Neetel Inside 文芸新都
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 二人で少し、お酒を飲んだ。彼女に水を汲んだ時と同じ、赤いグラス。それと対になった、青いグラス。氷を入れた上から、お互いにカルヴァドスを注ぎあった。甘く、度数の強いお酒は、あのアンティーク時計のリズムと共謀して時間を無意味に変える。彼女がシャワーを浴びに行って、僕は独り残された。ざーっ、と、水の流れる音に交じって、ぱたぱたと雨粒がバルコニーを叩く音が聞こえた。
 僕は玄関へ向かうと、ギターケースを抱えて部屋に戻った。少し忍びない気もしながら、ベッドに腰掛けて弦を爪弾く。穏やかな曲だった。いや、穏やかなつもりだった。弦の震えにちらちらと昼間の光景がフラッシュバックする。先輩の喘ぐ声。愛液とスペルマの混ざった生臭さ。吐き気、吐き気、吐き気。ピックが強く、弦を弾く。段々とギターの音が重く、荒々しくなっていくのがわかった。脳の中枢をごりごりと削られるかのような、荒々しいなフレーズ。吐き気。それでも僕は、手を止められなかった。意志とは無関係に、僕の両手は僕自身を責め続けるのだ。ああ、吐き気が酷い。

 ふと、右手に何か、温かいものが触れた。顔を上げると、心配そうな面持ちの彼女がいた。
「ごめんなさい。
 でも、苦しそうな顔を、していたものだから」
 血の味がする。噛み締め過ぎて、食い破ったらしい。彼女が、微笑う。心配そうな貌のまま、うっすらと。頬を冷たいものが伝うのを皮切りに、僕はギターをベッドに投げ出し、彼女にしがみついた。そのまま、暴力的な口づけをする。彼女は、少しバランスを崩しながらも、頭を撫ぜてくれた。惨めだった。先輩を抱いた自分も、今涙を流した自分も、彼女に頭を撫でられている自分も。その惨めさを誤魔化すように、僕は乳房をまさぐり、痣を舐めた。彼女の肌は滑らかで、それが余計に僕の醜さを際立たせた。乱暴な僕に対して彼女は無抵抗で、ただ目を見開いて、屹と唇を結んで必死で堪えているように見えた。僕の手が、脚の方へ伸びる。刹那、
「ごめんなさい」
 消え入るような声が、聞こえた。薄く開いた唇から。相変わらず見開いた目からは、つぅと涙が流れている。
「ごめんなさい、パパ、ごめんなさい」
 小さな小さな彼女の呟きは、急速に僕を正気に戻していく。僕は彼女を解放した。彼女は、何も言ってはくれない。そっと痣を撫でると、一瞬びくりと身体を震わせた後、弱々しく微笑んで、ごめんね、と、そう言った。厭だった。もう、何もかも。自分が何より、厭だった。
「……殺して」
 その言葉が、自然に口をついて出た。しばしの沈黙の後、彼女がゆっくりと身を起こす。そのまま、腕を僕の首へと伸ばしてくる。ゆるゆると細く、美しい指が僕の首に巻き付く。少しずつ、力が込もっていく。今度は僕が、無抵抗だった。唐突に、強く、強く、力が入った。目玉の飛び出るような圧迫感とともに、暗闇が僕を包み込む。ともすれば、意識を失いそうになる感覚の向こうで、彼女はうっすらと笑みを浮かべていた。このまま、逝って仕舞えたら、それは幸せと呼べるのではないだろうか。
 高揚感の中で、僕は彼女を突き飛ばした。空気を取り戻した肺が、大袈裟なほどに劇しく、酸素を貪った。この期に及んで、僕はまだ生にしがみついていたいらしい。惨めだ。浅ましい。涙が止まらないのは、肺が苦しいからだろうか。劇しく嘔吐くのは吐き気の所為だろうか。息を荒げ、首を抑える僕の肩に、彼女の体温が被る。
「ね、いいのよ。私は、あなたが望むなら、いつだって殺してあげるし、あなたが望むならいつまでも守ってあげる。だから、だから、私の傍にいてね。愛してる、だから、傍にいて。ね」
 そう言うと、彼女は強く、僕を抱きしめた。出逢ったばかりのこの人が、どうしようもなく愛しかった。僕は彼女の耳元に口付けて、何も言わず、彼女を抱き返した。自分の浅ましさも、惨めさも、今この瞬間だけは、見ない振りをしよう。それが救いでもそうでなくても、今だけは。
 そうして僕らは、朝までそのままだった。何も言わず、僕らは朝まで、そのままだった。

       

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