Neetel Inside ニートノベル
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 家に戻ってから数日、コウはあらためてウェブに没頭した。適当な話題を見つけては、全然自分と関係がないその場所ででたらめに長い時間を過ごした。何も考えたくなかったし、誰にも責められたくなかった。いったい何がこんなに自分を苦しめているのか、もはやコウには分からなかったし、そんなことはどうでもよかった。
 同窓会からしばらくの間、ウェブにトウジから連絡のコールがあった。しかしコウはそれに一切答えなかった。友人の優しさは分かっていても、これ以上巻き込むわけにはいかないとコウは勝手に決めつけた。
 ウェブは今日も自分と無関係の世界の話で盛り上がっている。
『おい聞いたか。チリィ・プラネットの気温が上がってるらしい』
『そうなるとあっこの星は氷の惑星じゃなくなっちまうな』
『生態系が狂うだろうなあ』
『まあそれはそれで面白いんじゃないのか? 見ものだよ』
『お前ちょっとはそこに住んでるやつらのこと考えたらどうなの?』
『そういうお前は考えてるのか? いや考えてても何か実行してないんじゃアウトだからな』
『願っておけばいつか届くかもしれないじゃないか、氷が溶けませんようにってな』
『それじゃやっぱ何もしてないんだなお前』
『ほっとけよ。まあ飲もうぜ、乾杯』

 ヒバリからもしばらく連絡がなかった。
 このまま何者からも見放されればいいのだ、とコウは闇雲に考えた。日頃参加しないモンスターハントに加わっては、手当たり次第にタスクを消化した。その不毛さが今のコウには丁度よかった。
 コウはもういいと思った。自分は欠陥品で、存在する必要などまるでない。ヒバリもこのまま来なければいい。自分に関する記憶など、すべて忘れてしまえ。
 長い間ウェブに没頭していたコウは、本当にそうなったかのように思えてきた。それでいい、とコウは言い聞かせた。このまま、何もなかったことになればいい。
 しかし、ある日ヒバリがやって来た。今までのことなど何事もなかったかのように、
「ナオトの練習を見にいきましょう」
 窓をほとんど閉め切っているにもかかわらず、ヒバリの口調は太陽のように燦々としていた。
「やなこった」
 コウはドアをロックしていた。誰の顔も見たくなかった。
「行くのよ」
 ヒバリはどんどんとドアを叩いた。
「断る」
「行かなきゃまた電気落とすわよ。ウェブだって元のエネルギー断ったら無になるんだから。じゃなきゃこのドアを無理やりにでもこじ開けて」
「またそれか」
 コウは椅子に座ったままため息をついた。コウにしてみれば、ヒバリがなぜそこまで自分を気づかうのか分からなかった。
 コウは乱暴に、
「ほっとけよ。幼なじみってこと以上は何の関係もない他人だろ、僕とお前は。もうやめてくれ。何のつもりなんだ? 僕を助けて、自分は哀れな人間に救いの手を差し伸べてますとか悦に入ってるんだろ。いい加減にしろよな。その偽善的行動」
「な」
 ヒバリは口をぱくぱく動かして、
「何よ、それ」
 コウは早く終わってくれと思いながら、
「そのままさ。お前は僕の家族でも親戚でもない。ただ昔から一緒にいるだけだ。ほんとなら、僕が指図されるいわれは何一つないはずだ。いいから帰ってくれよ。ついでに二度と来ないでくれ」
 ヒバリが外で傷ついているのがコウには分かった。
「あんた、私やウメさんやトウジくんがどれだけ……」
「心配してくれなんて言った覚えはない。勝手に裏切られて傷ついてるだけだろう。もうそういうのうんざりなんだよ。だから僕のことは忘れろ」
「本気でそんなこと言ってるの、コウ」
 ヒバリは言った。指先が小刻みに震えていた。コウはうなずいて、
「本気さ。ほんとならあの時に僕はこの世から消えてるはずだったんだ。それがお前に邪魔されたからこんなことになった。僕が死んでればお前もばあさんもトウジも余計な心配しないですんだだろ。もういいから帰ってくれ! 二度と来るな! うんざりだ!」
「コウ……」
 ヒバリはあふれてくるものをじっとこらえた。自分がどれだけ願っても、それはコウに届かないのだと思った。
「もういいわよ。勝手にすればいいんだわ。あんたは誰も必要としないし、誰にも必要とされないのよ。そんなの、いてもいなくても同じだもの」
 コウは答えなかった。
「バカ」
 ヒバリはそう言ってコウの家から立ち去った。小さな窓から射していた光が、わずかな陽の傾きとともに、消えた。
 しばらくコウはぼうっとしていた。苛立ちだとか、憂鬱だとか、そんな感情も起こらなかった。コウはウェブに思念を飛ばす。
「僕は今生きているだろうか?」
 しかし答えるものはなかった。そんな疑問を口にするものなど、ウェブではろくに相手にされない。コウはもう一度思念を飛ばす。
「誰か答えてくれ。僕は今生きてるのか?」
 しかし返事はなかった。やがて、コウはウェブをスリープモードにして、まどろみの中へ沈んでいった。
 ウェブで長いあいだ動かずにいると、いつしかその身は傀儡のようになる。心は霧の中へ迷いこみ、うつろな歩みに出口はない。無限の時間、存在しない時間だけが音もなく過ぎてゆく。それは薄い色のもやを手でかき分けて進むような、あてのない彷徨だ。
 いつからこうなったのだろう?
 いつか、自分にも意志があったはずなのに。
 どうしてだ。どうすればここから出られるんだ。
 誰か助けてくれ。誰か。誰か。

「――で、ヒッキーくんは結局来なかったってのか?」
 ナオトが言った。
 グラインド飛行の練習用指定地区。ヒバリはナオトの練習を見に来ていた。会場に観客席と、空中にはコースループがある。
「ええ。なんとかして連れてきたかったけど」
 ヒバリはうつむいた。ナオトは眉を上げて、
「ヒバリ。君は昔っから誰かの世話を焼くのが好きだったな。変わってない」
「だってコウはこのままじゃあ」
 ナオトはグラインダーの微調整をしながら、
「あいつだってもう十九だ。このままウェブに行っちまうか、戻ってくるかはあいつが決めることだ。君がどうこうできる問題じゃない。よっと」
 ナオトはそう言うとグラインダー「ツバメ」に飛び乗った。
「ま、俺は世の中ってあいつが考えてるほど絶望的でも窮屈でもないと思うけどね」
 グラインダーの駆動部にエネルギーが集まっていく。
 鮮やかなブルーの光が灯った瞬間、ナオトは空に舞い上がっていた。なめらかな曲線軌道を残し、ツバメが飛んでいく。どこまでも遠く、高く。
「ナオトの言うことは間違っちゃいないよ」
 ウメが言った。自動車椅子に座り、風雨保護シールドを展開させている。
「おばあちゃん」
 ヒバリが言うと、ウメは静かにうなずき、
「ただしあのぼうやが考えてるほど甘いものでもない。この星は辺境さ。たしかに生きるぶんには何やったって困りゃしないが、人間であるためにはしなくてはならないことがある。ヒバリ、あんたは分かっているだろう? あんたはあたしのとこ以外でも人の助けになろうと頑張ってるそうじゃないか。それが大事なのさ」
 ヒバリは何も言えなかった。空を見上げると、高いところでナオトは自由自在にカーブを描いていた。彼女の迷いと対照的に、ナオトの飛行はどこまでも爽快だった。
「ぼうやは利己的だ。人のために動こうとしない。だから簡単に屈折しちまうし、一度折れるとなかなか元に戻らない。あんたなら分かるだろう?」
「コウだって本当は」
 言いかけてヒバリは下を向いた。ウメはナオトの軌跡を静かに見つめながら、
「あたしにだって分かるよ。昔はあの子の比じゃないくらい曲がって、塞ぎこんでいたからね」
「そうなんですか?」
 ウメはうなずいて、
「ああそうさ。何をしても無駄だと思ってたよ。救いようもないくらい自己中心的だった」
 ウメはそれだけ言ったあと、少しむせた。
「おばあちゃん!」
 ウメは首を振り、
「大丈夫さ。あんたたちが近くにいるだけあたしはまだ幸せってもんだ。誰が傍にいるでもなく、孤独に老いてくじじばばは昔っからいるもんだ」
 ウメは遠くの空を自由自在に舞うナオトの機体に目を細め、
「ぼうやには足りないものがある。それは口で言ってどうこうなるものじゃない。あの子は自分でそれに気がついているはずだ。ヒバリ、死のうとしたぼうやをあんたが助けた日、あの子はあんたに何か言ったかい?」
 コウがフェードアウトを計った日。
 ヒバリは胸が苦しくなった。あの日、ヒバリは涙ぐんでコウに死ぬなと言った。それなのにコウは、
『助けてくれなくてよかった』
 と言ったのだ。
 ウメはヒバリの表情を見ていた。
「その様子じゃろくに礼も言わなかったんだろう。でも本当は感謝しているはずさ。たとえろくでなしでも、気にかけてくれる存在がたった一人でもいれば落ちずにすむんだ。ヒバリ。あんたのしたことは間違っちゃないよ。後ろめたくなったりしなくていい」
「おばあちゃん……」
 ヒバリはウメに近寄った。ウメは防護シールドを解除した。老婆の胸の中、少女は小さな声で泣いた。
 それから、ヒバリとウメはナオトの飛行を一緒に眺めていた。
 ヒバリは思った。ナオトはどうしてあんなに高く飛ぶことができるのだろう。どうして世の中に対して無垢でいられるのだろう。私たちとは住む世界がちがうのだろうか。
 海の上で、ずっと遠くにかかる雲がスコールを降らせていた。

       

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