Neetel Inside 文芸新都
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「こんにちは」
 私が声を掛けると、男は小さく頭を下げた。
 やけに澄んだ眼をしている。
 澄んだ眼をしているからといって、善人とは限らない。それは、悪い人間にも見られる特徴だ。
 聖人と呼ばれる様な人間と、いわゆる猟奇殺人犯との違いは、そう大きくない。善人と悪人の違いは、ただひとつ。『何をしたか』という事だけだ。少なくとも、私はそう信じている。
「ここにはよく、いらっしゃるのですか?」相手が黙っていたので、私は再び話しかけた。
「いいえ」男は澄んだ声で答えた「今日が初めてです」
「そうですか」私は頷く。次の言葉は、考えていなかった。
「あなたは……」今度は男の方から話しかけてきた。
「あなたは、刑事さんですか?」
「え……?」突然の男の質問に、私は少し慌てる。
 普段であれば、慌てる事は、有り得ない。
 長年、警察をやっていると、どうやら見た目から変わってくるようだ。自覚は無いが、両親や妻、古い友人は、私が変わったという。何が変わったのかはわからないが、『刑事らしい見た目』になったそうだ。
 私は、まわりの同僚を見ても『あいつ最近警察らしい見た目になったな』などと思う事はない。その鈍感さは、もしかしたら危険な事かも知れない。
「何故、そう思われました?」私が聞き返すと、男は照れたように笑った。
「あ、いえ、今時そんなコートを着てるのは、刑事さんくらいかなって」
 私は自分のコートを見た。
 確かに、今時こんなデザインのコートを着ているのは、映画やドラマの刑事くらいだろう。
 私は苦笑した。
「刑事さんは、ここにはよく?」
 私は男の『刑事か』という質問に『イエス』と言わなかったが、どうやら男の中で私は、刑事だと決定したらしい。私はそれを否定しない事にした。
「いえ。むしろ、苦手な方です」私は微笑み返し、頭を掻いた。
「刑事さんは、神はいると思いますか?」男は、また質問をしてきた。
 相手が警察とわかっていて、長話をしようとする人間は珍しい。いるとしたら、暇な主婦や自称専門家の先生方。もしくは酔っ払いか、精神異常者くらいだ。
 私は、もう一度、男をよく観察した。不気味なくらい、澄んだ瞳。言葉を選んで話そう、と思った。
「神、ですか? そうですね、残念ながら、まだお会いした事が無いもので……」
「自分で見たもの以外は、信じられませんか?」
「少なくとも、そうしたいと思ってはいますが、なかなか……納得できなくても、それが正しいとせざるを得ない事もあります」私は素直に、自分が思っている事を話した。
 嘘が通じる相手では無い。そう思った。
 刑事の勘とでもいうのだろうか。
 少なくとも、良い予感では無い。
「僕は、両親を愛しています。刑事さんは? どうです?」
「ええ……そうですね」私は言葉を濁した。もう親とは、十年近く会っていなかった。
「僕は、神はいると信じています」
「え? はあ……そうですか」さっきから会話の方向が掴めない。必然的に私の返事は『ええ』とか『はあ』といった、曖昧なものが多くなる。
 しかし、男は私の事など、全く気にならないようだった。
「僕は、両親を愛しています。絶対的に信頼しています。特に、父の言う事は、私にとって全てが真実なのです。おかしいですか?」
「いえ……」私は顔の前で手を振った。こんな滑稽な動作をしたのは初めてだった。
「しかし、僕は昔、一度だけ、父を疑ってしまったのです」男は苦しそうな顔をした。
 その顔は、今は正面を向いていた。神への告白の様にも見える。
「一度だけです。そして僕は、それを確かめようとした……」そう言って男は、黙った。
 無表情になった顔は、前を向いている。
 瞳が、さっきより少し曇っているようだ。
 それは、過去を見つめる眼だ、と私は思った。
「まだ、答えは出ていません」男は、まるで考えを打ち消すように、小さく頭を振った。「答えを出すのが怖いんです。でも、信じるしか無いのです。いや、もう信じてさえいないのかも……だって、確かめる方法は、本当は、無いのかも知れない。もう、目的だって、よくわからなくなってしまった。僕は……僕は……」
「いったい、何があったのですか?」私は恐る恐る訊いた。
 男が興奮してきたのがわかった。
「刑事さん」男は何か思いついたような声で呟いた。「ここは、クリスマスが近いのに、ずいぶん静かですね」
「え?」私は男が何を言っているのか、とっさに理解できなかった。「ああ、ええ、確かに、そうですね」
「大人になっても、こんなに誕生日を祝われるなんて、可笑しいですね」
「可笑しい?」
「ええ」男は壁に架けられた大きな十字架を指さした。確かに、そこには大人が磔にされていた。
「誕生日っていうのは、人の成長を祝う日でしょう? 子供は日々成長しますから、どこかでまとめてやらないと、毎日が誕生日になってしまいますもんね。誕生日のお祝いが賑やかなのも仕方ないです。でも大人は、もうそんなに成長する事はないでしょう? だから、わざわざ誕生日になんて祝わないでも、成長を感じたその時に祝えば良いのに」
「はあ…そうかも知れません。私も、もう誕生日のパーティーなんてずいぶんしていませんね」
「でしょう? しかも、クリスマスは神様の誕生日じゃないですか。可笑しいですよ」
「でも、あれは……」私は男が指さす方を向いて言った。「あの人は、神様ではありませんよ」
「え……?」男は私の言葉に目を丸くした。どうやら何かに驚いたらしい。口を開けたまま、真っ直ぐに十字架を見つめている。まだ指さした腕は上がったままだ。
「あれは、神様では無いのですか?」男は私を見て言う。
「神の子、です。私と、あなたも同じです」私は曖昧な知識で答えた。
「天使ですか?」
「天使? うーん、違うでしょうね。人は人に過ぎません」
「あれは、死んでいるのですか?」
「いえ……ああ、いや、あれはそうなのかな? でも、また生き返るんですよ」答えながら、私は自分が焦っているのを感じていた。
 余計な事ばかり言ってしまっている気がする。
 相手の様子は明らかにおかしくなっている。失敗した、と思った。
 男は黙ってしまった。黙って、何かを考えている。
(しまったな……)
 私はつい舌打ちをしそうになって、それを抑える。
 男がまともで無いのは確かだ。もしかしたら、自分が追っている犯人では無いかという予感もあった。
(どうするか……)
 心に病を抱えた人間が、犯人であるケースは少なくない。そういった人間との接し方は、それなりにわかっているつもりだった。しかし、この男は何かが違う。
「刑事さん」突然、男が口を開いた。穏やかな声だ。
「刑事さん、僕は、あきらめかけていたのです」
「はあ……」
「だって、どこの教会へ行っても、神様が血を流して死んでいたから」
「あの…失礼ですが」私は思い切って、男に聞いた。「この近くにお住まいですか?」
「いいえ」男は首を振った。「帰る家なら、少し遠くです」
「そうですか……」脈絡の無い質問だった、と私はひどく後悔した。
「刑事さんは、お近くですか?」
「……いいえ」私は嘘を吐いた。
「そうですか」音もなく、男が立ち上がった。表情は、出会った時と同じ笑顔だった。
 男は何も言わず、私の横を通り抜け、出口へと向かった。私は何も言えなかった。
「では、また」振り返った私に、男は小さく頭を下げた。
「ええ……是非、また」私は、心からそう思った。
「刑事さん」男は、少しだけ開いた扉の向こうを覗きながら言った。

「もう少し、頑張ってみます」

       

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