼんやりとしていると、携帯が震えた。高校では携帯禁止なのだが、それより禁止の煙草を吸っている現状があるから、あたしは先生を気にせず携帯を見た。メールが届いていた。花音からで、大丈夫ー?皆心配してるよ。保健室居ないみたいだけど、もう帰っちゃった?鞄あるけど、どうする?という絵文字入りのメールだった。
 思いっきり溜息をついた。
「どうしたの?」
「……友達、が、心配して見に来たみたいで、どこにいるのって」
「呼べば?って雰囲気じゃないわね」
 あたしが弱く笑うと、先生は煙草を消して、保健室戻りましょうと笑った。以心伝心して貰えたことが嬉しくて、大人しく従って保健室に戻った。
 保健室の前で花音らと合流して、先生がちょっと吐いちゃってトイレ行ってたのよ、と言い訳をしてくれた。その言い訳を信じた彼女らは大丈夫ー?と甲高い声を上げて、あたしを包囲した。本当に心配しているんなら放っておいて欲しい。
「今日はこのまま帰っちゃうね、部活一緒に見れなくてごめんね」
「いいよそんなの!!気を付けてね」
「もし辛かったら私一緒に帰ろうか?」
「ううん、大丈夫。ありがと」
 よっしーの申し入れを笑顔で断る。セーラ様やナギーが口々に大丈夫ー?という間延びした声を出して、面倒臭くなってきたから、適当に逃れて鞄を取りに教室に戻った。彼女らは昼ご飯の時に部活を一緒に見に行こうと言っていた通りに、体育館に向かったようだ。あたしが抜けた四人で何を話しているかの想像がついて、また溜息をついた。
 教室で教科書を鞄に詰め込んでいると、教室に残っていた女の子達に声をかけられた。バカの一つ覚えのように大丈夫?、大丈夫?と言ってくる彼女らにも、あたしもバカの一つ覚えのように大丈夫と返した。こんな実りの無い声ならかけないで欲しい。

 一人で駅に向かい、その途中で携帯で祖父母の家に電話をした。おばあちゃんが出て、今日行きたいんだと告げると、待ってるよと返って来た。通学路の途中の駅、普段降りる手前の駅近くに母方の祖父母の家がある。小さい頃からよく預けられたせいもあって、あたしは祖父母が大好きだ。あたしを育てたのは祖父母と言ってもいい。
 音楽を聞きながら乗った電車は思ったより空いていて、あたしは端っこの席を陣取ることに成功した。対面の長い座席に座った人達は、高校生も、大学生らしい人も、おばさんも、男も女も、皆携帯を見ていて気持ち悪さを感じた。この人達から携帯を取り上げたら発狂するんじゃないだろうかって思う。ふと横を見ると横のお姉さんも携帯を見ていた。鞄の中からおじいちゃんに貰ったブックカバーに包まれた文庫を取り出して読んだ。
 あたしは携帯を取り上げられたら発狂するような人間になりたくない。
 定期区間内だからお金の心配をせずに改札口を抜けた。駅から十五分くらい歩いて祖父母の家に着く。チャイムを鳴らさずに玄関の扉を開けて、ただいまーと大声を出す。部屋の奥からお帰りーという声が聞こえて、おばあちゃんが出てきた。
「おばあちゃん今から魚屋さん行くけど、一緒に行くけ?」
「じゃあ行くー、鞄置いて行ってもいい?」
 置いていかれ、と言われたから素早く革靴を脱いで部屋に上がった。おじいちゃんが夕方のニュースを横目に新聞を読んでいたから、ただいま、魚屋行って来ると声をかけた。
「今日サッカー日本戦あるぞ、舞」
「マジ、見る!」
 おじいちゃんはご飯食べながら見るか、と手を振った。いってらっしゃいのジェスチャーだ。日本戦があることは知っていた、だから来たんだ。一人で見たくなかったから。でも知っているって何故か言えなかった。多分おじいちゃんもそれをわかっていると思う。
 押入れの扉に鞄を立てかけて、おばあちゃんと外に出た。魚屋でおばあちゃんの知り合いに会って、あらーもう高校生とか、もしかして新都なのー、頭良いわねーと言われて苦笑いをした。もう制服で外出るのは止めようかと思ったけれど、制服を着れるのはこれが最後になるだろうから着倒そうと思い直した。
「ばあちゃん知らんかったけど舞ちゃんの学校凄い頭良いがけ?」
「そんなでもないよ」
「そうかー、舞ちゃんそんな頭良いなんて知らんかったわ」
 知らなくていいよって言葉を飲み込んで、まさかと笑った。若草色の紙で包まれた鯛のお刺身を入れたビニール袋を揺らさないように歩いて、二人で途中の八百屋で春キャベツとブロッコリーを買った。八百屋でまた魚屋と同じやり取りをしたから、また苦笑いをしておいた。  

     

 初めの一悶着は部活を決める時。
 あたしは部活を積極的にやる気なんて全く無くて、部員が少なくて活動をしなくていい部活を探していた。そこで、部員数二名で一人は登校拒否者、一人は留学中という夢のような部活、生物部を見つけてそこにしようと思った。よっしーは元々サッカー部のマネをやるって言っていたから問題は無くて、花音とセーラ様はバスケ部に行こうかなって言っていたけれど、ナギーがバレー部にしないかと譲らなかった。そしてあたしもバレー部に誘われて断るのに骨が折れた。
「マイちん絶対バレー楽しいって!生物とか何すんのかわかんないもん」
「えーあたしもう運動部はちょっとさー」
「てかバレー部に皆で入ろうよー、うちらだったらバレー部牛耳れるって」
「あははーそれ楽しそうだけどさー、やっぱ私バスケだわーごめんねー」
 お昼休みにご飯を食べながら、完全に四対一になったナギーは少し不機嫌になった。それを見て花音が、いいじゃん人それぞれで、と言って、場は険悪になった。はっきり言って花音の言葉は至極真っ当で、正論なのだけど、あたしは肯定出来なかった。肯定したら余計にこじれるし、面倒になるに決まっているから。よっしーとセーラ様が必死に場の空気を取り戻して、あたしもそれに乗っかって何とかその時間をやり過ごした。

 その日の夜、あたしがお兄ちゃんと車で喋っていると、ナギーからあたしとセーラ様にメールが来た。開いた瞬間、文字の多さで陰鬱になって、読みたくなかった。でも放置するわけにもいかないので、読むと、花音を誹謗する内容で、もっと陰鬱になった。花音の昼休みの発言を挙げて、酷いだとか、最初は自分とセーラ様とあたしのグループだったんだとか、自分の名前を付けて自分らの島に入ってきたくせにとか、錯乱でも起こしたかと思った。
 何がしたくてこのメール内容を書いたのか、これであたし達が自分の味方になるとでも思ったのか。
 顔を顰めてメールを読み、少しリクライニングが倒れたシートに寄りかかるあたしに、お兄ちゃんも察したのか、どうした、と声をかけてきた。あたしが携帯を渡すと、お兄ちゃんはそれをざっと読んだ。
「何こいつ、島ってウケんだけど。意味わかんねぇ」
「あたしも意味わかんないよー、どう返せばいいのこれ?」
「島って、何、舞ら島なの?」
「島なわけないじゃん!」
 それから結局メールの返事は思いつかなくて、あたしとお兄ちゃんの間でナギーは出島というあだ名に確定した。車の中でお兄ちゃんに愚痴を言って、お兄ちゃんの愚痴を聞いて、コンビニに寄って、お兄ちゃんにフェラをして、時間になった。
 お兄ちゃんに家の近くまで送ってもらって、その後セーラ様からの的外れっぽいメールに合わせてあたしも返信をした。核心には触れず、それでもナギー、花音双方の肩を持たないセーラ様のメール内容を参考にした。それに対して、ナギーから長いメールが返って来たけれど、今度こそはシカトをした。

 家に帰ると珍しくお母さんが帰って来ていて、祖父母の家に行っていたと嘘をついた。お兄ちゃんとはコンビニで買った物を食べただけでお腹が減っていたが、祖父母の家に行っていたと嘘を付いたから夕飯は食べれなかった。でも、お母さんが飲んでいる横でそのツマミを少し貰ったのと、先ほどのメールで胃がいっぱいになった。


 
 第二の一悶着はあたしが居ない帰り道で起きていた。
 そもそもあたしは電車の方向がよっしーと同じで珠に一緒に帰る。生物部はいつでも帰り
放題なのだが、よっしーはそういうわけにはいかず、あたしが残っていた時は一緒に帰るという形だった。
 生物部は理科実験室の隣の教員待機室を部室としていて、そこの鍵が与えられ、自由に過ごせた。教員待機室には冷蔵庫もソファーもあり、極楽は近い場所にあったと喜んだ。ただ、小汚いのが難点だったが。この大事な場所を穢されたくなくて、友達には何も教えなかった。
 あたし達と同様に、ナギーとセーラ様、花音が同じ方向に帰っていた。その三人が普段どのように帰っていたのかは知らない。興味もあまりない。それでも普段通り皆部活に行って、帰宅して、次の日学校に来たらあたしとよっしーはセーラ様と花音に普段使わないトイレに連れて行かれた。話の内容は昨日ナギーがいつもの待ち合わせ場所に居なかったから待っていたら、先に帰っていたということだった。
 ぶっちゃけ、何が問題なんだ。先に帰るくらい。確かにメールしなかったナギーにも非はあるかもしれないけれど、目くじら立てることじゃないと思う。三人で喚いている横で、個室トイレの壁に寄りかかって、煙草を吸いたいと天井を見上げた。

 さらにあたしの居ない所で面倒事は起きた。

     

 その日は中間テストの直前で皆で勉強しようかという話を朝からしていた。ただ、放課後あたしは適当に入った図書委員会の集まりがあったから明日から勉強会に参加させてねと笑っていた。何故この時期に集まりをするのか意味がわからないが、シカトするという選択肢は無い。
 以前の悶着はしつこく後を引いているようだったけれど、あたしは見て見ぬフリをしていた。完全に花音とナギーは不仲になっているようだった。いつも通り話もするし、机をくっ付けてご飯も食べるが、二人の間に会話が弾むことはない。
 体育で更衣室に向かう移動の間も花音がトイレに寄ろうかと言ったのに、ナギーは先行くねと言ってさっさと行ってしまった。あたしとセーラ様、よっしーは酷く気まずい思いをしたけれど、花音は諦めているみたいだった。その分四人で体育が終わった後飲む用の紙パックを買って更衣室に向かった。体育が終わった後、四人で飲み物を飲んでいるとナギーがこちらを睨んだ。

 そしてその後、放課後に決別の時は来た、らしい。らしいというのは先に言ったようにあたしは図書委員会でその場に居なかったから聞いた話でしかないためだ。

 決別の事件を知らないあたしは、次の日いつもと同じ不穏な空気を感じながら学校に居た。よっしーがあたしに振り向いて声をかけようとした時、ナギーが凄い勢いであたしに話しかけた。
「マイちんおはよー、宿題やったぁ?よくわかんないトコあってさー」
「ん、どこー?あたしもあんまわかんなかったけど?」
 普通の会話を続けたが、その後何故か昼ご飯を学食に誘われた。不審に思いながらも、承諾した。そこで何となくわかった、ああ、この人は一人になりそうなんだな、って。授業時間ギリギリまであたしの机で粘って自分の席に帰って行く姿を見て、切ないものを感じた。必死にあたしを繋ぎとめようとしているんだ、可哀想に、と同情心が生まれた。
 あたしだって別に今のグループに満足しているわけじゃない。あんな人の悪口ばっかり言って盛り上がっているグループに。きっと別れて個別になれば悪口ばかり聞かなくて済むだろうなって心のどこかで思っていた。だって、実際よっしーと二人で帰る電車の中では悪口なんかより二人が好きなサッカーの話題で盛り上がっていたし。
 情けは人の為ならず、この言葉の勘違いされている意味をこの時思い出していれば、そんな行動に出なかったのかもしれない。けれど、あたしはナギーを助けてあげようと思ったのだ。その時、断面的な価値判断しか出来なくて、あたしは分裂を選んだ。
 その後、あたしとナギーは二人で学食に行った。二人で手にお弁当を持って、場所を取って、タダで飲み放題なお茶を飲んで、話をした。ナギーは安堵したような表情であたしを頼っていた。上級生が沢山居る中で、あたし達一年は浮いていたけれど、そんな事どうでも良かった。あたしは一人の人を救ったような気分になって、自己満足していた。

 あたしが自らグループをぶち壊す道を選択したことを知らないよっしーは、その日の帰りに何故ナギーが一人ぼっちになってあたしに頼って来たかを教えてくれた。いつもはお互いに喋って先に最寄り駅に着くあたしが降りるのだが、その日はずっとよっしーが喋っていた。並んで座って、よっしーは昨日の出来事を教えてくれた。
 全く理解不能、何故そんな事になってしまうのかわからないのだが、放課後にナギーが体育の前に四人で飲み物を買ったことにちくりと釘を刺したらしい。そこで花音が切れたらしい。あーもう我慢出来ない、何なのマジでと言い、二人の口論になったそうだ。よっしーは具体的には言わないが、セーラ様も花音側に付いて攻撃的言動をしたみたいだ。セーラ様もきっとナギーの事良く思っていなかったみたいだから。
 そこで完全に亀裂が入って、勉強会は解散になったらしい。そして、今日の出来事、ナギーはあたしを仲間に取り込もうとした。あたしはそれを受け入れた。
「マイちん居なかったから、だからナギーそっち行ったんだと思うよ」
「あーまぁ、そうだよね、でも、まぁいっかなーって思ってるんだよね。何か可哀想だし」
「いいの?大丈夫?こっちは全然マイちん受け入れる体制あるし」
「一人とか可哀想だしさ、これは黙ってて欲しいんだけど、あたしどっちも味方出来る感じじゃないし。そしたら一人の可哀想な方に付くよ、うん」
「そっかー……」
「あ、でもよっしーとはこれからも一緒に帰ったりしたいけど、大丈夫?」
 よっしーは大丈夫と笑った。丁度そこであたしの降車駅に着いて、あたしはよっしーにバイバイをして降りた。電車を降りてドアが閉まるのを確認すると、舌打ちをして面倒臭ぇと呟いた。そこでよっしーに媚を売っておいた自分にも矛盾を感じて自己嫌悪した。

     

 家に帰って夕食を作る。お米をといで、少し水を吸わせている間に油揚げの油抜きをして、人参を短冊切りにする。鶏肉を一口大にぶつ切りをしている時にイラつきが湧き上がってきて、ごすんごすんと大きな音を立てて包丁を鶏肉とまな板にぶつけた。このイラつく思いをぶつけるために南瓜を力いっぱい切りつけて、煮物を作った。
 一人で夕食を食べて、自分の部屋に戻って、テストのための勉強をした。学校で配布されたプリントやノートと共に演習本を解き続ける。二回目くらいでようやく覚えられて、さらさらとノートに答えを書き写していく。
 次の日のテスト科目でやろうと考えていたノルマを大体こなすと、机に向かいながらピーラーをした。左手の人差し指から順に逆剥けを削り取る。夢中になって剥いていると、左の薬指の逆剥けは大きく肉を剥ぎ取って、血が滲んだ。薬指を口に含んで血を吸った。鉄のざらっとした感触が舌の上に乗る。生臭いけれど生々しくない死に近い匂い、鉄の味、さらりとした口当たり、最高に美味しい体液だと思う。
 指を吸いながら、自分が何にイラついているのかよくわからないことに気付いた。あたしは何がイラつくんだろう。自分で蒔いた種に近いのに。いや、わかっているんだ、きっと、ナギーとの二人で過ごすこれからは、今以上にイラつく日々になることが想像出来て。それを一時的な自己満足のために自ら招いた自分にイラついているんだ。
 薬指の血がある程度止まって組織液みたいな物が出てきたから、あたしは右手のピーラー行為にうつった。


 テスト自体は特に難なく終わった。まだ明日も続くけれど。テストが終わって一息ついていると、ナギーが寄って来て色々問題について文句を言っていて馬鹿らしかった。
「あの問題無くない?問題の意味自体がわかんないんだけどー」
「まーねー、何とか選択肢で絞る?みたいな?」
 あたしの机の横に寄りかかってナギーは顔を顰めて言葉を続ける。あたしは手元で参考書を開きながら話を聞き流していた。目の端に花音らが見えて、そっちも何かを喋っている様だった。教室内はざわついているけれど、テスト期間中ということもあって、いつものメンバーで集まっていない所も多い。だから、あたし達の分裂はそんなに目立っていなかった。
 それにしても、筆記試験に後からぐちゃぐちゃ文句を付けてどうするのか、あたしにはよくわからない。そう言った所で正解も不正解も変わらないし、点数も変わらない。無駄だ。そんな思いは微塵も出さずに、ナギーの愚痴に付き合った。じゃあ一体どんな問題だったら納得するわけ?という言葉はぐっと押さえた。

 その日はテストの後に英語の補講があって、あたし以外のクラスの人も文句を言っていた。テスト中にやるなんて意味わかんない。その愚痴はナギーとは分かり合えて、文句を言っている間に英語のヒエギ先生が入ってきて、ナギーは席に戻っていった。
 ヒエギ先生はテスト中にごめんなさいねーと大して悪びれもしていない様子で授業を始めた。あたしは明日のテスト勉強をしながら、授業を受けた。せめて明日にこの英語があれば良かったのだけど、明日は切ない事に化学と現代文と数Ⅰだ。
「次は若林さん、EX2を」
「……えっと、1は身体はいつも綺麗にすべきです。2はこの花瓶はとても高価かもしれません。3は見つからないものとあきらめるべきです。」
「はい、1と2はいいですけど、ふふっ、3はmightですよ?mightにそんな使い方ありましたか?」
「……さぁ」
 あたしの受け答えに先生は大きく溜息をついて正解を述べた。あんたが溜息つく前にあたしがつきたいっつうの。笑いながら嫌味言ってくんじゃねぇよ、間違ってるんだったら間違ってるでいいじゃねぇかよ。この時期にイライラさせんじゃねぇよ。
 当てられる人があたしから次の人に移ってから、あたしはテスト勉強を放り出して昨日組織液まで出して痛めつけた左の薬指を弄った。痛めている横から厚めの皮を剥ぎ取って、悪化させていった。

     

 中間テストは間も無く終わった。大失敗というのも無ければ、成功したというような教科もない、普通の出来だった。
 テストが終わってすぐナギーに打ち上げにカラオケかサイゼでも行かないかと誘われたが、断った。お兄ちゃんとの約束があったからだ。断った時凄い顔をされて、ただ只管に謝った。予定が重なった事をこんなにも謝らなきゃならない理由が理解できなくて、イライラした。ナギーはあたしの前では仁王立ちで眉をしかめて文句を垂れていたが、あたしから離れると酷く気落ちしているように見えた。 
 その後メールで花音にも打ち上げに誘われたけど断った。花音達の打ち上げは豪勢で、花音達以外にもクラスの男子が数人来るらしかった。メールで先約があることを告げて、また謝った。花音はじゃあ仕方ないねと絵文字付きのメールが来て、花音と目配せをし合って頭を下げた。あたしが思っている以上に花音達はあたしの事を裏切り者とは把握していないみたい。もしかしたら、よっしーが何か口添えをしてくれたのかもしれない。
 そのメールをして、学校を出る前にトイレに行こうと廊下を歩いていると、クラスの男子に声をかけられた。
「悪ぃ、若林今日どこだっけ?」
「は?何のこと?」
「あれ?今日の打ち上げお前来ないの?」
「ああ、あたし予定あんだよね、だから行けないの、花音達に聞いて」
「マジかよー、ま、そっか、わかったわ」
 名前もきちんと覚えていない男との会話を終えて、男は軽く手を振った。あたしはごめんねー、楽しんでーと手を振った。今日は何度無駄に謝れば済むのだろう。
 トイレに入って化粧直しを済ませた。化粧直しと言っても皮脂を取ってグロスを塗り直して香水をつけるくらいなのだけど。そして、お兄ちゃんとの待ち合わせのコンビニに行った。
 コンビニで色々な新作をチェックしていると、お兄ちゃんが入ってきた。髪の毛がぴっちりと頭に張り付いて、グレーのスーツを着ているお兄ちゃんは少し野暮ったかった。薄っぺらい素材のスーツにネクタイの青のストライプだけが悪目立ちしている。
 お兄ちゃんが何かを買って会計を済ませてコンビニを出た後に、あたしも声もかけずにコンビニを出てお兄ちゃんの車に乗った。いつもコンビニを集合場所にした場合はこう。女子高生と付き合っているってことは淫行だか何だかで捕まる可能性があるから隠したいらしい。全くこの国は面倒くさい。十六から結婚出来るくせに成人とセックスしたら淫行で成人が捕まるって仕組みに矛盾は感じないのか。あたしは経済能力もない十代の男と結婚する気なんて起きないけどな、と思いながら無言で車内で煙草に火をつける。
「舞、走り出してからにしてくんね?」
「ごめん、堪ってて」
「やべ、今のエロく言ってみてよ」
「いーやーだー」
 あたしがしかめっ面でそう言うと、お兄ちゃんは舌打ちをして、ぶっさいくと笑ってから自分の煙草に火をつけた。狭い密室空間で吸う煙草は本当に美味しい。制服なんかに臭いがすごくついてしまうけど、最高に幸せな空間だ。
 車を走らせてお兄ちゃんの家に向かう。その間にお喋りをしていると携帯が震えた。覗いてみるとナギーからメールが届いていた。
「出島からメール来たよ」
「面白かったら見せろよ」
 開くとまた長文で、面白いよとお兄ちゃんに申告した。内容は花音達が打ち上げに行くのを見かけたらしくて、男引き連れて盛り付いた雌猫みたいとか言っていて意味がわからなかった。どう見ても妬みにしか見えない文章だった。
 お兄ちゃんの家に着いてから、お兄ちゃんがスーツと靴下を脱いでいる間にあたしは一本煙草を消費した。もうお兄ちゃんと会ってから五本くらい吸ってしまっている気がする。ベッドと壁に寄りかかって、煙草を吸っていると、お兄ちゃんがほいと手を差し出したので、その手にナギーからのメールを開いた携帯を乗せた。
「やっべー、出島マジ面白ぇ、何こいつモテねぇの?雌、猫、って!やべ、息苦しい」
「他人事だったら笑い事なんだけどさー」
「舞上手ぇー」
「ガチで笑い事じゃねーんだけど。あーマジでうっぜぇぇぇぇ!何なのコイツ意味わっかんねぇぇぇ!!知るかっつーんだよ、男と打ち上げしてぇんだったら自分で集めてやれよクソがよ。そんなにてめぇが中心になりてぇんだったら北極にでも行けよ、お前中心で地球回ってくれるっつーの」
 吐き捨てるように言うと、お兄ちゃんは舞ちゃん超怖いーと笑った。何だよ、あたしはこれに返信しないといけないのだ。今度は一対一だから、誰かのメールを参考にすることすら叶わない。煙草に歯形を付けながらメールの文面を考えていると、煙草の灰が溜まって短くなってきたのでヘッドボードの灰皿に押し付けた。
 ベッドの上で四つんばいになっているあたしに後ろからお兄ちゃんが圧し掛かってきた。首筋と耳に口付けされてくすぐったい。あんな暴言を吐いた後に欲情されたことに驚きだ。
 そのまま押しつぶされて、何度かキスをされると振り向かされた。目の前にお兄ちゃんの顔があって押し倒されている。あたしはお兄ちゃんにキスを仕返して、身体を入れ替えた。騎乗位みたいな体勢だ。
 お兄ちゃんの耳に舌を這わせながら、お兄ちゃんごめんね、堪ってて、と呟いた。ピーラー作業と煙草とセックスでストレス発散なんてあたしは本当に女なのか。そんな思いはセックスが始まってすこし経ったら忘れてしまった。

     

 つりそうになる腕で身体を支えながら、後ろからお兄ちゃんが挿入してきた。スカートを捲り上げられて、お尻を持ちながら動かれると屈辱的で気持ち良い。目の前の灰皿と目覚まし時計、ティッシュの箱が小さく揺れていた。
 お兄ちゃんは引き抜いてお尻に出した。右尻に生温い感覚がして、コンドームを着けてなかったことに気付いた。
「着けてないとか最悪ー、あたし無理、拭いてよ」
「足が……」
 お兄ちゃんは意味のわからない言葉を呟きながら、ティッシュに手を伸ばして拭いてくれた。少し変な感触のするお尻の上からパンツをはく。
 二人で壁に寄りかかりながら煙草を吸った。セックスした後の煙草は妙に苦い。
 舞、と声をかけてお兄ちゃんはあたしの左手を取った。そして、あたしの中指と薬指の爪にキスをした。どこぞの韓国人俳優みたいと思ったけれど、あたしはそれを煙を吐きながら見つめる。
「また逆向け剥いただろ?痛々しい」
「別に誰もそんな所チェックしないよ。あたし学校に友達居ないし」
 友達居ない、は嘘かもしれない。友達面して付き合う相手はいるから。心を許した友達、親友が居ないと言ったほうが正しい。
 キスされた指先は、気持ち悪い生温かさと柔らかさがあって、むず痒かった。組織液が出るほど抉った指先に舌先が何度も当たって、舌で抉られているみたいだった。お兄ちゃんの舌が猫みたいにざらついて、そのままその肉を抉ってくれればいいのに。煙と菌で汚れた舌から、あたしの皮膚を侵食してそこから腐り落ちるようにしてくれればいいのに。
「くすぐったいよ……」
「口寂しい」
「……煙草無くなった?」
「いんや」

 

 朝はいつも早く学校に行く。よっしーとたまに一緒になったりしていたけれど、最近はよっしーの電車より一本遅いので行っている。一緒に学校に行っているのをナギーに見られると面倒臭そうだから。
 始発から三本目の電車に乗って椅子に座る。乗車率六十パーセントくらいの車両で、あくびをしながら文庫本を広げた。図書館で借りた薄汚い本に挟まった栞を取る。トミーの星型の栞は星の先が曲がってしまっている。
 降車駅に着いて、電車から降りると、隣からおはようと声が聞こえた。男の声だったので、知らない人だと無視をして改札口へ進んだ。その声の主はあたしの横に来て、もう一度どもったような声でおはようと言った。
 顔を右に向けると、同じ学校の制服を着た知らない人が立っていた。知り合いかよくわからなくて、顔をガン見したが、ガチでわからなかった。
「おはよう」
 とりあえず、挨拶は返した。二人で歩きながら改札を抜けた。
「あっあの、姿見えたから、早いね若林さん」
「そんな事ないよ、朝練?大変だね」
「いやっ、僕は朝早く自習室に行くのが好きだから。家って勉強出来なくて」
 あたしもーと言いながら、何故か一緒に学校に向かう。誰だお前とは口に出せなくて、適当に名前についての言及は避けて会話を続けた。朝の明るく清潔な空気にあたしとその男の組み合わせはチグハグのように見える。目を合わすとすぐ目を反らされるし、真っ黒な髪の毛に少し白髪が混じっているし、学ランの下は普通にワイシャツを着ていそうな普通のダサい部類の男だ。鞄は多分パタゴニアと思われるリュック、というよりザックだ、大きくて登山用みたい。
 クラスメイトの名前と顔と声のデータをフル回転させるけれど、何分容量が少ない。目立たない、しかも男の名前なんか覚えてない。大体何であたしになんか話しかけてきてるんだ。
 結局最後まで名前はわからなくて、教室で別れた。荷物を教室に置いてあたしは生物室に向かったからだ。席の場所はわかったから、後で授業で当てられた時にでも確認しておこうと思った。

 ホームルームで教室に戻ると、ナギーは朝練から帰って来ていて、色々と愚痴を聞かされた。それでも、先輩で凄い人が居るとか、同学年ではボスを張れそうだみたいな話が聞けて、良かったねと素直に頷けた。大分あたしも慣れてきた。
 ホームルームでヒエギ先生が早々に担当のテストを返却してきた。教室内がざわめいて、目立つ男が先生に早すぎて心の準備出来ねぇと言って、皆が笑う。確かに、早い返却に凄いなぁと思うけれど、何となくあたしはこの先生が好きでなく、自クラスだけ早いんじゃねぇのと肘を付いて眺めていた。
 あたしは出席番号で言うと一番最後だからぼんやりと配布を見つめる。
 つうか判り易過ぎる。きっと良い点だろうと思う人にはヒエギ先生は笑顔で、悪い点だろうと思う人には無表情だ。あんなんなら、張り出された方がマシだ。
 花音は軽く笑顔、ナギーは無表情、セーラ様は笑顔。どうやら今朝喋った人は立花君と言う人で、笑顔で返却を受けていた。よっしーが立ち上がって、続いてあたしも立ち上がった。
「はい、若林さん」
 笑顔で答案を返されて、睨みながら、どうもと返答した。得点は八十三点だった。こんな点数で笑顔で渡すんじゃねぇよと左手の人差し指で親指の逆向けを逆立てた。
 やっぱりあたしこの先生とはきっと合わない。

     

 点数が悪かったらしいナギーに存分に愚痴を聞かされて、休み時間、昼ご飯、午後は終わって、あたしは生物部の部室に向かった。雨が降っているから、外でするはずの部活が廊下で基礎トレーニングをしていて邪魔だった。サッカー、野球、テニス、陸上、思えば色々外でやる部活ってあるものだ。
 部室に入るとそのままソファーに倒れこんだ。持っていた鞄は勢い良く床に投げ出されて、あたしと同じ体勢になる。
 ソファーは煙草臭くて、カビ臭くて、変な臭いがする。部屋干ししたバスタオルを濡らしたような臭い。飛び込んだ勢いでスカートが捲りあがってパンツが丸見えになっているけれど、あたし以外誰も居ない部屋だから気にしない。
 飛び込んだ勢いで顔をソファーに擦り付けて、グロスが取れた唇の皮を逆立てる。真ん中から少し飛び出た皮を削り取って、剥ぎ取る。少しだけ捲れあがった皮はあたしを誘う。おにぎりの①の縦線みたいに、ポッキーのオープンの入り口みたいに、マジックカットではなくて、入り口があるの。どこからでも切れるなんて逆に自由を失わせるみたいで気持ち悪い。
 ソファーの上にあたしの唇の皮が剥ぎ落ちて、気持ち悪いから床に落とした。消しゴムのカスと同じ、剥ぎ落ちたらもう不要物。
 
 廊下からどこかの部活の声が聞こえる。いちにいさんし、にいにいさんし、さんにっさんし。
 何もかもが嫌でイヤホンをして、最大限のボリュームにして音楽を聞いた。耳が取れてしまいそうだったけれど、少ししたら慣れた。



 次の日はナギーはご機嫌だった。部活で良いことがあったらしい。適当に聞き流して、あたしは笑っていた。その日はテスト返還はなく、あたしは一人胸を撫で下ろした。一人じゃないのかもしれない、クラスの大半はテストが返って来ることに恐怖を感じているのかもしれない。
 ヒエギ先生の授業はもうテストも返してしまったから、普通に進んだ。廊下を見つめながら授業を聞く。少しだけ予習する習慣が生まれて、わからない単語と熟語だけ調べてある。完全に和訳なんかはしていないけれど。
 次々と生徒が当たっていく。次はあたしの番だ。
「じゃあ次の段落、若林さん、和訳して下さい」
「はい。彼女は顔を真っ赤にした。とたんに彼女は持っていた黒板を振り上げ、彼の頭をめがけて振り下ろした。その瞬間に、大きな音が響き、彼の頭の上で黒板が粉々になった。彼の一言で彼女は理性を失った。先生の、何をしているのですかアンという声が響いた。彼女は真っ赤な顔で彼を見つめていた」
「はい、結構です。一つだけ言うならば、彼の頭の上で、ってところですね。uponやonといった接続詞は難しいですよね、ここは間違い易いので皆さん気を付けましょうね」
 そう言ってヒエギ先生は黒板に図を書き出した。間違い易いのでって。何だそれ。
 今まであたしが間違ったら鼻で笑ってたくせに何だよこの態度。たまたま間違い易いのにあたしが当たったのか。いや、絶対違う。この女はテストの成績であたしへの態度を豹変させたんだ、絶対。何だこいつマジで。
 あたしが睨んでいるのを気にも留めず、ヒエギ先生は嬉々として黒板の図の説明をしていた。バカらしくてあたしはノートを見つめて、下を向いていた。

 ヒエギ先生の授業が終わって、昼休みになって、あたしはナギーと食堂に向かおうと弁当を掴んだ。
「ごめーん、マイちん。今日バレー部の子と一緒に食べるって約束しちゃった。ごめんね」
 ナギーはあたしに手を合わせてそう言うと弁当を掴んで走って教室から出て行った。
 あたしは弁当を掴んだまま固まった。
 ちょっと待ってくれよ。
 じゃああたしは今日一人で食べろってことなの?あたしが気を利かせてあんたと食ってやってたんだよ?あたしがどれだけ我慢してあんたがクラスから孤立するのを防いでたと思ってんだよ。何だそれ。
 あたしはそのまま弁当を持って部室に入った。埃っぽい部室は、何も言わず、あたしを受け入れてくれた。
 その時気付いた、ああ、弁当を一緒に食べるのを逃げるって手段をあるんだってことに。
 あたしは笑いながら弁当を食べた。酷く美味しく感じて、涙が出て来た。今日は色々重なって、記念すべき日だ。独立記念日だ。インディペンデンスディだ。

 それからあたしはナギーを避け続けた。逃げ通した。もうナギーに対する同情や憐憫の気持ちは生まれてこなかった。存外あたしは極悪非道なのだ。自分が一番大事なのだ。
 あたしはクラスで一人になった。ナギーはクラスで二番目の地位にあるグループの下っ端的な地位になった。そして、あたしの高校生活の立ち居地がようやく決まって、あたしのピーラーは少なくなった。
 期末試験でもあたしはそこそこの点数を取り、その後は花音達の打ち上げに参加して結構楽しい時間を過ごし、夏休みがあたしを迎えた。

       

表紙

53 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha