昨夜の雨がなかったことのように、星は綺羅々々と光っていた。
「綺麗ね」
 あなたが、目を細めて言った。僕は何も応えず、ただ頷いた。日の暮れた街を、ゆっくりと歩く。あなたの歩調に合わせて、ゆっくりと。長い、クラッシュデザインの袖をひらひらとさせながら、あなたは嬉しそうな貌をしていた。ともすれば夜に溶けそうな僕らは、夜の端っこに隠れるようにして歩いた。やがて僕らの視界の先には、公園が見えてくる。
「昨夜は、すみませんでした」
 明瞭りと言ったつもりが、小さく震えた声にしかならなかった。彼女は、一瞬眉をひそめると、すぐにいつものうっすらとした笑みを浮かべて、首を振った。
「佳いのよ。私が、悪いのだから」
「いえ、僕がいけないんです。だから」
「私ね、怖いのよ」
 僕の言葉を遮って、彼女はそう言った。一瞬俯き、何かを思いつめたような貌になると、あなたは更に言葉を続ける。
「私が、小学生くらいの頃かしら。覚えているのはその頃から。父がね、私を毎夜のように抱くの。暴力を振るわれることも、多かった。それは結局、高校二年の冬に父が死ぬまで続いたわ。
 だから、今でもどうしても、怖くて。普段は男の人というだけで駄目なのだけれど、どうしてかしらね。君は、一緒にいても怖くない。昨日は少し、思い出して仕舞っただけなの。だから、ごめんなさい」
 彼女の告白を聞いて僕は、何も、言うことが出来なかった。いつもと変わらぬ笑みを、あなたは僕に向けてくれる。それがたまらなく、辛かった。沈黙の中、僕らは公園の中を歩く。
「顔を殴られたこともあったけれど、この痣はね、父に付けられたものではないの。生れつき。気持ち悪いでしょう。皆、そう言うの。つまり……つまり、そういうことなのよ。
 私が醜いから、醜く産まれて仕舞ったから、罰を受けているのね、屹度」
「そんなこと、ないです」
 あなたの、自嘲とも懺悔とも取れる言葉を、僕は否定した。
「あなたは、とても綺麗です。その痣も、精神も、とても、とても」
 長い沈黙の後、あなたは小さく頷いた。そっと僕の手に、彼女の冷たい体温が被さる。ありがとう、と、聞こえた気がした。頬が光って見えたのは、公園の瓦斯灯が明るかったから。遠くに誰かが立っていた。凝っとこちらを見ている気がしたけれど、今は何も気にならなかった。僕は、彼女を守らなければならない。その想いだけが確かだった。

 公園から帰って、彼女の部屋でミントティーを一杯飲んだ後、僕は彼女の家を後にした。ギターが、いつになく重い。なんだかそれは、まるで現実の重さのようで、僕の気を滅入らせた。切ったままだった携帯電話の電源を入れると、ディスプレーの右上の時計が『21:28』と、今の時刻を僕に告げていた。明日は、何曜日だったろうか。大学に行く気がしなかった。けれど、土曜にはライヴもあるのだし、行かない訳にはいかないだろう。先輩に文句を言われては敵わない。
 そう思った矢先に、手に持った携帯電話が震え出した。それはしばしの間止まらずディスプレイにはメールを受信したことを告げるアニメーションが連続する。電源の入っていない間に溜まったメールが、今一息に来たものらしい。三通あった差出人の名前は、どれも同じ名前だった。僕は溜め息を吐きながら携帯電話を折り畳むと、乱暴に鞄に放り込んで家路に着いた。
 案の定、家の前には先輩の姿があった。今日はBPNの、腕の部分が編み上げになっているブラウスに、同じくBPNのコルセットスカートを合わせている。パニエはなく、膝上までのソックスが可愛らしい。彼女は僕に気付くことなく、蹲って下を向いていた。
「中に、入って居たら佳いのに」
 僕が声を掛けても、先輩は動かない。近寄ってみると、微かに寝息が聞こえた。
「人の家の玄関で……」
 彼女の、酷く軽い体を抱き上げてドアを開けると、靴を脱いで中に入った。そのまま、僕のベッドへと彼女を運ぶと、ずっしりとしたロッキンホース・バレリーナを脱がせて玄関に置いた。そういえば、あの人のワンピースを着たままだったと、今更になって気付く。何と無く、そのままでいることにした。それは天鵝絨の着心地が好かったのもあったし、現実への細やかな抵抗のつもりだったのかも知れない。薬罐に水を注いで、火に掛ける。お湯が沸くのを待ってインスタントの珈琲を淹れると、砂糖もミルクも入れずにそれを啜った。安っぽい味が口の中に広がる。それはそのまま、この部屋の安っぽさだった。