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サザン・ダンス
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 サザン・ダンス

 そのニュースを見たのは、日本からはるか南の島国の、小さなホテルでのことだった。
 テレビ画面に墜落した小型飛行機が映っていた。森林の木々をなぎ倒し、機体は半分ほどが損壊していた。火災が起き、消防隊や救急隊がせわしく行きかっていた。飛行機は日本からの便で、行き先はノルウェー。聞き慣れない英語のアナウンスより、黒煙をあげる墜落した機体と、運び出される犠牲者の映像に、僕は半分魂を持っていかれたみたいに見入っていた。油絵の具をそのまま塗りつけたような深い緑色の森に、人工物である飛行機がめり込んでいる様は、まるで昔の特撮映像のようだった。スタジオのアナウンサーは淡々と犠牲者の名前を読みあげていた。アナウンスより早く、僕は画面の中のアルファベット表示に見知った名前を見つけた。
 サチ・スギウラ。それは僕の大学時代の彼女の名前だった。その名が本人か、それとも同姓同名の他人なのか、僕には判断がつかなかった。事故が発生したのは今から数時間前、現場の映像は録画だった。僕のいる国はもう夜になっている。ホテルの窓から、日本より明るい月が見えた。夜のニュース番組は、今日起きた出来事のひとつとして旅客機墜落の映像を映し出していた。
 部屋の電話が鳴った。僕は立ち上がったが、他人の身体に入っているような感じがした。歩み寄り、受話器を取る。
「もしもし、長瀬か」相手は言った。日本語だ。懐かしい響きにぴんとくるものがあった。
「原田」言葉が漏れた。ドライアイスの煙が蓋の隙間からこぼれるようだった。
「そうだ。卒業以来だから六年ぶりか。元気だったか。突然電話してきて驚いただろ。この番号にたどり着くまで、けっこう苦労したんだからな」大学時代、彼は同じ学科の生徒だった。ラグビーをやっていて、がたいがよく、人の倍は食事を摂る。誰とでも親しくなれるし、裏表がない。人好きのする笑みを思い出した。当時はよく飲みに出かけたものだった。
「久しぶり。まあ、それなりにやってるよ」僕は言った。ようやく話し方を思い出した。原田はふっと笑った。「懐かしいな、長瀬。色々話したいところだが、今日はあいにくそうも言っていられない。ひとつ伝えなきゃならないことがあってな」
 僕は反射的にテレビ画面を見た。まだ飛行機墜落の映像が流れていた。まるで映像を編集している途中のように、同じ場面が何度も繰り返し再生される。空撮で大破した飛行機が映され、そののち地上の救急隊の映像に切り変わる。舞い上がる黒煙。
「お前ももう見たかもしれない。飛行機墜落のニュース、そっちでもやってるか」
 真摯な口調だった。学生時代、ほろ酔いになって真面目な話をする時の原田を僕は思い出した。それはずいぶん遠い思い出だった。「ああ。ちょうど今見ていたところだ」
「じゃあ犠牲者の名前も?」原田は言った。僕は受話器を握る手から力が抜けるのを感じた。
「見た。サチ・スギウラ」
 自分の声が意味を持たない音に聞こえた。電話の向こうで原田は間を置いた。何かの覚悟を決めているようだった。「長瀬、それさっちゃんだ。知らせを聞いて、俺は真っ先にお前を思い出した。今どうしてるかと思ってな」
「そうだったのか。悪いな、わざわざ」ほとんど機械的に僕は言った。サチの死に衝撃というほどのものはまだなかった。僕はただ虚無感に包まれていた。それは日本でしばしば感じていたものとよく似ていた。
「いや、こっちこそ突然すまない。お前に知らせる役目が俺でよかったか、自信がない」
 原田は詫びるように言った。
「こっちじゃ確認するすべがないから助かったよ。このままだったら、帰るまでずっと気になっていたところだ」僕は言った。考えずとも口が勝手に喋ってくれた。
「それで、遺体がこっちに戻り次第、告別式と通夜がある。まだ日程は決まってないが――」
 コクベツシキ、ツヤ。その言葉は現実味を欠いて聞こえた。僕はふたたびニュース映像に目をやった。テレビの中には異国の、どこともしれない森が映っている。鬱蒼と茂る木々はなぎ倒され、飛行機は真二つに裂け無残な姿を晒していた。周囲の木々だけが黒ずんで、そこにいないのに焼け焦げる臭いが感じられそうだった。どれだけ文明が進歩しようと、それが無意味であるとでも言いたげな映像だった。「出席できそうか?」
「そうだな」僕は話し相手が誰だか忘れそうになっていた。「悪いけど、少し時間をくれないか。考えたい」ニュース映像が切り替わった。この国のキャスターが原稿に目を落とす。
「そうか、分かった。ああ、連絡先だが」原田は今までに二度変更したという携帯の番号を言った。僕はそれをホテルのメモ用紙に控えた。別人が書いたみたいに乱雑な筆致だった。
「それじゃまたな」「ああ」互いの近況をやり取りすることもなく会話は終わった。
 時計を見ると時刻は六時半だった。僕はテレビを切り、ベッドに身体を沈めた。そのまま眠ってしまいたかったが、目をつむると飛行機墜落の映像が浮かんでしまう。今までにあったものがたった一瞬で粉々になるイメージ。海外に来てまでそうした無力感にとらわれるとは思わなかった。僕は仰向けになった。ホテルのアイボリーホワイトの天井が、間接照明のぼんやりとした光を受け丸い波模様をつくっていた。あの大学時代から、今までに経過した時のことを考えた。僕はもう二十八歳になっていた。しばらくして身体を起こした。するとまた電話が鳴った。受話器を取る。「もしもし」
「長瀬君か」二年間何度も聞いてきた声だった。
「課長ですか。こんばんは」
「ああ。そっちは夜だったか。まあいい。戻ってきてから君にやってもらう商談についてだが」悪びれない口ぶりにはすっかり慣れていた。
「はい」僕の返事は機械音声のようだった。部屋が灰色になった気がした。
「君、帰ってくるのは三日後だったね。それまでに用意しておいてほしい資料がある」
 課長は日頃とまったく変わらない様子で要件を告げた。
「というわけだ。準備を進めておいてくれ。パソコンは持ってきているだろう」
「ええ」いっそのこと置いてくればよかった。休暇に仕事をさせるとはどういう神経をしているのだろう。しかしそんな疑問を抱いたのは彼が赴任して初めの三か月だけだった。彼は発覚しなければ何をしてもいいという主義で、抵抗するだけ無駄だった。僕は現在、彼の右腕のようになっている。ある意味ではそれは楽なことだった。
「それじゃ頼むよ。間に合わなければ相応のつけを払ってもらうことになる」念押しし、課長は電話を切った。僕は受話器を置いた。言われた作業自体は三時間もあれば終わるだろう。帰りの飛行機でもできる。問題はそれではない。
 森の中の飛行機。運び出される担架。
 スギウラサチは本当に死んだのだろうか。彼女の名前はどういう字を当てたのだっけ。
 いくつかの記憶が浮かんでは消える。屈託なく笑うサチ。ショートカットがよく似合っていた。学生の頃は呑気だった。卒業し、就職してから、僕と彼女の距離はみるみる開いていった。次第に笑顔が消え、会っても口論になった。メールだけで連絡をすませるようになり、いつしか二人の関係は自然消滅していた。
 ホテルの一室では暖色の照明が静かな時間をつくっていた。落ち着いた木目の家具調度。ダークブラウンのクローゼットの扉が半分開きっぱなしになっていた。ハンガー以外何もかかっていない。ここにいると、あらゆることを遠く別の世界に置いておける気がした。もともとそのためのリゾートだ。ここでは本来、世界の不況も急な訃報も関係がないはずだった。
 僕は財布を持ち部屋を出た。今日は五連泊の二日目だ。遠出する予定はない。街を散策し、プールで泳ぎ、気ままに過ごすことにしていた。
 ホテルの外は夜だというのに気温が高かった。半袖の隙間から、湿気を帯びた熱が形のない生きもののようにまとわりついてくる。短パンにサンダルでもまだ暑い。風が少しあるのがまだ救いだった。僕が滞在しているのは小さなホテルで、宿泊費もさしてかからない。市街地までは少しあるが、すぐに海辺にいけるので気に入っていた。日暮れ間際の街は、日本のようにせわしくない。バーや家屋の明かりはどこかあたたかく、時間の経過をゆっくりとしたものに変えてくれる。そんな気がした。
 通りをまばらに車が通っていた。道に沿ってパームツリーが等間隔で並んでいる。身体にしみのある犬が何頭かふらふらと歩道を歩いている。悠長な性格なのか、吠えも走りもしない。歩道には壊れたまま放置された公衆電話のボックスがある。曇ったガラスには、はがされ損ねたポスターがこびりついていた。僕は仕事について考えるのをひとまずやめにした。でなければわざわざ飛行機で何時間もかけてここまで来た意味がない。しかしサチのほうはどうしても頭から拭いきれなかった。
 通りかかったバーで、バーテンの青年と目が合った。肌は浅黒く焼けていて、髪を短く刈り込んでいる。細身だがきらりと光る目が意思の強さを感じさせる。手を上げて挨拶すると、彼はほほ笑んだ。昨日行った店だった。居心地がよく、長い間飲んでしまった。彼が「今日はどうだい。飲んでいかないか」と英語で言ったが、僕は首を振った。「またな」と彼は言った。
 歩いていると住宅地にさしかかった。どの家も敷地が広く、穏やかな時間が過ごせそうな場所ばかりだった。通りの道幅も広い。傍らには廃車が乗り捨てられていた。空気に夜の気配を感じながら、僕は通りを歩いた。サンダルが砂利を踏む感触が心地よかった。
「もう、ふざけないでよ、バカ。こんな家出ていってやるわ」
 道を渡ったところで怒鳴るような声がした。民家のひとつから女の子が出てきた。点いたばかりの街灯が、にわかに彼女の姿を浮かび上がらせる。日焼けした、飾り気のない少女だった。十代半ばかその少し手前くらいだろうか。プリントが施されたブルーの半袖に、クロムイエローのホットパンツをはいていた。彼女は低い生垣の中にある庭を急ぎ足で歩くと、木製の小さな門を突っぱね、こちらに歩いてきた。
「ちょっと邪魔。どいて」僕の目の前まで来ると、彼女は日本語でそう言った。僕が反応するより早く彼女は歩き出した。すれ違いざま、肩が僕のひじにぶつかった。彼女は短いポニーテールを揺らせて歩いていった。この町で暮らしているらしいことは雰囲気からうかがい知れた。
「ナナカ! カムバック!」少女が出てきた扉から、父親と思しき小太りの中年男性が現れ、彼女を呼んだ。しかし、彼女はすでに五十メートルほど向こうまで歩いていた。男性は大きくため息をつくと、首を振って家に戻った。ナナカと呼ばれた少女は道を折れどこかに消えてしまった。親子喧嘩だろうか。
 僕は足元に小さなノートが落ちているのを見つけた。どこにでも売っていそうな茶色い紙表紙のノートには、カラーペンで「Nanaka’s Diary」と書いてあった。ぶつかった表紙に落としたらしい。少し迷ったが、僕は彼女のほうを追いかけることにした。

     

 路地を探したが彼女は見つからなかった。すでに日は暮れ、通りは薄暗い。まばらな街灯しか明かりがなかった。探しているうちに僕は海まで来てしまった。潮の臭いが強くなった。波は穏やかだ。浜辺を近所の少年たちが駆けまわっていた。もう七時を過ぎているはずだが、ここには日本と別の常識があるようだった。僕は浜辺をしばらく歩いた。そしてふと大きな流木に目を留めた。さっきの少女が座っていた。家を飛び出した時には怒っているようだったが、今は遠くを見つめ、何か考えごとをしていた。
「こんばんは」僕は日本語で彼女に呼びかけた。不意を突かれ、彼女は思いのほか驚いたようだった。「誰? あなた」やはり日本語を話した。
 少女は挑むような、突き放すような目で僕を見た。薄暗くともなんとか表情は確認できた。思いのほかあどけない顔立ちだ。鼻は少し上を向き、瞳は月明かりのように輝いていた。島のものと思しき数珠の首飾りは、ヒスイのような緑色。暴れる髪を無理やり束ねたようなポニーテールが潮風に揺れていた。「さっきぶつかったんだけど、覚えてないかい」
「さあ。どうだったかしら」彼女はついとそっぽを向いた。話しかけられるのを邪険にしているようだった。
「これ、君のじゃない」僕はポケットから拾ったノートを取り出した。
「あ。それどうして持ってるのよ」彼女は眉根を険しくした。
「君が落としたんだ。ぶつかった拍子に、こう」僕はノートを手放し、反対の手でキャッチした。
「返して」野生動物のような敏捷さで彼女はノートをひったくった。ぱらぱらとページをめくり、中を確認する。国家機密でも書かれているかのような念の入れようだった。
「中を見た?」睨みつけるようにして彼女は言った。僕は首を振る。「見てない」
「本当に?」彼女は首を傾げた。僕は頷く。
「名前だけは表紙に書いてあったから見たけれどね。ナナカさん」
「ほんとにそれ以上見てないでしょうね」なかなかしつこかった。いっそ見たと嘘をついてみたら面白いかもしれないが、僕は手を振った。「そんなに言うなら見ておけばよかったな」
「見たら蹴っ飛ばすわよ」ナナカはきつい眼差しを向けた。僕は肩をすくめる。
「おっかない子だね。でもまあ、思ったより元気そうで何よりだ。持ち主に届けることができてよかったよ。それじゃさよなら」
 僕はホテルに帰ろうとした。近くで飲んで帰るのも悪くない。
「待って」ナナカは言った。「ねえ、もし見たいならちょっとだけ見てもいいわよ」
 僕は振り返った。ナナカは先ほどまでとは様子が違った。落ちつかなげに足元と海とにちらちら視線をやっていた。
「それは見てほしいってことかな」僕は腕時計で時刻を確認した。七時十分。
「違うわよ。ふざけないで。ただ、あなたが見たそうにしていたから」
 ナナカは日記に視線を落とした。僕はさきほど彼女が家を飛び出してきた時の様子を思い出した。「それじゃ拝見させてもらおうかな」
「ハイケン、ってなに?」「見ることだよ」
「それじゃ見たいって言えばいいじゃない」ナナカは眉をつり上げた。よく分からない言い分だったが、まもなく僕は思い至った。おそらく彼女は「拝見」という言葉を知らなかったのだ。僕が気付くのと同時に、ナナカも何かに気がついたようだった。
「そういえば、あなた日本語話せるのね。日本人?」ナナカは言った。僕は頷いた。
「ほんと! 名前は何?」「長瀬海人」ナナカの表情が明るくなった。
「カイト。いい名前ね。それじゃ特別に二ページ見せてあげる。この日記も日本語で書いているのよ」誇らしそうに彼女は言った。
「それは光栄だ」「コウエイ? どういう意味かしら、その言葉」
「ありがたいってことだよ」
「へえ、そうなんだ。ひとつ勉強になった」
 僕はナナカの隣の砂地に腰を下ろした。昼間の熱が残っていてあたたかかった。彼女ははページをぱらぱらとめくっていた。
「うん、そうね。ここならいいわ。他のページは絶対見ちゃだめ。見たらこの海に沈めるわよ」
「それは困るな」「だったら言いつけを守ってね。はい」
 ナナカは開いた日記帳を僕に差し出した。それは今から一カ月前の日記だった。あまり広くないページに、鉛筆によるとても不器用な字でこう書かれていた。

 四月十日、晴れ
 今日もいい天気だった。でも、私の心は晴れない。学校もそんなに楽しくない。最近は嫌なことばっかり。せめて、私を不自由にする人たちがいなければいいのに。まだ私が小さい頃は、もっといろんなことが輝いていた。

 そこまで読んで僕は顔を上げた。「これ本当に読んでいいのかい」
 ナナカは首を振った。「いいって言ってるでしょ。それを拾ってくれたお礼よ」
「お礼ね」僕は続きに目を通した。

 そういえば今日、先生が学校でのトイレの正しい使い方について話していたけれど、きっと男の子たちが隠れてタバコを吸っているせいね。みんな知ってるわ。でもどうしてああ遠まわしに言うのかしら。名前を明かして、きつーい一発をお見舞いすればいいんじゃないの?

 四月十二日 曇り
 昨日は日記を書き忘れた。ここ三カ月欠かしていなかったのに、なんてこと。日本語で書くのにも慣れてきた。おばあちゃんから教わった日本語、今は私一人で勉強しているけれど、この島にはたまにしか日本人が来ないから、なかなか試すことができない。でもいつもはなるべく日本語で話すようにしてる。人に分からない言葉ってすてき。
 それはそうと、父親には本当に頭に来てる。出ていってやろうかしら。それか、私がいつもあの人の知らないところで何してるか見せてやるの。きっと驚くわ。

 それで二ページだった。僕は日記を閉じ、ナナカに返した。「どうもありがとう」
「ね、どうだった」ナナカは瞳を輝かせ、僕に尋ねた。僕は頭をかいた。
「年頃のお嬢さんだね」他に言うべきことを思いつかない。彼女は頬を膨らませた。
「それだけ? もう少し言うことないの。それじゃせっかく見せてあげたのがバカみたいじゃない」ナナカは目を細め首を伸ばした。ウミガメを思わせる仕草だった。彼女の日本語には独特の引っかかりがあり、早口だと何を言っているのか分からなくなりそうだった。夜のあたたかな潮風が彼女のポニーテールをなびかせていた。その顔はまだ幼い。僕はナナカの手に握られた日記へ視線を落とした。「君、何歳」
「わたし? 十六よ」ナナカは顎を突き出して言った。
「……本当に?」僕はサンダルを片方脱ぎ、足の間に入った砂を落とした。
「うう、ごめん、ウソ。ほんとは十五」「無理に背伸びしなくていいのに」
 ナナカは首を振った。ポニーテールが跳ねた。
「うるさいわ。別に背伸びなんてしてないもの。本当よ」
「ならいいけど」手持ちぶさたになったので、僕はポケットからこの島の地図を取り出した。ガイドブックについていたものだ。そのガイドブックというのが女性向けのもので、ブランド店にしゃれたレストランにと、お金を使う場所ばかり載っていた。
「あ、それここの地図? 見せて」ナナカは日焼けした細い腕を突き出した。僕は地図を持った手をそのまま横に差し出した。彼女は地図を広げると食い入るように見た。
「ああ、ダメね。面白いところが全然載ってないわ。カイト、この地図書いた人は何にも分かってない」「僕もそう思っていたところだよ」
 ナナカはしばらく地図を見ていたが、やがて乱雑に折りたたんでこう言った。
「ねえ、わたしが案内してあげようか。面白い場所がいっぱいあるんだから」僕はナナカを見た。彼女は笑っていた。まるで理解ある友人を相手にするような表情だった。
「残念だけど遠慮しとくよ。外国人旅行客が年頃のお嬢さん連れまわしたらまずいからね」
 ナナカは口を尖らせた。「どうして。そんなのつまんないわ。それに連れまわすのはあなたじゃなくてわたしのほうじゃない」
「ダメなものはダメ。それにもう夜だ。君は家に帰ったほうがいい」
 ナナカは目を伏せ、唇を噛んだ。表情の豊かな子だ。
「あなたもそういう大人みたいなこと言うのね」
「みたいも何も、僕は大人なんだけど」
 ナナカは立ちあがり、地図を僕に投げつけた。
「いいわよ。わたしがバカだった。さよなら。もう二度と会わないでしょうね」
「かもね」ナナカはしばらく僕を睨みつけていたが、踵を返し歩き去った。家から出てきた時と同じくらい早足だった。彼女は浜辺を横断し、大通りに続く階段を上がった。それを見届けた僕は海に視線を転じた。元気のいい少女が去ってしまうと、海は重く、脅威のあるものに思えた。遠くから運ばれてくる波がうねり、暗くなった水面に白いしぶきをつくる。気がつけば先ほどの少年たちはいなくなっていた。家に帰ったのかもしれない。はぐれた海鳥が一羽、砂浜をふらふら彷徨っている。僕は地図を一度広げると、漫然と眺めてから、丁寧に折りたたんでポケットにしまった。そしてホテルにかかってきた電話を思い出した。
 遺体がこっちに戻り次第、告別式と通夜がある。
 僕はスギウラサチがどのような人物であったかを思い出そうとした。しかしなかなかうまくいかなかった。かろうじてすくい上げることができた記憶は、サークル活動にいそしむ彼女の熱心な姿だけだ。その時の僕らは未来を何ひとつ疑っていなかった。
 僕はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。肺の中に苦い煙が広がると、自分がここにいることを確認できる気がした。いつから煙草を吸うようになったのか覚えていない。たぶんサチと別れた後だ。もうずいぶん昔の出来事に思える。一服した僕は、吸殻の火を流木で消した。立ちあがって砂を払う。やはり昨日のバーに寄っていこう。今日はどんな客が来ているだろう。見知らぬ土地で見知らぬ人の会話を眺めるのは楽しいものだった。沈む絨毯のような砂浜を歩き、通りに上がる階段に足をかけた。目の前にナナカが座っていた。「帰ったんじゃなかったの」
「わたし、家出したのよ」ナナカは膝を抱え、うなだれていた。ポニーテールが嵐の後のヤシの木のように頭から垂れ下がっていた。
「悪いこと言わないから、早く帰りなよ。ここは日本じゃないから僕には勝手が分からないけど、子どもが遅くまで出歩くのはどの国でもいいことじゃないだろう」
「子どもって言わないで」ナナカはうずくまったままそう言った。階段の真ん中にいるせいで、無視して上がることもできない。
「君はどうしたいの」仕方なく訊いた。ナナカは顔を半分上げる。「家に帰りたくない」
「野宿する気?」僕は煙草の箱を取り出すと、残りを確認し、胸ポケットに戻した。
「別に死にはしないわ。これまでにも何度かしているもの」
「そういう問題じゃないよ。それを聞いちゃった以上、僕は君を親御さんのところか、でなければ警察に送り届けなきゃならない」
 ナナカは顔を上げ、重そうにまばたきした。暗くて定かではないが、目が腫れているように見えた。「勝手にすればいいわ。でもそしたら、わたしはあなたを恨むから」
 僕はため息をついた。「友達とかいないの。泊めてくれそうな」
「友達はいるけど親友じゃないの。仲の良かった子はみんな引っ越しちゃった。ここは小さな島なのよ。普通ならいつまでもいるような場所じゃない。まともな人ならいつか出て行くところだもの」
 僕は海を見た。闇がするすると忍び寄ってきていた。
「分かった。それじゃ今夜だけ僕のいるホテルに泊まればいい。部屋を取ってあげる」
「ほんと?」「それでいいなら」ナナカの表情が星のように明るくなった。彼女は弾かれたように立ちあがった。「それじゃ行きましょ。早く早く」
 日記は家のポストにでも入れておくべきだったかもしれない、と今さら思った。

     

 来た道とは違うルートで僕たちは歩いた。夜が更けるにつれ、大通り沿いの店は賑わいを見せていた。現地の人々が食事か酒はどうかと呼びこむのを僕は何度か断り、ナナカがはぐれないよう注意して歩いた。彼女は起床時間を間違えた蝶のようにひらひらと歩いていた。ナナカがどこかの店に入りそうになるたび、僕は彼女を呼び止めねばならなかった。
「まるで保護者みたいね、あなた」ナナカはくすくす笑って言った。笑顔のほうがずっと似合っていた。「誰のせいだと思っているのさ」
 しかしナナカは楽しそうにこう言った。「いいじゃない。タビハミチヅレ、だっけ。日本の言葉。おばあちゃんが昔言っていたの。素敵よ」
 通りには他の国の観光客の姿もちらほらあった。日本人は見たところほとんどいないようだった。ナナカはネオンサインの光る店の前で足を止めた。
「あ、ねえ。ゲームセンター寄っていい? 狙ってる景品があるの」
「ダメ。あのさ、ナナカさん。君には常識ってものがないのかい」「ジョウシキ? それ何」
「まあとにかく、ダメなものはダメ。僕は君を遊ばせるために同行しているわけじゃない」
 歳の離れた兄になった気分だった。ナナカは頬を膨らませ、手の平でそれを破裂させた。
「何で。そんなのつまらないわ。ふんだ」ナナカは僕に背を向け、また歩き出した。今までどんな風に暮らしてきたのか知らないが、根は素直な子のようだ。
 まとわりつく熱気を振り払うようにして歩き、僕とナナカは宿泊所の前までやってきた。
「小さなホテルね」「少しは遠慮してものを言ってくれないかな」
「エンリョ? 知らない言葉ばっかり使わないでちょうだい」
 ナナカはまたくすくす笑った。実は意味を知っているのではないだろうか。僕はフロントまで行き、部屋の空きを確認した。オフシーズンの小さなホテルが満室でないのは訊かずとも明らかだった。案の定すぐに空き部屋が見つかった。係員に代金を支払うと、運び込む荷物がないことを告げ、僕は鍵を受け取った。
「二〇八だ。僕は二一〇だから、何かあったら呼びなさい」ナナカに鍵を渡した。
「どうしてカイトと一緒の部屋じゃないの?」彼女は澄んだ湖のような目で僕を見た。危うく吹きだしそうになった。「そんなことに説明が必要なのかい」
「なんてね、冗談よジョウダン」
 It’s joke. 流暢に彼女は言った。英語を話すとナナカはまるで別人のようだった。中央にある階段を上がった僕らは、壁沿いの廊下を歩き部屋に着いた。鍵を回し、ドアを開ける。
「わあ、思ってたよりいい部屋なのね」ナナカは正直に感想を述べた。室内にはまっ白なシーツを張ったシングルベッド、小型のテレビに冷蔵庫、バスタブ、大きな鏡、クローゼット、ガラスのテーブルと椅子が一式あった。窓からは街はずれと、その向こうに黒い布のような海が見えた。「繰り返すけど一泊だけだよ。明日には君は家に帰る。いいね?」
「OK」ナナカはベッドに飛び乗った。ごろごろと転がる。僕は自分の部屋に戻ろうとした。
「ねえ待って」彼女に呼び止められ、僕は振り向いた。「何、まだ注文があるの」
「夕飯食べてないの。お腹すいたわ」ナナカは細い手をお腹に当てた。僕は自分も空腹だったことを思い出した。「それじゃどこかに食べに行こう」

 ナナカの案内で僕たちは海が見えるレストランに来た。平日の夜だったが、地元の人や旅行客でにわかに賑わっていた。店内にはピアノジャズの曲がかかっている。バーカウンターとテーブルの席があった。僕らはテーブル席に向き合って座った。
「好きなもの頼んでいいよ」メニューを眺め僕は言った。
「ほんと? やった。迷うなあ、どうしよう」ナナカは瞳を輝かせてメニューを眺めた。
「ここどれもおいしいの。前ママが」途中で彼女は口をつぐんだ。わずかな間、ナナカは目を伏せた。「とにかく、どれもおすすめだから。安心して頼めばいいわ」
「そう。それはよかった」僕はステーキを頼み、ナナカは魚介のパスタを頼んだ。店員が去ると、僕は窓の外に視線を転じた。夜の闇に包まれた海は静かに波打っていた。闇の中に、遠くの灯台からの光がうっすらと射していた。
「ねえ。カイトは一人でここに来たの?」ナナカが言った。僕はうなずいた。
「一緒に来る人はいないの。恋人とか」彼女は好奇心をのぞかせていた。
「君は大胆な質問をするね。いないよ」僕は静かに首を振った。
「ふうん。それじゃ何、休暇?」「そう。仕事は貿易関係で営業」
 知らない言葉があったのか、ナナカは首をひねった。「仕事は大変?」
「まあ人並みじゃないかな。どんな仕事にも苦労はある」
「そういうものなのね」「そういうものだよ」
 運ばれてきた思いのほか豪勢な食事に僕は見入ってしまった。魚介パスタは具をふんだんに盛り込んでいて、上に乗った香辛料がいいアクセントになっていた。パスタソースからはオリーブオイルの香りがして、食欲をかきたてられた。ステーキは、日本だったら考えられないくらい分厚い。網目状の焦げ目に肉汁がきらりと光っていた。「すばらしい」
「でしょう。わたし、小さい頃はここによく連れてきてもらったの。それでパフェを食べてたわ。だいたい食べきれなくて残しちゃうんだけど。ここね、オーナーがお金持ちなの。だからあまり儲からなくても気前がいいみたい」
 周りの席を見たが、他の料理もみな豪華だった。
「いただきます」僕が言うと、ナナカも嬉しそうに手を合わせた。
「それ日本の挨拶よね。いただきます」二人で頭を下げた。食事をしながら僕は店内を眺めた。テーブルは年季の入った、磨かれた木材でできている。天井には空調の大きなプロペラがゆっくりと回っていた。どこにいてもこの町では時間の流れがゆるやかだった。昼間はプールで泳ぎ、海辺で釣りをして過ごしたが、昼も夜ものんびりしていた。ひとしきり食事が終わると、僕は楽しそうに会話する地元の人々を見てこう言った。「いい町だね。初めて来たのに、なんだかずっと前からここにいたような気分になる。懐かしい気持ちというか。古い映画に出てきそうな場所だ」
 ナナカは人さし指をぴんと立てた。
「ほんとうに映画で使われたこともあるのよ。名前、なんだったかしら。忘れちゃったけど」
「思い出したら教えてくれないかな。家に帰ったら見てみたい」
 僕はバドワイザーを飲んだ。ナナカはグレープフルーツジュース。店内にある小型のテレビがサッカー中継を映していた。日頃スポーツは見ないが、こういう場所で眺めるのは妙に楽しかった。ゴールキーパーが敵陣までボールを大きく蹴りあげた。
「ねえカイト。日本はどんなところ?」ナナカが訊いた。彼女は店内の照明を見つめた。「わたしね、亡くなったおばあちゃんが日本人なの。日本語を話せるのはそのおかげ。小さい頃はおばあちゃん子で、たくさん日本語を教えてもらったわ。もちろん英語のほうが得意だけど、わたし日本語が好き」
「だから日本語を話せるのか。とても上手だよ」
「ほんと?」「本当」僕は頷いた。照れ隠しのように、ナナカは瞬きを繰り返した。
「日本はそうだな、色々なことが発展している。特に東京は世界有数の都市というだけあって、人にいい刺激をもたらすものがたくさんある。人々は親切で優秀。街は清潔でお洒落」
「いいなあ。今すぐにでも行ってみたいな」ナナカは頬杖をついた。
「でも、僕には何かが失われていっているように思える」
 今の日本では、気が狂ったように誰もが何かを急いでいる。
「豊かになり続けているけど、日本人はまわりを見なくなってきている。近所の人に挨拶しないのもよくあることだし、ほとんどの人が四六時中携帯電話を見ている。あるいはゲームをしたり、インターネットをしたり」
「そうなの? 日本は夢のような国だって前に誰かが言ってたけど」
「間違ってはいない。僕も別の国に生まれて、日本に出かけて行ったならそう思ったかもしれない。でもなぜか日本で暮らしていると、自分がまるでどこかに溶けてなくなってしまったような気分になる。日常はありがたみを失って、ものごとの実感が薄いものに変わる」色彩を欠いた風景。忙しい仕事。目まぐるしい時間。
 ナナカは首を傾げた。無理もなかった。この町はそんな欠落とはあまりにも遠い場所にある。
「言われているほど素敵な国じゃないのかしら」ナナカはまだ不思議そうな顔をしていた。
「僕には分からない。物質的に豊かではあるけどね。僕は少なくともそれを幸福とは思わない」仕事場だけの機械的な笑顔。事務的な返事。

 食事を終えた僕らは席を立ち、会計をすませた。テレビを見ると、スポーツ中継がニュース番組に切り替わっていた。スギウラサチを乗せ森林に墜落した飛行機の映像がまた流れている。夕方に知ったばかりの出来事は、繰り返し再生されることですっかり頭に焼きついていた。
 頭痛がして、僕はよろめいた。
「カイト。どうしたの?」
 ナナカの声がした。しかしどこから聞こえてくるのかよく分からなかった。
「ごめん、ちょっと」目眩がする。自分の手がテーブルに触れた。僕は両手を突き、こうべを垂れた。気持ちが悪い。一杯しか飲んでいないのに吐き気がした。日本での忙しい日常が思い起こされる。ストレスのかかった同僚の声、繰り返し下げる頭、電話の音、ラッシュアワー、自動改札の音、ホームのアナウンス、タクシーの料金表示、夜遅いNHKのニュース、乱れ飛ぶような民放のトピック。それらはあまりにも目まぐるしく移り変わる。
「カイト」
 誰かの手が触れた。それは温かく、たしかな感触を持って僕をここに繋ぎとめた。
「大丈夫?」
 ナナカだった。不安そうにこちらを見ていた。僕は自分が今いる場所が日本ではないことを思い出した。一度深呼吸する。吸って、吐いて。こめかみのあたりを生ぬるい汗が伝っていた。「ありがとう。もう大丈夫だ」僕は右手に置かれていたナナカの手をそっと払った。「店を出よう。風に当たりたい」

     

 僕らは町中にある公園に来た。南国でしか見ることのできない雑多な種類の草木が茂り、街灯がかすんだ光を発していた。近くにはバスケットコートがあり、どこかの少年たちがボールをついている音がした。町はまだ暑く、半袖一枚でも汗ばんだ。僕とナナカはベンチに座った。背もたれに身を預けると、気分の悪さはずいぶんましになった。ニュース映像がまだどこかに残っていて、それは身体を動かすたび、滓のように揺れた。
「カイト、ほんとうに大丈夫?」
 ナナカの声は、遠い世界から聞こえるように輪郭が霞んでいた。
「何とか」僕は静かに呼吸していた。こんな風に酔うのは初めてだった。何が起きたのだろう。
「急にどうしたの。顔が青いわ」彼女は本当に心配してくれていた。
「嫌になったんだ」僕は言った。「この何年間か、僕は日本で息苦しさの中にいた。忙しい仕事、何もない生活。誰のために何をしているのか分からず、身体だけ動かすような毎日。そんなのがずいぶん続いていた。君に話している間、向こうでの暮らしを思い出して、気分が悪くなってしまった」僕はシャツの襟を煽いだ。汗にぬれた胸を生ぬるい空気が撫でた。
「そうだったの。ごめんなさい。わたし、そうとは思わなくて」ナナカは肩を落とした。僕は申し訳なく思った。「いいんだ。君は悪くない」
 どこかの茂みで虫が鳴いていた。気温も下がっていないのに元気なものだ。
「さっきの日記帳だけど」僕は言った。ナナカは顔を上げた。僕は家から飛び出してきた彼女を思い出し、訊ねた。「お父さんと喧嘩でもしてるの?」
「そうよ。あんなの父親でも何でもないもん」ナナカは強い調子で言った。
「どうしてまた」
「一年前にママがいなくなっちゃったの。何だっけ、親が別れること、日本語で」
「リコン」まるでどこかの国の呪文のような響きだった。
「そうそれ。リコンしましょうって言って、わたしを置いて出てっちゃった。連絡先も何も残ってなかった。ママとはけんかしたこともなかったし、ショックだった」
 ナナカは高いところにあるヤシの葉を見つめた。
「残されたあの人は、最初の何日かは落ちこんでいたみたいだけど、すぐに元に戻った。それで女の人と会うようになって」彼女はそこで話すのを止めた。遠くで少年たちの笑い声と、ボールがリングをくぐる音がした。
「気の毒な話だ」僕は言った。すると突然彼女は話し出した。「今では家に連れ込んだりしてるのよ。それもしょっちゅう。わたし知ってるんだから、部屋で何してるのか。だからあの人とは毎日けんかしてる。いつもいつも。日頃は絶対に口も利かないの。なるべく家にいなくていいようにしてる。友達の家に泊まったり、家出したり。もう何もかも嫌なの。すぐにでも出ていきたい、あんな家」
 僕たちはしばらく黙っていた。暑さの残る夜の公園は、そんな時間を留めてくれた。大きな植物の葉が街灯の明かりを受け、地面に不明瞭な影を投げていた。「家を出るにあたって、誰か頼れる人はいないのかい」
 ナナカはポニーテールが揺れるほど強く頭を振った。
「ダメ。おばさんもわたしを邪魔だと思ってるもん。泊まってもいいよって言ってくれる友達もいるけど、ずっと甘えるわけにはいかない」
「そうか」僕はひび割れた、黄色いコンクリートを見つめていた。たとえば自分が教師なら彼女に何と言うだろう。「それでも家に帰らないといけないよ」「話し合えば分かってくれる。代わりのいない家族なんだから、大切にしなさい」しかしそれらの言葉はみな空疎だった。綺麗事だ。
 ほとんど考えなかったと思う。気がつけば僕はこう言っていた。
「僕がここにいる間、あの部屋に泊まるといい。友達の家にいることにして、君の家には連絡だけ入れる。嫌だろうけど、それだけでもずいぶん違う。少なくとも警察に届けられたりはしないはずだ」
「ほんと?」ナナカはこちらを見た。透き通った瞳に、ぼやけた街灯の光が映っていた。
「本当」僕は頷いた。僕たちはそれから宿泊所に戻った。
「ねえ」自分の部屋に入る際、ナナカが言った。彼女はドアから顔だけを突き出していた。僕がそれを見るや、彼女は「ありがとう」と言って顔を引っ込めた。僕は頭をかき、部屋に入った。横になると、心地のいい静けさに包まれた。数時間前、原田からかかってきた電話を思い出す。まだ返事に迷っていた。そしてナナカのことを考えた。彼女にもまた欠落がある。僕にとってこの島は現実から遠ざかるための場所だが、彼女にとってはこここそが日常であり現実だった。僕は自分が十五歳の頃を思い出そうとした。よく笑っていた。仲のいい友達もいたし、今のナナカのような悩みを抱えてはいなかった。やがて瞼が重くなり、僕は眠りに就いた。

「ねえ起きて。カイト!」大きな声がした。反射的に僕は目を開ける。眩しい朝の光に射抜かれ、すぐに閉じる。「ねえってば、起きてよ」ドアの向こうから元気な声が聞こえてきた。
 コンコンコン。
 続いてノック音がした。若さを象徴するように軽快なリズムだった。僕は思いきって身体を起こした。寝起きで頭がぼんやりすることを除けば、体調はいたって良好だった。僕は立ちあがり、部屋のドアを開けた。
「グッモーニン!」ナナカはラガーマンの真似をするように僕に抱きついた。「お目覚めはいかが? 今日はわたしがこの島を案内してあげる」彼女は僕を見上げた。
「君が?」あまりいい予感がしなかった。
「そう。十年以上ここに住んでるんだから、知らない場所なんてないわ」
 ナナカは僕から離れ、胸を叩いた。昨日の物憂げな様子はすっかりどこかに消えていた。
「それとも他に用事がある? 十五歳の小娘は邪魔かしら」彼女は首を傾げた。そして僕は気がついた。ナナカは昨日と違う服に着替えていた。トレードマークのポニーテールも、別の髪留めで縛ってあった。「着替えを持ってきたのかい」
 ナナカは南国調のグラデーションが施してあるキャミソールと、ミニスカートにサンダルという出で立ちだった。
「ええ。早起きして家に忍び込んだの。置き手紙もしてきた。『三日間友達の家に泊まります。毎晩連絡するので心配いりません』って」楽しそうに彼女は言った。しっかりしている。僕は眠い目をこすり、あくびを噛み殺した。
「用事なんてないよ。休暇にスケジュールを決めるなんてまっぴらだからね」
「ほんと? それじゃデートしましょう!」彼女はおくびもなくそう言った。
「あ、そのまま寝たの? それじゃシャワー浴びてきなさいよ。ここで待ってるから」
「ここで? 自分の部屋にいてよ。終わったら呼びに行くからさ」僕は旅行鞄から着替え一式を取り出した。
「イ、ヤ、よ。だってこのほうが楽しいもの」くすくす笑うと、ナナカはベッドの上に横になり、リモコンを持ってテレビを点けた。「さ、早く。朝食の時間終わっちゃうわよ」
 彼女は手のひらを振った。仕方なく僕は着替え一式を持って洗面所に入った。身体を洗い、髭を剃り、歯を磨き、着替えを済ませると、昨日とは別の自分に生まれ変わったような気がした。日本では何回朝になろうとそんなことはなかった。それは不思議で気持ちのよい感覚だ。
 着替えた僕を見ると、ナナカは満足したのか、深く頷いた。
「うん、いいじゃない。それじゃ出かけましょ」そうして僕らの奇妙な一日が始まった。

 僕らは朝食を済ませ外に出た。今日もよく晴れていた。市役所の近くまで出かけ、レンタカーを借りた。古いタイプのオープンカーだった。
「左ハンドルか。不安があるな」僕はアクセルとブレーキの沈み具合を確かめた。
「すぐに慣れるわよ。おばあちゃんが言ってたもの。それにここは皆のんびりしてるから、小さなことでは怒らないわ。車に傷つけるくらいならセーフよ」助手席に座るナナカは、楽しそうに空調やラジオのツマミをいじっていた。しかし僕は不安が募った。「オープンカーって初めて乗るよ。この島、天気はどうなの」
「雨なら滅多に降らないから大丈夫。それに、降る時はだいたい分かるのよ。ここに住んでる人たちならね」ナナカはウィンクした。やけに様になっていることに僕は驚いた。
 車を発進させるのには二分を要した。何もかもが日本の製品とは違っていた。僕が操作を誤るたび、ナナカはくすくす笑い、「ここじゃない?」と言って正解を引き当てた。
「父親が今よりもう少しまともだった頃、ドライブのたびによく見てたの」
 もしかしたら、彼女は悪乗りで運転したことがあるのかもしれない。僕がそう訊くと、彼女は「さあ、どうかしら」と言ってまた笑った。「さあ行きましょう。島を一周したいわ」
 ナナカの宣言は実行に移された。知らない間にすっかり彼女が主導権を握っていた。僕は言われるまま、お姫様を望む場所へ連れて行く召使いと化した。ナナカは島の地図がすべて頭に入っているようだ。おすすめスポットと称し、僕を方々へ引っぱっていった。もともと小さな島で、三時間も走れば全体を一周できてしまう。西側に町があり、東側には灯台と港の他に目立った施設はない。全体に崖は少なく浜辺が多い。道すがら、いたるところで地元の人やサーファーを目にすることができた。空は晴れわたり、遠くを鷲が優雅に舞っていた。太陽は東の空を昇り、容赦ない日射しで僕らを照らした。車はほとんど走っていない。とても楽しい時間だった。僕は日本では出さないような速度を出していた。暑かったが、心地よい風が吹いていたためさほど気にならなかった。カーラジオからはこの国のラジオ放送が、聴いたことのない曲を流していた。軽快なサーフ・ソングは、今のこの状態にぴたりと合っていた。陸地側はなだらかな勾配になっており、木々や草花が陽光を受け、めいっぱい今を生きていた。
「こういうのひさしぶり! Sky is blue! 」ナナカは叫び、助手席から立ちあがる。
「座りなさい。シートベルトをしなさい。いい子だから」
「どうして? もっと今を楽しみなさい。大人なんでしょ」意味の分からないことを彼女は言い、すとんと腰を下ろした。熱を帯びた風が吹き抜けていく。僕の短い髪もよくなびいた。「もう少し行くと風車のある見晴らし台があるの。昨日見たあなたの地図には載ってなかったけどね。作った人の頭を疑っちゃうわ。素敵な場所なのに」
「そりゃ、車借りないと来られない場所じゃ載せないよ」
 時折すれ違う対向車の人たちはみな上機嫌だった。ある運転手は挨拶とともに親指を立てた。
「ハーイ!」ナナカが身を乗り出し、返事をした。僕はふたたび彼女をたしなめる。
「次それやったら車止めるからね」
「そしたらヒッチハイクね。わたしのあふれるチャームを持ってすればどんな相手もイチコロだわ」イチコロだとかそういう言葉に関して、彼女は妙に詳しかった。なぜかと訊いた。
「おばあちゃんがとにかく楽しい人だったのよ。色々教えてくれたわ。男の子の口説き方とか」
 うふふと笑い、ナナカは伸びをした。「カイト好きよ」出しぬけに彼女は僕の頬にキスをした。「感謝の証」
「ありがたく受け取っておくよ」上機嫌なナナカを見ていると、それ以上何を言う気もしなかった。間もなく、遠くに巨大で白い三連の風車が見えてきた。
「あ。あそこよ! 国の偉い人が昔何かの気まぐれで作ってしまって、そのまま回りっぱなしの風車。作っちゃったし、引き下がれないから回り続けているけど、あんまり役に立ってないらしいわ」ナナカは指をさした。よく知っているものだ。
「気まぐれにしては素敵な建築物だ」
「でしょう?」ナナカは笑い、ラジオの曲に合わせて指を鳴らした。
 僕は車を道路脇の空き地に停めた。このあたりに来る人はだいたいここに車を停めるらしい。砂の上にタイヤの跡がいくつもあった。錆びついたドラム缶の中に水がたまり、透けた水面に青空が映っていた。捨てられたホイールの穴から、生命力に溢れた草花が茂っている。
「こっちよ!」車を降りるや、ナナカは元気よく走り出した。僕は早足で後に続いた。
 風車の丘からは島の地形と海と空をひとしきり眺めることができた。三本のまっ白な風車は、南風を受け、ゆっくりと回っていた。海は強い日射しにきらめいている。海水浴やサーフィンに興じている人はこのあたりにはいなかった。青い絨毯を世界の果てまで広げたような風景がどこまでも続いていた。楽園のようだ。
「島のこっちのほうはほとんど何もないから、人もあんまり来ないの。ドライブとかデートで地元の人たちがたまに寄る、とっておきの場所ってわけ」
「なるほど。お招きいただき光栄だ」僕たちは丘を登り、草原に腰を下ろした。たえず南風が吹き、時間がいつまでも続いていくような心地の良い場所だった。何年もこんなところには来ていなかったように思う。
「ねえ。カイトの話が聞きたいわ」ナナカは近くの草を触りながら言った。
「僕の話? どんな」風車が回るのを見上げ、僕は言った。
「何でもいい。もっと日本のことが知りたいの」
 僕は考えてしまった。飲み会で当たり障りのない空疎な話をすることには慣れていたが、十五歳の女の子に何を話すべきか分からなかった。苦し紛れに考えているうち。杉浦サチの姿が思い浮かんだ。「じゃあ大学に行っていた頃の話」
 ずっと遠くに別の島の影が浮かんでいるのを見ながら、話を始めた。

     

 僕は都内の大学に通っていた。当時の僕は何ひとつ分かっていない、無邪気な学生だった。ほどほどに勉強し、友達と遊び、アルバイトに励んでいた。まだ世界はどこまでも広がっていて、無限の可能性に満ちていた。人並みに悩みもあったとは思うが、将来に深刻な影を落とすようなものではなかった。なぜなら、今ではそれらをすっかり忘れてしまったからだ。一年の後期だったと思う。ある講義に気になる相手がいた。それが杉浦サチだった。彼女はいつも最前列でノートを取っていて、真面目な姿勢が印象的だった。多くの大学生と違い、うわついた様子がなく、その雰囲気には一貫性が感じられた。僕は講義のたびに、気がつくと彼女を眺めていた。何がきっかけで話すようになったのかということについても、僕はよく覚えていない。おそらくは学科の、他愛無い話だったと思う。教授の悪口だとか。あまり会話が弾んだとは言えない。僕は能天気におどけていたが、彼女はどちらかといえば冷たかった。それでも僕は彼女に、何か自分にはないものがあるのを感じていた。そうした目に見えないものに惹かれるという経験は、そう何度も訪れるものではないと思う。
 彼女はボランティアサークルに入っていた。僕は特に興味があったわけでもないが、ただ彼女と一緒にいる時間を多く持ちたいという、年相応の馬鹿げた理由でそこに在籍した。サークル活動の一環として、何度か駅の清掃や老人ホームの訪問に付き合った。しかし、僕はそれを喜びだと思ったことはなかった。まだ若い日本の青年に、いきなり慈善について心から理解しろというのは無理な話だった。サチはそれに気がついたようだ。ある日僕にこんなことを言った。「もう少し真面目にやったら?」
 僕は自分の取り組みがいかに真摯なものであるかアピールした。まるで売ることだけを目的にしたテレビショッピングの販売員みたいに、弁舌だけは軽やかだった。しかしもちろんそれはうわべだけのもので、彼女に見放されないようにするための弁解でしかなかった。結局学生というものは、何を勉強していようと何も分かっていないのだ。しかしサチは心からボランティアに取り組んでいた。彼女には慈愛ともいうべき心があった。清掃の際、彼女は年の離れた婦人や老人といった人々とごく自然に話していたし、無理しているようには見えなかった。だからだろうか、彼女は人が何かを本当にやりたくてやっているかどうか、見極めることができたようだ。そこで僕と彼女はちょっとした口論になった。「あなたは身体を貸しているだけよ。それじゃだめ。本当にやりたいと思わなくちゃ」
 僕は抗議した。ただでさえ無償労働なのに、この上乗り気になれというのか。人のために動けるというのが僕には信じられなかった。確かに、やりがいとしてよく挙げられる事柄だ。しかし僕にはどうしてもそれが偽善としか思えなかった。サチがいなかったらボランティアなんかやっていなかっただろう。「それじゃやめたほうがいいわ。誰のためにもならないもの」
 その時、僕と彼女はいちおう付き合っていた(ほとんど説得するように僕が彼女を口説いたのだ)。だからこれは破局の危機だった。だが僕はボランティアにうんざりしていた。その頃はほとんど義務のような感覚でやっていたからだ。僕は彼女と一度距離を置いてみた。そしてしばらくの間、出張中に羽目を外す妻帯者のように自由を満喫した。しかし気分は晴れなかった。真面目にボランティアに取り組んでいなかったということが、いつも頭に引っかかった。サチの言ったことは正しかった。やる気もなしに人助けなんてできるはずがない。ある時僕は、もう一度だけ地域清掃に参加してみた。とりあえず、その一度だけは本気でやってみようと思ったのだ。他のことを考えず、ただ駅を綺麗にしようと思った。隅から隅までを箒で掃き、ゴミをまとめ、自ら率先して動いた。とても疲れたが、僕はその時はじめていい気持ちになった。ちょっとした運動を終えた後のように。サチに声をかけられた。彼女がいたことに僕は気づいていなかった。そこで僕らは仲直りをした。
 サチは家がキリスト教で、ボランティアには幼い頃からにいそしんできた。彼女は何かを知っていた。それはたぶん、自分から動くということがいかに大事であるかということだった。それから僕は真面目にサークル活動をした。気が乗らない時は行かないことにした。サチはそれに反対しなかった。僕らはその後、順調に仲を深めた。当時の僕は明るい未来を思い描いていた。その時がもっとも幸福だったと思う。しかし卒業するとそれは変わっていってしまった。社会での労働はボランティアとは性質が違っていた。それは必ずしも人のためになっているとは思えなかったし、その実感は薄かった。こちらの意志というものはさして重要ではなく、結果だけが求められた。いつも時間に追われ、常に身体は疲労していた。そんな場所においては、むしろ心などないほうが楽でいられた。僕はサチと連絡を取らなくなっていった。会えば喧嘩ばかりするようになっていたからだ。僕らはしばしば、大学時代の相手がどうだったかを持ち出して、変わってしまったことを嘆いた。仕方ないことだと互いに分かっていても、相手を責めずにはいられなかった。ただでさえ疲れていたからだ。社会に出て三年する頃、僕らは別れていた。

 炎上する飛行機の映像が浮かんでくる。あの中に彼女がいたのだ。別れてから三年の時を経た杉浦サチが。いま僕が何を考えようと、それはもう変わらないことだった。
「それからも仕事は忙しくなる一方だった。三年も経つと、同僚の中には辞める人もいた。『やりたいことと違った』とか『忙しすぎて今が見えなくなる』とか。他にも細かい、納得できる理由を彼らは言っていた。でも、仕事を続けようが変えようが、それは大した違いじゃなかったんだ。手遅れだったのかもしれない」
「手遅れ?」ナナカが尋ねた。
「そう。日本で暮らしている人たちの一部は、みな似たような感覚に侵されている。どこで何をしていても、それがまったくからっぽであるような気分になるってことだ。特にこの二年くらいはそうなんだ。暗闇に向かってボールを投げているような感じ、って言えばいいのかな。いっそのこと、嫌悪感や憎しみでも持てればいいのかもしれないけど、そうじゃなくてね。ほんとに何もないんだよ。あるのは時間の経過と、募る疲労だけだ」
「……よく分からない」ナナカは唇を噛んだ。僕は頭を下げた。
「ごめん。こんな話をするつもりはなかったんだ。自分でも何を言っているんだか、よく分からなくなってきた」日本のことを話そうとしたら、こんな内容になってしまった。
「でも」ナナカはつぶやいた。「日本にはこっちとは違う問題があるのね。それだけは何となく分かった気がする」彼女は膝を抱えた。彼女にとっての日本はどういう場所なのだろう。僕がこの島を理想郷のように見ているのと同じようなものだろうか。
「さ、ちょっと歩こう。変な話をしてごめんね」僕はそう言って立ちあがった。ナナカは笑顔を浮かべ、元気よく歩き出した。僕らはおとぎ話に出てくる仲のいい兄妹のように楽しく過ごした。それは幸福な時間だった。

 翌日も車を借り、僕らは何箇所かの「おすすめスポット」を巡った。へんぴな場所にある喫茶店に寄って昼食をとり、夕方には町に帰ってきた。僕はまるで十歳以上若くなったみたいによく笑った。ナナカも笑った。
「楽しかったわ。本当に」町に帰ってから、ナナカが言った。風車の丘を除き、僕はナナカの話だけを聞いていた。彼女は実に様々な話を、瑞々しい感性を通し喋ってくれた。嫌いな先生や、変な同級生、憧れているもの。どれも他愛無い話だったが、それらはナナカにとってとても大事なことだった。話の節々で彼女は熱を込めた。友達のどうしても許せない癖、クラスの秀才から教科書を奪った犯人。担任は一見いい教師だが、放課後になると一切生徒に取り合わないこと。校長が夜の店に出入りするのを目撃したこと。そのひとつひとつにナナカは怒り、悪態をついた。「こういうの日本語でどう言うの?」彼女は英語で罵詈雑言を吐いた。さすがに教えるわけにはいかなかった。
「カイト、夕食はどうしよう?」夕方、ナナカは言った。僕は地図を取り出そうとしたが、やめた。それはもう必要のないものだった。
「どこか行きたいところはある? 君の好きにするといいよ」
「ありがとう」ナナカはまた笑顔になった。とても素直な声だった。
 ホテルに戻ってから、僕は原田の留守電にこう伝言を残した。
「ねえ原田。僕だ。申し訳ないけどお通夜には出られない。ごめん、仕事で手が塞がっちゃったんだ。また今度会って話そう」
 風車の丘で話した内容くらいしかサチのことは思い出せなかった。三年も経ってしまうと、それはおぼろなもやとして頭の中に浮かぶだけの記憶になっていた。
 廊下で待っていると、ナナカがロングスカートに履き替えて出てきた。これから向かう場所に合わせたものなのだという。鮮やかな赤色はこの島にとてもよく合っていた。
「行きましょう、カイト」
「そんなお洒落な服も持っているんだ」
「着る機会なんて滅多にないんだけど」ナナカは裾をつまみ、くるりと回った。それからsサンダルのつま先をちょんと立て、ポーズを取った。まるで繊細な人形のようだった。
「似合ってるよ」
 僕たちは通りに繰り出した。日暮れが近く、紺色の布が空を覆いかけていた。ナナカの案内で十五分ほど歩き、僕らはきらびやかな電飾のライブ・バーに到着した。
「あなたはわたしの保護者ってことにしてね。じゃないと色々都合が悪いから」
「言っておくけどお酒は」僕が言うと、ナナカは人さし指をぴんと立てた。
「分かってるわ。あなたは大人だけど、わたしは子どもだもの。そう言いたいんでしょ?」
 僕たちは扉をくぐった。ナナカはそれでも上機嫌だった。
 店内には僕でも知っている有名な洋楽がスピーカーから流れていた。まだ夜も浅いせいか、正面にあるステージには誰もいなかった。客席はまばらに埋まっていて、別の国から来たと思しき青い目の夫婦や、粋な髭をたくわえた中年男性、タトゥを入れた若い人などがいた。僕たちはカウンター席に並んで座った。
「いらっしゃい」バーテンの男性が気軽に話してきた。「ご注文は?」
 ナナカに訊ね、僕はカクテルとパイナップルジュースを頼んだ。ナナカは眉を上げた。「男の人なのにカクテルなんて飲むのね」
「ビールはあまり好きじゃないんだよ。飲み会でしょっちゅう頼んでいるからね」
 程なくして、バーテンが二つのグラスを運んできた。僕はバイオレットフィズのグラスを手に取った。「何に乾杯しようか」
「素敵な時間に。チアーズ」ナナカはグラスを合わせる。涼しい音が耳に響いた。
 僕はお酒を飲みながら、店内を眺めた。壁には年代ものと思しきレスポール・ギターやアコースティック・ギターが飾ってあった。別の一角には写真と一緒にミュージシャンのサインが並んでいる。
「このあたりだとわりと有名なところなの。わたしの歳じゃ普段は来られないから、今日は嬉しい。もうすぐライブが始まると思うんだけど」ナナカは時計を見た。「もうちょっと時間がありそう」
「いいところだ」僕はつぶやいた。この島に住んでいたら通ってしまいそうな場所だった。
「ね。カイトの前の彼女だけど」ナナカが言った。グラスのジュースが少しだけ減っている。
「どうしたの」僕は言った。
「どんな人だったのか、もう少し聞かせて」ナナカは頬杖をついて、どこか気だるそうに店内を眺めていた。僕はサチの顔を思い出そうとした。卒業するまでは彼女もよく笑っていた。しかしその後は別人のようになってしまった。僕も同じだろう。
「彼女は人が生きていることの意味とか、そういうことについてよく考えている人だった。女の子にしては珍しかったな。君はそういうことを考える?」
「たまにね。親とけんかばかりするようになってからは多くなったかも。わたしね、こう思うの。今見えている風景って、わたしが年を取ったら別のものに変わっちゃうんだろうなって。じょうずに言えないけど」ナナカはグラスに入った二本のストローをつついた。
「時間がすべてを変えてしまう。変わってしまったものは元に戻らない」

     

 もうひとつ思いだしたエピソードがある。
 三年に上がる頃、サチと美術展によく行った。多くを忘れてしまったが、ひとつだけ、鮮烈に覚えている作品があった。その絵は小川に浮かぶ少女を描いているものだ。彼女はその中で美しく死んでいた。
「綺麗な絵」サチが言った。「オフィーリア」
「すごいな」僕が言った。
 オフィーリア。ジョン・エヴァレット・ミレイの作品だ。有名な絵画らしいが、僕はその時に初めて見た。繊細な色彩によって描かれた異国の少女は、溺死しているとは思えないほど優美で、つやめいていた。絵には空気や匂いがあり、作品のむこうには魂の揺らめきがあった。それは僕をとらえ、その場にしばらく釘づけにしてしまった。絵の中で、一瞬が永遠に変わっていた。
「ねえ、この絵を描いた画家は何を感じて日々を過ごしていたのかしら」サチが言った。
「分からない。でも、この絵を見た人が感じることには、そんなに違いがないんじゃないかな。それってすごいことだ」
 絵画には永遠があった。しかし、僕らの時間はそのように作られてはいなかった。

「今こうしている時間も、いつかは思い出すだけの記憶になってしまう。前はそんな風に思わなかった。今より時間の流れがゆるやかだったし、ものの感じ方だって全然違っていた」
「じゃあ、今わたしが見えている世界も、全然違うものになってしまうの?」
 ナナカは言った。僕はうなずいた。
「その絵、わたしも本で見たことがある。美術に興味があったわけじゃないのに、しばらく眺めてた。いつか本物を見てみたいな」
 バンドのメンバーが出てきた。彼らは挨拶をすませると、楽器を用意し、それぞれの位置についた。程なくしてライブが始まった。バンドは長年公演を続けているらしい。円熟した演奏には、その場にいるものだけが感じられる鼓動があった。僕は演奏に惹きつけられた。ビートルズやビーチボーイズなど、知っている曲もいくつかあった。大事なのは、誰の楽曲であっても、このバンドが「自分たちの音楽」としてそれらを演奏できていることだった。歌やベース、ギターにドラム、空間がひとつの音楽となり、僕の身体にリズムを刻む。それは日本で暮らしている間には得られないものだった。日頃ライブハウスに行かないからかもしれない。しかしそれ以上に、異国の地で聴く音楽には何か、根本的な違いがある気がした。
「素敵でしょ」ナナカが言った。
「来てよかった」僕は言った。
 ボーカルは初老の男性だった。かすれていたが、その声は生命力に満ちていた。裏拍のアクセントや、手慣れたビブラート。時折客席に手拍子を煽ぎ、場を盛り上げる。ある曲では客をステージに上げ、一緒に歌った。デュエットした曲はホテル・カリフォルニアだった。その頃にはすっかり盛り上がり、興奮した客が歓声を上げた。僕は今ここに、この時に自分がいるのだと感じていた。
 曲がスロウなナンバーに変わった。店内の照明が暗くなり、情緒のあるスポットライトがステージに落ちる。客席から口笛が鳴り、称賛の声が響く。
 ボーカルの男性が英語で告げる。
「今夜のステージに感謝を。最高の気分です。皆さんとの出会いに乾杯」
 ボーカルはグラスを傾けるジェスチャーをした。ベースとドラムスが呼吸を合わせ、リズムパートだけの前奏がはじまる。
「次の曲はこれも古いものですが、踊れる人はぜひ踊ってください」彼は適切な声量で歌い始めた。ナナカがするりと椅子から降り、こう言った。
「ね。踊りましょう」
「僕、踊りなんてしたことないよ」とはいえ、悪い気はしなかった。ほどよく酔いが回っていた。僕とナナカは席を立ち、ホールに出た。若い男女や老夫婦が同じように席を立ち、向き合って礼をしていた。僕も正面に向き直り、レディと呼ぶにはまだ幼い相手に礼をする。ナナカは大人びた仕草で返礼した。低い位置に結んだポニーテールが優雅に揺れ、口元には笑みが浮かんでいた。僕はふいに、彼女と同い年の少年に戻ったような気分になった。ナナカは細い腕を差し出した。「手を」
 僕は右手を重ねた。互いに近づき、それぞれの腕をそっと相手の背中にまわす。
「わたしについてきて。ゆっくりで大丈夫。……はい。いち、に。いち、に」
 僕たちは踊りだした。曲のゆったりとしたテンポに合わせ、そっとステップを踏む。
 いち、に。いち、に。一歩踏み出す間に、ドラムが三連譜を乗せる。それは素敵な時間だった。もう何年も忘れていたような、あるいは初めて味わうような。自分がずっと昔の人間に生まれ変わったようだった。ずっと昔からこの曲を知っていたかのように、いつしか僕は自然に踊ることができるようになっていた。ナナカの頭が僕の胸のあたりにあった。
「やればできるじゃない」耳を僕の胸に当てながら、ナナカは言った。「そういうものよ」
 映画の登場人物になったようだった。踊ることは自分の人生とは無縁だと思っていた。しかし、実際にステップを踏むと、それは思いのほか楽しかった。音楽がアクセントをつけるたび、ナナカは動き、くるりとターンした。そんな時間がゆっくりと続いていった。あまりにも耽美で、贅沢なひとときだった。やがて、曲はけむるような余韻とともに終わりを告げた。ナナカは笑顔でお辞儀したので、僕もそれに倣った。バンドはもう一曲演奏し、僕たちはまたそれに合わせて踊った。音楽やダンスがどうして世界に存在しているのか、すこし分かった気がした。二曲目の演奏が終わると、バンドのボーカルや客は拍手をした。僕とナナカもそれに加わった。
「素敵な時間でした。皆に感謝を送りたい」ボーカルがそう言うと、バンドのメンバーが楽器をちょっと弾いて演出を加えた。僕たちを含め、バーにいる全員がふたたび拍手した。僕はナナカに向き直る。「ダンスなんていつ覚えたの。ずいぶん達者だ」
「そんなことないわ。こんなのはね、そう気持ちよ。ノリって言うんだっけ? あなたにもできたじゃない」
 ナナカは頭を振った。「大事なのは考えないことね。流れに身をゆだねるの。緊張しないでね」
 バンドメンバーと打ち合わせをしていたボーカルがMCに戻る。
「それじゃ今度は若者の音楽です。といっても私たちが若かった頃だから曲は古いですが」
 お客が何人か笑った。僕もつられて笑った。
「ああ、私たちくらいの世代の方は無理して踊りなさんな。アップテンポですから明日に響きます。身体がノッてしまうと思いますが、気持ちが重なっていればそれでも十分です」ボーカルは笑った。彼はバンドメンバーへ振り向き、合図した。「それじゃ行こう。ワン、トゥ」
 ドラムが跳ねるようにリズムを取って、ロックン・ロールが始まった。すぐにボーカルが歌い始める。時間は古き良き時代へ舞い戻り、僕らはその時代の虜になる。
「カイト! わたしたちは踊りましょ。若いんだから!」そう言うとナナカは僕の手を引っ張ってステージの前まで連れ出した。僕たちは踊りだした。僕らだけではなく、他のカップルや、今出会ったばかりのような男女まで。老夫婦はカウンター席で両手を動かしてスイング。ドラムとベースが息ぴったりの演奏をする。それは何も考えず僕たちにステップを踏ませる魔法だった。青春時代を歌うラブソング。そこにはなんの疑問も、不安もない。流れに身をまかせ、心を弾ませて。
 ワン、トゥ、スリー、フォー。
 短い曲が次々演奏された。ほとんどが古典的と言ってもいいくらいの曲ばかりだ。しかしまったく疲れない。それどころか、踊れば踊るほど、心身ともに軽くなっていく。ボーカルが間奏にハーモニカを吹いた。それは田舎の風景を思い起こさせた。すると、一度もやったことがなかったようなステップが自然に出てきた。自分が自分じゃないような、弾む動きで飛び跳ねる。そこにある時間だけがすべてだった。ツッタッ、ツッタッ、ギターも持っていないのに楽器を演奏しているような気分。
「もっともっと!」
 目の前のナナカは完全なまでに十五歳の少女だった。赤いスカートドレスとポニーテールを揺らせて、満面の笑顔を浮かべる。僕もまた彼女と同い年になることができた。ただ純粋に楽しかった。他のどんな手段をもってしても、そんなことは不可能だった。ただ遠い時代からの音楽だけが、うつろだった僕の存在を認め、冷たく固まっていたものを溶かしてくれた。
 時間を忘れる演奏とともに、僕らの踊りはようやく終わりを告げる。こんなに名残惜しいものがあるだろうかと僕は思った。ボーカルが口笛を鳴らし、拍手した。「ブラボー!」
 僕たちは笑っていた。老若男女を問わず、全員が。まるで仲のいい家族のように同じ笑顔だった。とにかく楽しかった。何もかもが面白いことに思えていた。心の底から愉快な波が打ち寄せてくる。バーにいる人々を見て、僕はまた笑った。
 そうだ、これが人だった。もう何年も忘れていた。
「カイト、三回くらいつっかかったでしょう。しかも全部同じところだからおかしくって」
「あそこはどうしても間違えちゃうんだよ。自分でもどうしてだか分からないけどさ」
 僕とナナカは笑いながらカウンターに戻った。そこに空のグラスが乗っていることすら面白かった。「最高の夜だわ」とナナカが言った。僕は頷いた。
 バンドにチップを奮発し、僕たちは店を出た。生ぬるいような夜風が心地良かった。その頃にはひとしきり酔いも冷めていたが、余韻はまったく消えない。それは素敵なことだった。夜の通りにはまばらな街灯とわずかな人がいた。昼間活気のあった出店も、車の通っていた道路も、今はみな静かだった。僕らはホテルのロビーに戻り、階段を上った。幸福な余韻が続いていた。
「明日はカイトの行きたい所へ行きましょ。考えておいてね」
 そう言ってナナカは部屋に戻った。僕は彼女と指きりをした。笑顔を交わすと、ナナカが近所に住むクラスメートのように身近な存在に思えた。
 僕は部屋に入った。シャワーを浴び、着替えを済ませた。ベッドに横たわると、さきほどまでの幸福な余韻がじんわりと僕を包みこんだ。すばらしい夜だった。
 明日はどこへ行こう。どこにだって行ける。僕は鳥のように自由なのだ。夕方には帰らなくてはならないが、いま、そこから先のことは何も考えたくなかった。
 僕は電気を消してベッドに潜りこんだ。踊り疲れた少年、という言葉が浮かんで、おかしくなった。いつか、こんな風景を夢に見ていた気がする。田舎の、たいした娯楽もないような町。しかしそこでの暮らしは発展した都市よりもずっといきいきしていて、変わらない営みがある。そんな遠い場所。あるいはそれは旅の風景かもしれない。日がな一日、どこへ行くかも分からずに放浪して、出会った人と一度きりの言葉を交わすような、そんな旅。列車に乗ったり、草原に寝転んだり。やがて夕陽が西に落ちて、今日一日を思うような。そんな憧憬。
 いつしか僕は夢に落ちていた。幻の旅の風景を、僕はまどろみながら夢見ていた。夢の旅でも僕は宿に泊まっていた。幸福な気持ちで眠ると、紺色の夜が訪れる。虫が鳴いて、深い眠りに落ちていく。
 しかし、何か大切なものを忘れてきた気がして眠ることができない。僕はそれが気になっている。何だろう。何かが足りない。幸福であるはずなのに。ひとたび眠ってしまえば、朝がきて、もう二度と思い出せないかもしれない。ただひとつの引っかかりが僕を呼び止める。

     


 僕は目を覚ました。部屋は静まりかえっていた。まだ夜だった。常夏の島は、真夜中でも空気に生命の力が宿っている。外はまだ暑そうだった。僕はなぜ目を覚ましたのか、何の夢を見ていたのか思い出そうとした。そして、部屋の外から小さな物音がすることに気がついた。それは注意して聞いていなければ分からない、かすかな音だ。
 僕はベッドから出て、そっとドアに近づいた。ほとんど直感的に、泥棒の類ではないと分かった。だから、ドアに耳をつけたのは単にそれを確認するためだ。そして僕は音の正体を知った。
 ドアの外から聞こえたのはナナカのすすり泣きだった。彼女はどうしてもそれを押さえられず、しかし誰にも聞かれたくないとでも言うように、泣いていた。ほとんど声はしなかった。ときおり息を吸う音や、しゃくり上げた時に起きるわずかな物音が僕の目を覚ましたのだ。
 十秒ほど、僕はどうするか迷った。秘密の場面に遭遇したような感じだった。僕はノブに手をかけ、そっとドアを開いた。ナナカが身を引くのが分かった。まるで、外敵から身を守るために警戒する生きもののようだった。様子を窺うと、彼女は座りこみ、膝を抱えていた。いったいどれだけの時間そうしていたのかは分からない。頬には幾筋もの涙の跡があり、そこに廊下の薄明かりが反射していた。僕はそれですべてを悟った。
「風邪ひくよ」ささやくように言った。ナナカはまた泣き出しそうな顔をした。僕はドアを少しだけ動かして、「入りな」と言った。
 ナナカはしばらく動かなかった。顔を背け、床に視線を落としていた。彼女は必死に何かをこらえていた。僕はしばらくドアの前に立ちつくしていた。どれだけ経っただろう。彼女はゆっくりと立ちあがり、うつむいたまま部屋に入ってきた。
 少し歩くとすぐに、ナナカは僕の胸に頭を押しあてた。ドアが閉まる小さな音がすると、それを合図に彼女は震えだした。泣いているのだ。
 僕は立ち止まったまま動けなくなってしまった。ナナカは両手で僕のパジャマを握りしめていた。僕はそっとナナカの背に手を当てた。抑えきれない声が、彼女の喉元から漏れた。国が違っても、人の泣き方は同じなのだと僕は思った。
 とても長い間ナナカは泣いていた。まるで十五年分の涙をいっせいに流しているかのようだった。僕は彼女の背に手を置いたまま、ただじっとしていた。ナナカが何を思っているのか、分かる気がした。具体的にそれらを挙げられるわけではない。しかし、僕やナナカが思い描いたことはほとんど同じものだった。
 彼女は長い間、休むことのできる場所を求めていた。嫌なことや、思い通りにならないこと、変わっていってしまうこと、そんな様々なものから、ほんのいっときでも遠ざかっていられる場所。戸惑うばかりの時間の中で、少しでもいいから、笑い、安心し、ありのままでいられる場所を。
 泣いているナナカは、儚く傷つきやすい少女だった。ほんの数時間前まで無邪気に笑い、僕を引っぱりまわしていたとは思えない。そして僕は思った。本当なら僕たちは一緒に踊るべきではなかったのかもしれない。それはあまりにも強烈な時間だった。あの時間、魂は同じ場所で揺れ、明るく輝いていた。生きている限り、僕やナナカはいつかそれを思いだすかもしれない。またはすっかり忘れてしまうだろう。どちらにしてもそれは恐ろしく残酷なことだった。
 どれだけ経ったのか定かでない。ナナカは僕から離れ、目をこすった。僕は椅子を示した。
「座って。ゆっくり休めばいいよ」
 ナナカはうなずいた。彼女はとても遅い、危なっかしい足取りで椅子まで歩き、座った。いまにも倒れてしまいそうに見えた。僕は冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、グラスに注いだ。「はい。少しでもいいから飲むといい」
 グラスを渡すと、ナナカは少しだけそれを飲んだ。時間をかけて五分の一ほどを飲み、隣にあるガラステーブルにグラスを置いた。僕は彼女が落ちついたのを見て、ベッドに座った。
 ナナカは悄然として、床に視線を落としていた。何も考えたくないように見えた。そのまま永遠に床を見ていたいとでも言いたげだった。しかし彼女が発したのは別の言葉だった。
「どうしてかしら」ナナカは言った。何とか絞り出したような声だった。彼女はもう一度グラスの水を飲むと、テーブルに戻した。「どうして」
「どうして私たちのいる場所はこんなふうなの。何でも突然で、何もかも思うようにはいかなくて。しょっちゅうつらくって。ほとんどそんなことばっかりなのに。それなのに、ほんとうに全部が全部嫌なことだけじゃないんだもん。たまにほんの少しだけ、何かのおまけみたいに素敵なことがあるの。いつだってそうだった。わたしが窒息しそうになっていると、まるで助け舟みたいに深呼吸できる時間がきて、短い間だけそこで休むことができる。そしてそれが記憶に残る。いつまでも残るの。でもそれはもう二度と起こらない。どれだけつよく願っても起こらないの。そしてまた嫌なことばっかりになる。いっぱいになって、どうにかなっちゃいそう。美しかった日の出来事がまるで嘘みたいに、心がどこかへ行ってしまう。もう帰ってこないんじゃないかって思う。でもそうすると、忘れた頃になってまた何か綺麗なことが起きる。そんなのずるいわよ。ねえ、神様はいったい何を考えているの? これからずっとこんなのが続いていくなんてわたしには耐えられない。もう死んじゃいたい。どっかに消えちゃいたいわ」つかえていたものすべてをいっせいに吐きだすように、ナナカは言った。そして頭を伏せ、また泣きだした。しかし今度は長く続かず、突然水を打ったような静けさが戻ってきた。ナナカはまたグラスの水を飲んだ。僕はじっと黙っていた。それは永遠のような時間だった。
「昔、ママが言ったの。『ナナカは私によく似ているから、きっと素敵な恋をして、私よりずっと綺麗になって、幸せな結婚をするわ。私はずっとあなたの味方よ。どんな時でも一緒にいるわ』って。でもある日突然、大きな嵐がきて何もかも全部持って行っちゃうみたいに、急にママはいなくなっちゃったのよ。それだけじゃない。学校の勉強だって前はもっとちゃんとできた。こんな風になっちゃうなんて思わなかった。パパだって昔はああじゃなかった。もっと優しかったし、お酒なんて全然飲まない人だったのよ。それがどうしてあんなことになってるのか、私には何も分からないの。他にもいいことがいっぱいいっぱいあった。私は幸福な世界に住んでいたのよ。それなのに。ねえカイト、あなたには分かる? 大人ってどうしてそんなに変わってしまうものなの? 私怖い。自分もいつかそんな風になっちゃうのかと思うと、怖くて怖くて……今日一日、また大人に近づいちゃったと思うと寒気がするの。あんまり怖いから、眠れないまま、時計を見つめて一晩中起きてたことだってある。いっそ時計を壊してしまいたかった。そうして何もかもを止めてしまいたかった。私、もう……」ナナカは頭を抱え、椅子の上に小さくなった。小さな心臓のように、彼女は震えていた。僕は彼女が飛び出した自分の心の一部のように思えた。知らない間に押し出され、どこかに行ってしまったもの。このまま忘れれば楽でいられたのに。僕はその存在を見つけてしまった。片隅で潰れそうになっていた、小さな小さなものを。
「一緒にここを出ようか」僕は言った。頭の中に地図が広がっていく。それは見慣れた世界などではない。十代の僕が描いた、空想の世界を巡る果てしのない旅路。
「僕も君も知らない国に行って、悲しいことなんか何も起こらない場所で暮らすんだ。そこでは昔聞いたおとぎ話より素敵な風景があって、君はもう傷つかなくてすむ。大人になっても惑わされないし、未来への不安もない。時間の経過を素直に喜ぶことができる。成長したら君は一人で家を借りて住んでもいい。そしたら、僕と君は近くの喫茶店かどこかで待ち合わせるんだ。映画でも見に行って、小川のほとりで釣りでもしよう。何年かして、この時のことを思い出す、そういえばあんなこともあったよねって。その時には今起きていることは美しい思い出になっている。君も成長して、今の迷いも懐かしく思える」僕は知らない間に笑っていた。ナナカが口を開く。
「たまに酒場で踊るの。さっきみたいに。私は何時間でも踊れるのに、あなたはへばっちゃうの。すっかり酔いつぶれちゃって、次の朝私が叩き起こすの」
 そう言って彼女は笑った。風が吹けば飛んでいってしまいそうな笑みだった。
「ありがとう。嘘でもうれしい」ナナカは言った。
「嘘なんかじゃないさ。どこまでも行けばいいんだ。どこまでも」僕は言った。
 ナナカは床にきらめく月光を見つめていた。長い時間に思えたが、実際は十秒くらいだったと思う。
「そうね」笑みはいつしかナナカの顔から消えていた。

 ナナカはその晩、僕の部屋のベッドで寝た。僕自身はナナカの座っていた椅子で仮眠を取った。眠りに落ちる前、二度と夜が明けなければいいのにと思った。しかし順当に朝は訪れた。翌日の朝、僕は空になったベッドと、ホテルのメモ用紙に残された書置きを見つけた。そこには流麗な英語の文章でこう書いてあった。
「カイトへ
 本当にありがとう。手紙じゃ書ききれないけど、あなたには本当に本当に感謝してるわ。昨日のことはずっと忘れません。私はひとまず家に帰ります。家には来ないで。父親とはまだ何とかやっていけると思うから。大丈夫。
 ねえ、私思っていたんだけど、あなたのほうも何かあったんでしょう? つい聞きそびれちゃったけど、たぶんその昔の彼女に、何かが。ごめんね。私がもっと大人だったら、対等に話ができたかもしれないのに。
 きっとまた会いましょう。互いにそう願えばいつか叶うわ。私はそう願ってる。それじゃまた、いつの日か。
    愛をこめて ナナカ  」
「最初から最後まで振り回されっぱなしだったな」
 僕はそうつぶやき、手紙を大切にしまった。
 窓の外には、素晴らしい島の風景が広がっていた。このまま夏が続けばいいのにと僕は思った。僕は受話器を手に取った。さて、どこに電話しようか。今この瞬間から、未来は無限に広がっている。
 迷うのをやめにして、僕は番号をプッシュした。

 〈了〉

       

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