Neetel Inside 文芸新都
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天使とナイフ

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 彼と出会ったのは、まだお互いに物心がつく前の事。
 気付いた時にはもう友人だったし、彼がいる事は僕にとって当たり前の事だった。それは、彼にとってもそうだろう。
 彼の家は、僕の家の隣に位置したが、どちらも不必要な程に広い庭を有していた為、二つの家は小さな丘を挟む形で離れて建っていた。
 僕らの家は、一般的な感覚でいえば、かなり裕福であったろう。自分の話は控えるが、僕の家は、この田舎町の古い家系であり、単に由緒正しいというだけの小金持ちだった。対照的に、彼の父親は貿易を生業とし、一代で富を築いた大金持ちであった。しかし、成金特有の厭らしさは無く、彼も含め、彼の家族は本当に良い人だった。
 彼らがこちらへ移り住んできたのは、僕が生まれて間もない頃だった。僕は、もちろんそれを覚えていない。
 僕らは兄弟同然に育った。そして唯一の友人でもあった。
 僕らは学校へは行っていない。それどころか、この二つの屋敷の敷地から出た事も無い。二人にとって世界とは、この小さな丘の周りが全てであり、自分達以外の人間といえば、お互いの両親と幾人かの使用人達だけだった。


 あれは僕らが七歳の時。
 彼に突然、弟ができた。
 僕らは毎日のように遊んでいたが、お互いの家に行く事は希だった。雨の日は大抵、自分の家で過ごした。だから、彼の母親が妊娠していた事は知らなかった(彼もそんな話は一度もしなかった)ので、まさにそれは突然の出来事と言えた。
「僕らの世界に、天使がやってきたよ」彼は僕にそう言った。
 僕がその言葉を理解出来ずきょとんとしていると、彼は悪戯っぽく笑って、こう言い直した。
「僕、お兄さんになったんだ」


 彼は弟を溺愛した。
 彼は自分の弟を天使だと信じていた。僕は一度だけ、その子に会ったが、確かにとても可愛い赤ん坊だった。彼に似た栗色の巻き毛だけが、少し大人びていて可笑しかったけれど。
 僕らが一緒に遊ぶ事は、自然と少なくなった。彼は弟に付きっきりだったし、その弟はまだ外に出るには小さ過ぎた。久しぶりに二人で遊んでも、夕方まで一緒にいる事は無くなった。
「天使が飛べるようになったら、三人で丘に登ろう」彼はさよならの代わりに、いつもそう言って、天使の待つ家へと帰って行った。


 あれは、彼の弟が生まれて、半年程経った日の事だった。強い日差しを避け、僕らは丘のふもとにある小さな森の中で遊んでいた。一緒に遊ぶのは、確か五日ぶりくらいだったろうか。
 彼は小さな箱を持って来ていた。貿易商の父から貰ったそうだ。綺麗な模様が描かれた箱を開けると、中には箱よりもずっと綺麗な装飾を施されたナイフが納められていた。
「これはね、父さんがくれたんだ。どんなものでも切れるナイフなんだって」彼はナイフを大事そうに箱から取り出すと、それをそっと木漏れ日に翳して言った。
「何でも切れるって、ほんと?」
「本当さ。父さんが言ったんだもの。本当だよ」僕の問いに、彼は真剣な顔でそう答えた。
「すごいね」彼の言葉に、僕は心からそう言った。
 まるで魔法がかけられたような異国のナイフは、「何でも切れる」という物語めいた話を信じさせるには、充分な姿をしていた。
「でもね、一つだけ、切れないものがあるんだって」ふいに彼は悪戯っぽく笑って言った。
「そうなの?」何でも切れるという言葉を信じていた僕は、彼が急に違う事を言い出したので、少しだけ腹を立てた。さっきの真剣な言葉は嘘だったのだろうか。
「一つって、何?」僕は少し、イライラした口調で言った。
 彼はまだ笑ったままだ。
「天使と、神さま」彼はそう言った。
 僕は「一つじゃないじゃないか」と呟いたが、彼には聞こえなかったようだ。
「悪魔はね、切れるって。父さんに確かめたから、間違い無いよ」
 彼の言葉に対して、僕はまだちょっとイライラしていたから、意地悪から、「ほんとかなぁ」と笑った。
「本当だよ」それが気に障ったらしく、彼は少し語気を強めた。
 彼は、両親の言う事は無条件に信じた。だから、親が言った事を疑われるのは、彼にとって何より許せない事だった。
「じゃあ証拠を見せてよ」僕は言い返した。
「いいよ。何を切れば良い?」彼は鼻息荒く僕に詰め寄った。
 僕は、椅子代わりにしていた岩を切ってみろと言おうかと思ったが、何だか急に寂しくなってしまったので、「やっぱりいいよ」とだけ言って、横を向いた。
「……ずるいよ」彼がそう言って立ち上がったので、僕ははっとして振り向いた。
 彼の表情は、逆光で見えない。
 彼は無言で歩き出した。
「帰るの?」僕は恐る恐る、彼の背中へと問い掛ける。
「またね」彼は振り向かずに答えた。
 僕は何故か、彼がもう会ってくれないのではと思った。だから「またね」という彼の言葉が嬉しかった。
「またね」岩に腰掛けたまま、僕は遠ざかる彼の後ろ姿に言った。


 彼と会ったのは、それが最後になった。
 彼はその夜、弟に向かって、あの綺麗なナイフを振り下ろした。
 天使だと信じていた弟に。


 僕はずっと後になってから、この事を父親から教えてもらった。それまでは、単に僕は嫌われてしまったから、会ってくれないのだと思っていた。
 彼が今どうしているのかと問うと、父は「わからない」と答えた。弟を刺し殺した彼は、凶器のナイフを持ったまま、家を出たらしい。弟の死体を使用人が発見した時には、すでに屋敷の中に彼の姿は無かったそうだ。
 部屋には、ただ一言だけ書かれた、手紙が残されていた。


 このおとうとはにせものです


 僕は想像した。
 彼が、
 心から信じていた、父親にもらった魔法のナイフを、
 唯一の友達だった、僕の顔を思い浮かべながら、
 心から愛していた、天使であるはずの弟に振り下ろす光景を。


 あれから時が経ち、僕も大人になった。
 彼の行方は、まだわからない。
 彼は、本当の弟を探しに行ったのだろうか?
 僕は彼を、ずっとずっと探している。
 『またね』の言葉を、嘘にしない為に。

       

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