Neetel Inside 文芸新都
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夜に踊る光
拝啓ドリイ

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 拝啓ドリイ

 拝啓ドリイ
 おはよう。よく眠れたかい。近頃ずいぶん寒くなってきたからね。風邪など引いた日にはたまったものじゃないし、くれぐれも身体には気をつけて。まあ、健康に関しては僕なんかより君のほうがよっぽどわきまえていると思うから、あまり余計なことは書かないようにする。
 まず何と言ったらいいか。そうだな、とりあえず謝らないといけない。本当に申し訳ない。僕のほうもやれるだけやってみたんだ。僕がどんな人間かは、長い付き合いだ、君も少しくらいは知っていると思う。これまでにも何度か危険な夜があったろう。その時僕がどんな風にふるまったかを思い出してもらえれば――そんな酷なことを無理強いはしないけれど――分かるはずだ。
 心配なのはチャーリーのことさ。なにせあの子もまだ四つだ。彼のこれからを思うと僕は気が塞ぎそうになる。この先ろくでもない連中と一緒に行動したり、そいつらの面倒をみたり、それでなければおべっか使わなきゃいけないんだからな。女の子に生まれてくればよかったものを、神様は何を思ったんだろう。半分は僕の血を受け継いでしまっているけれど、君の気質である忍耐強さが勝ってくれることを祈ってるよ。じゃないとチャーリーは僕と同じ、月曜日の旅人にならなきゃいけない。心配なのはね、チャーリーが君にべったりのお母さん子だってことさ。そのへんなんか昔の僕にそっくりなんだ。あの子が僕に似てるところを挙げたらきりがないけど、まあ今は将来の幸運を祈るより他ないね。
 話を戻そう。今日。十月の、ええと二十三日か。くそ、もうそんな季節だ。これから寒くなると思うと気が滅入ってくるよ。何せまだ行き先の見当すらつけてないんだぜ。笑っちゃうだろう。あの上司の顔に墨を塗った代償がこれってのはまあ悪くないが、現実にここに立たされてみると、タイムマシンでも作って過去の僕を説得しにいくほうがまだしも現実的なんじゃないかと思えてくるよ。バック・トゥ・ザ・パストってね。あいにく僕の近所にマッドサイエンティストは住んでなかったけどな。じつに残念だ。
 また脱線したね。すまない。とにかく何でもいいから書いてないと気が狂っちまいそうでね。今まだ二時半なんだ。窓の外は真っ暗さ。僕の未来と同じだ。子どものころ先生に書かされた将来の作文、あれに返ってきた三十丸を思い出すと吹き出しちまうよ。教師はあの作文のいったいどこを評価してたんだろう? あの時の僕は確かこう書いた。「将来はお嫁さんをもらって車の仲介業をして子どもを二人つくる」その過程も書いたな。子どもながらにリアルなプランだったね。思えばあの頃の中途半端な空想を、僕は半分ほど実現しちまったわけだ。君がいて、チャーリーがいるもんな。いや、ちょっと待てよ。そうすると、タイムマシンに乗った僕は、一切をやり直すために小学校まで行って自分を説得しないといけないってのかい? 勘弁してほしいもんだぜ。バカは死んでも直らないってやつか。
 ……すまない。今度こそ話を戻すよ。頼むから怒らないで、辛抱強くこの手紙を読んでほしい。ドリイ。僕はこの家を出て行く。狡猾な鷲のように飛びたてたらいいけど、あいにくそうもいかない。心境としては一世一代の賭けにびくびくしながら乗り出す気の弱いギャンブラーって感じだ。まったくろくなもんじゃないよ。君は僕の百倍くらいため息ついてるだろうけど、家で消耗するのと外で消滅するのだったらどっちがマシなんだろうな? 僕の考えじゃ雨風をしのげるほうがいくらかありがたいな。ああ、いっそ僕がチャーリーになりたいよ。
 銀行にちょっとだけお金を残しておいた。慰謝料にするには二つくらい桁を増やさないといけないけど、僕はそんなもんに耐えられやしないからな。分かるだろ? これまでだってずいぶん色々なことに耐えてきたんだ。耐えたっていうより通過してきた。文字通り通り過ぎていったんだ。いや、避けたという言い方がもっとも近いかな。そうしないことにはやっていけなかったからね。こう、ひょいひょいっとさ、いろんなトラブルをかわすことで父親ってのはやっていけるんだな。でも、とうとう限界がやってきたのさ。これでも厄介なことを避けることに関しちゃずいぶん慣れてきて、ようやく一人前の看板を出せるかもって頃合いだった。ナイフ投げ師ならぬトラブル避け師、なんて素敵じゃないか。この世のろくでもないことをひらりとかわすってね。どっこい、そう思ってたところにでかいのがぶつかっちまったってわけさ。致命傷クラスのどぎついやつをね。頼むから分かってくれよ。ドリイ。君には僕が無神経に映ってるだろうけど、それはみんなナイーブな僕の心から生まれる反作用みたいなものなんだ。その繊細さと来たらどんなガラス細工を競売にかけたってかなわないほどさ。僕がどう思ってこの文章を書いているか、そのフィーリングが伝わればいいのにな。残念なことにそうはいかないだろう。僕たちはいつもそうやってずれた場所で生きてかなきゃならない。いつもいつも、ずーっとだ。人生ってのはずいぶん速く過ぎていくのに、そのくせやり過ごすだけじゃあまりにも長すぎるんだもんな。まあそんなわけだから、僕はどっかに消えちまうことにするよ。亭主は夜逃げして消えてしまいました。君の中ではそういうことにしておくのがいちばんいいと思う。チャーリーには、そうだな、こんな風に言っておいてくれ。「父さんは長い長い旅に出ました」なんて、かっこいいじゃないか。現実とこれっぽっちも合ってないところなんかイカすと思わないか? チャーリーもまだその手の話を信じられる年頃さ。それで何年かは持つだろう。
 最後になるけど、僕は君とチャーリーを愛してる。残念なことに、僕には君たちを向こう十年養っていくだけの甲斐性もなければ根性も運もなかったってことさ。繰り返すけど、これでもかなり頑張ったんだ。もうほんとにうんざりさ。
 それじゃ身体に気をつけて。
  ブライアン


 夫はそんな手紙だけを残して秋の朝に突然出て行った。私がまっ先に思い出したのは、ここ一年でずいぶん進行した彼の禿頭と、おざなりなあの笑顔だった。早い話が疲れていたのだろう。奇妙なまでに納得してしまった。それから私はありったけの恨みつらみをこめて、夫の手紙を灰皿の上で焼き払い、ごみくずをすっかり捨ててしまうと、食卓に座って、これから先に横たわる時間について考えた。ため息を三回までカウントして、それ以降は数えなかった。
 いったいどうしてこうなのかしら? そう思わずにはいられない。男ってのはそういう生きものだと分かっていたつもりだけれど、いざこうなってみると、そんな理解は何の役にも立たなかった。それでチャーリーが育つわけでもなければ、籠の中にある洗濯物が片付くわけでもないし、今日の朝食から夕食までを誰かが考えて、買出しに行って作ってくれるわけでもない。
 ため息。そして私は預金残高がいくらだったかを思い出した。昨日、その額が急に増えていたのを見た時、身体の奥のほうから不穏な直感がわきあがってくるのを、私は無理に押さえつけていた。
 案の定だ。私は自分の、若い頃に比べてずいぶん荒れた手の平を見つめた。いつだったか、あの人がこの手を取って、不慣れな言葉で不器用に私を口説いたのを思い出す。そんな姿があの頃はとてもいとおしかった。その半年後には、あの人を形づくる半分以上の要素に幻滅していたとはいえ、それはそれ、そういうものよねと言い聞かせて、私は彼と人生と共にする心構えみたいなものを固めたのだ。
 チャーリーが生まれてきた時は本当に嬉しかった。その頃には夫のことなんてほとんどどうでもよくなっていたけれど、チャーリーは地上のどんなものにも代えがたい宝だった。今ではあの子は私の命だ。あと三十分もすればお腹をすかせて起きてくるだろう。私の父に似たのか、ずいぶんと早起きだから。そして私にこう訊くのだ。「パパは?」と。
 ああ、私はそれに何と答えればいいのだろう? あの腑抜けの言うとおり「パパは長い長い旅に出ました。行く先々で女を口説いて酒に溺れ、しまいにはどこかで野垂れ死ぬ予定です」とでも言えばいいのかしら? 私は自分のことよりも、チャーリーのこの先をいかに明るくするか、ただそれだけを考えていた。

     

「それは災難だったわね」午前十時にやって来たケイトさんはそう言った。彼女はピアノ教師で、町で小学生にレッスンをしている。「こんな風に言うと過ぎ去ってしまった嵐みたいだけど、そういうものじゃないわよね」
「その通りよ」私は言った。カップの底に紅茶の葉が沈んでいる。わずかに残った緋色の液体を見て、いつか、私の世界もこんな風にあざやかな色をしていたと思った。「チャーリーには何て?」ケイトさんが言い、私が答える。「出張って言ったわ。どうせあの子にはすぐにばれるから、それまでに別の言いわけを考えないとね」チャーリーは鋭いから、父親が終わりのない旅に出ましたなどと言っても「なぜ?」と理由を訊きたがるだろう。まじめに説明したところで、今のチャーリーに分かる話ではないし、それに何より、私だって本当のところ何が起こったのか知らないのだ。あのろくでなしは秘密主義だった。そうして不器用に私たちを守っていた。
「働きに出るの?」とケイトさんは言った。「そうしないわけにはいかないもの。若くはないけど、まだ歳ってほどでもないから、選ばなければ仕事はあるわ」私もとうとうその手の、女性がいずれ生活のために就かずにはいられない仕事をする時期に来たのだと思った。ケイトさんはいつもの、穏やかなほほえみを絶やさない。「私もできることは手伝うから、いつでも言ってね。マーサさんもきっと親切にしてくださるわ」「そうね」これからそうしてたくさんの人に頼って生きていかねばならない。適切な距離感を測り続けるような夫との生活にも疲れたけれど、この先、私はそれとは違うかたちで消耗していくのだろう。
「でもねドリイ。きっとよくなっていくわ」ケイトさんは私の手に触れた。彼女に言われると、本当にそうなるような気にさせられる。私はうなずいた。
 チャーリーの説得は大変だった。「ねえ、パパはどこに行ったの?」とチャーリーは言った。父親に似た、赤みがかった髪の毛を見ると、私はこの子を抱きしめないわけにはいかなかった。「もう帰ってこない」と伝えるために、ずいぶん多くの言葉を尽くさねばならなかった。あなたの父親は自分の天性に逆らえなかったの。人は誰でも多かれ少なかれそういうところがあるのよ。私たちは万能でもなければ平等でもなくて、ただ、人生の中で訪れるいくつかのことに対し、自分なりの行動を起こして、それがうまくいくかどうか見守るほかないのよ。あなたの父親はそれに失敗してしまったの。そう言ってみたところで、まだ四歳のチャーリーが分かってくれるはずもなかった。あと十何年かして年頃の少年になって、私を心底困らせるようになれば、その頃にはこの子も少しは分かってくれるかもしれない。
「パパは帰ってこないんだ」チャーリーは最後に何とかそれだけ飲みこんで、嫌いなにんじんを食べたあとのように、ぐずって泣いた。かわいい顔が涙と鼻水でぐしょぐしょになる。そこではじめて、私も泣きそうになった。あの人に対してはお皿を投げつけたい気持ちしか起きないけれど、それでもこの子にはあの人が必要だったのだ。しかしもう帰ってこない。

 人生で何番目かの衝撃を受けた月曜日から一週間のうちに、私はずいぶん動き回った。世話好きのマーサさんに事情を説明し、私が仕事を探して回る間、チャーリーの面倒を見てもらうようお願いした。マーサさんはこころよく引き受けてくれた。そして私は街中を歩き回り、三丁目のパン屋でパートタイムの働き口を見つけた。それからよそ行きの洋服をすべて処分してしまった。いわば決意表明、儀式のようなものだ。かつてはこれを着て近所の奥様とお茶を楽しんだこともあった。まだ新婚で、夫に飽きることはなく、人生が輝いていた頃だ。しかしもう、そんな風に過ごすことのできる優雅な時間は終わったのだ。不思議なことだが、悲しくはなかった。
 しかし、あのろくでなしのブライアンのことを思い出すと、毎晩のように怒りがこみ上げてきて、一度なんて過呼吸になってしまった。マーサさんが「落ち着いて。はいゆっくり呼吸しなさいね。ほら、紙袋をあてて」と助けてくれたからよかったものの。
「男はみんなそんなもんさ。何もあんた一人だけ不幸な目にあってるわけじゃない。そりゃ分かっているだろう?」ある日、自宅で焼いたレモン・クッキーを持ってきたマーサさんは言った。慣れないパートから帰って疲れきっていた私は、チャーリーがクッキーを頬張る姿に安堵しながら、うなずいた。紅茶の湯気が、新しい生活における煩雑なものごとをすべて拭ってくれるかのようだった。「それにあんたはずいぶん気丈にやっているよ。同じ目にあったとき、すっかりまいっちまって動けない女だってたくさんいるのさ。いつだって現実的な問題は最後にあたしらのところへ回ってくるだろう? だからみんなで肩寄せ合って、仲良くやってかないことにはね」マーサさんは私よりずっと年上で、体格と人柄のいい女性だ。人情にあふれていて、若い人のように冷たくない。私とブライアンがこの地に住むようになってからのつきあいだ。私は彼女がとても好きだった。「これから、私がちゃんとこの子を育てていけるか不安になります」「なに、あんたみたいな人は昔っからいたのさ。だから大丈夫。こういう境遇の子たちがやっていけないようじゃ、世の中本当に終わりだよ。あたしゃそんな国に住みたくないね。ほらチャーリー、かくれんぼして遊ばないかい」マーサさんは、私よりよほどチャーリーのあつかいが上手だった。
 マーサさんがうちにいる間はよかった。しかし彼女が帰ってしまうと、チャーリーはしばしばブライアンを求めてわがままを言った。父親がいなくなって、息子は余計に彼の存在を求めるようになった。「どういうことかしらね」そう思わずにいられない。それは困ったことで、私をしょっちゅうわずらわせた。チャーリーは癇癪を起こすときまってこう言うのだ。「ねえママ! パパを呼びにいってよ! どこにいるかほんとは知ってるんでしょ」私は幼い魂をあやしにかかる。「チャーリー、聞いて。本当に分からないのよ。パパは私たちを置いてどっかに行っちゃったんだから」「うそつかないでよ!」「うそじゃないわ。信じて、お願いよ」チャーリーは、昔あの人に買ってもらったおもちゃを抱え、しょっちゅう泣いた。そんな時に私ができることといえば、チャーリーを抱きしめることくらいだ。そして、まるで自分に言い聞かせるようにしてこう言うのだ。「悪いこともきっと過ぎさっていくわ」果たして本当にそうだろうか、と思いながら。
 夫なしの生活は私に想像以上の多大な献身を要求した。信心深くない私には、自己犠牲という立派な心を持つことは難しい。ただ耐えるしかなかったのだ。当然のように月々の収入は激減し、私は嗜好品をいっさい買えなかった。それだけならまだいいが、食費も切り詰めなくてはならなかった。わびしいメニューを出すたび、チャーリーは膨れ上がった。「みんなママのせいだ!」そういって息子はまた泣いた。私が怒りの矛先を向ける相手はどこにもいなかった。これまでなら夫に、チャーリーが言うようなわがままと甘えをぶつければよかったのに。まるでそんな、自由であることに無自覚な日々の清算をさせられているような気分だった。
 ただひとつ救いだったのは、私たち親子にとって本当に大きな助けになったのは、近所の人々がみな私やチャーリーにやさしくしてくれたことだ。「気の毒にねえ。ほら、コッテージパイを作ったんだ。持っていきなさい」ユーリおばあさんはよくチャーリーと話をしてくれたし、料理をおすそわけしてくれた。他にも自転車屋のテッカ兄弟などは、チャーリーに小型の自転車までプレゼントしてくれた。チャーリーは大喜びで、はやく補助輪なしで乗れるようになりたいと言っている。
 ケイトさんもたびたび家に来てくれた。彼女は私にとって親戚の姉のような存在だった。よく町で買い物をしてきてくれたし、おいしい料理をつくってくれた。彼女のビーフシチューは絶品で、チャーリーの好物になった。「実を言うと、私も結婚していたことがあったのよ」と彼女は言った。私はずっと彼女が独身だと思っていたので驚いた。「あなたの旦那さんよりずっとひどい男だったわ。なぜつきあって、結婚したのか思い出せないけれどね。子どもがいなかったからまだよかったものの、あの人とそういうことになっていたらと思うとぞっとするわ」その話をする間、ケイトさんは歳相応の表情を浮かべた。日頃は綺麗な人なのに。私は彼女の一面しか知らなかったということだろう。「だからあなたは不幸ということでもない。私にしてもそう。こういうのって意志とは別のところで起きるものなのかもしれないわね。誰でも何かしらそういうものに突き当たるのかもしれない」
 パートとして働く間、私はついぼうっとしてしまうことがあった。パン屋に菓子パンを買いに来る女子学生などを見る時など、いつの間に私はここまできたのだろうと思うのだ。ほんの少し前まで、私もまた彼女たちと同じように、何もかもから自由に解き放たれていた気がする。その頃には自分が結婚し、子どもをつくり、夫に逃げられ、パン屋で働くなどと夢にも思わなかった。でもそれは本当に起こったことなのだ。きっとこれからもそうしたことがいくつもある。そんな風に考えていると、決まって何かミスをした。ひどい時など、焼きたてのパンを乗せたトレーをまるごとひっくり返してしまった。店長はそこまで優しい人ではなかったから、その分は給料から引かれてしまった。

     

 そうして私は新しい生活を始めた。以前より幸福とも不幸とも呼ぶことができる。チャーリーはブライアンがいないことをよく思い出したし、今でも淋しそうにすることがある。そのたび私は息子を抱きしめて、そっと言葉をかける。「悪い夢が終わりますように。世界中に平和な日が訪れますように」
 寝つけない夜があった。夜中に突然目を覚まし、こう思う。私のいる場所は闇以外の何物でもない。ほんの少し気を緩めてしまうと、何もかもがほころんでだめになってしまう。何かに追い立てられるような、反対に、まるで力がかかっていないような不安が全身を満たす。私はそこで、ブライアンにどれだけ守られていたのかををようやく知った。そして、月明かりの窓辺で泣いた。もう二度と、誰も助けてくれない気がしたのだ。じっさいのところはむしろ、ずいぶん多くの人に助けられていた。あの後もずっと、近所のユーリおばあさんや、手品師のコーディさん、書店のマークさんなど、チャーリーを喜ばせるために、多くの人が色々なことをしてくれている。
 しかし、それでももうブライアンはどこにもいなかった。あの、いつも場当たり的にふざけて笑い、現実的な問題に直面するたびにごまかし、ほかの女の子が好きで、そのくせ都合のいいときだけ私に愛しているといい、仕事は無能、いつもふらふらで、年に二回は病院の世話になる、いつも憂鬱なのに「大丈夫さ」などと言う、抱きしめられてもちっとも安心できない、心がどこか別の場所にある、ロマンチストの、禿げてきている、飽きっぽい、あの憎めない、子どものような、喧嘩のできない、好きなものだけを好きな、理想主義の、ばかばかしい、まっすぐ歩けない、それでも私たちを懸命に守ろうとした、失敗してとうとう限界を超えてしまった、頼りない、それでも大好きなあの人に、私とチャーリーはたしかに守られていたのだ。そして、彼はもう戻ってこない。
「きっとずいぶん色々なことに引っぱりまわされたんだわ」私は言った。どこかで必ずこんな風になるだろうとは思っていた。あの人はそうやって生きることしかできないから。だいたい、プロポーズだって私からしたのだ。「あなたから言ったことにしなさいな」とすすめて。あんな人、私以外の誰とまともに結婚できるというのだろう? それを思い出したら、涙が笑いに変わってしまった。ほんとうにだめな人だ。でも私の夫で、チャーリーの父親だ。
 夜空に小さな星が輝いていた。あの人はよくでたらめな名前をつけてそれを私に紹介した。あの頃、私たちは恋人同士だった。今にして思えば本当に短い時間だったけれど、それは当時の二人には永遠のように思えた時間でもある。

 結局、ブライアンは二度と連絡をよこすこともなければ、姿を現すことも、消息の噂すら流れやしなかった。それはどこかで彼が生きていることの証だと受け止めた。日に日に育っていくチャーリーを見ていると、私はすべてを許すことができた。彼の臆病な気質や、男らしさのまるでないところなど、そっくりチャーリーにも受け継がれている。それはきっとこの先チャーリーを苦しめるだろう。今は無邪気に走り回ったりしているけれど、やがてそうはいかなくなる。あの人にしたってそうだ。何とか自分を大人にしようとしていたのだと思う。チャーリーに気に入られようとあの手この手で調子を取っても、全然相手にされなかったあの人。それなのに、いなくなってからあんなに必要とされるなんてこと。彼は想像してみただろうか?
 数ヶ月が過ぎるうち、チャーリーはもうめったやたらに「パパを連れてきて!」とは言わなくなった。きっと子どもなりに自分を納得させたのだろう。この子はあの人と違って、多少は賢いところがあるから。
「ドリイ。あなたこの何ヶ月かでずいぶん綺麗になったわ」ながい冬を越え、春の光が庭の植物に届く頃、ケイトさんが私にそう言った。
「そうかしら」
「ええ。自分では気がついていないのね。だからかもしれない」それからケイトさんは庭に舞い降りた小鳥を眺める。
「色々なものに引っぱりまわされたせいね」彼女は言う。その言葉を聞いた私は、知らない間に笑っていたらしい。チャーリーがこちらを向いた。「ママ、何かいいことでもあったの?」
「そうね。そうかもしれないわ」

 〈了〉

       

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