Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 
 目が覚めた時、既にあなたの姿はなかった。それどころか、布団の中にはあなたの痕跡さえもなく、布団も、天井も、窓も、まるで見知らぬ他人のような貌をしていた。もぞもぞと緩慢な動作で、徐に僕は布団を抜け出した。頭を掻いてみる。寝惚けた脳を通して瞳が映す世界は、どうやら何の意味も持たないらしい。ふと思い立って、転がっている枕をかき抱いた。
「ああ、よかった」
 あなたの、髪の匂いだ。

 茶の間へ入っていくと、優しい味噌の香りが鼻をくすぐった。座卓に座った祖父はお茶を一口すすって、「おはよう」と声をかけてくれた。僕もあいさつを返し、台所に立つあなたの方へ向かった。
「おはようございます。朝食、作ってくださっているんですね」
「おはよう。ええ、そうなの。すぐにできるから、座っていてちょうだい」
 あなたは昨夜と同じ白いナイトドレスの上にエプロンを付けて、味噌汁の味見をしながらそう言った。礼を言って、僕は茶の間へ戻る。テレビではどこか遠くの殺人事件について報道していて、それはあなたの部屋の時計と似た効果をこの部屋にもたらしていた。
「出来ましたよ」
 あなたが盆に目玉焼きとベーコンを盛った皿を載せて現れた。
「や、ありがとう」
 祖父が配膳を手伝い始める。僕も何か手伝おうと立ち上がりかけたものの、二人からやんわりと制止を喰ってしまった。仕方なく、テレビに目を向ける。今度は人気の俳優が結婚したという内容だった。ぼんやりと、眺め続けた。そうしているとなんとなしにその俳優の顔が父に重なって、それきり僕は目をそむけてしまった。
「さあ、食事にしよう」
 祖父の声で、僕は我に返る。気が付くと配膳はみんな済んでいて、ちょうどあなたも卓についたところだった。「いただきます」と声をそろえて言うのは、もう何年振りだろう。あなたの料理は美味しく、とてもやさしい味がした。記憶の中の、母の味と似ていた。
「少し、意外でした。あなたが味噌汁を作るなんて」
「あら、失礼ね」
 上品な仕草で口許を抑えながら楽しそうに笑ってくれるあなたの姿が、ただ嬉しかった。祖父は僕ら二人をにこやかに見守っている。虚構みたいに、只管に幸福な食卓だった。
「今日はどうするんだい」
「どうしましょうか。ね、君はどうしたい」
「朝食を食べて落ち着いたら、帰ろうと思います」
 二人に水を向けられ、僕はすぐに答えた。帰ろう、と思った。僕たちの町、あなたの部屋へ。「寂しくなるね」と、祖父が残念そうに言うのに、「また来ます」、そう返した。

 祖父の家を出る間際、僕は彼から白い封筒を手渡された。背面には、ところどころ震えてはいるものの綺麗な字で、僕の名前が書かれている。しっかりと封がされているらしく、開けられた痕跡はなかった。
「これは」
「昨日の様子を見て咄嗟に嘘をついてしまったんだが、あの子の君への遺書は君のお父さんには送っていなかったんだ。ごめんよ。やはり、君が持っておくべきだと思って」
「ありがとう、ございます」
 途端に、封筒が重くなったように感じる。僕の様子を見て、あなたは丁寧に頭を下げた。あのうっすらとした笑みで、礼を言った。
「いろいろと、ありがとうございました。これでお暇させて頂きます。また、お会いできますよう」
「うん、いつでも遊びにおいで」
「はい、是非に」
 こうして、僕らは祖父の家を後にした。大通りに出て、タクシーを待つ。
「これから、まっすぐ駅へ行くの」
「ええ、そのつもりです」
「少し、吹っ切れたのかしらね。なんだか頼もしく見えるわ」
「そうでしょうか」
「そうよ。病院に行って、お医者様を探すつもりかと思っていたわ」
「病院へ行っても、もう、母はいませんから」
「そう、そうね。その通りよ」
 タクシーが滑り込んでくる。
「帰りましょう」
 そう言ったうっすらとした笑みが、記憶の中の母と重なった。

 たたん、たたんと軽快なリズムで、母の故郷を走る電車は僕たちをその地から遠ざける。駅と駅の感覚は長い。あなたは僕の対面に座って窓の方を向いている。窓から差し込む陽光で色素の薄い髪がいよいよ明るい色に見えた。
「こんな風にお出かけしたのは、大人になってからは初めてだわ」
 窓の方を向いたままで、目だけで僕を見ながらあなたは言った。心なしか、口許が笑んでいるように見える。
「ありがとうね。あの部屋の窓からは、いつも同じ景色しか見えないの。色んなことがあったような気がしたけれど、楽しかった」
「いえ、いえ、僕の方こそありがとうございました」
「いいところだったわね。おじいさまも、いい人だった」
「そうですね」
 僕も、窓の外を見た。今まさに、電車は乗換の駅に着こうとしていて、流れる景色のスピードが徐々に落ちているのが分かった。
「このまま二人、この町で暮らすのも悪くないかも知れないわね」
 あなたの言葉に、はっとして僕は向き直った。あなたの目は、まっすぐに僕の目を射抜いている。
「冗談よ」
 ふ、と目を細め、あなたは帽子を被った。電車が、完全に停まった。

       

表紙
Tweet

Neetsha