Neetel Inside 文芸新都
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 どうやら、気を失っていたらしい。目が覚めた時には、外はもう夕方で部屋の中は夕日で真っ赤に燃えているかのようだった。頭に置かれた手の感覚に気づいてぐるりと首を巡らせると、あなたが傍にいた。うつらうつらとしているようで、目を閉じて時折頭が揺れている。ずっと、ついていてくれたのだろうか。彼女の顔は矢張り美しく、僕がその痣の深淵をじっと見つめているとあなたはゆっくりと目を開いた。眠そうな瞳を、ただ愛おしく思った。
「目が、醒めたのね。よかった」
「ずっとここに居てくれたんですか」
「ええ。と言っても、そんなに長い時間ではないけれど。
 おじい様がひどく心配なさっていたから、起き上がれるようになったら一緒にお茶の間に行きましょう」
「ありがとう」
 僕はゆっくりと体を起こした。息を深く吸い、吐く。なんだか先ほどまでの記憶と夢とが混線している。僕の目に、品の良い装飾の仏壇が飛び込んでくる。ああ、どうにも現実感がない。
「ゆっくりで、いいのだからね」
 あなたはそう言って、僕の手を握った。

 僕らがインターホンを鳴らす寸前、ドアを開けたのは六十歳を少し越えたと見える男性だった。彼は僕らを見止めるとちょっと怪訝な貌をして、すぐににこやかに声をかけてきた。
「何か、御用ですか」
 僕が言葉に詰まっている内に、あなたは代わりに事情を説明し始めた。その男性は表情が豊かな人で、終始目を白黒させながら彼女の話を聞いていた。彼女の話が終わると、うん、うんと何度か頷いて、こう言った。
「君のお父さん方とは疎遠だったから、生まれた時くらいしか会ったことはないだろうが、そうか、随分立派になって。
 僕は君の祖父に当たる。もっとも、そう名乗って良いのか僕にはわからないが。君は、あの子によく似ているね。入りなさい。娘に、挨拶してやっておくれ」
 そうして僕とあなたは、彼に導かれるまま母の生家に入っていった。繋いでいた手はいつの間にかほどけていて、何も言えない自分がどうにも、惨めで仕様がない。
 玄関はよく片付けられていて、傘立てと先に上がった祖父の靴をおいて他には何もない。僕らもまた、靴を脱いで後を追う。廊下は隅の方にうっすらと埃が積もっていた。
「何か、飲み物を用意しよう。ここで少し待っていてくれるかな」
 茶の間の前で一度僕たちの方へ向き直ると、祖父はそう言って奥の部屋へと消えた。僕はなんとなく茶の間に入るのが憚られたので、その場で立ち尽くしてあなたの手を求めた。しかし、あなたは家に入る時に脱いだキャプリーヌを両手で持っていて、それがなんだか僕への拒絶のように思えて、僕はあなたの手を取ることを諦めてしまった。
 しばし、静寂が充満した。それはあなたの問いかけに突かれて、すぐに霧散する。ひどく、安堵している自分に気づく。
「どうしたの」
「どう、って」
「こんなところに立ち尽くしているし、何より顔色が良くないみたい」
 あなたの真意がわからなかった。その目からは、何も読み取れない。
「それは、」
「おや、まだそこにいたのかい。こちらへ入っておいで」
 答える早くそんな風に祖父から呼ばれたので、僕らは茶の間へと入っていった。今、僕はなんと答えようとしたのだろう。ひどく穏やかな心地がする。だが、同時にその表面はひどく波打っていて、それは興奮を無理やり抑えるようにも、恐怖をひた隠すようにも感じて、不気味に思えた。
「飲みなさい、遠くて疲れたろう」
 そう言って祖父が置いてくれたのは、氷の入った麦茶だった。お礼を言いながら、それを上品な仕種で一口飲む。不思議な光景だ。あなたが麦茶を飲んでいるのが、なんだか可笑しい。
「僕も、いただきます」
 麦茶は冷たく、体に染み渡るようだった。そういえば、朝から何も食べていないのではなかったろうか。
 僕らが麦茶を飲み干す間、祖父は黙って僕らの様子を見ている。僕が最後の一口を飲んでコップを置くのと、祖父が口を開いたのはほぼ、同時だった。
「それでは、娘にあいさつをしてやってもらえるかな。
 きっと、喜ぶ」
「はい」
 自分の声が、ひどくうわずっているのがわかる。この時をずっと待っていたはずだのに、ここへ来て臆病になっている自分がいる。しかし、隣のあなたの存在が、僕を奮い立たせた。この場から、逃げ出さずにいられる。あなたの毅然とした横顔が、そうさせる。
「では、行こうか」
 祖父が、少しだけさみしい空気をまとった笑みを浮かべた。彼は立ち上がり、僕とあなたがその後を追う。通されたのは、仏間だった。
「母さん、は」
 祖父は、何も言ってはくれない。ああ、いけない、と、思った。この仏壇の扉を、開いてはいけない。そんな思いとは裏腹に、僕の手は扉に手をかける。祖父はまだ、何も言わない。ゆっくりと、扉を開いていく。目玉に針金を突きつけられたような、ちりちりとした痛みを覚えた。呼吸が、うまく出来ない。鼓動が早すぎて追いつけないくらいだ。ひどく、ひどく長い時間が過ぎたように感じた。ドアは少しも軋む音をさせず、それという抵抗もなく、こちら側へ開いた。
 心臓がものすごい速度で収縮していくような感触と共に、僕は呼吸を見失った。あなたと祖父の、僕を呼ぶ声が聞こえる。見開いた目がどんどん渇いていく感覚と共に、意識が遠のいて行った。
 仏壇を開けたそこにあったのは、にこやかに笑む年配の女性の写真の隣に飾られた、母のあの薄い笑みの写真だった。

       

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