Neetel Inside 文芸新都
表紙

麗しき、殺意。
終りなき、追憶。

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「もしもし。うん、僕だけれど。先刻はごめん。……うん。いや、そうじゃない。今から、家に来れないかと思って。
 ……そう、ありがとう。じゃあ、待ってるから」
 通話の切れた後の不通音を聞きながら、僕は酷い自己嫌悪に襲われた。嬉しそうな響きの滲んだ先輩の声も、いつになく優しい響きを孕んだ僕の声も、どうしようもなく疎ましい。都合の良い自分が嫌いだ。それを理解った上で嬉しそうな声を出す先輩も、嫌いだ。
 電話を切ってから一時間もしない内に、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開ける。いつもよりいくらかラフな恰好で、先輩はそこに立っていた。
 今日はmonomaniaのロングTに、PUTUMAYOの背中に大きくプリントの入ったカーディガンを合わせている。下はミニスカートか、ショートパンツだろうか。Tシャツに隠れていて、履いているのかもよくわからない。真っ黒いニーハイソックスが情欲を誘う。
「早かったね」
「急いだもの」
 そんな簡単な会話を交わして、僕は先輩を部屋に招き入れた。カーディガンをダイニングの椅子に掛けて、彼女は僕の方へ向き直る。
「それで、どうしたの、急に」
 真っすぐに僕を見ながら、彼女は言う。
「どうということも、ないけれど」
 彼女がカーディガンを掛けたのとは反対の椅子に腰掛けながら、伏し目がちに僕は答える。
「そうは言っても君、今も酷い顔色だわ」
 何と答えて良いかわからず、僕は首を振ってさらに俯いて仕舞う。彼女は、呆れるだろうか。疎ましいと思うだろうか。今日の僕は、いや、近頃ずっとそうだ。夢の所為か、それともあの人の所為だろうか。この頃の僕は、どうにも弱すぎるのだ。
 反対側で、椅子を引く音がした。それに気付いた僕が顔を上げるのと、背中に先輩の体温が被さるのとは、ほぼ、同時だった。僕の胸に手を回し、肩に顎を乗せ、彼女はそのまま沈黙した。僕は抵抗もせず、かと言って抱き返すこともせず、ただ、抱かれていた。
「君は、細いね」
 喉の奥で笑うような調子で、先輩は言った。何故だか、無性に泣きたかった。哀しいのか嬉しいのか、寂しいのか安心したのか、それすらもわからないままに。泣くのは、惨めだ。先輩に抱かれている今が既に惨めなのかもしれない。だから、これ以上惨めになりたくなかった。これ以上、弱くなりたく、なかった。
 不意に、唇を柔らかい感触が覆った。ひやりとした、優しい感触。それは一瞬で離れたけれど、舌を絡め合うよりも尚、その感触を意識させる。
「……悪夢、みたいなものだよ」
 先輩は何も言わず、僕の肩に顎を乗せている。
「夢を見たんだ。小さな頃の夢。
 僕と、母と、父と、三人で……幸せだった時の、夢を」
 何も言わない先輩は、変わらず何も言わないままで、僕の頭を撫でた。
「戻りたい訳じゃない。けれど、あのまま僕らが三人で暮らしていたら、どうなっていただろうって、時々、考える」
 僕の頬と、先輩の寄せる頬との間が、静かに湿っていた。知ってか知らずか、先輩がゆっくりと口を開く。
「今だけでも佳いよ。忘れて、仕舞いなさいな。
 私はその為に、今ここにいるのだもの」
 今度は、僕が黙って仕舞った。
「忘却は時に救いだよ。
 都合良くいろんなことを忘れて、快楽に生きるのも悪くはないわ。
 だから、」
 「だから、」の、その先を尋ねようとした唇は、それを答えるばずの唇によって塞がれて仕舞った。そのまま熱い舌の感覚に、口腔を犯される。
 忘れるのも、悪くないのかも知れない。先輩の言う通りに、今、この瞬間だけは、そう思うのも佳いのかも知れない。
 僕は先輩の方に身体をよじって、彼女の小さい肉体を抱き寄せた。

       

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