Neetel Inside 文芸新都
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 正直なところ、僕にも過失はあった。安易な諧謔心と、意地っ張りな性格。そして彼女の侵入を許したこと。ただ、これまでの結果と、これからの展開が悪いものかどうかは解らない。というよりむしろ、悪くはないと思えるのだ。思いたいのだ。
 最後の会話の後、僕は返答に困っていたが、果たして困る必要は無くなった。それから彼女はどこか可笑しな目で僕を見つめたり、笑っていたりした。そこに会話は無かったのである。ただ、彼女がグラタンを食べなくなったのは悔やまれた。
「食べてもいいよ」
「食べなよ」
「食べなよ、どうせ僕は食べないんだから」
何を言っても、彼女はゆっくりと首を振った。そのたびさらさらと黒髪が揺れた。やさしい甘い匂いがした。押し倒してやりたいとは思わなかったけれど、とにかくもう一度グラタンを頬張って欲しかった。
 ゆっくりとした間があった。ちょうど彼女を入れた時に窓を閉めたから、部屋の空気は再び澱み始めていた。甘い匂いはしばらく僕の鼻を擽(くすぐ)ったのちクッションフロアのほうへと沈んでいった。

 薄いカーテンが、陽を受けて少し明るく染まる。彼女が来てから時計の針は一周とちょっと回転を続けた。二人は交互にうとうとしたが、どちらかの腹の音で意識を取り戻した。グラタンが、固くなっている。
 ふと、彼女が喋り始める。
「おなか、減ったでしょう。温めなおしてきますから。」
そう言って徐(おもむろ)に立ち上がり、台所の方へ――といっても、ほぼワンルームの部屋なので正確には台所のある一角、とでも言うべきなのだろうが――歩いていく。
「……あれ、あなたの家、電子レンジ置いてないんですか?」
「ああ、ごめんなさい。そこの布をめくってもらえば」
彼女は暖簾でもくぐるかの様に裏拳で布を払いのけた。
「コンセント、抜けてますね」
僕は他人事のように忠告した。温めなおす意味を考えても無駄。全ては僕と彼女との無意識下にある筈だ。少なくとも、僕の意識下には無い。会話から行動。無意味なること塵屑の如きながら果たして面白くなってきた、などと考えながらレンジがグラタンを温める音だけを聞いていた。電子レンジがグラタンの中の水分子を震わせることそれ自体、僕にとっては無意味な事だ。結果として温かくなったグラタンにこそ僕はその意味を見いだす。この不思議な一日にだって、それ自体に意味は見出せない。ただこれが何かに結実していくであろうことは、何となく感じられた。
 と僕の思考の余韻を鋭くレンジの音がかき消した。彼女が素手のまま、グラタンを持って戻ってくる。机に置かれた瞬間から、僕の五感を突いてくる。五感を介せずに直に脳髄に届いた感すらある。その証拠に、無意識に食指が、まさに食指がスプーンに触れようと軽く動いた。
「はい、おたべ」
彼女の丁寧な言葉が、余計に心地よく響く。食指が微かに動きを見せる。じっと堪えたつもりが、少しずつ震えながら動いているようだ。
「さあ、ほら」
言葉とは裏腹に彼女はスプーンを持ち、グラタンを一杯に掬って自ら頬張った。陳腐な表現をさせてもらえば、僕に電流が走り抜けていた。もう、いけない。
 半ば強引にスプーンを奪って、大きく掬い上げる。それでも彼女は笑っている。スプーンをはみ出す程のグラタンを、ゆっくりと口元へと持っていく。……ああ、彼女がじっと僕の目を見る。ずっと視線を外さない。吸い込まれそうだ。吸い込まれたい。快感が、僕の箍を外していく。呼吸が荒くなって、彼女に吸い込まれるようにして、そしてそれから僕は意識を失った。

 それからの事は書くに忍びない。僕の知らない無意識の片隅で勝手に発芽して、そのまま結実してしまった恋愛美談を語る事が面映いからではない。今僕の向かいに座って、あの時と同様スプーンを突き出しながら「あーん」と甘やかなる睦み言を差し向けてくる彼女も存在しない。
 正直なところ、あれからは何も無かった。また空虚とした日々が続いた。何も無かったけれど、何か変わりそうではあった。思考の糸を手繰り寄せるための、きっかけにはなったのかも知れない。
 二週間が経った。そろそろ記憶もぼんやりと曇り始め、その細部を丁寧になぞっていく事は困難になってきた。いいタイミングだろうと、僕は小さな決断をして机に向かう。輪郭がぼやけてきたくらいが丁度良い。
「メンとヘラーの物語」
思わず唸った。まるで意味が無い。でも、良い。タイトルに意味なんか求めなくて良い。タイトルに意味を見出す必要もまた、無いのだから。
 筆は進んだ。昔ながらの原稿用紙に文豪気取って万年筆と洒落込む。紙とペン軸とが乾いた音をたてていく。心地よい。何となくあの日と同じ気持になれた気がしていた。

       

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