ライヴの練習は滞りなく終わった。指の動きは縺れる事も暴れる事もなく、譜面を丹念に追う。調子が良い、という訳ではないように感じた。言うなればそれは、まるで機械の様で、音が息をしていないような、そんな感覚。僕は初めて、音楽が詰まらないと感じた。そんな自分が、酷く苛立たしい。食事に誘われたが、断って仕舞った。いつもなら落ち着くスタヂオの看板が、今日はなんだか酷く恐ろしい。気分が悪い。また、この吐き気だ。また。
 今日使ったスタヂオは、僕の最寄の駅から電車で15分くらいの所にあった。結局家に帰ることなく、真っ直ぐあの人の部屋に向かったから、着いたのは17:30くらいだったろうか。黄昏が街に充満している。この時間に外を歩くと、いつも無性に苦しくなる。そのまま溶けて仕舞いたいような、いっそ死んで仕舞いたいような、そんな気持ちになるのだ。
 だからだろうか。僕が、彼女の部屋の前の廊下から、下を見下ろしたのは。そのまま足を上げ、柵を攀じ登ったのは。このまま落ちたら、楽になれるだろうか。彼女は泣くだろうか。先輩は笑うだろうか。ギターが重くて、時間が掛かる。縱令ば今ここから飛び降りて、もう二度とギターを弾けなくなるとしても、置いて逝く気にはなれない。
 そうして完全に身を乗り出した瞬間、下にいる太った女と目が合った気がして、莫迦々々しくなってやめた。ため息を、一つ。今の風は、空は、世界は、少し気持ち好かったと、頭の片隅で思った。

 部屋のチャイムを鳴らすと、彼女はすぐにドアを開けてくれた。
「こんばんは」
 彼女が言う。今日は、白いナイトドレスをその身に纏っていた。
「こんばんは」
 僕が応える。そのやり取りが、何より愛おしい。
「どうしたの、今日は」
「この間、服を忘れて帰って仕舞ったので、引き取りに」
「そう。よかったら、お茶は如何。
 調度お湯を沸かした所なの」
「ありがとうございます」
 僕が靴を脱ぎ出すのを見て、あなたは部屋の奥へ消えた。磁器の触れ合う音が聞こえる。

 ミントティーを飲みながら、僕らは沈黙を共有した。話す事は見付からなかったし、そもそも言葉は要らなかった。アンティークの時計が、規則正しいリズムを刻む。
「君は、何故生きているの」
 突然、彼女が口を開いた。
「……え」
「君が生きているのは、どうして」
 僕は、言葉に詰まって仕舞う。答えが見付からない。死にたい理由なら、幾らでもあるような気がした。それはとても簡単なことで、生きることは最早、苦しむ事と同義だ。なら、何故。どうして僕は、生きているのだろう。
「……ごめんなさい。気にしないで。
 ただ純粋に、気になっただけなの」
「あなた、は」
 僕の向かいには、いつものうっすらとした笑み。今日はいつも優しいもの達が、みんな恐ろしく映る。
「あなたは、どうして生きているんですか」
 ミントティーを一口、彼女は口に含んだ。咽喉が僅かに脈を打ち、その液体を奥へと押し込む。それらの動作は酷く緩慢に見え、同時に一刹那にも満たないようにも見えた。
 カップを置いた彼女は、また元の表情に戻ると、明瞭りと言った。
「何もないわ
 私には生きている理由も、価値も、何もないの」
 まるで、それが当然であるかのように。そう言った。