Neetel Inside 文芸新都
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ネクラが覗く世界
ロマネコンティの思い出

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 僕はあの朝、母に言われた恨み言が思考の端緒になって「野球中継が朝早くからあればみんな寝坊なんてしないんじゃないか」ということについて考えていた。野球中継も、柳生十兵衛も、ジャニーズの出るバラエティも、お色気番組も、すべてが朝早くにやっていれば誰も寝坊なんてせずに済むのだ、と。
 朝の会が終わる直前に教室に入ると、同じく遅刻メイトであるヨシアキはもう席に座っていた。
「遅いな。おれはとっくにここにいたのに。」
それは運良く遅刻しなかった者が、いつも通り遅刻してきた者に言う、挨拶のようなものだった。僕が席に着くと、日直のユキノちゃんが朝の会を終わらせた。先生がため息を吐いた。

 休み時間、僕は得意げな顔で朝出た結論について皆の衆に話して聞かせた。みんなはどんな反応を示して来るだろうか。学級委員長のツムラはきっと、
「よく考えても見ろよ、野球が朝早くから始まるってことは、きっと、江永アナウンサーだって鈴木啓示さんだってもっと朝早くから準備しないといけないんだぞ?あのおっぱいの大きいリエとかユーコとかだって朝から水着でテレビに出るの大変だぜ?」
と言うに違いない。ツムラは間違いなく学級で一番さらりと「おっぱい」と言える男子だ。将来はきっと役所で懸命にキーボードを叩き、週末は家族サービスに徹する姿が今からでも容易に想像できるあの真面目顔で、おっぱいの良さ、いや、「善さ」について唾液を飛ばしながら熱弁を振るう放課後の彼の講釈、人呼んで「熱中時間、忙中おっぱいあり」はすべての男子に対して一聴に値するお話であると声高に主張したい……とおっぱいのことばかりが頭をめぐって、下腹部をむずむずさせていると、ヨシアキが不意に口を開いた。
「何言ってんのさ。あとちょっと、あとちょっと……って思いながら目覚まし時計のスヌーズボタンを押すのがどれほど満ち足りた瞬間か、ってことは、お前が一番知ってるハズだろう?」
全くだ。返す言葉もない。僕は思わず教室の引き戸の右側にある、遅刻チェックリストを眺めた。皆もいっせいにリストを見た。

遅刻チェックリスト

(中略)

長井   正
永山   正正正正正正正正正正
中村   正正正

(以下略)


 何を隠そう、中村ヨシアキと併せて学級の累計遅刻回数のほぼ八割を占め、さらにチェックリストに正の字が納まり切らず、学級通信の余りを継ぎ接ぎさせたという絶対の遅刻癖を持つ僕が、遅刻しない方法を考えるというのは天地が逆転するような阿呆の思考だったのだ。
 僕は何を考えていたのだろう。自分を恥じるのが正しいかどうかはわからないが、学級内で「遅刻大将」と呼ばれているという責任も相まって、僕はあらん限りの侮蔑の言葉を自分に投げつけた。
 そんな時だった。ガラガラとすぐ左で引き戸が開き、ゴンさんが登校してきた。彼はおもむろに手提げバッグを机の上に置いた。鈍く、重たい音がした。貧弱そうな手提げバッグから、どでかい広辞苑が出てきた。
 「昨日、バカとか、アホとか、言われたから。」
確かに昨日、僕らはゴンさんをはやし立てた。それはあてられた分数の掛け算ができなかったからであり、「問題をあてられて答えられなかった者」に対する、一種の儀式でもあった。むろん僕もできていなかった。
「俺は、バカでも、アホでも、スカポンタンでもない」
急に甲高い声を出した。不意にパーソナルスペースを侵され、吠える犬のようだった。そして泣き出した。僕らは、ただ黙って、ゴンさんを見ていた。
「バカとか、アホとか、スカポンタンとか……バカとか、アホとか、スカポンタンとか」
どうひいき目に見ても僕らが「スカポンタン」と罵った記憶は何処にも無い。それでもゴンさんはわめきながら、机いっぱいに広辞苑を開き、適当に開かれたそのページから、一枚ずつ広辞苑を食べ始めた。
 時間が意味もなく過ぎていくような気がした。コマ送りのようにも感じられ、早送りのようにも感じられた。不思議な時間だった。ゴンさんは一心不乱に広辞苑を破り、口へ運ぶ作業を続けていた。
 幼い頃、スーパーのペラッペラのチラシを食べていたことがある。母にきかされた時は、恥ずかしいような、それでいて自分がたくましく、健やかな人間のような気もして何故だか誇らしげな気分になったものだ。そのおかげか知らないが、買い物を安く済ませるのが上手いらしい。いまでも仲間内で遠足のおやつを見せ合う時、だいたいは僕のお菓子に注目が集まる。量、質ともに十分。行きのバス、森林公園、帰りのバス……あらゆる事態に対応できる、まるでお菓子の救急箱や、とあの男ならきっと言うに違いない。いや、ヨシアキが実際に言った。あれは五年一組名言集に編まれたのち半永久的に保存されて然るべきであろう。
 きっと似たような論理で、ゴンさんは広辞苑を食べていた。読んだこともないそのページを、消化し、吸収することで、知識としたかったのだろう。ただ、古館伊知郎か、家に広辞苑のある余程の暇人でもなければ、広辞苑の丸暗記など、出来っこない、鬼の所業である。

 静寂の中を、「うっ」という断末魔の叫びが駆けていった。ゴンさんの口から、くしゃくしゃになった数ページが出て来る。唾液は先行する数ページにほとんど吸い取られたのか、それらはほとんど乾いた状態でリバースされた。ゴンさんはまだ残りをもぐもぐと食んでいた。目に涙が溜っていた。
 喉の奥の奥の方からでてきたような、「ほぅ」という声とともに、ゴンさんは口回りを押さえていた手を広辞苑の上に力なく置いた。左手薬指の先に、【ロマネコンティ】と書かれた項があった。
 思えばそれが、僕らとロマネコンティとのファーストコンタクトだった。

       

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