寄辺ない、旅路。

 
 もう一杯カルヴァドスを強請って、僕は彼女の家を出た。別れ際の玄関で、僕らは軽い接吻けを交わした。不思議と、今夜はそれ以上あなたを欲しいとは思わない。ただ、少しだけ背負った六弦が軋んだ音を立てているように思えた。夜風は肌に心地好く、月は高く、ただ、雲が異様に低く見える夜だった。時間を確認しようと開いた携帯電話には、先輩からの着信が入っている。僕は、それを無視した。かと言って、電源を切ることもしない。アパートの階段を上る途中、またぞろ家の前にいるのではないかとも思ったけれど、僕の部屋の前にそれらしい影はなかった。シャワーを簡単に浴びて、今夜はそのまま眠る。微睡みの中、『吐く血』のメロディーが、聞こえた気がした。僕はそれもまた意識から追いやり、眠りの中へと落ちていった。

 翌朝早く、替えの下着とシャツ、それに財布だけを鞄に詰めて、僕は家を出た。駅には既にあなたが居て、僕を見留めるといつものように微笑んでくれた。足元に、シンプルなキャリーが置いてある。今日は、青い薔薇のコサージュとレースの目隠しの付いたキャプリーヌを被り、腕には肘上まであるガントレットをはめて、ATELIER‐PIERROTのブラウスにATELIER BOZのロングスカートを合わせていた。対して僕は、Black Peace NowのロングTにGADGET GROWの裾からシャーリングの上がったジーンズという恰好だったから、周りから見たら屹度ちぐはぐに見えたことだろう。それが可笑しくもあり、何となく嬉しくもあり、僕はあなたに少し、笑い返した。
 始発を待って、電車に乗り込む。よく晴れた日だった。僕らに会話はない。けれど、それはまるで苦ではなかった。やがて、最初の乗り換えの駅に着いて、僕はあなたの荷物を持って電車を降りた。あなたもまた、後に続いて電車を降りる。
「怖い」
 ホームで電車を待つ間、あなたは僕にそう聞いた。
「少しだけ。
 でも、あなたがいるから」
 僕はそう答えた。ホームに、電車が滑り込んでくる。この電車が、どんな終局へ向かうのか。僕にはわからない。けれど、あなたと一緒なら、どんな終局でも構わないと、そう感じていた。それはまるで、母を信じて疑わない、子供のように。

 たたん、たたんと、電車は小気味よい音を立てて進んでいく。僕らの他に乗客はまばらで、クロスシートの車両は静かだった。
「お母様は、どんな方なのかしら」
 不意に、あなたが口を開いた。僕はしばらく悩んだ後、母のことを話し始めた。
 母がどんな女性だったかを、幸せだった日々から崩壊までを、別れの前の凶行を、僕は話した。あなたは僕の顔を凝っと見つめ、時折頷きながら僕の話を聞いていた。淡々と、至極冷静に、僕は語った。こんなにも穏やかな気持ちで母のことを思い返すことは、今までなかったように思う。僕が母のことを語る間に、窓の外の景色は次々に変化していく。町の風景は街に変わり、また町になって、今度は緑が多くなる。トンネルの闇。一瞬見えた海の青。また、闇。僕が話し終える頃にはもう一度緑が濃くなって、やがて電車は見知らぬ街にたどり着く。あなたは黙ったままうっすらと微笑むと、ほとんど肉のついていない華奢な手で、話し終えた僕の髪を撫ぜた。何とも言えない落ち着いた気分が、心に満ちていった。母の住む町が、近い。

 電車を降りて、僕らはバスに乗った。見知らぬ街の中を、バスは進んでいった。他に乗客はいない。たいした会話のないまま、僕らは最後の乗り換えの駅にたどり着いた。切符を買って、ホームに出る。僕らの町を出た頃はまだ薄暗かったはずだけれど、今はもうすっかり日が昇っていた。知らず知らずの内に、僕の手があなたの手を握っていた。あなたはそれを、そっと、しかし確かに、握り返してくれた。
「もうすぐね、お母様に逢えるのは」
「ええ」
「屹度、お美しい方なのでしょうね」
「ええ」
「あなたに、よく似ているのでしょうね」
「ええ」
「もうすぐ、ね」
「……ええ」
 ここから電車に乗って、三駅。もう、すぐそこに、母がいる。そう考えると、息が詰まりそうな、狂おしいほどの感情に圧倒されそうになる自分がいた。もう、すぐだ。

 強く、手を、握った。
 
「そういった患者さんは、当院には入院していませんね」
 受付で母の名前を告げた僕に太った、しかし見るからに健康そうな看護婦は、カウンターの向こうでファイルを取り出し、それを面倒くさそうに検めながらそう答えた。
「待ってください、そんなはずはありません。
 母は、どこですか」
 思わず声を荒げた僕に、看護婦はびくりと体を震わせて、「お調べいたしますから、こちらで少々お待ちください」と言い残して奥へと小走りに消えていった。
 隣であなたが、心配そうに僕の顔を覗き込んでいるのがわかる。僕はあなたと目を合わせることはせず、ただ看護婦が去った方を食い入るように見つめていた。退院、したのだろうか。いつのことだろう。もしもそうならば何も言うことはないけれど、厭な胸騒ぎが、じわじわと心の底から噴き出しているように感じる。気持ちが悪い。
 先ほどとは別の、少し歳のいった看護婦が奥から出てきた。彼女は僕にもう一度母の息子であることを確認すると、伏し目がちに封筒を差し出し、
「この封筒に、ご実家の住所が入っています。いつかあなたがここへ来ることがあれば渡して欲しいと、ご両親に頼まれました」
 と、そう言った。
「どういう意味です。そこへ行けば、母に会えるのですか」
 声を押し殺して言う僕に、看護婦は答えない。代わりに、
「受け取って下さいますね」
 と、静かにそう言った。僕は返す言葉を持たず、その封筒を受け取るより他に術を持たない。礼を言うこともせず、そのまま踵を返して僕は出口へと向かった。あなたが慌ててついてくるのが、気配でわかる。大きな荷物も、手の中の封筒も、歳のいった看護婦も、僕を嘲笑っているように感じる。その全てが気の所為だとして、このどうにも形容し難い厭な気分はなんだろうか。
「待って、少し待って頂戴」
 後ろから、あなたの声が聞こえる。僕は尚も歩を進め、駐車場に入ったところで、足を止めた。あなたは僕の前に回り込む。何も言わず、ただ少し上がった息を抑えながら、じっと僕の目を見つめている。急に頭の奥が冷えていくのを感じた。手の力が抜け、固く握っていた所為でひしゃげた封筒が、軽い音を立ててコンクリートに転がった。片手で帽子を押さえながらあなたはそれを拾い上げ、その細く華奢な指先で丁寧に封筒の皺を伸ばした。ずいと、彼女は封筒を僕へと差し出す。
「行きましょう。
 私がいる。あなたには、私がいるわ」
 恐る恐る差し出した僕の手を、あなたはぐいと引き寄せてしっかりと封筒を握らせてくれた。あなたの瞳が、今まで見たことのない色で、力強く光っている。
 
 あなたに半ば引きずられるようにして、僕はタクシーに乗り込んだ。母の今も、あなたという人も、今の僕はただ恐ろしくて恐ろしくて仕様がなかった。病院で感じた吐き気は濃さを増し、厭な汗がじっとりと脇を湿している。視線を感じてあなたの方を見遣ると、あなたは微笑んで手を握ってくれる。それはいつものうっすらとした笑みと何も違わないように見え、決定的に何かが違うようにも感ぜられた。冷たい、手。
 母の生家は、病院から車で二十分程の所にあるらしい。窓の外の徐かな町は、僕のざわついた心情を嗤うように過ぎて行った。知らない町だ。あなたの方を見る。あなたはいつの間にか前に向き直っていて、表情はいつもの通り涼しげで、しかし目だけは何か、強い光を宿していた。タクシーに乗るときに脱いだキャプリーヌが膝に遠慮がちに納まっている。ああ、知らないあなただ。
「怖いのね、私が」
 僕の考えを察したかのように、不意にあなたが口を開いた。
「いいえ」
 僕は答えた。
「嘘でしょう。酷い貌をしているもの」
「……母は、元気でしょうか」
「どうかしらね。
 元気でいると、いいわね」
 あなたの口調からは、何も感じられない。色のない言葉だと、僕は思った。すぅ、と、脳の芯が冷える。あなたは、決して楽しんでいるようには見えなかった。かといって、僕のように何かを恐れているような印象も受けない。
「あなたは、何を考えているの」
 僕は問う。あなたが何を考えているのか、皆目見当もつかなかった。僕の手を引く意味は。母の行方を追う意味は。そもそも、僕と一緒にいる意味は。
「さて、ね」
 あなたは何も答えなかった。僕はなんだか拍子抜けしてしまって、曖昧に笑った。
「君は、」
 と、あなたは続けた。
「君は何を考えているの。お母様のことかしら」
 僕は、言葉に詰まってしまう。ああ、あなたはどうしていつも的確に僕の心を打つのか。もう少し痛みの小さな言い方をして欲しいと思う反面、それが些程嫌でもない自分がいる。
「ええ、母のことを」
 ようやく絞り出した声は、それだけをあなたに伝えて黙った。車のエンジンの音だけが、僕らの間に響いている。知らない町が、尚も後ろへと過ぎ去っていく。

 タクシーが止まった場所は、大きな平屋の前だった。表札を見るとたしかに母の姓が書いてある。
「ここね」
 あなたは先ほどまで膝に置いていたキャプリーヌを被り直し、黒いレース越しに朱色の屋根を眺めた。ここへ来ても、やはり涼しい目をしている。今日のあなたは、あなたの目は、なんだかオパールのように様々な色に煌めいているように見えた。
「やはり、ここまで来ても緊張します、ね」
 僕は服の上から早鐘のようになる心臓を押さえつけながら、途切れ途切れにそう言った。あなたが、僕の手を握る。あなたの手は冷たかったが、その冷たさはむしろ僕を安心させた。ゆっくりと、インターホンに手を伸ばす。指が、触れる。
 と、その時だった。がちゃり、と大袈裟に重い音を立てて、家の錠前が開く音がした。ゆっくりと、ドアが開いていく。僕は思わずあなたの手を強く、握りしめてしまった。あなたもまた、僕の手を強く握り返す。ドアが開いたそこに立っていたのはまぎれもなく、美しい母の姿だった。
「母さん」
 もう十年以上も経つのに、何も変わっていない。変わらず、美しいままだ。母が僕の名を呼んだ。驚いた貌で。もう一度、呼んだ。
「母さん、会いたかった」
 僕がやっとの思いでそれを言うと、母はこちらへ近づいてきて、門を開けてくれた。
「私も、会いたかったわ」
 母が、薄く笑う。目に涙を浮かべて。
「そちらは、どなた。恋人かしら」
「僕の、とても大切な人。
 彼女がいなければ、ここまで来ることは出来なかった」
 あなたは薄く笑って、帽子を脱ぎながら丁寧に礼をした。
「そうなの。はじめまして。
 とにかく入って。疲れたでしょう」
 僕らは母の手の誘うまま、家の中へと入って行った。

 客間のようなところに通されてしばらく待っていると、母は祖父母を連れて戻ってきた。それから僕たちは様々な話に花を咲かせた。大学のことも話したし、音楽をやっていることも話した。父のことは話さなかった。あなたも、母も、祖父母も、にこにこと笑って僕の話を聞いてくれた。とても、幸せな時間だった。夕食には母と祖母の作った料理を食べた。母の作る食事は美味しく、僕の好物ばかりが並んだ食卓は見目にも楽しかった。ああ、夢のようだと、僕は思った。
 その晩は、母の生家に泊まることになった。あなたと別々にお風呂に入って居る間に、空き室に二つ布団を敷いてもらった。ああ、なんだか時間が過ぎるのがとても早い。こんなにも幸せなら、どうしてもっと早く来なかったのだろう。母は退院して、病気ももうすっかり良くなって、穏やかな毎日を過ごしていると言っていた。どうして僕らの町へ戻らないのかと聞いたら、僕や父の迷惑になりたくないからと言っていた。けれど、僕が望むならもう一度戻っても良いと、僕らの町へ越して、父と再婚しても良いと言ってくれた。出来る事ならそうして欲しいと、僕は返した。眠る前、あなたとキスを交わした。あなたの唇は矢張りひんやりとしていて、興奮で火照った体に心地よい。
 その夜僕らは、互いの布団に潜り込んで、手だけを繋いで、眠った。

  
 



「ねえ、いつまで夢を見ているつもり」



 その一言が僕を、急速に覚醒させた。



 厭だな。
 未だ、醒めたくないのに。



 
 
 どうやら、気を失っていたらしい。目が覚めた時には、外はもう夕方で部屋の中は夕日で真っ赤に燃えているかのようだった。頭に置かれた手の感覚に気づいてぐるりと首を巡らせると、あなたが傍にいた。うつらうつらとしているようで、目を閉じて時折頭が揺れている。ずっと、ついていてくれたのだろうか。彼女の顔は矢張り美しく、僕がその痣の深淵をじっと見つめているとあなたはゆっくりと目を開いた。眠そうな瞳を、ただ愛おしく思った。
「目が、醒めたのね。よかった」
「ずっとここに居てくれたんですか」
「ええ。と言っても、そんなに長い時間ではないけれど。
 おじい様がひどく心配なさっていたから、起き上がれるようになったら一緒にお茶の間に行きましょう」
「ありがとう」
 僕はゆっくりと体を起こした。息を深く吸い、吐く。なんだか先ほどまでの記憶と夢とが混線している。僕の目に、品の良い装飾の仏壇が飛び込んでくる。ああ、どうにも現実感がない。
「ゆっくりで、いいのだからね」
 あなたはそう言って、僕の手を握った。

 僕らがインターホンを鳴らす寸前、ドアを開けたのは六十歳を少し越えたと見える男性だった。彼は僕らを見止めるとちょっと怪訝な貌をして、すぐににこやかに声をかけてきた。
「何か、御用ですか」
 僕が言葉に詰まっている内に、あなたは代わりに事情を説明し始めた。その男性は表情が豊かな人で、終始目を白黒させながら彼女の話を聞いていた。彼女の話が終わると、うん、うんと何度か頷いて、こう言った。
「君のお父さん方とは疎遠だったから、生まれた時くらいしか会ったことはないだろうが、そうか、随分立派になって。
 僕は君の祖父に当たる。もっとも、そう名乗って良いのか僕にはわからないが。君は、あの子によく似ているね。入りなさい。娘に、挨拶してやっておくれ」
 そうして僕とあなたは、彼に導かれるまま母の生家に入っていった。繋いでいた手はいつの間にかほどけていて、何も言えない自分がどうにも、惨めで仕様がない。
 玄関はよく片付けられていて、傘立てと先に上がった祖父の靴をおいて他には何もない。僕らもまた、靴を脱いで後を追う。廊下は隅の方にうっすらと埃が積もっていた。
「何か、飲み物を用意しよう。ここで少し待っていてくれるかな」
 茶の間の前で一度僕たちの方へ向き直ると、祖父はそう言って奥の部屋へと消えた。僕はなんとなく茶の間に入るのが憚られたので、その場で立ち尽くしてあなたの手を求めた。しかし、あなたは家に入る時に脱いだキャプリーヌを両手で持っていて、それがなんだか僕への拒絶のように思えて、僕はあなたの手を取ることを諦めてしまった。
 しばし、静寂が充満した。それはあなたの問いかけに突かれて、すぐに霧散する。ひどく、安堵している自分に気づく。
「どうしたの」
「どう、って」
「こんなところに立ち尽くしているし、何より顔色が良くないみたい」
 あなたの真意がわからなかった。その目からは、何も読み取れない。
「それは、」
「おや、まだそこにいたのかい。こちらへ入っておいで」
 答える早くそんな風に祖父から呼ばれたので、僕らは茶の間へと入っていった。今、僕はなんと答えようとしたのだろう。ひどく穏やかな心地がする。だが、同時にその表面はひどく波打っていて、それは興奮を無理やり抑えるようにも、恐怖をひた隠すようにも感じて、不気味に思えた。
「飲みなさい、遠くて疲れたろう」
 そう言って祖父が置いてくれたのは、氷の入った麦茶だった。お礼を言いながら、それを上品な仕種で一口飲む。不思議な光景だ。あなたが麦茶を飲んでいるのが、なんだか可笑しい。
「僕も、いただきます」
 麦茶は冷たく、体に染み渡るようだった。そういえば、朝から何も食べていないのではなかったろうか。
 僕らが麦茶を飲み干す間、祖父は黙って僕らの様子を見ている。僕が最後の一口を飲んでコップを置くのと、祖父が口を開いたのはほぼ、同時だった。
「それでは、娘にあいさつをしてやってもらえるかな。
 きっと、喜ぶ」
「はい」
 自分の声が、ひどくうわずっているのがわかる。この時をずっと待っていたはずだのに、ここへ来て臆病になっている自分がいる。しかし、隣のあなたの存在が、僕を奮い立たせた。この場から、逃げ出さずにいられる。あなたの毅然とした横顔が、そうさせる。
「では、行こうか」
 祖父が、少しだけさみしい空気をまとった笑みを浮かべた。彼は立ち上がり、僕とあなたがその後を追う。通されたのは、仏間だった。
「母さん、は」
 祖父は、何も言ってはくれない。ああ、いけない、と、思った。この仏壇の扉を、開いてはいけない。そんな思いとは裏腹に、僕の手は扉に手をかける。祖父はまだ、何も言わない。ゆっくりと、扉を開いていく。目玉に針金を突きつけられたような、ちりちりとした痛みを覚えた。呼吸が、うまく出来ない。鼓動が早すぎて追いつけないくらいだ。ひどく、ひどく長い時間が過ぎたように感じた。ドアは少しも軋む音をさせず、それという抵抗もなく、こちら側へ開いた。
 心臓がものすごい速度で収縮していくような感触と共に、僕は呼吸を見失った。あなたと祖父の、僕を呼ぶ声が聞こえる。見開いた目がどんどん渇いていく感覚と共に、意識が遠のいて行った。
 仏壇を開けたそこにあったのは、にこやかに笑む年配の女性の写真の隣に飾られた、母のあの薄い笑みの写真だった。
 
 目を醒ました僕に、祖父は申し訳なさそうに「聞かされていないとは思わなかった。すまないことをしたね」と、そう言った。
「あの子はね、もうしばらく前の事だけれどね、逝ってしまったよ。後を追うように僕の妻、つまり、君の祖母も逝ってしまった。だから今この家で生活しているのは、僕一人だ」
「詳しく、聞かせていただけませんか」
 祖父の言葉を受けて、あなたは神妙な面持ちで言葉を発した。僕はまたしても何も言えず、ただ現実感のない頭でぼんやりと祖父とあなたを見ていた。
「そうだね……。
 では、お茶を入れよう。もうこんな時間だし、今夜は泊っていくといい。少し、待っておいで」
 戻ってきた祖父は、滔々と語りだした。僕の知らない母の、その後の物語を。



「君の父親と離婚して間もなく、あの子は君たちが行ったあの病院の精神病棟に入院した。あの子は嫌がったが、仕方がない。強制入院だった。しばらくは私や妻とも口を利かず、水以外はほとんど食事も摂らず、ただ虚ろな目をして毎日をやり過ごしているようだった。自分の娘をこんな風に言いたくはないけれど、まるで廃人のようだった。左腕から伸びる点滴が、痛々しくて仕方がなかったよ。妻は毎日あの子の見舞いに通った。僕も週に一度か二度は、なるべく通うようにしていたね。でも、ある日を境に突然あの子が笑うようになった。ごはんもちゃんと食べるようになって、点滴もなくなった。昔のあの子に戻ったようで、嬉しかったことを、よく覚えているよ。
 半年ほど経った頃かな、あの子の様子を見たお医者様は、一時退院という形で退院を認めてくれた。三人で穏やかに暮らそうと、私と妻は思っていた。でもね、あの子は違ったんだ。どうやら、元気な自分を演じることで早期の退院を狙い、君たちに会いに行く計画を立てていたらしい。家に戻って一月か、二月経った頃、その計画をあの子は実行したんだ。気付いたのはあの子が僕らの家からこっそりいなくなった後だったが、幸い偶々駅に居合わせたお医者様に声をかけられ、大事には至らなかった。そこでそのまま電車に乗ってしまっていたら、どうなっていたかわからない。何せ、離婚の時の弁護士に断られて君たち家族の住所も知らなかったのだからね。お医者様から連絡を受けて駆け付けた僕らが見たあの子は、ここ最近の元気な姿が演じていたものだと思わざるを得ないものだった。駅員室の隅で、震えながら、ただひたすら、「ごめんなさい、もうしません、ごめんなさい」、そう言い続けていた。
 あの子は、それからまた目に見えて調子を崩してしまった。結局、お医者様の計らいもあって再入院することになったが、それからの二年は大変だったよ。入退院を何度も繰り返した。今となってはもう、あの子が演技をしていたのか本気で浮き沈みを繰り返していたのかはわからない。そうそう、調子のいい時のあの子はよく、僕らによく空想の物語を聞かせてくれたものだった。いつか君に聞かせるんだと、そう言いながら。その時のあの子があまりに幸せそうなものだから、つい君とはもう会えないであろうことを伝えられなかった。それは結局、あの子が逝ってしまうまでそうだった。
 あの子が首を括ったのは、三日間の仮退院の日の、二日目の晩だった。万全とは言えないが、どうしても妻の作ったご飯が食べたいという、あの子の強い希望でね。思えばそんなことを言い出したのも、最期の食事にすると決めていたからかも知れない。翌朝目が覚めると、あの子は既に死んでしまっていた。決して、綺麗なものではなかったよ。だが、締まり方の問題だったのか表情だけはとても穏やかだった。終わりというのは、本当にあっけないものだ。お葬式や、部屋の掃除が済んでしまえば、あの子はもう写真の中にしかいなくなっていた。家の中が落ち着いてからほどなくして、妻も病に倒れてしまった。残されたのは僕だけだ。僕もほとほと生きる気力をなくしていたが、あの子は遺書を残していてね。僕ら両親宛てと、君の父親宛て、それから君宛て。お世話になったお医者様宛ての遺書と、それとは別に封筒もあった。君たちが受け取ったのは、きっとそれだろう。よく残っていたものだが。君の父親と君に宛てたものは弁護士を通してそちらに送ったはずだったが、彼が読んだかどうかはわからないね。ともかく、病院に行った分のあの子の遺言は、果たされたわけだ」



 祖父の話を、僕らはただ黙って聞いていた。
「いけない、お茶が冷めてしまったね。淹れなおしてこよう」
 そう言って立ち上がった祖父の声は、心なしか震えているように響いた。あなたがちらと、僕を見た。
「気分は、悪くなってはいないかしら」
「ええ、大丈夫です」
「そう、よかった」
 実際、不思議と僕の心は穏やかだった。正直なところ、麻痺していたのかもしれない。母が自殺であろうことは、大方予想出来たことでもあったし、何度も僕らに会いに来ようとしてくれたことは、とても嬉しく思えた。遺書。母の遺した言葉。そこには何が書かれていたのだろう。
「父に、会わなくてはいけないでしょうか。母の遺書を受け取る為に」
「会いたくないの、お父様には」
「そう、なのでしょうか。許せない気持ちは、確かにあります。母を捨てて、追い詰めて、結局死なせてしまって。これから先だって、きっと許せないと思います。
 でも、優しくて幸せだった思い出の中には、好きだった父親がいるんです。でも、そうですね、やっぱり会いたくは、ないです」
「そう」
 あなたが呟くようにそう言うのと、祖父が戻ってきたのとはほとんど同時だった。祖父の目は心なしか赤くなっているように見える。
「待たせたね。さて、ここからは今の話をしようじゃないか」
 祖父が優しそうな笑みを見せた。
「ええ、そういたしましょう」
 あなたがうっすらとした笑みを浮かべながら、そう答えた。それで僕はなんだか安心してしまって、一つ、頷いたのだった。

「それで、あなたは普段何を」
 僕の大学の話がひと段落した頃、祖父はそう言ってあなたに水を向けた。それは僕らが、いや、僕自身がなんとなしに避け続けていた話題だった。あなたはさしたることもない風に、こう言った。
「実は、両親を早くに亡くしておりまして。今はその遺産で生活をしている状態です」
 ひどく、あっさりとした回答だった。そうして僕は、ふと気付く。あなたのことを、あまりよく知らない自分に。
「そうか。それは、悪いことを聞いてしまったね」
「いいえ、お気になさらないでください。この通り、生活に不自由はしておりませんから」
 あっけらかんと、あなたは言う。普段と比べて、心なしか明るく見えた。

 夕食は祖父の運転で材料を買いにスーパーまで行って、あなたが作ってくれた。「いい子だね、君の恋人は」と祖父が言って、僕はくすぐったいような心地がした。母の死を知ったばかりとは思えないほどに、穏やかな夜だった。なんとなく、母が死んだ夜もこうだったろうか、というようなことを考えていた。別々に風呂に入る間に、祖父が母の使っていた部屋に布団を並べてくれていた。それぞれの布団に入り、手だけを繋ぎながら僕は聞いた。
「あなたは、誰なのでしょう」
 ふふふ、とあなたは笑う。
「さあ、誰なのでしょうね」
「からかわないで、ください」
「からかってなんていないわ。ただ、どう答えたとしたってあなたは納得しないでしょう」
 図星を突かれた、ような気がする。そんなことはないと言い返すことは、僕にはできなかった。
「こっちへいらっしゃい。一人で寝るのは、寂しいでしょう」
 あなたが僕の手を引きながら、そう言った。言われるがままに、僕はあなたの隣に潜り込む。腕を伸ばして、あなたは僕の頭を抱きしめるようにして、撫でてくれた。
「今日一日、よく頑張ったわ。偉かったわね」
 惨めなのに幸福で、苦しいのに嬉しくて、僕は何も言えずにあなたの白いナイトドレスに顔を埋めた。少しだけ、先輩の事が頭をよぎる。けれど、それもすぐに曖昧になって、このまま何もかも忘れてしまえたらいいのにな、そう思った。
「私が何者であろうと、あなたが何者であろうと、そんなこと、さしたる意味なんてないわ。今、私の腕の中にあなたがいる。それだけが今重要なことのすべてだし、他の重要でないすべてなんて些末なことだわ。安心して、お眠りなさい」
 それきりあなたも黙って、しばらくして頭を撫でる手も止まって、僕もまた微睡みに身を任せた。
「おやすみなさい。
 私の愛しい――――」
 完全に眠りに落ちる突然、微かに、微かに、あなたの声を聞いた気がした。

 
 
 目が覚めた時、既にあなたの姿はなかった。それどころか、布団の中にはあなたの痕跡さえもなく、布団も、天井も、窓も、まるで見知らぬ他人のような貌をしていた。もぞもぞと緩慢な動作で、徐に僕は布団を抜け出した。頭を掻いてみる。寝惚けた脳を通して瞳が映す世界は、どうやら何の意味も持たないらしい。ふと思い立って、転がっている枕をかき抱いた。
「ああ、よかった」
 あなたの、髪の匂いだ。

 茶の間へ入っていくと、優しい味噌の香りが鼻をくすぐった。座卓に座った祖父はお茶を一口すすって、「おはよう」と声をかけてくれた。僕もあいさつを返し、台所に立つあなたの方へ向かった。
「おはようございます。朝食、作ってくださっているんですね」
「おはよう。ええ、そうなの。すぐにできるから、座っていてちょうだい」
 あなたは昨夜と同じ白いナイトドレスの上にエプロンを付けて、味噌汁の味見をしながらそう言った。礼を言って、僕は茶の間へ戻る。テレビではどこか遠くの殺人事件について報道していて、それはあなたの部屋の時計と似た効果をこの部屋にもたらしていた。
「出来ましたよ」
 あなたが盆に目玉焼きとベーコンを盛った皿を載せて現れた。
「や、ありがとう」
 祖父が配膳を手伝い始める。僕も何か手伝おうと立ち上がりかけたものの、二人からやんわりと制止を喰ってしまった。仕方なく、テレビに目を向ける。今度は人気の俳優が結婚したという内容だった。ぼんやりと、眺め続けた。そうしているとなんとなしにその俳優の顔が父に重なって、それきり僕は目をそむけてしまった。
「さあ、食事にしよう」
 祖父の声で、僕は我に返る。気が付くと配膳はみんな済んでいて、ちょうどあなたも卓についたところだった。「いただきます」と声をそろえて言うのは、もう何年振りだろう。あなたの料理は美味しく、とてもやさしい味がした。記憶の中の、母の味と似ていた。
「少し、意外でした。あなたが味噌汁を作るなんて」
「あら、失礼ね」
 上品な仕草で口許を抑えながら楽しそうに笑ってくれるあなたの姿が、ただ嬉しかった。祖父は僕ら二人をにこやかに見守っている。虚構みたいに、只管に幸福な食卓だった。
「今日はどうするんだい」
「どうしましょうか。ね、君はどうしたい」
「朝食を食べて落ち着いたら、帰ろうと思います」
 二人に水を向けられ、僕はすぐに答えた。帰ろう、と思った。僕たちの町、あなたの部屋へ。「寂しくなるね」と、祖父が残念そうに言うのに、「また来ます」、そう返した。

 祖父の家を出る間際、僕は彼から白い封筒を手渡された。背面には、ところどころ震えてはいるものの綺麗な字で、僕の名前が書かれている。しっかりと封がされているらしく、開けられた痕跡はなかった。
「これは」
「昨日の様子を見て咄嗟に嘘をついてしまったんだが、あの子の君への遺書は君のお父さんには送っていなかったんだ。ごめんよ。やはり、君が持っておくべきだと思って」
「ありがとう、ございます」
 途端に、封筒が重くなったように感じる。僕の様子を見て、あなたは丁寧に頭を下げた。あのうっすらとした笑みで、礼を言った。
「いろいろと、ありがとうございました。これでお暇させて頂きます。また、お会いできますよう」
「うん、いつでも遊びにおいで」
「はい、是非に」
 こうして、僕らは祖父の家を後にした。大通りに出て、タクシーを待つ。
「これから、まっすぐ駅へ行くの」
「ええ、そのつもりです」
「少し、吹っ切れたのかしらね。なんだか頼もしく見えるわ」
「そうでしょうか」
「そうよ。病院に行って、お医者様を探すつもりかと思っていたわ」
「病院へ行っても、もう、母はいませんから」
「そう、そうね。その通りよ」
 タクシーが滑り込んでくる。
「帰りましょう」
 そう言ったうっすらとした笑みが、記憶の中の母と重なった。

 たたん、たたんと軽快なリズムで、母の故郷を走る電車は僕たちをその地から遠ざける。駅と駅の感覚は長い。あなたは僕の対面に座って窓の方を向いている。窓から差し込む陽光で色素の薄い髪がいよいよ明るい色に見えた。
「こんな風にお出かけしたのは、大人になってからは初めてだわ」
 窓の方を向いたままで、目だけで僕を見ながらあなたは言った。心なしか、口許が笑んでいるように見える。
「ありがとうね。あの部屋の窓からは、いつも同じ景色しか見えないの。色んなことがあったような気がしたけれど、楽しかった」
「いえ、いえ、僕の方こそありがとうございました」
「いいところだったわね。おじいさまも、いい人だった」
「そうですね」
 僕も、窓の外を見た。今まさに、電車は乗換の駅に着こうとしていて、流れる景色のスピードが徐々に落ちているのが分かった。
「このまま二人、この町で暮らすのも悪くないかも知れないわね」
 あなたの言葉に、はっとして僕は向き直った。あなたの目は、まっすぐに僕の目を射抜いている。
「冗談よ」
 ふ、と目を細め、あなたは帽子を被った。電車が、完全に停まった。
sage