Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 全世界の四十人の視聴者の皆様、こんにちは。定点観測の時間がやってまいりました。
 先週に引き続き二〇一四年三月二十九日からです。
 ご覧ください。定点カメラはあいかわらずピンク色のラブホテルみたいな新都駅を中心に見下ろしています。
 向かって上側が山間部方面へ、下側に伸びている道路が海岸方面に続いています。
 ただいま八時半ちょうどになりました。おーっと、これは駅へ向かう、人、人、人。八割がたがスーツを着ているようですが……。
 新都市は人口二〇万人のベッドタウンですからね。これから都市部に向かって民族大移動が始まるのです。
 さながら紳士服のファッションショーのようだ。今、駅へ向かう花道を渡りきり、いざ戦場へ向かう列車へと乗り込みます。しかし、この時代のオーソドックスな仕事着であるスーツ姿はたくさんいますが、七三分けの男性は意外と少ないものですね。
 我々の想像している教科書通りのぴっちりとした七三分けは、もれなくテレビドラマやマンガの世界の住人のようです。
 なんだかがっかりだ。
 無個性なスーツの群れを見ていてもアレですから早送りしますか。
 いや、まってくださいよ。よく観察すれば色々とその人物の内面的な個性を明らかにすることも可能なんです。例えば、今交番の前を通った前髪を立てている二十代くらいの男性をご覧ください。
 この濃紺のスーツの男です。
 彼の手に注目してください。
 二万倍に拡大しますよ。
 見てください。指の関節がこんなにゴツゴツと角張っています。これは空手をやっていますよ。空手は文字通り、手を空にするんです。武器を持たない代わりに己の拳が武器のように硬くなるように鍛錬するのです。
 さすがにそのくらいのことでは、いまどきの視聴者は驚きませんね。
 では、今度はコンビニから出てきた三十代くらいの男性の耳に注目してください。
 このスポーツ刈りで黒スーツの男です。耳の画像を二万倍に拡大します。
 何か気付きませんか。
 耳ってこんなにぺったりつぶれてましたっけ。耳にある溝は浅く、肉厚なきのこのような耳です。
 こういう特徴的な耳の人は高確率で柔道の有段者です。長年に渡る寝技の稽古で耳が畳で擦れて、このような形状になってしまうのです。
 どうですか。内面をみれば実に個性的でしょ。では駅の周りでジョギングしている女の子は何のスポーツの部活をやっているか、当然わかりますよね。
 このポニーテールに水色のジャージを着た中学生ぐらいの女の子です。
 駅前のベンチの上にナイキのスポーツバッグがあります。近くには他の人はいないからこの女の子の私物でしょう。これは何かヒントになりませんか。
 難しいですね。普通のバッグですし、中に何が入っているか分かればまた違ったのでしょうが。それよりも女の子の画像を拡大したほうがヒントが見つかるかも知れません。
 画像を五千倍に拡大しました。どうですか。
 この子、左腕の筋肉のほうが右よりも発達しているようです。おそらく左利き。あっ。なんだろう、この首の左側面の火傷のような痕は。
 円状に赤くなってますね。日焼けの痕かな。
 はい、時間切れ。
 分かりましたか。この子の部活は陸上部です。
 ジョギングしていたから陸上部と答えた方。安易すぎますよ。
 陸上部ですが種目は砲丸投げですよ。砲丸は鉄できているから、日中の強い日差しを受けて、火傷するほど熱を持つこともあるはずです。砲丸投げの投球フォームは左投げの場合、必ず砲丸を首の左側面につけるのです。おそらく、そのとき火傷したのでしょう。
 しかし、これはあくまで推理、確かめることができないのが残念であります。女の子はジョギングを終えて、帰って行きます。いつの間にかスーツの大群も消えていますね。
 電車が出てしまうと、あれほど沢山いたスーツを着た人間が駅の周りには一人もいなくなります。
 いや、一人います。ボロボロのビルの前に人影が。
 こりゃ、この会社に勤めている人でしょうか。四十代ぐらいで、グレーのスーツに踵のすり減った濃茶のローファー、随分と使い古したぺしゃんこのカバンを小脇にかかえています。靴を見ると営業職というのが分かります。
 いや、営業でも車や電車を使います。ここまで靴底がすり減ることがあるでしょうか。しかも、これが会社ですか。どう見てても廃ビルです。ほんとうにありがとうございました。
 ちょっとまってください。廃ビルではないかも知れません。屋上に人がいます。中学生ぐらいの女の子のようです。
 でもこの人何してるんですかね。双眼鏡でドーナツ屋裏の駐車場のあたりをうかがっているようですが。
 まさか我々と同業者なのでしょうか。
 それなら、別にこのビルの人間ではないということになります。それに、すり減った靴底のローファーの男の方もビルの前をうろついてなかなか中に入りませんよ。この会社、やはり倒産してるんじゃないですか。物理的にも倒れそうだ。
 すり減った靴底のローファーの男ではいいにくいので、以下ローファーと呼ぶようにしましょう。
 これはもしかしたら会社が倒産して職を失い、そのことを家族に話せずにこうやって時間を潰しているのかも知れませんね。


 おーっと、ローファーに動きがありました。ドーナツ屋の中に入りました。このドーナツ屋は店内にドーナツをその場で食べられる座席があるようです。ローファーはその座席に座り、なにも注文せずに水をちびりちびりと飲んでねばっています。
 店員に文句いわれてたんでしょうね。何か注文するようですよ。
 どうせコーヒーを一杯だけ頼んでねばる気でしょう。画面が代わり映えしないですね。今度こそ早送りしましょう。
 しかし飽きたから早送りというのは私情です。我々は視聴者の目線になって、画面に映し出されている出来事を余すことなくお伝えしなければなりません。他の場所も見てからにしましょう。さっきの廃ビルの屋上の女の子はどうなっているでしょうか。
 いなくなってますね。他には公園に春休み中のせいか子供がちらほらいるくらいです。あっ、ファミレスにカップルがいます。こっちはノーマークでした。
 早送りしていいですよね。


 なんなんですか。さっきはといってること違うじゃないかって。最近離婚したから見るのが辛いのです。私情をはさんでいるって、分かりましたから、カップルの方も見ればいいのでしょう。
 カップルは席に並んで座って、一冊の本を二人で読みながらイチャついています。
 アガサ・クリスティの小説のようです。
 付箋がびっしり貼られていますね。しおりの代わりではなさそうですが。
 自分で推理しながら読んでいるんでしょうか。
 おーっと、ローファーが喫茶店から出てきたようであります。おや、手に何かビニール袋を持ってますよ。
 袋の中身はドーナツのようですね。普通、ドーナツはビニール袋に直には入れませんよね。ということは店員に恵んでもらったのでしょうか。そこまで金に困っていたとは。
 いや、どうも違いますね。駅前のベンチに腰掛けてますよ。あっ、ハトが集まってきます。ローファーはドーナツを千切って、ハトにあげています。ハト、ハト、ローファー、ハト、ハト、ローファー。三回に一回は自分も食べていますね。
 ローファー一人だけでつまらないです。VTRの時間を少し進めてみましょう。
 おや、まってください。だれか来ます。空き缶を満載したママチャリをサンダルでこいで、赤い野球帽を被った老人が来ました。ママチャリを急停止させ降りると、手の平ほどの大きさのラジオを、空き缶の隙間から取り出して近寄ってきます。耳に赤ペンを挟み、赤いシャツにデニムのオーバーオール、その尻ポケットには丸めた競馬新聞を押し込み、オフシーズンのサンタクロース、または老後のスーパーマリオといったいでたちであります。
 まあ、身なりから見てただのホームレスでしょう。伸ばし放題の白いヒゲから実年齢より年老いて見えることを考慮すると、六十代ぐらいでしょうか。ローファーのほうを睨んでいます。どうも自分の指定席を取られて怒っているみたいですよ。
 何と言っているのかは音声がないから分かりかねますが、一触即発の空気から一転、どうやらドーナツ三個で和解したようですね。老人(以下野球帽と呼称)も隣に腰掛け、いっしょにハトへ千切ったドーナツをやり始めましたよ。
 きっと会社が倒産したことを正直に話して、無職同士打ち解けたのでしょう。
 ローファーはすっかり意気投合して、野球帽に連れられてあの廃ビルに入りました。中にはダンボールや毛布、どこから持ってきたのか古いブラウン管式のテレビが置いてあります。この廃ビルは野球帽に不法占拠されているようですね。
 しかしテレビがあっても電気がないだろうに。まさか電気までどこからか盗んでいるのでは。
 どうも違うようです。老人はママチャリの前輪についているライト用の発電機から延長コードを伸ばして、端末にテレビのコンセントを接続しました。輪留めしたママチャリに座らせて、こぐように促され、しぶしぶローファーがこぎ始めています。トップスピードになってテレビが砂嵐からチラチラと映り始めてきました。この映像は春の高校野球でしょうか。ジャイアンツ帽は手を叩いて喜んでいます。 愛知の高校とどこかの高校が試合をしているのがかろうじて分かるが、ここでローファーがへばってテレビ画面はぷつりと消えてしまいました。テレビはもうあきらめたのかジャイアンツ帽は尻ポケットから競馬新聞をとりだして読んでいます。ローファーはここでもお払い箱かとため息をついて廃ビルから出て行きました。
 これ以上動きはなさそうだから、翌日まで早送りしてみましょう。


 さて、二〇一四年三月三十日からです。 
 白シャツに白いタキシードと全身真っ白な格好をした二十代の男が時計台の前で、そわそわしながら行ったり来たりしています。
 明らかに誰かを待っていますね。それも、大切な相手です。
 そんなことは誰が見ても分かります。逆にここまで分かりやすい格好をする人はこの時代珍しいのではないでしょうか。
 ドレスコードを気にしてのことかも知れません。ドレスコードがあるような店に誘うわけですから、どちらにせよ重大な告白があるに違いありません。
 この人よく見たら、昨日のファミレスに座っていたカップルの片割れじゃないですか。こんなリア充はほっておいて、もう少し視野を広げてみましょう。
 この辺りには二つレストランがありますが、新しいファミレスはすでに満席状態、古い駅前のレストランのほうはガラガラと対照的です。新しい店に客を取られているのに、この店がつぶれないのは摩訶不思議であります。こういう何でかつぶれない店ってありますよね。
 おそらく常連さんがついているのでしょう。ほら、さっそくやってきましたよ。
 おーっと、あれはすり減ったローファーの男。昨日とはうってかわって、ぱりっとした一張羅のスーツですが、足元は今日も濃茶のローファーであります。
 靴、これしかもってないのでしょうね。
 右隣にはこれから謝恩会にでもいくかのように着飾った女性。これは奥さんでありましょうか。さらに奥さんの手を握ってぶんぶんと振り回してるのは、七五三にでもいくかのように正装した男の子。二人の一人息子だと思われます。
 どこへ行くんでしょうかね。駅前にはコンビニと古びたレストランしかありませんよ。日曜でお昼時なら普通はファミレスでしょう。息子さん、あんなに楽しそうにしているのに、まさかあの古びたレストランに行く気じゃ……。 いや、まだ駅に行って遠出するという可能性もあります。今日は日曜日ということもあって多くの家族連れが駅へと集まっております。が、無情にもローファーをはいた足は古いレストランの前で止まります。でも子供はさらにテンションアップ。なぜだ。
 父親に気を使っての、から元気ではなさそうですね。本当に心の底から彼はよろこんでいる。普段ろくな所に連れて行ってもらっていないのでしょうね。不憫です。
 ファミレスのようにガラス張りとまでは行きませんが、窓が大きくて中の様子がうかがえます。
 窓が大きい割りに新しいファミレスと違ってどことなく薄暗いですね。店内の照明も少なくて、雰囲気作りというより光熱費をケチっている印象です。
 子供が今座った黒い革のソファーを見てください。親指が入りそうな大穴が開いて、中のスポンジが見えていますよ。とても客商売で使うインテリアではありません。子供が一生懸命スポンジほじくり出すのを叱りもせず、ローファーはしけったハイライトに火をつけてゆっくり吸っています。やがてため息といっしょに吐き出された煙は、頭上を遊弋して、照明の笠の下で渦を巻いて滞空しております。ここの空調は機能しているのでしょうか。
 もともとは壁も白かったのでしょうが、ずいぶんと黄ばんでいる。これはきっとタバコのヤニが原因でしょうね。この時代に全席喫煙は珍しいです。
 奥側の席には、今やまったく見なくなったインベーダーゲームの筐体を内蔵したテーブルがあります。
 まだ絶滅していなかったんですね。全盛期には五十円硬貨を高く積んだ高校生たちのたまり場になっていたのでしょうが、今となっては誰も座らないから、ただスペースを無駄に圧迫しているだけですね。
 ローファーの親子のもとにモーニングのセットが運ばれてきました。ローファーの前にはホットコーヒー、奥さんはアイスコーヒー、息子にはコーラが置かれました。これにそれぞれパンとサラダが付くようです。おーっと、パンからはゆげが立ち昇っております。
 おそらくかまどで焼いた自家製パン。焼きたての手作りパンが賞味できるのがこの店の売りのようです。
 息子が食べているのはコロネのようですが、中にはチョコレートクリームの代わりになにか白いものが詰まっています。ホワイトチョコレートか、もしかしたらクリームチーズかも知れません。息子の腹がぷっくりと膨れていくのとは反対に、スポンジをほじくられた黒い革のソファーはべっこりとへこんでいきます。
 少し早送りしましょう。


 かれこれタキシードが待ち始めて三時間が経過しました。タキシードはもう立ってられなくなって駅前のベンチでうなだれています。
 これはもう相手は来ないんじゃないですかね。
 まだわかりません。タキシードが張り切りすぎて、待ち合わせより三時間前から待っていたという可能性もあります。
 でもタキシードの表情見てくださいよ。俯いていてよく見えませんが、これ、泣いてますよね。絶対泣いてますよね。ざまあ。
 さて、私の気が晴れたところで、駅前の様子を見てみましょう。大きなポスターを掲げた小学校高学年くらいの女の子とその母親らしき人が、ビラを配っています。ビラのほうは拡大しても読めそうにありませんが、ポスターのほうは頬のこけた骸骨っぽい男の顔写真と、この顔にピンときたら一一〇番の文字が読み取れます。
 写真の男は、二〇一四年三月二十八日に渋谷で連続通り魔事件を起こした犯人のものです。たった今、情報が入りました。駅前の親子はその事件の被害者の遺族であることが分かりました。なお犯人は新都市内に潜伏しているとのことです。
 昨日の廃ビル屋上の双眼鏡の女の子が怪しいですね。でも、犯人は男性でした。おかしいなあ、確かにあの女の子を見たときに、けして関わってはいけない禍々しいオーラを感じたんだけどなあ。
 犯人につきましては続報が入りしだい引き続きお伝えします。


 さて、またまた時間を進めました。おーっと、これはどういうことだ。画面いっぱいに白くてもこもことした巨大な生き物が映し出されている。宇宙人の襲来でしょうか。今、目が合いました。怖ーっ。今度は黒いカラスのような生き物が襲い掛かる。まさに阿鼻叫喚……。
 ただいま、不適切な発言がありましたので、訂正させていただきます。先ほどの白くてもこもこした巨大な生き物はカメラに近づき過ぎたハトが、大きく見えただけでした。失礼いたしました。白いもこもこのハトとカラスのケンカを引き続きご覧ください。
 ケンカというよりは、カラスが一方的に攻め続けるワンサイドゲームの展開です。タカ派のカラスとハト派の白いハト、いったいどっちが勝つのでしょうか。
 皆様の予想通りカラスが勝ちました。二羽はいずこかへと飛んでいきました。これで、ようやくカメラが使えます。
 駅前をみてみましょう。時計台の前にまだタキシードの姿があります。すでに待ち始めてから十時間が過ぎています。もう、いいかげん諦めて帰れば良いのに。
 駅周辺は街灯が点り始めました。駅を少し離れると、街灯の数はめっきり減り、真っ暗です。さびれた商店街がさらに物悲しく見えます。
 商店街の入り口にかわいい制服の女子校生がやってきました。めいっぱい拡大します。
なんて短いスカートだ。なんでこのカメラは俯瞰からしか撮れないんだ。なめるようなアングルから撮影できないのが悔やまれます。
 女子高生は雑貨屋ではなく、向かいの閉店した店舗の前にやってきました。何をやっているのでしょう。何かしゃべっているようにも見えますが、独り言でしょうか。
 あーっと、急に手に持っていた新聞をシャッターに向かって投げつけました。いったいどういうことでしょうか。
 ちょっと待ってください。シャターの前に何か写っています。
 お分かりいただけただろうか。
 うっすらとした人型の影のようなものがうずくまっているように見えます。なんだか怖くなってきたので、ここまでにしときましょう。


 さて、録画分がだいたい消化できましたので、ここからは生放送でお送りします。現在二〇一四年三月三十一日月曜日、天気は晴れ、時刻は十六時を回っています。駅前のロータリーにはタクシーーでも待っているのか、暗い顔をしたサラリーマンが一人たたずんでいます。
 他にはちらほらと観光客が駅の階段から降りてきます。おそらく本日二十時が見ごろとなる、しぶんぎ座流星群を見に来たものと思われます。
 新都市はしぶんぎ流星群の観測スポットとして有名で、市を上げて観光客を呼び込むPR活動に積極的です。
 観光客たちは駅前で演説している二十代の男の前を素通りしていきます。そりゃ、そうだ。何故こんな日に限って、演説しているのでしょう。白手袋を脱いで、握手を求め差し出された手が、むなしく宙をつかみます。
 駅前には観光客が時間をつぶせそうな場所は数えるほどしかありません。案の定、駅の一階に入っているショピングモールとコンビニに流れていきます。
 コンビニには、ローファーの姿もあります。パン売り場の前で、両手のパンを見比べながら悩んでいます。
 拡大しました。右手には九十円のあんパンを左手には百五円の高級あんパンを持っています。今、右手のパンを戻しました。いったい何が決め手になったのでしょうか。
 どうでもいいですね。もっと、まともなことで悩んでいそうな、暗い顔をしたサラリーマンのほうを見てみましょう。
 やはりタクシー待ちだったようですね。男が乗り込んだタクシーは大通りを直進して行きます。画面の外に出てしまいました。残念。しかたないので駅前を見てみましょう。
 画面には駅前のベンチに座る野球帽とローファーの姿が映し出されています。ローファーはコンビニの袋からパンを取り出しました。高級あんぱんと書かれた小袋を開け、半分ほど露出させてパクついています。一口であんまで達し、優しい甘みが口いっぱいに広がります。
 まるで優しい言葉をかけられているみたいで、なぜだか涙がでそうになっています。昨晩もきっと会社が倒産したことを妻にいえなかったのでしょう。 
 味をしめたハトの一団がいつのまにかベンチの周り包囲しています。野球帽は小さくなったドーナツを細かくちぎって、ハトの円の外に向かって放ちました。ハトの群れは統制のとれた動きでドーナツくずを追います。その隙に二人はベンチを離れました。
 入れ替りでタキシードがやってきて、ベンチに腰を下ろしました。まさかとは思いますが、まだ彼女を待っているのでしょうか。タキシードは埃ですすけて、しわが幾重にも重なっています。
 気が抜けたようにベンチに座り続けるタキシードの隣に、お気に入りの場所をとりかえそうと野球帽が座りました。隣にホームレスが座ってるだけで普通ならばベンチから逃げ出すところだが、タキシードは見向きもせずにただ地面を見つめています。
 さらにプレッシャーをかけようと、すっかり子分のようになってしまったローファーをベンチに座らせて両側から挟みこみます。こうして三人並んで座ってみると、全員ホームレスに見えるほどタキシードは汚れています。
 野球帽はさらに追い討ちをかけようとドーナツくずをまいてハトを呼び込みました。今度こそ灰色の波となって押し寄せるハトの群れが、ぐるりとベンチを包囲します。エサの争奪戦が始まり、いつものように白くみすぼらしいハトがはじかれ、行き場を探してうろうろしています。
 ようやく避難場所を見つけて、白いハトはタキシードの膝の上に飛び乗りました。それでもタキシードは身じろぎ一つせずに、白いハトの止まり木に甘んじています。
 エサに群がっているのはハトだけではなく、目ざといカラスもご相伴に与っています。二つの勢力の目標が同じ以上、ケンカが勃発するのは自然な成り行きでした。カラスが威嚇するように鳴き、ハトの一団は壊乱して退却していきます。絶対安全地帯にいたために逃げ遅れた白いハトがカラスに追い回され、目の前で空中戦が始まります。野球帽とローファーはおろおろするばかりだったが、タキシードは根が張ったように動きません。白いハトはまるでそこが巣であるかのように、再びタキシードの膝の上に帰ってきました。さすがのカラスも人間相手は分が悪い。戦術を兵糧攻めに切り替えて、一メートルの間合いを保ったままにらみ合いが始まりました。
 駅全体が燃えるような夕日に照らし出された頃、時計台前に風変わりな一団がやってきました。顔に黒いギザギザのペイントしているカーリーヘアの男が、抱えていたケースからギターを出し始めました。他の連中もおのおのの楽器を出し、めいめいに調音し始めました。
 そして誰からともなく演奏を開始します。動くに動けなくなってしまった野球帽とローファーは、白いハトといっしょにタキシードに寄り添っていましたが、激しいロックの音響に、他のハトとカラスはくもの子を散らすように逃げていきました。
 これはひょっとして、ゲリラライブというやつですか。観客が三人と一羽だけの路上ライブとは、なかなか粋なことをするものです。
 ショッピングモールにいた観光客が、気が付いて戻ってきました。聞きつけて少しずつ観客が集まっていきます。
 ギタリスト兼ボーカルのカーリーヘアの男がシャウトすると、盛り上がりは最高潮に達しました。ありゃ。
 どうしたことでしょう。画面が止まってしまいました。一番いいとこで。おかしいな。生放送でこんなことがあるなんて。ヤラセじゃないですよ。誰かが時間停止でもしてるのかな。


 しばらくお待ちください。


 ようやく、復旧いたしました。時計台を見ると、時刻は十九時を過ぎております。ロックバンドの姿はさすがに見当たりませんね。なぜか神社のあたりに結界が張ってあるし、近くの山から煙が上がっています。カメラが止まっている間にいったい何が起こったのでしょう。駅前には中学生ぐらいの男の子がぶらぶらしています。怪しい。
 男の子は駅へ行くと見せかけて、駅に行かず、コインロッカーにリュックをあずけました。ますます怪しい。しかし、男の子は病院のほうに向かって行きました。いったい何だったんでしょうか。
 入れ替わって駅にやってきたのはローファーの奥さんと息子。昨日とまったく同じ服装です。まさか父親を心配して一睡もできず、ここまで探しに来たのでしょうか。この親子も駅前をうろうろしています。今度はベンチのほうへと向かっていきました。
 ベンチ?まずい、このままじゃローファーたちと鉢合わせだ。ローファー逃げて、マジ逃げて!!
 ところがベンチには二人の若者がいるだけでした。大学生か社会人一年目といったところでしょうか。眠ってしまった息子を負ぶった奥さんは、うろうろと徘徊すると、もと来た道を帰っていきました。
 すると神社の方からローファーたちがウィスキーと缶ビール二本を抱えてやってきました。なんという奇跡的ニアミス。
 しかし、お金のないローファーたちがどうやって酒を手に入れたのでしょうか。コンビニではなく、神社の方からやってきた時点で、非合法的な手段で手に入れたことは察しがつきます。
 指定席のベンチには先客がいます。野球帽が時計台の影からベンチの二人の若者をにらんでいます。片方が携帯を取りました。苦い顔してますね。野球帽は若者たちが帰るんじゃないかと期待しています。
 野球帽のやつ、とうとう我慢しきれなくなって、立ったままウィスキーを飲み始めました。すっかり仲良くなったローファーとタキシードも缶ビールを開けて乾杯しました。
 やはりこういう時、適量の酒はいいのでしょう。効能は頭をすっきりさせる、安眠、嫌な記憶の抹消といったところですか。ただし多量に摂取すれば、効能はサイフの中をすっきりさせる、永眠、人間として大切なものの抹消に変わります。
 ふいに、ベンチの若者たちがこちらを見上げました。まさか、カメラに気付いたのでしょうか。ローファー、野球帽、タキシードも気付いてこちらを仰ぎ見ます。
 若者たちは祈るような動作をしています。そうでした。時間です。こちらからは見えませんが、今空にはしぶんぎ座を中心に放射状に流星が降っているはずです。
 ベンチの若者たちを皮切りに、皆がこちらを見つめはじめました。仕事帰りのサラリーマンが、ジョギング中の中学生が、病院の屋上から、廃ビルの上から、神社から、小学校の校庭から。皆が同じものを見ています。住宅地の明かりは次々と消え、まるで星たちに黙祷を捧げているようです。
 野球帽がウィスキーのびんの中にこんぺいとうを見つけて、不思議そうにローファーに話しています。「流れ星がひとつ、びんの中に入り込んだみたいだ。しゃれたことをする奴がいたもんだ。」とでも言っているのでしょうか。
 タキシードは缶ビール一本ですでにできあがっていて、上着を脱いでいます。今度はズボンに手がかかりました。こいつのストリップとか放送事故になっちゃうから。誰か止めて。ローファーと野球帽はそれを見て大爆笑しています。だめだ、こいつら。
 ついに銀色の自転車に乗った警官が近づいてきました。ごま塩頭の老警官は、一人では取り押さえられず、市民に助けを求めました。あんた警官だろ。
 黒スーツのサラリーマンが助けに入り、タキシードを投げ飛ばしました。今度は濃紺のスーツのサラリーマンがやってきました。やばい、こいつは確か空手をやってる……。もしかしたら、例の犯人と勘違いされてるんじゃないでしょうか。ジョギングをしていた女子中学生はスポーツバックから鉄球を取り出しています。思わぬ形で答え合わせができました。女子中学生がタキシードに向けて鉄球を構えます。やめたげて。それ、しゃれにならないから。
 間に入ってそれを止めたのは、ショートカットの二十代前半の女性です。最悪のタイミングで、タキシードの彼女が登場しました。
 彼女は意外にもタキシードをかばっています。これ、まだ脈ありそうですよ。しかし、老警官は警察署に無線で連絡しちゃってます。
 たった今、緊急速報がはいりました。渋谷の連続通り魔事件の犯人が自首しました。老警官にも連絡が回ったようで、タキシードが開放されました。
 タキシードは誤解が解けて彼女と手を繋いで帰っていきます。すっかり興がさめた観光客も一人、また一人と駅に入っていきます。
 野球帽はローファーの肩を叩くと、廃ビルの方へ去っていきました。駅前にはローファーが一人取り残されました。
 ローファーの顔には何か決意のようなものが見て取れます。ゆっくりと歩き出します。家路に着くのでしょう。
 誰もいなくなったので、私の任務もこれで終わりです。流星にまぎれて、母船へ帰還いたします。それでは皆様、次の周期までごきげんよう、さようなら。

       

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