Neetel Inside 文芸新都
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 ユキムラが「オレはロマネコンティを飲んだことがある」と言ったのはそれから間もなくのことであった。その頃になっても、ロマネコンティという響きは、ワインという子供禁制の蠱惑的な飲料であるという事実と相まって僕らをいっそう魅了していた。暇さえあれば、僕らはロマネコンティの話をした。架空のロマネコンティの話をした。本物でも偽物でも良かった。フランス産でも、学校のボイラー室で造られたのでも良かった。ただ、光を受けてらてらと艶のあるさまと、芳醇な香りとは、どの似非ロマネコンティからも窺えたのだった。
 ユキムラの発言に、本物が見れるのだとわくわくしている者もあったし、そうでない者もいた。僕も乗り気ではなかったが、その理由はその時にはよく解らなかった。今になって思えば、理想を汚されたくなかったのかも知れない。
 多数決をとって、僕らはユキムラにロマネコンティを見せてもらうことにした。多数決で、とは言ったものの、いざ採決の段になって、僕らは全員手を挙げた。乗り気でなかった僕も、その他の者も、みんな手を挙げた。ユキムラは笑っていた。
 僕らはユキムラの要求に応え、みんなでお金を出し合って、ちょっとしたワイングラスを買った。わざわざ東急ハンズをチョイスしたツムラのセンスに、クラス中が嫉妬した。
 そうしてその日が訪れた。ユキムラは、何食わぬ顔で学校へ来た。僕は数週間ぶりに門限前に学校についた。だけど、
「遅いな。おれはとっくにここにいたのに。」
とは誰にも言えなかった。でも全く悔しくなかった。嘘だ。少し悔しかった。
 放課後、ユキムラは何食わぬ顔で言った。
「まぁ、ちょっと待ってろ」
ユキムラが教室を出て、僕らはざわつき始めた。ユキムラが嘘をつかないとは言い切れない。僕らが東急ハンズのシャレオツなワイングラスを買ってやったとしても、である。それでも誰も疑っていなかった。いや、正確に言えば、誰も疑念を口にするものはいなかったのである。いったい何色だろう。先生は「大人の飲み物だよ」と言っていた。僕は肌色だと思った。ツムラは紫だと言った。東急ハンズでは紫色のワインが注がれていたという。店員にこれはロマネコンティかと訊いたら、鼻で笑われたらしい。胸くそ悪い話だなと僕は言った。
「何?鼻くそ?」
とヨシアキが言った。みんな笑った。

 ヨシアキがオレはピンクだと思うと言いかけた時だった。ガラガラと気怠そうに教室の引き戸が開く。ユキムラはグラスを掲げていた。
 えんじ色した、ロマネコンティが見えた。
 僕らは息をのんだ。ユキムラはロマネコンティを少し飲んだ。いや、口に含んで、びっくりするようなうめき声を出して、ぺっ、と吐き捨てた。
 なんだ、どうした?と、みんながユキムラをとり囲む。やはりワインは子供禁制の飲み物だったのだ。まずいのか?苦いのか?オレは親父に日本酒舐めさせてもらったとき苦くてびっくりした、などと皆口々に何かを言うが、そのどれもが無意味だった。僕らにとってロマネコンティは日本酒でなく、ワインでもなく、ロマネコンティなのだ。絶対者たり得る価値を持っているのだ。
「うえぇ」
「くっせぇ」
あの時の僕らはどうみてもひいき目にロマネコンティを評価していた。仲間たちがみな、ロマネコンティのホーム状態を作り出していた。でもそんな補正を抜きに、ロマネコンティは美しかった。ただ、思っていたよりも少し黒みがかっていた。匂いもお世辞にも芳醇とは言いがたかった。何かに酔いしれた気分であった半面、「理想には及ばないのではないか」という予想どおりでがっかりもした。
 皆それぞれ、思い思いに沸いていたのだが、ツムラがあることに気がついた。
「ビンはどこにあるんだよ?」
皆ツムラの発見に呼応して、ユキムラを問いただす。
「おいどこにあるんだよ」
「どこにあるんだよ」
こういう時の餓鬼というものは数秒前に賞賛した相手に対しても容赦無い。それが子供であり、それだから餓鬼なのである。
「早く出せよ」
僕らはユキムラのランドセルや手提げバッグをひっくり返して調べた。リコーダーや、地図帳や、粘土セットが逆さまになって落ちた。教科書も落ちた。それでもロマネコンティは出てこなかった。
 一体どういうからくりなのだろう。僕らには、少なくとも僕には皆目見当がつかなかった。ユキムラが教室を出るとき、グラスしか持っていなかったような気がする。何かを後ろ手に隠し持っていたのだろうか。それとも、まさか校舎内にロマネコンティの出る蛇口でもあるのだろうか。ボイラー室醸造所説が正しかったのだろうか。色々な考えが降っては消え、降っては消えた。思考もアルコールも揮発性が高いようだ。
 その時、誰かが不意に、
「見つかるまで、教室から出さないからな」
と言ったのが聞こえた。教室が静まった。僕も黙った。長いものには、巻かれておくのだ。

 あれから長い時間が経った。塾があるから、と帰るものもあった。寒いや、と言って上着を着るものもいた。ユキムラは相変わらず、教卓の前から三つ離れた、教室のほぼ真ん中に座らされてじっとしていた。ロマネコンティのボトルの在処も、からくりも言わずに黙っていた。
 やがて、ユキムラがそわそわし始めた。席を立ってうろうろしたり、また座り直して貧乏揺すりのようなことをし始めた。トイレに行きたいのだ。
 僕らはユキムラを見たり、ワイングラスを見たりしていた。グラスにあったロマネコンティは、皆に回し飲みされてほとんど空になっていた。底のほうで、えんじ色が光る。
 ユキムラの動きがいっそう激しくなった。ついに
「トイレ……行きたい」
と口にした。
「ワインのビンのありかを教えてくれたら開けてやる」
両方の引き戸には門番が一人ずつついていた。
 僕らはユキムラがどうしてそこまでして口を割らないのかが疑問だった。ロマネコンティを回し飲みしてしまった今、誰かひとり抜け駆けして先生に言いつけるようなことはできないはずだ。だとしたら親が怖いのか。でも、何食わぬ顔でロマネコンティを持ってきているあたり、そんなことで怖がるようには到底見えない。不思議だった。
 とその瞬間、「あぁっ……」とユキムラが力ない声を出した。鈍色のカーゴパンツの股のあたりが濃く染まっていく。僕は他人事ながら、しまったと思った。椅子の脚を伝って、えんじ色の尿がつらつらと流れて……えんじ色!
 全員がユキムラの尿を見た。ユキムラも自分の尿を呆然と見つめていた。
 ほどなくしてユキムラは入院することになったらしい。

 現在、僕は「ロマネコン亭ロゼ」というくだらない高座名で高座に上がっている。十回に一回くらい、マクラでこの話をする。
 高座名の割に、僕は「ロマネコンティ」を飲んだことがない。ロマネコンティに赤白ロゼの区別があるのかも知らない。このマクラで笑っている人も、ほとんど見たことがない。

       

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