Neetel Inside 文芸新都
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錯覚
錯覚

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「次の方どうぞ。」
 気が狂いそうなほど白い、白い白い壁に囲まれた精神病院の一室。私の正面に座る男は頬がこけ、まるでどくろのような顔を斜めに向けながら言葉を発した。
「幻覚が見えるんです。」
「どんな。」
がいこつ男はちょうど私の右肩越しに何かを見るように、こちらに目をあわさずに続ける。
「女です。髪の長い女がこちらをじっと見つめている。」
「その女は知らない人ですか。それとも誰かに似ていませんか。」
「言いたくありません。」
困ったものだ。医師と患者は信頼関係がなければ、カウンセリングにならない。ここまで心を閉ざしている人間を治すにはそうとう時間がかかるだろう。
「あなた、先程幻覚が見えるとおっしゃいました。精神病の人間は幻覚が見えているとは思わ ず、それが現実に起こっていることだと思います。だからあなたが行くべきなのは精神科で はない。眼科だ。」
私は少し意地悪に突き放してみた。押してダメなら引いてみる。長いことこの仕事をやっていると、小手先の技術ばかり上達していやになってくる。
 私の背中から、赤い日が差している。この部屋にある唯一の窓が私の背に西日を浴びせて、白い部屋を真っ赤に染め抜いている。
「女のことはいつか話します。だから、一刻も早くこの幻覚を消してください。」
「それで良いと思いますよ。何事も焦っていけません。その幻覚も時間をかければ必ず見えな くなります。」
「そ、そんな。すぐに治らないんですか。俺は今にも気が狂いそうなのに。」
「落ち着いてください。いいですか。
 その女性は何かあなたに危害を加えてきましたか?」
「いえ。ただこちらを見つめているだけです。」
「だったら何も恐れることはないじゃないですか。」
「危害は加えてこないけど、けど、俺があいつに……。」
そこまで言うとがいこつ男はあとは黙りこくってしまった。精神安定剤と睡眠薬のセットを処方して今日のところは帰ってもらったが、二年ぐらいかかるだろうか。
 さて回診の時間だ。私は男のカルテと回診用の道具一式を小脇に抱えて診察室を出た。日が傾き赤い光が精神科の病棟の隅々まで染み渡っていく。それを追うように私は病室を回っていった。歩きながらもがいこつ男のカルテにもう一度目を通す。外山浩二。31歳。A型。持病は特になし。今まで、大きな病気、怪我をしたこともない。なんだ健康じゃないか。私は回診中に手が空くと、外山のカルテを少しずつ読み返していった。患者の所見を頭に叩き込むのも仕事のうちだ。
 外山は独身で除草作業員として勤務しているようだ。勤務態度はいたって真面目で今の仕事がストレスになっているとも思えない。月に一度は親もとにも顔を出し、親兄弟とも良好な関係のようだ。これでは彼の見ている幻覚の女の正体が分からなければ、とても手の打ちようがなさそうだ。
 回診が終わったところで、ちょうどカルテも読み終わる。私は休憩ルームに入り椅子へどかりと座った。帽子とマスクを外し、眼鏡を置く。目頭を指でつまんで、まぶたを開け閉めする。
「やだ、先生。まだお若いでしょうに。」
軽口を叩きながら入ってきたのは知り合いの看護士だった。彼女は眼科の看護士だが、別におかしいことではない。この休憩ルームは隣の病棟の眼科と共用なのだ。私は彼女に今日あったことを話した。同じ職場で働いていると、なかなか思っていることもいえないものだ。その点近くて遠い眼科の人間だ。三年前はうちの精神科の看護士だったので、他の科でありながら仕事の話ができる彼女は私にとって貴重な存在だ。
「まだ一人身なのかい。」
「なんです、急に。」
「いや、君ほど優しくて気配りができる人をほっとくなんて眼科の人間は見る目がない。それ でよく人の目が治せるよ。」
「私は顔がこんなだから。見た目重視なんでしょ。眼科だから。」
冗談めかして返してきた。たしかに彼女はけして美人ではないが、にこにこと笑っているとこちらまで元気になる、そんな顔だ。
「人間、中身だと思うけどね。こんな仕事だから私は何人も見てきたよ。容姿は美しくても醜 悪な心をした人間というものを。」
「それなら先生がもらってくださいよ。」
「ん、考えておく。」
私ははぐらかしながら休憩ルームを出ると、再び診察室へ歩いていった。
 さすがに翌日も来たのは驚いた。精神科は癖になって通いつめる常習者が特に多いが、それでも毎日のように来る人はあまりいない。外山は自分が病気であることをアピールしてきた。
「先生、私は眼科にも行ったし、心療内科、脳外科にも行ったんです。どこにも受け入れてもらえずたらいまわしにされ、最終的にたどり着いたのがここだったんです。先生、お願いです。見捨てないでくれ。入院できないなら、せめて強い薬をくれ。」
「確かにうつ病やコミュニケーション障害、摂食障害の類を抑える薬はある。しかし、君の幻覚は原因がまだはっきりしていない。薬には副作用がある。幻覚が悪化する可能性だってあるんだぞ。その幻覚は時間をかければ必ずなくなる。」
 薬の一番の副作用は薬をやめられなくなることだ。薬への依存だけは薬では治せないのだから。
「あの女の顔を見るのはもういやなんだ。」
「いいかい。人間の脳っていうのは実にいい加減にできている。」
私は壁にかかっている絵を指差した。
「この絵は何の絵かわかるかい。」
「確かルビンの壷でしたよね。黒いところを中心に見ると向き合った二人の人に見え、白いと ころを中心に見ると壷に見えるトリックアート。」
言いたいことをすべて言われてしまった。ルビンの壷が有名過ぎてだめだったので、部屋を見渡してかわりになりそうなものを探す。こんなことならエッシャーのだまし絵でも飾っておけば良かった。製薬会社から貰ったハルルシオンとか薬の名前が書かれたカレンダー、パソコン横に生けられた名前も知らない黄色い花、後は殺風景な白い壁ばかり。私がキョロキョロとしているのとは対照的に外山はじっと白い壁を見つめている。気になって壁を見てみるが何もない。きっとまた女の顔の幻覚を見ているのだろう。いや、よく見ると壁に三点のシミがある。「外山さん、このシミ何に見えますか。」
「人の顔に見えます。」
「そうでしょう。人間の脳は点が三つあれば顔と認識してしまうんです。その幻覚も脳が見せ ているただの錯視に過ぎません。」
「でも、はっきりと見えるんです。女の顔が。その女は笑いもせず、怒りもせず、ただじっと 無表情に俺を見ているんだ。」
「錯覚だよ。」
 翌日、外山は自分の両目をカッターで突いた。入院させるべきだったのだ。精神を患っているものが自傷行為に及ぶことはよくある。だが、いまさら後悔してもしかたがない。私は彼が
入院している隣の眼科の病棟へと急いだ。奇しくもあの知り合いの看護士が担当しているので、すぐに通してくれた。
「すまなかった。私の誤りだった。」
「いいんです、先生。俺は目が見えなくなってしまったけど、おかげで今まで目に見えていな かったものが見えるようになりました。前はちょっとした段差なんて気付きすらしなかった けど今ではそんな段差ひとつで転んでしまいます。誰かに手を引いてもらって初めて歩くこ とができます。人の優しさ、ありがたさを知ることができました。俺は目が見えなくなって 良かったんです。」
外山はすっかり看護士を信頼しているようで、看護士のほうもまんざらでもなさそうだ。
「お幸せに。」
私はそういうと病室を出た。確かに目が見えなくて良いということもあるのかも知れない。看護士の顔は外山の見た幻覚の女にそっくりなのだから。

       

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