Neetel Inside 文芸新都
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 目を醒ました僕に、祖父は申し訳なさそうに「聞かされていないとは思わなかった。すまないことをしたね」と、そう言った。
「あの子はね、もうしばらく前の事だけれどね、逝ってしまったよ。後を追うように僕の妻、つまり、君の祖母も逝ってしまった。だから今この家で生活しているのは、僕一人だ」
「詳しく、聞かせていただけませんか」
 祖父の言葉を受けて、あなたは神妙な面持ちで言葉を発した。僕はまたしても何も言えず、ただ現実感のない頭でぼんやりと祖父とあなたを見ていた。
「そうだね……。
 では、お茶を入れよう。もうこんな時間だし、今夜は泊っていくといい。少し、待っておいで」
 戻ってきた祖父は、滔々と語りだした。僕の知らない母の、その後の物語を。



「君の父親と離婚して間もなく、あの子は君たちが行ったあの病院の精神病棟に入院した。あの子は嫌がったが、仕方がない。強制入院だった。しばらくは私や妻とも口を利かず、水以外はほとんど食事も摂らず、ただ虚ろな目をして毎日をやり過ごしているようだった。自分の娘をこんな風に言いたくはないけれど、まるで廃人のようだった。左腕から伸びる点滴が、痛々しくて仕方がなかったよ。妻は毎日あの子の見舞いに通った。僕も週に一度か二度は、なるべく通うようにしていたね。でも、ある日を境に突然あの子が笑うようになった。ごはんもちゃんと食べるようになって、点滴もなくなった。昔のあの子に戻ったようで、嬉しかったことを、よく覚えているよ。
 半年ほど経った頃かな、あの子の様子を見たお医者様は、一時退院という形で退院を認めてくれた。三人で穏やかに暮らそうと、私と妻は思っていた。でもね、あの子は違ったんだ。どうやら、元気な自分を演じることで早期の退院を狙い、君たちに会いに行く計画を立てていたらしい。家に戻って一月か、二月経った頃、その計画をあの子は実行したんだ。気付いたのはあの子が僕らの家からこっそりいなくなった後だったが、幸い偶々駅に居合わせたお医者様に声をかけられ、大事には至らなかった。そこでそのまま電車に乗ってしまっていたら、どうなっていたかわからない。何せ、離婚の時の弁護士に断られて君たち家族の住所も知らなかったのだからね。お医者様から連絡を受けて駆け付けた僕らが見たあの子は、ここ最近の元気な姿が演じていたものだと思わざるを得ないものだった。駅員室の隅で、震えながら、ただひたすら、「ごめんなさい、もうしません、ごめんなさい」、そう言い続けていた。
 あの子は、それからまた目に見えて調子を崩してしまった。結局、お医者様の計らいもあって再入院することになったが、それからの二年は大変だったよ。入退院を何度も繰り返した。今となってはもう、あの子が演技をしていたのか本気で浮き沈みを繰り返していたのかはわからない。そうそう、調子のいい時のあの子はよく、僕らによく空想の物語を聞かせてくれたものだった。いつか君に聞かせるんだと、そう言いながら。その時のあの子があまりに幸せそうなものだから、つい君とはもう会えないであろうことを伝えられなかった。それは結局、あの子が逝ってしまうまでそうだった。
 あの子が首を括ったのは、三日間の仮退院の日の、二日目の晩だった。万全とは言えないが、どうしても妻の作ったご飯が食べたいという、あの子の強い希望でね。思えばそんなことを言い出したのも、最期の食事にすると決めていたからかも知れない。翌朝目が覚めると、あの子は既に死んでしまっていた。決して、綺麗なものではなかったよ。だが、締まり方の問題だったのか表情だけはとても穏やかだった。終わりというのは、本当にあっけないものだ。お葬式や、部屋の掃除が済んでしまえば、あの子はもう写真の中にしかいなくなっていた。家の中が落ち着いてからほどなくして、妻も病に倒れてしまった。残されたのは僕だけだ。僕もほとほと生きる気力をなくしていたが、あの子は遺書を残していてね。僕ら両親宛てと、君の父親宛て、それから君宛て。お世話になったお医者様宛ての遺書と、それとは別に封筒もあった。君たちが受け取ったのは、きっとそれだろう。よく残っていたものだが。君の父親と君に宛てたものは弁護士を通してそちらに送ったはずだったが、彼が読んだかどうかはわからないね。ともかく、病院に行った分のあの子の遺言は、果たされたわけだ」



 祖父の話を、僕らはただ黙って聞いていた。
「いけない、お茶が冷めてしまったね。淹れなおしてこよう」
 そう言って立ち上がった祖父の声は、心なしか震えているように響いた。あなたがちらと、僕を見た。
「気分は、悪くなってはいないかしら」
「ええ、大丈夫です」
「そう、よかった」
 実際、不思議と僕の心は穏やかだった。正直なところ、麻痺していたのかもしれない。母が自殺であろうことは、大方予想出来たことでもあったし、何度も僕らに会いに来ようとしてくれたことは、とても嬉しく思えた。遺書。母の遺した言葉。そこには何が書かれていたのだろう。
「父に、会わなくてはいけないでしょうか。母の遺書を受け取る為に」
「会いたくないの、お父様には」
「そう、なのでしょうか。許せない気持ちは、確かにあります。母を捨てて、追い詰めて、結局死なせてしまって。これから先だって、きっと許せないと思います。
 でも、優しくて幸せだった思い出の中には、好きだった父親がいるんです。でも、そうですね、やっぱり会いたくは、ないです」
「そう」
 あなたが呟くようにそう言うのと、祖父が戻ってきたのとはほとんど同時だった。祖父の目は心なしか赤くなっているように見える。
「待たせたね。さて、ここからは今の話をしようじゃないか」
 祖父が優しそうな笑みを見せた。
「ええ、そういたしましょう」
 あなたがうっすらとした笑みを浮かべながら、そう答えた。それで僕はなんだか安心してしまって、一つ、頷いたのだった。

「それで、あなたは普段何を」
 僕の大学の話がひと段落した頃、祖父はそう言ってあなたに水を向けた。それは僕らが、いや、僕自身がなんとなしに避け続けていた話題だった。あなたはさしたることもない風に、こう言った。
「実は、両親を早くに亡くしておりまして。今はその遺産で生活をしている状態です」
 ひどく、あっさりとした回答だった。そうして僕は、ふと気付く。あなたのことを、あまりよく知らない自分に。
「そうか。それは、悪いことを聞いてしまったね」
「いいえ、お気になさらないでください。この通り、生活に不自由はしておりませんから」
 あっけらかんと、あなたは言う。普段と比べて、心なしか明るく見えた。

 夕食は祖父の運転で材料を買いにスーパーまで行って、あなたが作ってくれた。「いい子だね、君の恋人は」と祖父が言って、僕はくすぐったいような心地がした。母の死を知ったばかりとは思えないほどに、穏やかな夜だった。なんとなく、母が死んだ夜もこうだったろうか、というようなことを考えていた。別々に風呂に入る間に、祖父が母の使っていた部屋に布団を並べてくれていた。それぞれの布団に入り、手だけを繋ぎながら僕は聞いた。
「あなたは、誰なのでしょう」
 ふふふ、とあなたは笑う。
「さあ、誰なのでしょうね」
「からかわないで、ください」
「からかってなんていないわ。ただ、どう答えたとしたってあなたは納得しないでしょう」
 図星を突かれた、ような気がする。そんなことはないと言い返すことは、僕にはできなかった。
「こっちへいらっしゃい。一人で寝るのは、寂しいでしょう」
 あなたが僕の手を引きながら、そう言った。言われるがままに、僕はあなたの隣に潜り込む。腕を伸ばして、あなたは僕の頭を抱きしめるようにして、撫でてくれた。
「今日一日、よく頑張ったわ。偉かったわね」
 惨めなのに幸福で、苦しいのに嬉しくて、僕は何も言えずにあなたの白いナイトドレスに顔を埋めた。少しだけ、先輩の事が頭をよぎる。けれど、それもすぐに曖昧になって、このまま何もかも忘れてしまえたらいいのにな、そう思った。
「私が何者であろうと、あなたが何者であろうと、そんなこと、さしたる意味なんてないわ。今、私の腕の中にあなたがいる。それだけが今重要なことのすべてだし、他の重要でないすべてなんて些末なことだわ。安心して、お眠りなさい」
 それきりあなたも黙って、しばらくして頭を撫でる手も止まって、僕もまた微睡みに身を任せた。
「おやすみなさい。
 私の愛しい――――」
 完全に眠りに落ちる突然、微かに、微かに、あなたの声を聞いた気がした。

 

       

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