浅い喘ぎ声が、部屋に響いている。部屋の壁は薄くはない。知らないのか、それとも知ってもあえてそうしているのか、抑え気味の先輩の声が、僕の腰のグラインドを加速させる。僕の息もまた、それに合わせて荒くなる。
「……っ」
 不意に、先輩の体が大きく反り返った。そのまま劇しく痙攣する。ぞくぞくと音を立てるかのように、下腹部の辺りから快感が這い上がってくる。
 僕は、先輩の首に手を添えた。上下する豊満な乳房と、皮膚を押して浮き出している肋骨。その対比を下に見ながら、僕はゆっくりと両手に力を込めていった。先輩は苦痛と快感の入り混じった貌で、顎を大きく突き出した。
 彼女の小さな掌が、首にかけられた僕の手を掴んだ。その手首を掴み、もう片方の手は首にかけたままで、布団に抑え付けた。絞めたり緩めたりを繰り返しながら、僕は彼女を犯し続ける。真っ白い皮膚の下で、先輩の肺が膨張しては収縮していくのが、よくわかった。
 何も、頭になかった。途中から、快感さえもあまり感じなくなっていることに気が付いて、僕はようやく彼女の首から手を離し、右腕を解放した。代わりに彼女を抱き起こし、座位の体勢をとる。先輩は夢中で僕にしがみついてくる。その姿が、ひどく可愛らしく見えた。

 彼女はもう、何度オルガスムスに達したのだろう。この時、僕が気を遣ることは、なかった。



「ごめんね」
 長い媾合の後、同じ床に入りながら、先輩は低く呟いた。僕は何も答えない。ただ、天井の一点を凝っと見ていた。彼女は僕を抱き寄せる。
「辛くなったら、何時でも、言ってね。
 私なら、何だってしてあげるから。哀しいならその哀しみを拭うし、寂しいなら、こうして隣に居てあげる。
 大丈夫よ。私は、変わらずに居るから」
 頭を撫ぜながら、彼女は僕に囁く。それを聞きながら、僕の心が錆び付いて、凍っていくのがわかる。先輩はもう、僕にとって油ではなかった。氷を溶かす、炎でもなかった。そうして仕舞ったのは、屹度僕自身だ。
「……みじめだ」
 低く、言葉が口をついて出た。
「こんな風に、先輩を囲うような真似をして、寂しさを埋めて。
 どうしようもなく、惨めだ」
「私のことなら、気にしなくて佳いのよ。
 私はしたくてこうしているのだし、抑々、セックスは嫌いじゃないのだし」
「それが惨めだって言っているんだ」
 思わず、声が大きくなって仕舞う。僕は先輩の手を振り払い、身を起こした。
「僕をそんな風に、憐れみの目で見ないでくれ。空虚な、僕の何をも理解出来ないくせに。
 何も。何もだ。
 中途半端な愛情を押し付けて、それで救われるのはどっちだよ」
 頭を抱えて喚き散らす自分自身が、どこか遠い。先輩の気配は確かにそこにあるのに、温度を感じなかった。無表情の気配が、僕を凝っと見ている。
「君は、なんだか変わったね」
 先輩の形をした気配が、ぽつりと言葉を吐いた。
「何となく気付いていたけれど、今、明瞭りわかったわ。
 君は変わった。或いは、変わりつつある」
「何、を、」
「私の知っている君はね、もっと冷たい人間だった。初めて君を見た時、声をかけずにいられなかったのは、君の眼がどうしても気になったから。
 冷たい眼よ。感情のない眼。これから大学生活が始まる日だと言うのに、君ときたら絶望しきったような貌で立っていて、そのくせ眼だけは全てを見下しきったように鋭かった」
 先程の怒声にも、まるで動じない様子で、彼女は話し続けた。温度のなかった曖昧な彼女の気配は失せて、今はただいつも通りの先輩がそこにいた。首を巡らせると、彼女はいつの間にか上体を起こしていて、真っすぐに僕を見ていた。
「君と日々を過ごす内に、私も変わったわ。幸せ、と言ってもよかったかも知れない。君のその冷たい眼差しが私を突き刺す度、言いようのない幸福が体を駆け巡る。それまでの私の毎日は、虚しくて寂しいばかりだったけれど、君との日々はそうではなかった。
 でも、ね。或る日気付いたのよ。君の眼は、冷たいだけなんかじゃない。それを越えた奥に、じきにわかってきた渇望や虚しさのそのもっと奥に、何かがあるって。私はそれに惹かれていたんだって。
 前に少しだけ、話したかも知れないわね。私はあなたの眼の中の、その氷を溶かしたくなった、って」
 覚えている。氷を溶かす、と、彼女は以前にも僕に、そう言った。けれど。
「それは、私には出来なかったね。それを悟った私は、肩書に拘泥わるのをやめた」
 かつて恋人だった僕らは、その関係を捨てた。
「曖昧で、でもだからこそ私たちの繋がりは強かった。強い、つもりだった。けれど、もう駄目なのかも知れないね」
 至極寂しそうに、先輩は言う。
「ね、愛していたのよ。私はちゃんと。
 君が私を愛している訳ではないのも理解っていた。一度も笑顔を見せてくれないのだって、ちゃんと理解っていた。
 でもそれでも、たとえ君がどう在ろうと、私は君を愛していた」
 何も言えなかった。彼女の言う愛というものも、それを彼女が僕に向けていた理由も。快楽主義の彼女は、それ故に僕と共に在るのだと、そうだと許り思っていた。
「……ごめんね、こんな話。
 今日は、帰る」
 先輩が布団から出ていく。一瞬で冷たくなった、めくられた布団。
「君は、変わった。今までの君だったら、屹度あんな風に、感情を晒け出すことはなかっただろうね。溶けた氷の隙間から、水が噴き出すみたいに。
 そんな君も、私は好きだよ」
 下着を身につけながら、先輩は話を続ける。横顔が、いつもと微妙に違った光を帯びている。
「いかないで」
 ぽつり、と、自分で聞き取るのがやっとというくらいの声が、洩れた。彼女は気付かない。ブラシエルのホックを止め、ベッドの下に投げ出した服を取ろうと、手を伸ばす。
 僕は、ほとんど無意識の内に、その手を掴んでいた。びくりと、先輩は身を震わせる。
「行かないで」
 先程より、幾分か大きな声で、僕は言う。
「行かないでよ。ここにいてよ。
 あと、少しだけでも、佳いから、」
 一つ、二つ、三つ。ぽろぽろと鱗の剥がれるように、涙が溢れた。今日は、もう駄目だ。泣いてばかりいる。まるで子供の頃に戻ったみたいに。こうして縋っていなければ息が出来ないみたいに。その相手は誰でも佳いのかも知れないし、先輩でなくては駄目なのかも知れない。何か、大切なことを忘れている気がしているのに、それすらも今は思い出せない。
 そんな僕を見て、先輩は小さく笑い、僕の手を優しくほどいた。
「大丈夫よ。私は、ここにいるわ」
 細い腕で、彼女は僕を抱き寄せる。そっと頭を撫でながら、彼女は言う。
「私はね、確かに君を愛していたよ。
 そうして今でも、私は変わらずに愛している。冷たい君も、怒った君も、今ここで泣いている君も、私は受け入れてあげる。
 だから、偶には笑ってみせてね」
 先輩の胸に抱かれながら、僕はいろんなことを忘れることにした。
 夢のこと。母のこと。あの人のこと。
 ああ、あの人って、誰だったろうか。
「……ごめんなさい」
 僕は、小さく、小さく呟いた。
 先輩は、何も言わず、ただ強く、僕を抱き締めた。