Neetel Inside 文芸新都
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     3

「あの、誰か、いませんか?」
 静かな、夜の石畳に、私の声と、扉を叩く音が響く。
 時刻はまだ九時前だが、辺りは静まり返っている。窓から明かりが洩れる家も少ない。昼にも感じた事だが、この辺りは異様に静かだ。閑静とはまた違った、錆び付いたような寂しさがここにはある。
 あの後一度家に帰った私だったが、やはり男の事が気になり、こうして戻ってきてしまった。
 ここに行く事は、誰にも言っていない。それどころか、昼間の出来事も、誰にも言わなかった。理由は、自分でも、わからない。
「あの、誰か、いませんか」
 私はまた、さっきよりいくらか大胆に、扉を叩いた。
 この、神父殺しの事件を担当して四年目。私は未だに、教会に対するマナーがわからない。夜中に扉を叩く事が失礼なのかどうかさえ、知らない。一応、参考として、そういったルールは学んだのだが、どうも頭に入らない。私にとって、信仰とはその程度のものなのだ。
「誰か、いませんか」
 私はもう一度だけ、扉を叩いた。返事は無い。
「……失礼します」
 私は思い切って、教会の古びた扉を開けた。
 教会の中は、思ったよりも暗い。
 月明かりだけが、中を照らしている。
 私の正面、十数メートル先には、昼間見た、あの大きな十字架がある。
 その足下で、影が動いた。
 よく見ると、一人の男が、十字架を見上げている。
 間違い無い、昼間ここであった男だ。
 男の手にある何かが、月明かりに光る。

 それは、
 血に染まった、
 美しいナイフだ。

「動くな」
 私は銃を構える。
 大丈夫。
 落ち着いている。
「その手に持った物を床に置け。すぐにだ」
 男がようやくこちらを向く。
 昼間会った時と同じ、穏やかな微笑み。澄んだ瞳。
 私は唾液を飲み込もうとしたが、口も喉も渇いていた。
「その、ナイフを、床に置くんだ」私は一歩前に出る。
「刑事さん」男も、一歩こちらへと近づく。
「動くな」
「刑事さん」
「話なら署で聞く。まずは大人しくするんだ」
「ありがとうございます」男が突然、頭を下げた。
「……どういう意味だ」
「刑事さんのおかげです。家に帰ろうと思います」
「残念だが、帰してやれない」
「何故です?」
「神父を、殺したな」
「いいえ」男が即答する。
「じゃあ、そのナイフはなんだ。誰を、刺した」
「ああ」男は、まるで月に翳すように、ナイフを持ったままの手を挙げる。
「動くな」
「神父さんは、今日は留守です」
「じゃあ、誰だ」
「手伝いの、男性ですよ」
「手伝いの?」私は昼間の記憶を辿る。そういえば、男と話している時、部屋の隅で黙々と掃除をしている若い男がいた。たしか、栗色の巻き毛をして……
「歳を、知っていたのか?」私は聞いた。
「はい。刑事さんがくる前に聞きました」
「何故殺した」
 私は、自分で『話は署で聞く』と言っておきながら、訊いた。

 何故、殺したのか。

 それは私が刑事になってから、ずっとこの男に対して抱いていた疑問だった。
「殺してなんていませんよ」男は、さも驚いたという顔をした。
「嘘をつくな」
「本当です。彼が、自分で、自分自身を刺したのです」
「嘘を、つくな」
「彼は……いえ、彼も、信仰深い人でした。私がこのナイフを渡すと、戸惑いながらも、自ら……」
「やめろ」
「何を、ですか?」
 私は言葉を飲み込んだ。もう一歩、前へ出る。
「何故、こんな事をするんだ」
「何故? そう、それは……」男が目を細める。まるで我が子を見るような表情だ、と私は思った。
「父さんが、言ったのです」張り詰めた空気に似合わない、穏やかな声で、男は語り始めた。「これは、何でも切れるナイフだと」
「神様と、天使以外なら、何でも切れるんだと言いました。もちろん、僕は信じました。今も信じています。でも、僕は、一度だけ疑ってしまった」
「友達が……そう僕の唯一の友達が、言ったのです。本当かなって。僕は、その言葉で、一瞬だけ父を疑ってしまいました」
「家に帰った僕は、後悔で胸が潰れそうになりました。父さんを疑うなんて! 
今考えても、愚かでした。だから僕は、一番確実な方法で確かめようとしたのです」男がまた、ナイフを月に翳す。私は黙って見ていた。
「僕の弟はね、刑事さん、天使なのです。それも絶対、間違い無い事です。栗色の巻き毛が可愛くって、本当に、絵に描かれた天使にそっくりでした。だから……」突然、幸せそうに語る男の表情が、一変した。歯を食いしばり、ぎゅっと目を瞑り、本当に苦しそうだ。
「僕は、このナイフで、弟を刺しました」
 私は、月に輝くナイフを見た。それは、怪しい光を放っている。本当に、何でも切れてしまうような、魔法がそこにはあった。
「おかしいじゃないですか」男は、小さな声で呟く。「これじゃあ、父さんも、弟も嘘になってしまう」
「だから僕は考えました。そして、こう思ったのです。この弟は、偽物だ、と」
 私は眩暈を感じた。まるで、悪い夢の中にいる気分だ。
「という事は、本物の弟は、何者かによって、何処かへ隠されているという事です。そうでしょう? だから僕は、弟を探す為に、家を出ました。弟を探す方法は、簡単です」そう言って、男はナイフを持つ手に力を込めた。
 私の眩暈が加速する。
「けれど、まさかこんなに見つからないとは思いませんでした。慌てて探して、何度も間違えてはいけないと思って、一年に一度くらいのペースで試そうと考えたのもいけなかった。ねぇ、刑事さん、天使も大人になるのですか?」
「……知るか」そう答えるのが精一杯だ。
「十年以上探していると、さすがに僕もまいってしまった。とはいえ、疑ったわけではありませんよ。そう、神に誓って」
「私は、一度、弟を探す事を休みました。諦めたわけではありませんが、少々疲れていたのは確かです」
「何年か経ったある日、僕は教会に行きました。おかしく思われるかも知れませんが、教会へ行くのは、それが初めての事でした。その教会の神父さんはね、周りの人から、まるで天使のようだと言われていました」
 私は、銃を握る手に力を入れた。
 撃ってしまおうか、と思った。
「僕はその夜、一人で神父さんに会いに行きました。そして言ったのです。『これは神様と天使以外は何でも切れるナイフだ』と」
「神父さんは言いました、『私はそんなに立派な者では無い』と。だから僕は言ったのです『ならば試してみてくれ』と」
「神父さんはね、寂しそうに笑って、自分にナイフを突き立てました。まさか……死んでしまうなんて……
「きっと、神父さんにも、色んな悩みがあったのでしょう。彼も、翌年の彼も、本当に素晴らしい人だった」男がまた表情を変える。
 潤んだ目を擦り、男は独白を再開した。
「去年、また神父さんが死ぬところを見て、私の目は醒めました。僕は何故、こんな寄り道をしているのか、と」
「ふざけるな!」私は心の底から叫んだ。
 しかし、男は私の方を見もしない。ずっとナイフを見つめている。その眼はやはり、不気味なくらい澄んでいる。
「私は今日、懺悔するつもりでここへ来ました。そうしたら、彼がいたのです」
「他に……いくらでも方法があるだろう」
「そうでしょうか? 弟は、僕の顔なんて覚えていませんよ。このナイフを使うのが、一番確実です」男が私の方を向く。
「刑事さん。私は、刑事さんに感謝しているのです」
「……何故だ」
「弟は、きっと、生き返っているのです。そして、僕の家で、僕の帰りを、待っているのです。ああ、もっと早く気付けば良かった。きっと、ずっと寂しい思いをしている事でしょう」
「それなら、何故、手伝いの男を殺した」
「念の為です」
「そんな事で、人の命を奪って良いと思っているのか!」
「そんな事とはなんです!」男は、今までからは考えられない程の大声で叫んだ。
 私は、情けない事に、無意識のうちに、一歩後退した。
「そこをどいて下さい。僕は、帰らなくてはいけないのです」穏やかな口調で男は言った。
「動くな」私ははっとして、銃を持った手に力を込める。
「お願いします」
「それ以上動いたら、撃つぞ」
「刑事さん」
「動……」
 
 その時、突然、私の体は宙を舞った。
 脇腹に鈍い痛み。
 誰かが、私の体に抱き着いている。
 引き金を引こうとして、銃が無い事に気付いた。
 体が、床に打ち付けられる。
 色々な物音に混ざって、扉を開ける音が聞こえた。
「待て!」
 叫ぼうとしたが、息が詰まって殆ど声にならない。
 手に固い物があたる。
 銃だ。
 縋るように掴むと、倒れたまま、扉の方に向けて構えた。
「やめろ!」
 私の体に抱き着いたままの、見知らぬ男が叫んだ。
 
「息子を……息子を見逃してやってくれ!」

       

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