「もう、行くね」
「冷たいの、ね。相変わらず」
「また、次の練習で」
 身支度をして、時折びくびくと体を痙攣させる先輩を置いて第一音楽室を出る頃には、もう外は暗くなっていた。そこから地元の駅に着くまでの記憶は、なんだか断片的でしかない。大学の門を出て、気付けば駅で電車を待っていて、また気付いたら電車の中で、そうして気が付けば、地元の駅の改札だった。綺麗に拭き取ったはずの粘液の匂いが、厭に鼻につく。薄れていたつもりの吐き気が、いよいよ酷くなった。
 何と無くそのまま帰る気にはなれず、ふらふらと日の落ちた街を徘徊した。見慣れた街が、なんだかよそよそしい。ギターを重く感じるのは、いつ振りだろうか。ずっしりとした重さは、罰にも、癒しにも感じられた。
 自宅の貧相なアパートの前を通り過ぎ、そのまま市民公園まで歩く。街頭の点いた市民公園を歩くと、少しだけ心が安らいだ。見上げた月のクレーターに、うっすらとした笑顔が、目に浮かぶ。満月には少し足りない、歪な月。ふらふらとした足取りは、自然にあの人のマンションへと向かった。僕は、つくづく哀しい生き物なのだろう。

「あら、いらっしゃい」
 チャイムを鳴らすと、彼女はすぐに出てくれた。一瞬の驚いた顔の後、またいつものうっすらとした笑みに変わる。今日は黒いナイトドレスに身を包んでいる。
「風邪は、もう良いんですか」
「ええ。おかげさまで。
 おあがりなさいな。今、紅茶を煎れるわ」
 言いながら、彼女は部屋の方へと歩いて行った。振り返る瞬間、一瞬眉をひそめたように見えた。
「お湯を沸かすから、その間にシャワーを浴びたら如何。着替えは貸してあげる」
「でも」
「佳いから。ミントティーで佳いかしら」
 曖昧に答えた僕は、靴を脱いでそのまま洗面所へと向かうことにした。申し訳ない気持ちもあったが、それよりも汚れた体を流したかった。部屋の方から、かちゃかちゃと食器のぶつかる音が聞こえている。服を脱いでふと見遣ると、洗面台の鏡が外されていることに気付いた。枠の端の方に少しだけ鋭い破片が残されている所を見ると、どうやら割られたものらしい。なんだか淋しげに映るその破片は少しだけ、僕に、似ていた。

 淡い薔薇の芳りを纏って浴室を出ると、僕の服はどこかへ消え、代わりに黒いベルベット織の、高価そうな洋服が綺麗に畳まれていた。広げてタグを見ると、MIHO MATSUDAとある。ゆったりとした、それでいてラインの綺麗なローブのようなワンピース。着てみると、サイズも調度よかった。MIHO MATSUDAはブラウスの印象が強かったから、少し驚いた。
 その格好で部屋に行くと、彼女は口角を緩やかに上げて目を細めてくれた。
「矢っ張りね。似合うと思ったわ。サイズも調度よさそうだし。私には、少し大きいのよ」
「ありがとうございます」
 借りたワンピースは、着心地が好かった。彼女の声もまた、耳に心地好い。
「座って。お口に合うか、わからないけれど」
 そう言って彼女がポットから煎れてくれたミントティーを、彼女の向かいに座った僕は一口、口に含む。瞬間、爽やかな芳りが口腔いっぱいに広がった。思わず、笑んだ。この部屋に来てから段々と薄れていた吐き気が、すっきりと消えていった。向かいには、うっすらとした微笑が僕を見ている。相変わらず彼女の痣は、その美しさを破壊せんと鎮座し続けていたが、その破滅的な青紫色は同時に彼女に頽廃的な美を付与していた。
 言葉は、なかった。時計が夜を進める音に、時折紅茶を啜る音が交じる。それらは揃って、混凝土製の壁の中へ消えていく。何時間経ったろう。いや、ほんの数分かも知れない。彼女の凛とした声が、静謐を震わせた。
「今日は、バンドの練習かしら」
「大学へ行きました。練習も、したけれど」
「あら、あなた、学生さんだったのね。随分冷たい目をしているから、何と無く意外だわ」
「人より少し、厭世的なだけです、屹度」
「後ろ向きね。好きよ、そういう感性は」
 ふふふ、と、彼女は愉快そうに笑った。冷たい目、と言われたのは、初めてではなかった。けれど、不快さはない。
「今は、一人暮らしかしら」
「はい」
「そう。なら、門限の心配はなさそうね。
 なんなら、お布団を敷きましょうか」
 からかうように、彼女は言う。僕は、何も答えなかった。この期に及んで、何を期待しているのだろうか。僕は、立ち上がって卓から離れると、窓に近寄って外を覗いた。いつの間にか、雨が降っている。
「君、傘は」
「持っていません」
 そう答えると、唇に指を宛て、彼女は思案気に俯いた。そしてまた、おもむろに顔を上げる。うっすらとした笑みを浮かべたまま、彼女は言った。
「今夜は、泊まっていきなさいな。
 朝には屹度、雨も止むから」
「でも」
「もちろん、無理にとは言わないわ。ただ、ごめんなさいね。雨傘がないのよ、この部屋には」
 僕は、どうしたいのだろう。狂おしい程の感情に、眩暈がする。けれど、この感情をあらわにすれば、彼女は僕を嫌うだろう。疾うに失くしたはずの感情が、恐ろしい勢いで僕を揺さ振っていた。
 僕の首が、一つ、頷いた。屹度、この天鵝絨が不可ないのだ。ベルベットの光沢が、肌触りが、芳香が、僕を駆り立てるのだ。彼女が笑っている。その笑みに向かって、僕は深く頷き、笑みを返したのだった。