Neetel Inside 文芸新都
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     3

「──痛っ」
 僕が慌てて引いた腕を、男は空いている方の手で掴むと、ぐいっと自分の目の前に引き寄せた。
 そこには、紅い傷跡が、ひとすじ。
 しかし──、
(良かった……血は出てないみたいだ)
 ナイフが辷ったその跡は、蚯蚓脹れのように膨らんではいるが、血は滲んでもいない。少し安心して、男の方に視線をうつすと、彼もまた、僕の傷をじっと見ていた。
 僕は改めて、男の手を振り払った。
「何を……するんですか」
 立ち上がり、一歩、一歩と後退りしながら、僕は訊いた。
 男は答えずに、僕の事を見つめている。
 そして、ほっとしたような顔で、笑った。
「何をするんですか」
 僕はもう一度訊いた。
 男の手からナイフが滑り落ちる。
 夕日に煌めくナイフは、しかし、その刃だけは、澱んだ色で地に臥していた。
 よく手入れされているように見えるが、ずいぶん古い物のようだし、刃が潰れてしまっているのだろうか。
 何であれ、助かった。
「ただいま」
 男が突然そう言った。
「え?」
「やっぱり、そうだったんだね。ごめんよ。遠回り、しちゃったね」
「いったい何を……」
「良いんだ」
 男が立ち上がろうと、上半身を起こす。しかし、腕に力が入らないのだろう、それ以上は動けないようだ。
「覚えていないのは、当たり前だよ。ああ、でも、嬉しいな。ごめんよ、ごめん、ごめんなさい。やっぱり、間違ってなかったんだ。父さん。僕は……」
「あっ、危ない!」
 僕が叫ぶより早く、男の体は、仰向けに地面へと崩れ落ちた。
 思わず駆け寄り、抱え上げる。
(どうしよう……)
 まだ息はあるようだ。けれど、体は冷たく、動かない。
「あ、あの……」
 僕はどうしたら良いのかわからず、身動き出来ない。
(お医者さんを……あ、でも、こんなところに置いては行けないか……)
「……だ、誰かぁ。誰かぁ!」
 きょろきょろと、辺りを見渡しながら叫ぶ。町外れという事もあり、人影は全く無い。それでも叫べずにはいられない。とにかく独りが心細かった。
「誰かぁ!」
「どうなされました?」
 何度目かの僕の救難信号に、ようやく誰かが応えてくれた。
 声を辿り、首を回すと、隣の屋敷の門の中から、男が一人こちらを見ている。
 男には見覚えがある。確か、この屋敷の主人だ。
「あ、あの……」
「──っ! ちょっと待っていなさい。ちょうど今、私の主治医が来ているところだ」
 主人はこちらを見るやいなや、僕が説明するよりも早く、屋敷の中へと駆け戻って行った。
(良かった、助かった)
 安心して僕は、腕の中で微動だにしない、枯れ木のような男を見た。
(笑ってる……)
 男は、安らかな顔で微笑んでいた。かろうじて、まだ息はしている。もしかしたら、眠っているのかもしれない。
(……あ)
 屈んだ僕の片手に、あのナイフが触れた。
(綺麗だな)
 僕は思わずそれを拾い上げた。
「君、君。待たせたね。ちょいとごめんよ」
 ぼんやりとナイフを眺めていた僕に、見知らぬ男が声をかける。どうやらこの老人が、主人の言う『主治医』なのだろう。
「よっ、と。ほら君、運ぶのを手伝わんか」
「は、はい!」
 老人に促され、僕は男の肩を抱くようにして立ち上がった。
「よし。このまま、屋敷の中まで運んでくれ」
 手伝えと言ったくせに、自分では何もしない老人の背中を僕は追いかけた。
 屋敷の門のところでは、主人が心配そうにこちらを伺っている。

「ああ、よし、君、もう良い。ここからは僕に任せなさい」
 門までたどり着くと、主人はそう言って僕の方に手を伸ばした。
 僕は無言で頷き、男の体を主人へと託した。
「そうだな、先生、取り敢えず応接間へ運びましょう。私は病院の方へ連絡しておきますから、とにかく、処置を」
「あい、わかった」
 そう言って、医者と主人は慌ただしく屋敷の中へと姿を消した。
 僕は、このまま帰って良いものかわからず、門の内側で、ただぼんやりと立ち尽くした。

「やあ、良かった。君、まだいたのだね」
 数分して、主人が屋敷の中から出て来た。表情は、決して明るくはない。
「あの……あの男の人は?」
 僕の問いに、主人は溜め息で答える。
「今は、落ち着いているようだけど……駄目かもしれないね」
「そう、ですか……」
 僕もひとつ、大きな溜め息をついた。見ず知らずの人間ではあるが、死んでしまうと聞けば、やはり寂しいものだ。
「──君! そのナイフは、君の物か?」
 突然、主人が大きな声を上げた。
 驚いて顔を上げると、彼は裂けんばかりに目を見開いて、僕の手を見ている。
 そこには、あのナイフが、妖しく輝いていた。
「え? あ、いいえ、さっきの男の人が……」
「ああ、そうか……いや、本当に……そうか、彼が、そのナイフを……」
 譫言のようにそう繰り返す主人の目は、うっすらと潤んでいるように見える。
 僕は訳も分からず、手にしたままのナイフを主人へと差し出した。
「あの、これ、返しておいてくれますか?」
「……もちろんだ。いや、ありがとう」
 主人は小さく頭を下げると、僕の手からナイフを受け取った。
「それじゃ……」
「君、ちょっと待って」
 立ち去ろうとした僕を、何故かひどく慌てたように、主人が呼び止める。
「何ですか?」
「彼は、何か、言っていなかったかい? その……身元がわかるような事とか」
「ええ、色々と……」
 僕はちょっとだけ躊躇ったが、男から聞いた事を思い出せる限り主人に話した。主人はそれを、ただ黙って聞いていた。

「ありがとう」
 話し終わった僕の手を、主人はそっと握り締めた。その手の上に、温かいものが零れ落ちる。見ると、主人は涙を流していた。
(もしかしたら、あの人、知り合いだったのかな)
 訊いてみようかとも思ったが、やめた。
「それじゃ、僕、帰りますね」
 なるべく優しく主人の手を解くと、僕は頭を下げた。
「君。君は確か、隣の子だね?」
「ええ、はい」
 主人は俯いたまま、言った。
「弟さんは、元気かい?」
「はい……たぶん」
「そうか」
 主人が顔を上げる。その表情は、晴れやかだ。
「弟さんを、大事にね」
「はい……あの、それじゃ、また」
「うん、また、ね」
 
 立ち去る僕の後ろ姿を、主人はずっと見つめていた。
 
 結局、僕は、さっきから自分の周りで起きた出来事が、一体どんな物語なのか知ることは出来なかった。

 けれど、僕は思う。

 この物語は、きっとハッピーエンドだったんじゃないかな、と。

 自分の屋敷の門を開け、「ただいま」と呟く。

 僕は、あの男と、主人の顔を思い出していた。

 その顔は、まるで天使でも見つけたかのような、幸せそうな笑顔だった。




天使とナイフ 完

       

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