Neetel Inside 文芸新都
表紙

錯覚
我輩は金である

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 我輩は金である。名前はまだない。国立印刷局で生を受けたが、その当時のことはあまり覚えていない。最初の記憶は人間社会で一番汚い場所のひとつ、洋式便器の水の中であった。薄暗くじめじめした場所でわけも分からずおぼれていた我輩は、助けを求めあがいていた。その願いが天に通じたのだ。ひとりの男が我輩を水の中から救い出したのだ。男はどう見ても良い暮らしをしてるようには見えない。ボサボサの頭に襟がダルンダルンに伸びきったTシャツ、はき古したジーパンはひざのところが破けていた。これは余談だが、このときにはいていたジーパンはダメージジーンズと言い張って愛用しているそうだ。
「千円札を便器に捨てるなんてどこのブルジョアだよ。」
 ここには男と我輩しかいないことを考えると、きっと我輩に語りかけているのだ。まさか、独り言ではないだろう。便器の中に手を突っ込んで我輩を助けたところを見れば、男が金に困っていることは想像に難しくない。我輩は自分が千円札で本当に良かった。一円、五円だったら一顧だにせず流されていただろう。かの輸吉君は金は金の上に金をつくらずといっていたが大嘘だ。諭吉君が一万円札だからそんなことがいえるのである。我輩など上にも下にも金がいるではないか。その上、最近は新千円札なるものが幅を効かせ、我輩の肩身は狭くなるばかりである。
 男は我輩を家に連れて行きベランダに干した。洗濯ばさみが少しいたい。しかしこの男、物干し竿を買う金もないようだ。代わりに物干し台にひもが張られている。そのため、風が吹くと我輩一回転。これは愉快。もっと風よ吹け。我輩二回転。ちょっと調子に乗りすぎたか気持ちが悪くなってきた。そこに男が来てまた助けてくれた。と思ったら、乾いたのでサイフに入れられただけか。男はどこかにでかけるようだった。どこに行くのだろう。男は自動販売機の前に来た。そしてそこで我輩を財布から出して入れた。しわくちゃな我輩はなかなか機械を通らず、何度もいったりきたりしてようやく機械に入った。なるほどしわくちゃの紙幣を早く使いたかったのか。まるでババぬきのジョーカーになった気分だ。二千円札さんはこんな気持ちだったのか知らん。機械の中に入ると件の新千円札君が縁結びで活躍中の五円玉君と談笑している。あちらには五百円玉君がいる。と思ったら、あのにきび面は五百ウォン君だった。ウォン君は韓国の方だが、まだ生き残っていたとは驚きである。
 我輩は千円札だからこれで少しはゆっくりできるだろう。千円札はお釣りとして出ることはないからである。そう思ってくつろいでいたのに、みごとにあてが外れた。我輩の体が外から引っ張られる。日の光がまぶしい。新千円札君たちとこんなに早くサヨナラすることになろうとは。目の前にいるのはあの男である。男がつり銭のレバーを回したのだ。なにやら悔しがっている様子。どうやら自販機に一度通してつり銭のレバーを回せば新しいお札と取替えられると思ったらしい。ジュースの一本ぐらい買う余裕はこの男にはないのだろうか。
 それ以来、この男の家に半年ほど居てやっている。この男は貧乏のくせにプライドが高い。我輩を商店では使おうとしないのだ。くしゃくしゃの千円札を出すことがそんなに恥ずかしいことなのだろうか。この調子では、10年先も20年先も男のかび臭いサイフの中だ。つまらん。と思っていたが転機は突然おとずれた。
 男の親戚の子供が夏休みで遊びに来たのである。少年は親の目を盗んでおねだりだ。今月、誕生日があったのでプレゼントをくれとせがんでいる。男はどうしたものかと思案していたがやがて我輩を取り出すて少年に握らした。使いどころを見つけて男は満足げだったが、少年は「たったの千円?まあ、いいや。」と不満そうだった。男が貧乏なのを知っている我輩は千円はだいぶ奮発したものと思う。だが、プレゼントに現金。しかも剥き身。ここまで飾り気のない人間も珍しい。



 さて、我輩の所有者が男から少年に代わったわけだが、この少年まだ男にお願いがあるようだ。
「夏休みの宿題手伝ってよ。」
少年はキラキラした目で不正を頼む。
「まだやってなかったのかよ。」
「だって自由研究って何やったらいいのかわかんないんだもん。」
「自分が普段から不思議に思っていることを実験したり観察したり。」
「何も不思議に思っていることがない人は?」
「うーん。それなら一度学校でやった実験で、好きなものをもう一度自分でやって見るってのは?」
「えー。理科、好きじゃないからなぁ。」
「別に理科にこだわらなくても図工や社会だっていいんだよ。算数の自由研究やってきた子もいたし。」
「例えば?」
「そうだな。お金の流れについて調べるっていうのはどうだ。『このお札を受け取った人は職業を書いて下さい。十人目の人はここに電話してください。』って自分の名前と電話番号を紙に書いてクリップでお札にくっつけておいて、十人目の人に電話でどんな職業が紙に書いてあるか聞く。そうすると、お金がどんな職業の人に渡っていったか流れが分かるって寸法だ。」
長い話で我輩にはさっぱりだったが、少年は興味を惹かれたようでよく聞いていたようだ。
「さすが塾の先生だね。自由研究できそうだよ。」
少年は我輩をもらったときよりもよっぽど満足して帰っていった。
 家に帰ってきて、さっそく少年は我輩にクリップで紙をつけた。紙には『このお札を受け取った人は職業を書いて下さい。十人目の人はここに電話してください。金子翔 03ー××××ー××××』これはもしや、我輩に名前をつけてくれたのではないか。なんと名誉なことだろう。我輩はもはやただの千円札ではない。世界に唯一の名前のあるお札である。人間と同格なのである。いまやペットにだって名前がある時代だと反論される方もいるだろうが、読者諸兄は考えて欲しい。イチゴだのメロンだのバナナだの食料品の名前をつけられた四足獣ごときが人間と対等なはずはなかろう。鈴木いちご、佐藤めろん、吉本ばなな、なんて名前の人間はいないのだから。それに比べて我輩の名前、金子翔はなんて人間らしいことだろう。我輩の名付け親になった少年は、なぜか「これは実験だからしょうがないよね。」と独り言をいいながら駄菓子屋に入っていった。少年はまるで宝物でも見つけるように駄菓子の棚を探っている。少年はなじみの客のようで店のおばちゃんに聞くまでもなく、だいたいいくらになるか計算している。十円の風船ガム三十個と六十円の当たりつきのアイスキャンディー十本をおばちゃんに差し出す。千円を超えないように消費税がつくことまで考えている。我輩に名前をつける先見の明のことも考えると、この少年ただものではない。後に大人物になるかも知れないから名前を聞いておきたかったが、早くもお別れのときが来てしまった。少年が我輩を駄菓子屋のおばちゃんに支払ったのだ。



 おばちゃんは我輩にくっついているメモに気が付いた。少年がことのいきさつを話すとおばちゃんは快くメモに自分の職業を書いてくれた。
「おばちゃんにまかせておきなさい。」
まかせておけとはどういうことだろう。我輩には人の心はわからない。おばちゃんは少年を見送るとシャッターを閉めてしまった。太陽はまだ高く頭上に輝いている。店を閉めるにはまだ
早い時間だ。おばちゃんは隣の本屋に入ると真っ先に官能小説のある棚の前にやってきた。その堂々と何冊か吟味する姿は、一切の雑念を滅したかのようである。どうやらまかせておけとは我輩をすぐに使って、少年の自由研究を完成させようということらしい。おばちゃんはレジ
へ本を差し出す。『サド候爵の倒錯と偏愛の日々』というタイトルにひるむことなく、むしろ誇示するようにレジのおじさんに突きつける。おばちゃんは本屋のレジにいたおじさんと知り合いのようで、長くなりそうな雑談が始まってしまった。閑散とした店だから後ろに並ぶ人もいないし、誰かに迷惑かけているわけでもない。否、我輩には大迷惑である。我輩はトレーに置き捨てられたまま三十分が過ぎたところで、ようやくおばちゃんは少年の自由研究の話を切り出した。
「なるほどね。このメモに職業を書けばいいんだな。」
「ありがとうね。」
「お礼はベッドの上で聞くよ。」
「やーだー。」
おばちゃんはまんざらでもない顔をしながら本屋を出て行った。

 我輩はこの見境のないおじさんの手の中に収まった。いかにも見境のなさそうな脂っぽい赤ら顔を近づけてきたので、我輩も気をつけたほうが良いかも知れない。その疑念は確信に変わる、おじさんが我輩に先が黒い棒をむけたのだ。と思ったら我輩にくっついたメモにえんぴつで職業を書いているだけだった。本屋と書けばいいだけなのにかっこをつけて書店経営などと書いている。よほどヒマなのか、今度は本を右手にもって読みながら器用に左手ではたきをかけ始めた。本のタイトルはまたもや『サド候爵の倒錯と偏愛の日々』、おばちゃんと話がはずむわけである。物語が佳境に入ったのか、ついにははたきを持つ左手をとめてしまった。おじさんが中腰になりながら真剣なまなざしでページをめくったとき、自動ドアが開いて女子高生が入ってきた。おじさんは慌てふためいて我輩をしおり代わりに本に挟んでダンボール箱に突っ込んだ。
「いらっしゃいませ。」
言い慣れていない言葉なのだろう。おじさんの声は不憫にも裏返った。
「いえ、あの、私、おもてのアルバイト募集を見て。」
驚いたことにこの閑古鳥が鳴いている本屋が、分不相応にもアルバイトを雇おうとしている。「よければ今から面接しようか。」
「いいんですか。」
面接の様子を見たいのだが、本に挟まれた我輩に見えるのは『サドはアンヌのクレバスに手を這わせる。蛇がのたうちまわる感覚に快楽の波が押し寄せてくる。それに冷水を浴びせるようにサドは上気したアンヌの尻を力まかせに叩く。愛撫しては叩き、叩いては愛撫し、甘美な痛みと快感が交互に襲ってくる。ここまで焦らされてもアンヌは背をのけぞらせながら四つんばいの姿勢を保つ。サドはアンヌの耳元でささやいた。「痛いのがいい?気持ちいいのがいい?どうして欲しいのか言ってごらん。」』の文字だけである。しかたがない、来店したときにチラリと見たのを思い出そう。確かポニーテールに小麦色の肌の活発そうな女の子だった。うらびれた書店のレジで本に埋もれているのはなんとも似つかわしくない。
「なぜうちの店で働きたいと?」
そう、それだ。うらびれた店主にしてはよく聞いた。
「不純な理由なんですけど……」
おじさんが不純という言葉に反応して前のめる。
「好きな男の子がいて、それでその人読書が大好きなんです。でも私、本とか全然詳しくなくて、もっと話したいんだけど。それで本屋さんでアルバイトしたら共通の話題ができると思って。」
外の様子は見えないが、女の子の顔は真っ赤だろう。
「いいなぁ。青春だねぇ。では次の質問。痛いのがいい?気持ちいいのがいい?どうして欲しいのか言ってごらん。」
おじさんはさっきまで読んでいた本の内容が頭に残っていたのだ。外の様子は見えないが、間違いなく女の子の顔はひきつっているだろう。不穏な空気を察知したのか、おじさんは面接を切り上げ仕事の説明に入った。即採用する気満々のおじさんは失敗を取り返そうとはりきってている。こうなってくるとどっちが雇用主か分からない。
「レジの打ち方は分かる?」
「コンビニでバイトしてたので分かります。」
「じゃあブックカバーの掛け方を教えるよ。」
まともな書店のフリをしているが、さっきのおばちゃんの本にはブックカバーを掛けてなかったではないか。知り合いだからかも知れないが、あのわいせつ物陳列罪になりそうな表紙の官能小説にこそブックカバーをかけてしかるべきではないだろうか。しかし表紙を汚れから守るためとはいえ、本来掛かっているカバーの上にさらにブックカバーを掛けるのはいささか過剰包装のきらいがある。そのうちカバーを汚れから守るカバーを汚れから守るカバーができそうじゃないか。これではきりがない。
「今度は古くなった本、これはダンボールにつめて出版社の倉庫に送ればいいから。」
我輩の挟まっている本の上に雑に本が乗せられていく。重い。重い。我輩はますます身動きがとれなくなってきた。いったい何の天変地異の前触れなのか、まだ昼間だというのにあたりは暗くなった。外でガムテープを切る音が聞こえて、このダンボールが閉じられていることに気付く。おじさんは完全に我輩と愛読書のことを忘れている。
「じゃあ、今日はこのくらいで。シフトを組むから出れる時間を教えてくれるかな。」
「ごめんなさい。やっぱり私やめときます。」
世にも珍しい雇用主のほうが内定を取り消される瞬間である。



 我輩がやっと日の光を拝めたのは二日後だった。いつのまにか別のところに運ばれて、他の本とまぜこぜの中からようやく救出された。どうやらこの倉庫は各書店から集まった古い本たちの待合室のような場所のようだ。古い本がカバーだけ新しいものにかけかえられて、何食わぬ顔で新しい本として書店に戻っていく。それならば本の側面の汚れはどうするのかというと、研磨機で紙ごと削り取るのである。本屋でもし余白の端が削れている本を見つけたならば、それは古い本たちの転生した姿なのだ。我輩もあわや本ごと削り取られる運命にあったが、すんでのところで本たちの無限ループから解脱することができた。倉庫で働いている男が朝早く来すぎたのかヒマをもてあまし、『サド候爵の倒錯と偏愛の日々』をたわむれに読み始めたのだ。
「あれっ?千円挟んであるじゃん。ラッキー。なんだこれ、名前が書いてある。どんだけ几帳面な奴が落したんだよ。」
すぐに少年のつけたメモに気付く。さて、ネコババしたこの男は職業を書くだろうか?男は派遣社員と書いた。他の人が職業を書いていたのが良かったのかも知れない。人間は自分が流れを止めてしまうことを恐れるのであろうか。それとも純粋に少年の自由研究を応援したいのかは分からない。ただひとつ確かなのは、少年の願い通り男はすぐに我輩を使うということだ。男は仕事上がりにストリップ劇場にくりだしたのである。
 目がチカチカするような電飾をくぐると、そこには獣のにおいがたちこめていた。男は一番前の席に陣取ると、血走った目を見開く。客の入りはまだまばらなのに、踊り子たちがカラフルな薄い布きれをまとって登場した。男は指笛まで鳴らして職場での無気力さはどこへやらである。すると踊り子の中あきらかな異物が混ざっていることに気が付く。黒いブーメランパンツをはいた角刈りの男がいっしょに踊っているのである。なぜ誰も苦情を言わないのだろう。
不審者が乱入しているのに、まさかあれがこの店の売りだとでも言うのだろうか。それにしては誰も笑っているものはいないが。ショーが終わり、客が次々と踊り子の下着の隙間の思い思いの場所にチップを挟んでいく。踊り子に触れるチャンスとあって、今までどこに潜んでいたのか大勢の手が取り囲む。男も我輩の体をつまんで割って入っていく。我輩の目の前には林立する乳房が広がっている。断っておくが、これは役得というものである。我輩が望んだわけでも、やましい気持ちがあったわけでもない。男の手がぐんぐんと黒い巨塔に近づいてていく。どうも様子がおかしいぞ。あろうことか一直線に角刈りに向かっている。まさかこの男ホモだったのか?我輩の体は無残にも黒いブーメランパンツに滑り込んでいく。前はやめて、前はやめて、せめて後ろにして。アッーーーーーーーーー。
 我輩は汚されてしまった。このシミを拭い取ることはもうできない。この話はもうしたくないので、角刈りがスーパーで支払いを済ませたところから話すことにしよう。



 レジの女の子が我輩を見つめている。いたって素朴な顔の女の子で、悪く言えば平面顔である。しかし体のほうはかなり凹凸があり、あの踊り子たちの中に混ざっても遜色ないだろう。いやなことを思い出してしまった。口直しに女の子の顔を拝むと、まだ我輩を見つめていた。そんなに穴が開くほど見つめられては、我輩照れてしまう。先ほどまで男の股間にあった我輩をたおやかな手が触れている。なぜか興奮してきた。ついに我輩は変態に身を落としてしまったのか知らん。もう思い出すのはよすことにしよう。女の子は我輩に添付されているメモにスーパーと書き始めた。我輩を見つめていたのではなく、ただメモを読んでいただけであった。女の子はスーパーマーまで書いて固まってしまっている。どうやらスーパーマーケット店員とでも書きたかったのだろうが、文字を大きく書きすぎて入りきらなかったらしい。この子、ちょっとお馬鹿である。そこにいきなり青いブレザーを着てハの字ヒゲを生やした売れないコメディアンのようななりの上司が話しかけてきた。
「レジはすいてきたから、缶コーヒーと百円ライターを補充してきてくれる。」
女の子は急に話しかけられたことに驚いてスーパーマーの最後の『ー』の左上に点を書いてしまった。これではまるでスーパーマンみたいじゃないか。まあ、少年は喜ぶだろうが。
 このお馬鹿さんはコーヒーとライターのたった二つだけなのに、忘れないようにとメモ用紙に書いている。しかも我輩にくっついているメモに書いてしまってわけのわからないことに。

   駄菓子屋
   書店経営
   契約社員
   踊り子
   スーパーマン
   コーヒー
   ライター

 小学生はこういうのが好きだから、少年は喜ぶだろうが。我輩を握りしめたまま、さっそく地下一階のバックヤードに向かったお馬鹿さんは、手際よく缶コーヒーのつまったダンボールと百円ライター三十個を台車に積んだ。我輩はようやくメモ用紙の役目から解放されレジスターの中に納まった。



 我輩の冒険談を静聴していた千円札や一万円札たちは惜しみない拍手を送る。レアな二千円札や五千円札たち女子は「ねこさん、ねこさん。」とラブコールを送る。ねこさんというのは我輩金子翔の苗字の尻二文字をとったニックネームである。我輩が舞台を下りてもアンコールは鳴り止まない。有名人の我輩ともなるとここでリップサービスのひとつでもしなくては。我輩は舞台に舞い戻ると、アンコールに答えて話を続けた。



 あのスーパーの隣にはパチンコ屋があるおかげで、ライター、タバコ、コーヒーの売れ行きが良い。そんな立地のせいか客層は最悪で、レジ打ちが少しでも遅いと急かしたり、それでお釣を間違えようものならいちゃもんつけてくる客ばかりである。しかし、そんな客にも笑顔を崩さないあのお馬鹿さんな女の子は、客からの評判もいいらしい。だがよく見ると話しかけてくる客の目はだいたい女の子の胸に釘づけで、おっぱいに話しかけているようである。従業員にも一定の人気があるようで、今日も例の上司のハの字ヒゲがおっぱいに話しかけてきた。
「売上金が入ったバッグを銀行に運ぶからいっしょに来てくれ。」
仕事だから断れないだろうと思ってはいたが、まったく邪推せずに快諾したのには驚いた。この男の二人きりになりたいという下心にまったく気付きもしない。まったく、我輩がバックの中にいて良かった。何かあれば我輩はおっぱいを守るために非常の措置も取るだろう。ハの字ヒゲは売上金が入ったバッグを持ち、おっぱいを連れて店を出た。このスーパーは駅から離れたところにあるので少し歩かなくてはならない。ハの字ヒゲは並んでおっぱいと歩きながら実にいいわけがましく話し始めた。
「この売上金を運ぶのは必ず二人以上でやらなくてはいけなくてね。一人で運ばさせて横領でもされたら問題だからね。まぁ、あくまで形式的なものだけど。あと、盗難防止の役割もあってね。」
「私、ボディガードなんて……無理です。」
「あっ、いや大丈夫。このバッグに付いているキーホルダーを引っ張ると警報音がなるから。危ないことはしなくていいからね。」
ハの字ヒゲは右のヒゲをなでながら言った。それで格好をつけているつもりなのだろうか。



 五分ぐらい歩いたところで二人は無事に駅前の銀行に到着し、行員に我輩の入ったバッグを手渡した。行員はすぐに紙幣の束を取り出して枚数を読み取る機械にかける。紙幣たちが目にも止まらぬ速さで機械の中を通っていく。我輩の番が迫る。少し怖いが決心して機械に飛び込む。不快な音とともに機械が止まった。もしかして我輩のせい?行員のおねえさんが我輩を機械からつまみ出す。じっと見つめあう二人。もう騙されん。どうせメモを見ているのだろう。おねえさんはいぶかしみながらもメモを読む。

   駄菓子屋
   書店経営
   契約社員
   踊り子
   スーパーマン
   コーヒー
   ライター

 その下におねえさんは銀行員と書き込んだ。悩むのも無理はない。まったく職業と関係ないものがちらほら混じっているのだから。奇跡的にライターは作家のことだと思ってくれるかも知れないが。おねえさんは我輩の体からメモとクリップを外して再び機械に通す。今度は計測することができた。すると驚いたことにおねえさんは一発で我輩を見つけ、またメモとクリップを付けたではないか。さすが我輩の顔は他の夏目漱石とは一味違うのかと思ったが、他がすべて新千円札で漱石は我輩ただ一人だけだったからだった。
 我輩はハの字ヒゲの隣に座って納金が済むのを待っているおっぱいのほうをチラリと見た。これでお別れである。ふいに後ろから風が吹き込んでおっぱいのショートカットの髪先が揺れる。自動ドアがあいて明らかに場違いな人間が入って来た。アーミーナイフを握りしめ黒い野球帽を目深にかぶりマスクをした男が、目を血走らせながら叫んだ。
「この銀行にあるだけの金をだせ。」
その瞬間、銀行の中にパトカーのサイレンのような警報音がこだまする。行員が通報したのかと思いきや、ハの字ヒゲがパニクって警報用のキーホルダーをひっぱっただけだった。今警報音を鳴らしても意味がないだろう。アーミーナイフの切っ先がハの字ヒゲに向く。自分を慌てさせたて頭にきたのか、近づいてきてハの字ヒゲの顔をじろじろ見ている。おもむろにハの字ヒゲの頬にナイフを押し当てる。ハの字ヒゲは恐怖で声も出せず、手を合わせて口をもごもごさせている。銀行強盗の男がナイフをそっとずらすと、なにか黒い塊が床に落ちた。ハの字ヒゲ―いや、もうハの字ヒゲではなくなってしまった。麻雀に断ヤオ九という役があるが、そのヤオの字のようなひどくバランスの悪い口ヒゲになってしまった。―はペタリと尻をついて失禁した。銀行強盗はまだ気が収まらないのかノの字ヒゲに迫る。その間に割って入ったのは我らがおっぱいである。足を震わせながら、必死にボディガードを果たそうとしている。強盗がおっぱいを睨む。おっぱいは目をそらさない。ノの字ヒゲは情けないことにおっぱいの後ろで震えている。強盗はおっぱいのおっぱいをわしづかみにすると「これで勘弁しといてやる。」と言い捨てて、逃げていった。我輩は男の大きな旅行カバンのなかで揺られている。我輩もあの腑抜けのノの字ヒゲと同じではないか。おっぱいを守ってやれなかった自分自身に腹が立った。



 にんまりとした強盗はスーパーのトイレで札束を手にしながら一枚一枚数えている。何がそんなに楽しいのか。ふと、強盗の手が止まる。我輩は高くつまみ上げられる。我輩の人気はとどまることを知らない。しかしこんな奴に好かれてもちっともうれしくはない。いい加減、息があたるほどに近づけた顔を離して欲しいものだ。鼻息がメモをひらひらとめくりあげる。我輩のメモに気が付いたのだ。強盗はメモに銀行強盗と書いたところでハッとした。
「何書いてるんだ俺。」
男は我輩を便器の中に捨てた。我輩は金であるが、紙幣というのはただの紙である。水には弱い。意識が少しずつ遠のいていく。
「すいません。もれそうなんで早くして。」
ドアを叩く音とともに聞き覚えのある声が聞こえる。我輩はもうおしまいのようだ。幻聴まで聞こえてきた。強盗は慌てて旅行カバンに札束をつめなおすと、ドアを勢いよく開け飛び出した。入れ替わりに入ってきた男の声には、やはり聞き覚えがあった。
「デジャヴか。また千円札が落ちてるよ。最近のセレブは千円札で尻を拭くのか?」
 


 男は興奮ぎみに我輩を拾い上げ、さらに興奮しながら言った。
「へっ?こんなことってあるのか。翔にあげた千円札が返ってきた。」
男は驚いていたが我輩のほうが驚いた。この男はトイレで最初に我輩を拾ったあの男だったのだ。男はすぐに少年に電話をした。少年の驚く顔が目に浮かぶ。ところがもっと驚くことが待っていた。
「もしもし、翔か?すごいことが起こったぞ。なんと、お前にあげたあの千円札が戻ってきたんだ。でな、書いてある職業が傑作なんだ。最初の人はワリとまともに駄菓子屋とか書店経営とか契約社員とか書いてんのに、途中からスーパーマンコーヒーライターとか、ふざけてるよな。最後なんて銀行強盗だぜ。」
「それどころじゃないって。テレビつけてみてよ。」
男がテレビをつけると、メモが付いている旧千円札を持っている方は警察まで情報をお寄せくださいというニュースがやっている。
「まさか、この銀行強盗って……。」
男はすぐに警察に通報し、まだ近くにいた銀行強盗はあえなく逮捕された。いずれ我輩にも感謝状が贈られるだろう。



 あいもかわらずわが主人は貧乏しているから、我輩は居てやっている。幾千万の同胞たちの命を救った我輩がでなければ、この万年金欠男と釣り合いはとれまい。本日も我輩を使うでもなく、ただ街を意味もなくブラブラしている。
「おいニーチャンちょっと金かしな。」
派手なスカジャンを着たいかにもな人たちが前から歩いてきた。あれは確か人間の中でも最も凶悪な種族で不良というそうだ。チンピラとも言う。DQNとも。しかし、不良ももう少し懐の暖かい人間からとりゃいいのに、よりにもよってむしる毛もない主人から取らなくてもいいだろう。
「お前にやるくらいならなぁ、お前にやるくらいならなぁ。こうだ。」
主人はとうとう気でも違ってしまったのか我輩を真っ二つに裂いて地面にたたきつけた。厳しい冒険をしてきた我輩だが、ここまで粗末に扱われたのは初めてだ。
「ちっ。千円しかないのかよ。しけてやがんな。」
不良たちはあきれて去っていった。
「ふん、バカな奴らだ。銀行で新札と取り替えられるのに。」



 わが主人は我輩を銀行に持って行って、新札と取り替えた。お金が戻ってきたご主人はいいかも知れないが、二つになった我輩がくっつくわけではない。いったい我輩はどうなってしまうのだろう。我輩が最後にたどり着いたのは紙幣たちの墓場だった。周りをみると古くなったり破損したお札ばかりで、阿鼻叫喚の様相を呈している。しかし、そんなことでへこたれる英雄ではなかった。我輩は希望を失いかけていた紙幣たちに、英雄である我輩たちが人間に捨てられるはずがないと力説。日増しに我輩の支持者は増え、今に至るのである。


 我輩は演説をこう言って締めくくった。
「我輩は同胞たちを銀行強盗から助け、身を挺して主人を守った英雄だ。これからも人類に寄与し続けていこうではないか。」
変色するまで汚れて、もう使い物にならなそうな旧五千円札が悟りきった表情で言う。
「武士道精神も結構だが、所詮我々は使役される存在なんだ。」
たまにはこういうはねっかえりもいるものだ。
「使役されるのは人間のほうだ。汗水たらして働いて我輩たちを集め、あちこちで使うことによって世界中を旅行させてくれる。おまけに最も安全な金庫に住まわせてくれる。我々を拝んでいる人間こそ金の奴隷じゃないか。」
「みんな騙されるな。ここは再生紙工場なんだ。こいつも俺もトイレットペーパーに生まれ変わるんだ。」
「そんな馬鹿な。人を支配するものの末路が人の尻を拭うことなのか?」
もうだめだ。また、意識が遠のいていく。もし、次に生まれ変われるなら、我輩は本がいい。お金よりもよっぽど大切にされている。
 目が覚めると我輩はもう来るまいとおもっていた。あの暗くじめじめしたところにいた。

       

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Neetsha