騒々しい、静寂。

 彼女は、美しい人だった。
 昼間、滅多に部屋から出ない所為で肌は病的に白く、日光に当たらない髪もまた、色素が薄い。綺麗な鼻。やや薄い唇。形の良い耳。光のない大きな目には、それでいて見る人を惹き込む魅力に溢れていた。
 彼女は美しい人だった。しかし同時に、とても醜い人だった。彼女の顔には、その左半分を覆うかのように、赤黒い痣があったのだ。触れた所で彼女に痛みはなく、その痣はただ、彼女の美しさを破壊するためだけに、そこに鎮座していた。生まれ付きだ、と、彼女は言う。これだけ広範囲だと、手術も出来ないそうだ。その絶望的な赤黒さに触れる度、僕は言う。「綺麗だ」、と。
 彼女と出遇ったのは、月の綺麗な夜だったと思う。いや、新月の晩だったろうか。どちらにせよ、真夜中だったことは確かだ。その日、自宅から程近い市民公園で、僕は六弦を弾いていた。五年前から始めたギターは、今ではかなり上達していた。嫌な事があるとギターを弾いた。辛いことがあるとギターを弾いた。涙の代わりに音を流した。嗚咽の代わりに旋律を響かせた。

 その夜も、苦しかった。
 組んでいるバンドのライヴが近かった。その所為だろうか。数日前からメンバーの間には、張り詰めた弓のような空気が流れていた。そして今日、その矢は遂に放たれて仕舞った。きっかけは、思い出せない。それ程些細なことだった筈なのに、一気に四人の心は離れて仕舞った。
 いつもならメンバーを取り纏める僕も、今日ばかりは役に立たなかった。それが歯痒くもあり、情けなくもあり、またメンバーへの憤りも手伝い、限界に達した。
 僕は夢中で弦を弾いた。アンプに繋ぐ事もせず、夜の端っこに隠れながら。歯を食いしばって、がむしゃらに。
 腕に重い疲れを感じて、手を休める。すると、静寂を押し退けて、小さな拍手が聞こえた。はっ、と気付いて前を向くと、そこには一人の女性が座っていた。いつから居たのだろう。真夜中だというのに、日傘を差している。alice auaaの、頽廃的なデザインの真っ黒いドレスと、それとは対照的な真っ白い胸元。モノクロ二階調に拠る、鮮やかなコントラスト。闇に溶け込むようなその姿は、まるで亡霊のようだ。ガントレットをした手が放つ、聞きように因っては間の抜けたようにも思える拍手だけが、妙に現実的だった。
「お上手ですね」
 出し抜けに、その女性は言う。僕は言葉を失った儘、立ち尽くしていた。うっすらとした笑みを浮かべた儘で、女性は再び口を開いた。
「今の曲、何と言う題名かしら」
「……特に、ないです」
 凛と響く問い掛けとは裏腹に、応える声はたどたどしい。
「即興、なのですね。素敵だわ」
「……どうも」
「あまり、邪魔をしては悪いわね。今夜は失礼するわ。また、聞きにきても佳いかしら」
「……どうぞ」
「嬉しいわ。では、また」
 最後に笑みを残して、女性は去って行った。僕はその後ろ姿が見えなくなるまで見送って、ゆるゆるとギターをケースに仕舞うと、いましがた彼女が消えて行った道を辿って、家路についたのだった。
 僕は、夜毎ギターを弾いた。その度、彼女はやってきた。三日もする頃には、何となくそれが当たり前に感じられた。バンドの方もなんとかまとまり、ライヴも無事に開けそうだ。
「明後日の日曜日、ライヴがあるんです」
 今夜も彼女はalice auaaを着ている。癖の強い左右非対象のブラウスを、これ程綺麗に着こなす人を僕は知らない。
「19:00からなんですが、遊びにいらっしゃいませんか。招待チケット、持ってきたんです」
「ありがとう。曲は、自分たちで書いたのかしら」
「ええ。大概、僕が詞も曲も作ります。そこにそれぞれがアレンジを」
「楽しみね。是非、遊びに行かせて頂くわ」
 彼女はいつもの笑みを浮かべた。僕もまた、釣られて笑う。なんだか気恥ずかしくて顔を背けた僕は、それを誤魔化すように、またギターを弾きはじめるのだった。
 小さな箱とはいえ、今日は初のワンマンだけあって、メンバーの顔には微かに緊張の色が混ざっていた。控室を出てステージに立つと、そこには30人程が集まっていたろうか。僕は客席を見渡した。しかし、そこに彼女は見当たらない。開演時間を過ぎて、僕らは演奏を始めた。ヴォーカルの歌う声に合わせて、六本の弦を掻き鳴らす。客席が気になってどうにも音に乗り切れない。曲と曲の合間で、僕は彼女を探した。しかし、どこにも彼女の姿は見えない。ライヴも終盤に差し掛かった。



だきしめて 骨が折れる程
くちづけて 血がにじむ程
殺して殺してあなたの愛で
殺して殺して私を殺して

抱きしめるの 骨を折る程
くちづけるの 血が滲む程
殺すの殺すのあなたを殺すの
殺すの殺すの私の愛で

溺れさせてよ あなたの愛に
笑いながら愛してるだなんて
ナンセンスだわ 反吐が出る
愛してるって首を絞めてよ
愛してるって首を絞めてよ ねえ

だきしめて 骨が折れる程
くちづけて 血がにじむ程
殺して殺してあなたの愛で
殺して殺して私を殺して



 ギターソロで、運指を誤ったかも知れない。何とも言えない空虚な感覚が、胸に広がっていた。ヴォーカルのMCが入る。僕は、最早客席に目を向けることもしなかった。



 その日、彼女が姿を現すことは、なかった。
 その夜の打ち上げに、僕は参加しなかった。ライヴハウスを出た時には23:00を過ぎていたから、市民公園に着く頃には日付が変わっていたと思う。
 どうして、彼女は来なかったのだろう。責めるつもりはなかったし、名前も知らない男のライヴに来る道理もない。わかっている。僕にしても、彼女に固執する理由は見当たらなかった。だが、それでも、どうしても、そんな理屈などより、虚しさが勝った。

 いつも僕がギターを弾くベンチには、先客がいた。ベンチに座ったその人は、僕を見付けると薄く、薄く、微笑んだ。
「ライヴ、いらして下さらなかったんですね」
「ごめんなさいね」
 ベンチに座ったままの、彼女の微笑は崩れない。今日は珍しく、BLACK PEACE NOWのカットソーに、同じメゾンのボックススカートを合わせている。足にはレザー素材のバンデージ・ブーツが膝下辺りまで高く編み上げられていた。
「人、集まったの」
 隣に座った僕に、色の見えない声で彼女は聞いた。
「ええ、それなりに」
 ぶっきらぼうに、僕は答える。そうじゃないのに。こんな風に突き放したい訳じゃない。そうじゃない。
「今夜は、弾かないの」
 なんだか、月の明かりが五月蝿かった。僕は精一杯の忌ま忌ましさを込めて数秒月を睨むと、無言でギターをケースから出して弾きはじめた。
 弦を弾いていると、昼間のヴォーカルの声を思い出した。そういえばあの歌詞は、半分を僕が書き、もう半分を彼女が書いたのだった。目を上げると、うっすらとした笑みと目があった。指が、動かなくなった。
「どうしたの」
 突然千切れた音に、彼女は怪訝そうに眉を潜める。
「何故、いらっしゃらなかったのですか」
 突き刺すように、僕は言った。
「ごめんなさい」
 彼女が俯く。真っすぐに切り揃えられた前髪に阻まれ、表情はわからない。月明かりを受けて、青白い横顔は幻想的な美しさを孕む。僕は、唇を噛みながらギターを片付け、その場を後にした。自分でも子供のようだと思いながらも、僕は、振り返ることもなく、家へと、帰った。

 次の日から、雨が降り出した。その所為で僕は、夜の公園へ出掛けることが出来なかった。大学へ行って、家に帰って、その繰り返し。彼女に謝りたかった。冷静になれば悪いのは自分だと、すぐにわかる。せめて、あのまま帰って仕舞わなければよかった。雨は止まない。
 悶々とした感情を抱えたまま、二日が過ぎ、三日が過ぎた。その日は、大学を休んだ。行く気になれなかった。それは雨の所為もあったけれど、本当のところは自分でよく理解っているらしい。僕は知らない振りをしている。
 気付けば、部屋は暗くなっていた。いつの間にか眠っていたらしい。時計は20:00を少し過ぎたところだった。空腹を感じて立ち上がる。が、立ち上がった途端に、一気に食欲が失せた。
「何、やってるんだろう」
 力無く呟くと、僕は傘を手に、外へ飛び出した。
 ぱたぱたと、雨粒が傘の上を跳ねる。何処へ行く当てもないくせに、僕の両足は明瞭りとした目的地を持って進んでいるようだ。頭の中では、只管知らない曲がリフレインを奏でていた。
 随分遠回りをしたように思う。それに、ゆっくり歩き過ぎた。携帯電話のチープなディジタル表示が、日付が変わったことを告げている。僕は、市民公園の前にいた。ああ、ギターを忘れて仕舞った。そんなことを考えながら、市民公園の中へと進んだ。雨は、変わらず降り続いている。
 市民公園は、それなりの広さがある。グラウンドや遊具、遊歩道があり、その片隅には小さな薔薇園があった。その入口の辺りに、いつものベンチはあった。自然と、僕の足はそこへ向いた。
 薔薇園の前に、人影があった。口の中が、一気に渇いていく。淡い期待を抱きつつ、僕は歩みを進めた。人影が大きくなるにつれ、僕の心臓は早鐘を打つように、その鼓動を劇しくする。
 ああ、矢張り、彼女だ。この雨の中を、傘も差さずに立っている。その立ち姿は、いっそ幽玄とも言える雰囲気を醸していた。僕に気付いた彼女が、顔を上げて微笑む。薄く儚い笑みが、さらに薄れて見えた。慌てて駆け寄って、彼女に傘がかかるようにする。
「風邪、引きますよ」
 ぽたり、ぽたりと、彼女の髪から水が滴っている。
「何、してるんですか。傘も差さずに」
「君を、待っていたの」
 澱みなく、彼女は答える。いつだってそう。彼女の声は凛と澄んで、耳に心地好い。
「君に、言わなくちゃ不可ない事があるの」
 そう言うと、彼女は何故か勝ち誇ったような笑みを浮かべた。怪訝な顔をする僕に、彼女は続ける。
「私の前でギターを弾くのなら、聴衆は私だけで佳い」
 僕が何か言う暇を与えずに、彼女は僕に唇を押し当てた。
 ゆっくりと唇を離すと、彼女はほうと一つ息を吐いた。
「私の前で弾く時だけで佳いの。


 私の為だけに、ギターを弾いてよ」
sage