結局、彼女の家を出たのは日が暮れてからだった。公園を抜けて、僕の住むアパートに帰る。雨は未だ降り続いて、僕の足取りを鈍らせた。
 昨夜、どうやら鍵を開け放しで家を出て仕舞ったらしい。緩慢な動作でドアを開けると、玄関に綺麗に揃えた靴があるのに気付いた。赤と黒の、チェック模様のラバーソール。持ち主には、心当たりがあった。よく聞くと、ダイニングの方から鼻歌も聞こえる。
「人の家で何してるのさ」
 そこにいたのは思った通り、僕らのバンドのヴォーカルだった。ダイニングの椅子に座って鼻歌を歌う彼女は、PEACE NOWのカットソーに、ALGONQUINSの安全ピンの付いた赤いチェックのジレと、同じシリーズのミニスカートを合わせていた。スカートの中にはパニエが入っているらしく、裾からは黒いフリル状の、固いレースが覗いていた。
「次のライヴが決まったから電話したのに、君、出ないのだもの。だから直接伝えに来たら鍵が開いてるから、中で待たせてもらったのよ。それとも君、女の子を外で待たせる方がお好みだったかしら」
 そういえば、携帯電話を置いて出たのだったか。机の上に置き去りにされた彼は、寂しそうにちかちかとLEDを光らせていた。
「見てないわよ、中」
「君には前科があるからね」
 彼女は肩を竦めると、また鼻歌を歌い出した。携帯電話を開くと、着信が三件、迷惑メールが二件、入っていた。着信はいずれも目の前にいるヴォーカルからだ。
「それで、何時なの。ライヴは」
「来週の土曜」
「来週。またちょっと、急過ぎないか」
「佳いのよ、これで。だって来週の土曜日よ。とても光栄だわ」
「何の事さ」
「矢っ張り知らないのね。イベントがあるのよ。去年一緒に行ったでしょう、"S&M's"。お呼ばれが掛かったの。ね、光栄でしょう」
 S&M'sとは、三ヶ月に一回催されるイベントで、アマチュアからインディーズの音楽アーティストを中心として開催される。アンダーグラウンドでは有名で、自分から出たいと申し出ることは出来ず、主催者側からのオファーで出演が決まるのだが、今回は僕らのバンドに白羽の矢が立ったらしい。
「でも、何故こんなにぎりぎりになってオファーが来るんだい」
「一組、欠番が出たらしいの。本当は次回の候補に入っていたのを、急遽繰り上げたのだって」
 それからは、二人で当日のセットリストなどを話して終わった。泊まる、などと言い出すことは目に見えていたから、終電がなくなる前に追い出すようにして家へ帰した。駅まで送る、と言う僕に惨めだわ、と返して、彼女は去った。雨はもう止んでいるらしい。今しがた出て行ったヴォーカルの傘が忘れ去られていた。明日は、大学へ行かなくては。ぽつねんと置き去りの傘を見ながら、一つ、ため息を吐いた。