夕方になる頃、二人は帰途に着いた。
「ウメおばあちゃん、元気でよかったわ」
 小型船を操舵しながらヒバリが言った。
「あのばーさんならあと百年は生きてる気がする」
 コウが言った。窓の外、遠くの水平線に夕陽が沈もうとしていた。オレンジ色の海をヒバリの小型船が静かに走っていく。
「あんたも見習いなさいよね。少しはそのナヨッとしたのを直しなさい」
 コウはヒバリを見た。目と目が合った。
「お前、どうしてそんなに僕のことを気にかけるんだ?」
「何でってあんた。それは……」
 ヒバリは頬に手を当てたが、コウはなぜなのか分からなかった。
「バカね。私がいなかったらあんたなんて、どこにもいかなくなっちゃうじゃない。あ、そう、母親みたいなものよ。ほっとくわけにわいかないじゃない?」
「そうか」
「そうよ」
 まもなく二人とも静かになった。ヒバリは沈黙に耐えかねたか、
「ラジオでもつけましょう」
 自分で改造した小型船のツマミをひねって周波数を合わせる。しかしラジオなど放送している人は惑星全体でも数えるほどしかいない。
「んー。あれやってないのかしら」
 ヒバリはツマミを745の位置で止めた。しばらくノイズが鳴っていたが、やがて音楽が聞こえてきた。
「ん」
 コウがスピーカーに目をとめた。
「知ってる、この歌」
 それはシンプルな曲だった。アコースティックギターの弾き語りに、エレキギターでフレーズを少し添えただけの、情緒あるラブソング。
「いい歌ね」
 窓から射す西日に目を細めながらヒバリが言う。
「旅をしているような気分になるわ」
「昔、世界中で聴かれていたバンドだ。今知ってる奴がどれだけいるだろうな」
 コウはウェブを通じて、古い作品に触れるのが何より好きだった。この曲もそうして知った。やがて短い曲はシンプルなコードバッキングとともに終わりを告げた。
 ラジオの向こうから少女の声がする。
『すてきな歌。タイトルも歌手も私は知らないけれど、すごくよかった』
「やってたみたい。氷河(フィヨルド・)漂流記(ダイアリ)」
 ヒバリが言った。彼女もまたこのラジオの愛聴者だった。
『はい。私、エラ・マリンスノウのお送りするフィヨルド・ダイアリ。たった一人でも聴いているのならその音楽やこの放送にはちゃんと意味がある。私はそう信じています』
 DJエラはフリートークを始めた。
『知っていますか? このラジオの番組名になっているフィヨルドとは、山岳地帯に氷河が侵食してできた湖のこと。昔、このメトロ・ブルーにはそうした場所があったの。でももう存在しない。陸も氷もまるでなくなってしまったから。そんなふうにしてなくなったもの、場所、生きもののことを時折考えます。ねえ、生命にはどんな意味があるのかしら。あなたには分かりますか?』
 ヒバリとコウは静かに放送を聴いていた。小型船は水上をすべるように移動する。
『なんて、少しアンニュイでした。でもね、私こうも思うの。そんな風に意味があることばかりとは限らない。何となくそこにいて、何となく過ごしている。それでも別にいいじゃない。さて、次の曲です。これも古い曲。ノスタルジックで私は好き。それじゃどうぞ』
 短い前奏のあとで歌が始まると、ヒバリが、
「エラって何歳なのかしらね」
「さあな。若いんじゃないか? 言ってること聞いてるとそんな感じがする」
 コウは淡々と、
「動かない人生に意味なんてない」

 海の星が夜に包まれる頃、家に帰ったコウはウェブに没頭していた。名もないフレンドが思念チャットによるメッセージを送ってくる。
『暇?』
「まあな」
 コウが回答すると、ウェブ内の二人はアンティークタイプの椅子に腰掛けた。目の前には春の草原がどこまでも広がっていた。
『早速で悪いけど、鬱な話していい?』
 相手が言った。ウェブはいつだって自分たちと無関係な場所の話で賑わっている。
「どうぞ」
『エノ・スターって星知ってるか?』
「知らない」
 コウの無愛想な調子にも構わず、相手は、
『まあ遠いからな、知らなくても無理はないか。その星は経済的にはまあまあのとこだが、四六時中働かないといけないとこでな。そのくせ報いなんて全然ないし。なのに寿命だけは無駄に長い。どう思う?』
 コウはモニタを見ながらふっと笑った。
「皮肉な話だな。寿命が長ければいいってものでもないだろう」
『俺もそう思うぜ。ま、生まれる星によって人生なんて変わるよな。俺はリトル・フォレストだがあんたは?』
「メトロ・ブルー」
 フレンドは仰天の仕草で、
『うお! ついてるなぁ。好き放題暮らせるじゃねえか』
「満たされすぎると人はかえって無気力になる」
『それどういうこった?』
「特に意味はない。気にしないでくれ」
 相手は両手を上向けた。
『メトロ・ブルーかあ。いいなあ。でもそのあたりは大抵の星から遠いんだよな。よそからじゃ永住権なんか到底得られないしさ。それに行くだけでもすげぇ金がいるぜ』
 ゲストとの会話をほどほどに切り上げたコウは、ウェブをスリープモードに切り替えて目を閉じた。
「……」

 物心ついた頃から親の記憶はない。
 生きるのに不自由のない星に生まれ、教育プログラムを受けて育ち、落第して堕落してここにいる。これからどうなるわけでもなく、何を得るでもない。ならばいっそ死んでしまってはどうか?
 コウは薄目を開けて左手首を見た。ウェブの裏マーケットで買った自殺注射(フェードアウト)を打った跡が今も青いアザになっている。死のうと思ったのは半年ほど前のことだ。このまま生きていて何になるのだろう、そんな思いで注射した。
 あの時もヒバリに助けてもらった。目が覚めることなどないと思っていたら、すぐ傍に幼馴染の泣き顔があった。それ以来ヒバリはほとんど毎日のようにコウの世話を焼くようになった。中央公園やらウメの家やら紺碧(ブルー・)博物館(ミュージアム)やら、しょっちゅうコウを連れ出す。
 それが厚意によるものだと本当はコウも気づいている。ヒバリがコウに何を望んでいるのかも分かっているつもりだ。
 しかしコウは動けなかった。ただ、この時代と世界に対する途方のない無力感だけが彼を包むすべてだった。
 コウは引き出しの鍵を開けた。「フェードアウト」がもう一セットある。最近取り寄せたものだ。いずれこれを使って消失する必要があるだろう、とコウは思った。今度は失敗しないように。