Neetel Inside 文芸新都
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「何か、食べたの」
 あなたは、靴を脱ぎながら僕に聞いた。後に続きながら、僕は答える。
「いえ、食欲が、なくて」
「そう。それなら、無理に食べることもないわね。
 ミントティーを淹れるわ。かけて待っていて」
「ありがとうございます」
 靴を脱ぐと、彼女はそのままリビングの方へ向かった。僕もまたギターを玄関に立てかけると、彼女に続いて奥へ入っていく。部屋は相変わらず片付いていて、無機質さを感じさせる静寂をたたえていた。変わらない時計の音は、変わらずに現実感を麻痺させ続けている。随分と永く、この部屋を訪れずにいた気がする。今はただ懐かしい。静寂が、非現実感が、―――あなたが。懐かしくも、愛おしい。
「なんだか、とても久しぶりという気がするわ。
 実際には、一週間と経っていないのに」
「本当ですね。僕も、もう随分と逢っていない気がしていました」
 あなたは、少しだけこちらを振り向いて、うっすらと笑む。僕は小さく笑みを返し、ダイニングの椅子に腰を下ろした。
 やがて、あなたはミントティーのポットと品のいいマグカップをソーサーに載せてこちらへやってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 しばらく、お互いに無言だった。時が停滞したかのような錯覚を、時計の音が打ち決している。一杯目の紅茶がなくなると、あなたはまたポットからまた新しいお茶を淹れてくれた。目の前にいるあなたの肌の様な、白く、美しい陶器。
「もう、ここには来ないかと思った」
 不意に、あなたの声が静寂を破った。
「この間この部屋を出た時の君の貌が、酷く、青ざめていたから。
 私を嫌って、二度とここへはこないんじゃないかって、すごく、怖かった」
「あなたを嫌いになることなんて、出来ないです、僕には」
 それは、どうしようもなく真実だった。僕は二度と、彼女から離れられないのではないかという感情に捉われていた。この部屋にくると、それを一層強く感じる。時計の音、彼女の笑み、ミントティーとカルヴァドス。そのどれもが、僕の心を強く掴んで離さない。もう二度と、この部屋から出たくはないとすら思うような感情が全身を麻痺させる。
「カルヴァドスを、下さいませんか。
 いつものゴブレットで」
「ええ、すぐに」
 彼女はまたいつものうっすらとした笑みを残して、冷蔵庫の方へ歩いて行った。硝子に氷が当たる、尖った可愛らしい音が聞こえた。
 グラスを受け取って、一口、琥珀色をした液体を口に含む。一瞬、母の手に収まった、半分ほどウィスキーの注がれたグラスが想起された。しかし、それすらも今夜は懐かしく思えた。いい夜だ。とても。
「旅行に、行きませんか」
 気づけば、口をついて出た。あなたは、逡巡するような素振りを見せる。
「母の故郷へ、行こうと思っているのです。
 母に、会いに行こうと、思うのです」
「お母様に」
「ええ。
 ずっと、勇気が出ませんでした。小さい頃に別離れたきりだったし、母が今の僕を気に入ってくれるかもわからない。忘れてしまってすら、いるかも知れない」
 カルヴァドスを一口、口に含む。あなたが手を伸ばして、ゴブレットを強請る。彼女にそれを受け渡すと、僕はまた言葉を続けた。
「今夜、あなたがあのライヴハウスへいらして下さったことで、決心が出来ました。あの暗闇の中の、うっすらと輝く笑みを見た途端、母に逢いに行かなくては、あなたと逢いに行かなくてはと、そう思ったのです」
 再びあなたが手を伸ばす。そこには最早液体はなく、ただ林檎の芳香だけが残っていた。
「私と一緒に行かなくてはならないのは、何故」
 あなたは、意地の悪いような、それでいて強い光に満ちた目で僕を真っ直ぐに見ながら、そう、問うた。
「あなたがいなくては、不可ないのです。
 何故とは明瞭りと言えないけれど、あなたがいなくては」
 彼女は、ついと横を向いた。髪の隙間から、青黒い痣が見えている。蛍光灯の下で白く映える彼女の肌の中で、ただそこだけが黒く沈んでいる。
「ええ、いいわ」
 僕を見ないまま、彼女は静かにそう言った。
「一緒に、参りましょう。
 お母様の所へ」
 今度はこちらを向いて、ふと、笑んだ。
 その笑みは、何かを諦めたような、何かを決めたような、いずれにせよそれは、いつもの彼女の雰囲気とは、違って見えた。僕は一つ頷くと、彼女にゴブレットを手渡し、もう一杯カルヴァドスを求めた。

       

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