Neetel Inside 文芸新都
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 気がつくと、部屋の中は窓から差し込む陽光で明るくなっていた。どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。ひどく、懐かしい夢を見ていた気がする。いや、懐かしいと呼ぶには、いささか破滅的に過ぎるかも知れない。しかしそれでも、僕に取って母との記憶は、首を絞められている其の瞬間さえも愛おしい、甘美なものだったのだ。



 あの日、幼い僕が目を醒まし、最初に見たのは白い天井で、腕にはチューブで透明な液体の入ったパックが繋がれていた。頭が痛かった。吐き気も酷い。母は、何処にいるのだろう。眼だけで辺りを見渡した。見知らぬ女の人が、僕が横になるベッドの脇で舟を漕いでいる。この人は、誰なのだろう。そういえば、父の姿も見当たらない。
 しばらく見ていると、ドアが開いて父が入ってきた。
 僕が起きているのに気付いた彼は、笑みを浮かべながら僕の調子を尋ね、今いる場所が市立病院だと教えてくれた。それから、彼が何を言っていたのか、僕はよく覚えていない。ただ、これからは母と暮らせないということだけは、明瞭りと理解出来た。
 父が帰る頃には、いつの間にか先程の女性はいなくなっていた。なんだか、酷く眠い。眠りに就く直前、このまま目が醒めなければ佳いのに、そう思った。いや、むしろ僕はあの時、母の手できちんと死んでおく可きだったのだ。死んでおく可きだったのだ。

 退院の日、父が迎えに来た。どうでも佳いことを、彼は話した。これからのこと。新しい家。小学校を転校すること。そして彼は、大事なことを話さなかった。
 新しい家は、病院から車で十五分程の所にある、マンションの二階にあった。
 父の後ろに付いて部屋へ上がる。玄関に、女性物の靴が一足、綺麗に揃えてあった。
「お母さん……」
 また、母と暮らせるのか。それまでの憂鬱が、嘘のように晴れていった。急いで靴を脱いで、父の後に続いてキッチンに入る。そこで、僕は酷い思い違いに気付く。
「お帰りなさい」
 笑顔で僕らを迎えたのは母ではなく、僕が病院で目が醒めたあの日、ベッドの横で舟を漕いでいた女性だった。
 母が狂気を抱いた理由が、少し、理解った気がした。

 それから時が経って、僕が高校二年生の時、妹が産まれることを知った僕は、一人暮らしをさせて欲しいと父に言った。
 許しは簡単に出た。二人にしても、いつまで経っても心を開かない僕の事を、疎ましく思っていたのかも知れない。
 母のことは何度父に聞いても教えてくれなかったから、自分で調べた。彼女はあの事件の後、精神病棟に入院することになったらしい。それを僕が知ったのは、高校三年生の頃だった。彼女の入院した病院を見付けたのは、それから更に一年後。もう、去年のことになる。そこへは、僕のアパートから電車とバスを乗り継いで四時間程かけてようやく辿り着く。彼女の実家のある町だ。
 今に至るまで、まだ、会いに行けてはいない。



 携帯電話の着信音で、僕の思考は断たれた。日の光の差し込む部屋に、Syrup16g。吐く血の女から、着信。
「もしもし」
『君、私からの電話なのだから、もう少し嬉しそうな声を出せないものかしら』
 電話越しの声は、僅かにくぐもって聞こえる。何も言わない僕に、彼女は小さく溜め息を吐くと、言葉を続けた。
『昨日の練習の後、なんだか様子がおかしかったでしょう』
「そんなこと、」
『随分青白い貌をしていたように見えたけれど』
「大丈夫だよ。何も問題ない」
『ふぅん、そう。
 それなら佳いけれど』
 先輩はいま一つ、納得していないような声を出す。
「そういえば、バンドの練習はどうなっているの」
『ああ、そうだった。
 もうライヴまでいくらもないのだから、一度くらいやっておいた方が佳いんじゃないかって、相談する積もりだったのよ』
「そうだね。
 明日の放課後はどうかな」
『うん、そうね。
 二人にはメールしておく』
「ありがとう。
 じゃあ、明日の学校で」
『もう、切って仕舞うの』
「……また、明日」
 強引に電話を切って、携帯電話をベッドに放り投げた。なんだかもう、今は何も聞きたくないように思えた。そのくせ、僕はどうしようもなく渇きを感じるのだ。体が冷たい。僕は今放り投げた許りの携帯電話を、もう一度取り上げた。

 

       

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