Neetel Inside 文芸新都
表紙

「行ってきます」
序章 “旅人の雲隠れ”~とあるフリーライターの取材風景~

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 俺はこうして空を見上げる時、どこか遠くの世界へと“旅”に出たナオのことを思うのだ。

 とある日曜日の昼下がり。出先のマクドナルドで昼食を摂っていた俺はふと、窓の向こう側に広がる青空を見上げた。フリーライターをやっている俺が先ほどから目を通していた、取材用のメモ帳に記してあった“旅”という単語に、思いもよらずナオの姿が脳裏に浮かんだからだ。
 こうして青空を見上げる度に、俺はいつもその最果てまで見渡せないものかと思うのだ。この青空のはるか向こう側には、ひょっとしたらナオが旅する“世界”があるかもしれないからだ。
 長い置き手紙を残し、ナオが俺の前から姿を消して“旅”に出てからもう一年は経つ。
 ナオは今でも、どこか俺の知らない世界にいるのだろうか。とうとう俺が知ることの出来なかった、彼女の抱えていた苦しみから解き放つ“宿願”を叶えるための旅路を歩んでいるのだろうか。
 生きていて欲しいと切に願う。健やかならばなおいいが、どこかで生きていてくれているというだけでも十分過ぎる。そして叶うことなら、例え何十年もの時が経とうとも、もう一度ナオに会えるようにとも願うのだ。
 わざわざ言うまでもないことなのだろうが、俺は真剣にナオのことを愛していた。
 洗礼されすぎているくらいに静謐かつ知的な物腰はどことなく現実離れしている印象をすら与えながら、時折見せる朗らかな笑顔と透き通るような声色の笑い声は、それだけで俺の心を溶かした。
 どちらかと言えば捻くれていて、滅多なことでは他人を信用しない俺ではあったが、それでもナオの前では、例え十年来の友人にも言えないようなことも不思議と素直に話せたのだ。ナオもそんな俺の話を控えめに、しかし真摯に耳を傾けてくれた。
 ――トウヤくんは、やさしい人ね。
 十年来の友人にも言えないような俺の話は、決して聞く人を愉快な気分にはしないものだっただろう。しかしそれでもナオは、そんな俺の話を聞き終える度に、必ずやさしい笑顔と共にそう言ってくれたのだ。これに限らず、ナオの言葉によってどれだけ救われたかは数える気にもならないほどだ。色んな意味で褒められた人間じゃない俺にとっては、ナオは本当にもったいなさすぎる程にかけがえのない女性だったのだ。
 俺はただ、もう一度その声を聞き、その笑顔を見たい。そしてそんなナオのことをやさしく抱きしめて「ありがとう」と伝え、「愛してる」と伝えたいのだ。
 俺に温かな感情を抱かせてくれたナオという存在は、彼女の方でも手紙の中で書いてくれたように、まるで一つの奇跡なのだ。
 そして同時に、そんなナオのことを今度こそは守りたいと思うのだ。
 傍目には近寄り難い印象を与えるナオの雰囲気には、どうしても名状しがたい何かを抱えていて、それによって大いに苦しんでいることに由来していることくらいは察していた。だから俺としても、なんとかしてその苦しみを取り除きたいとは思っていたのだ。しかし結論から言えば、俺はナオの抱える苦しみにあまりにも無力だった。俺はナオの苦しみを取り除けないばかりか、その正体の片鱗を掴むことすら出来なかったのだ。俺との会話の中で、ナオは俺にその苦しみを打ち明けようとしてくれたこと自体は何度もあった。しかし、その度にナオはそれを言葉にすることに苦しみぬき、ナオの言葉が意味を持つことはついになかった。
 そしてナオは一年前、とうとう俺の前から姿を消すこととなったのだ。俺が手も足も出なかったナオの問題、その全てを片付ける“宿願”を果たす“旅”に出るために。
 もし今度こそという機会があるのならば、俺は今度こそナオのことを守りたいと願う。
 例えナオが俺のことを愛せなくとも、ナオの抱える苦しみがどんなに残酷なものであろうとも、その今度こそのために地獄に堕ちることになろうとも――何があろうとも俺だけはナオのそばに寄り添い、この身の全霊を捧げてでもナオの苦しみから守り抜くのである。
 何故ならナオは、俺が愛した女性だから。恐らくこれから先、ナオ以上に愛すべき人が現れないことを分かっているから。
 ナオに会いたい――抱きしめたい。
 俺の夢の中には、今でもナオの姿が現れる。ナオはいつでもこちらに微笑みかけていて、俺は泣きそうになりながら手を伸ばすのだが、その手が届いたことはついに一度もない。
 目を覚ますたびに俺はその夢のことを思い、泣きはしないが締め付けられるような胸を押え、今にも絶えてしまいそうな思いで(いっそのことこのまま絶えてしまえばいいのにとも思うことも少なくはない)発作のような荒々しい呼吸をすることになるのだ。
 それがもう一年は続いている。
 そしてこれからも続くことになるのだろう。
 ナオが俺の知らない世界で旅を続けている間は、永遠に。

 そこまで思いを馳せたところで、俺は実に自分らしからぬセンチメンタルを苦笑する。ナオがいなくなってからもう一年が経ち、彼女が永遠に帰らないことを理解していてもこのザマである。俺はますます苦笑いを深めた。
 感傷の時間は終わりだ。実際の時間を生きよう。そう自分に言い聞かせて、俺は再びメモ帳に目を通し始めた。

 ――まずは、ごめんなさい。恐らくあなたはこれから私の書くことにとても傷つくことになるかと思います。
 そんな書き出しの手紙を残してナオが姿を消したのは、先述した通り今からおよそ一年前のことだ。少なくとも表面的にはなんの前触れもない、あまりにも唐突で理不尽すぎる雲隠れだった。その日から今日までナオが俺の前に姿を現したことは一度もなく、手紙にも書いてある通りその機会は永遠に訪れないのだろうとも思っている。
 はっきり言ってしまえば、その手紙の内容は荒唐無稽以外の何物でもなかった。
 ナオがかねてより抱えている苦しみから救済してくれる“宿願”を果たすため、ここではない別の世界へと“旅”に出る。その世界にはRPGのようなおぞましい化物がうようよといて、一度旅に出たらほぼ生きて帰れない。それを分かっていてもなお旅に出てなくてはらなず、果たされることのない“宿願”を思いながら惨たらしく死ぬことこそが、彼女の罪に対する罰である。
 こうして要点を書き出してみると、呆れるくらいにその荒唐無稽振りが明確になるものだ。こんな手紙の全てを真に受けるような奴がいるなら、是非ともその御尊顔を拝みたい。
 そういう俺はと言えば、不吉な予感に背筋を凍らせると共に手紙を隈なく目を通し、筆舌に尽くしがたい絶望感に襲われたのだった。
 今さら言うまでもないことなのだろうが、この出来事は俺の心を深く傷つけることとなった。決して平坦ではなかった今日までの日々を生きてきて俺ではあるが、これほどまでに圧倒的な絶望を他には知らない。
 ナオが消えてから一ヶ月は何もする気になれず、アルコール浸りの淀んですえた世界に逃げ込んだものだった。それから仕事は再開したものの、少なくとも半年間は最低な生活を送るのが精一杯な有様だった。この半年間でフリーライターとしての俺の信頼は失墜し、大切な者を失った不甲斐なさを執拗なまでに責め抜いた。ナオのことは死んでも忘れるつもりはないが、ナオがいなくなった日に感じた絶望感とそれから半年の惨めな生活のことは死んでも思い出したくはないのだ。
 そんな俺が、よりにもよってこの“失踪事件”――“都市伝説”を取材することになるとは実に皮肉なものだと思う。
 もっとも、その都市伝説の当事者に自分の恋人がいる俺は、確かに適任と言えば適任と言えるのだろう。業界内では腕の立つ嫌われ者としてちょっとした有名人だった俺が、心を傾けていた恋人に“逃げられ”たショックで見る影もなく落ちぶれたという噂話は、例の半年間の中で山火事のような勢いで広まっていたのである。
“旅人の雲隠れ”――さらに俗っぽいネット上のコミュニティの間では“リアル異世界召喚ファンタジー”などと騒がれたりもしている――ワイドショーを席巻したりはしていないが、ネット上ではすっかり知らない者がいなくなったと言ってもいいその都市伝説。
 早い話が、ナオのようなことを言い残したり書き残したりして“旅に出た”人間――オーソドックスな“旅人”という呼称以外にも、ネット上の俗っぽいコミュニティの中では“勇者”“召喚獣”などと揶揄されたりもしている――がここ数年でただごとじゃないほどに現れて来ている、というものだ。
 この都市伝説を“事件”として追いかける警察や探偵の頭を悩ませるのが、何よりも失踪者の人的・地域的関連性のなさである。
 若者が中心ではあるが、失踪者の年齢層は十代から六十代までと幅広く、失踪者同士の関連性・共通性もほぼ絶無。さらに失踪者が姿を消した地もバラバラで、一番極端なものになると、同日に宮城県と福岡県でそれぞれ四十代の会社員と十代の高校生がほぼ同じような内容の書き置きを残して姿を消した、という事例が存在している始末だ。
 さらに驚くべきなのは、日本だけでなく世界でもその事例が多数報告されていることだ。各国ごとに細かい内容の違いこそはあるが、その案件数は報告されているだけでも世界でもおよそ五千件――日本国内に限ってもその数は五百にも及んでいる。さらに言えばこれらの数値は内容の虚偽が明らかなものを抜かしたものであり、イタズラ目的のものやこの都市伝説になぞらえて失踪や自殺をした者を含めるとその数倍にも及ぶ。そして――例えば誰にも書き残したり言い残したりしたりしないで姿を消すなどして――報告されていないものを含めれば、さらにその倍の数は見込めるだろうとすら言われている。
 ただの偶然として片づけるには余りにも不可解で、かといって真っ向から事件として扱うには余りにも大規模かつ現実味がない。
 よって、事実上警察が匙を投げたこの“旅人の雲隠れ”が、“都市伝説”として騒がれるばかりになったのは必然と言えるだろう。
 そして、俺が三流雑誌からの依頼で、都市伝説特集の目玉記事として“旅人の雲隠れ”を執筆することになったのも、一つの必然と言えるのだろうか。きっとそうなんだろうと無理やり納得することにしていた。

 昼食を済ませた俺は、仕事用のスクーターを走らせて取材先へと向かう。初夏の気配が漂い始めた陽気とは裏腹に、イマイチ気分は晴れない。先ほどから、ナオが悲しそうにこちらを見つめる姿が脳裏にちらつく。俺だって好きでこんなことをやってるんじゃないんだ。いくらそう思っても、ナオは毫ほども表情を和らげてはくれなかった。
 東京都足立区の外れにある住宅街のアパートの一角。そこに今回の取材先である大月夫妻の住まいがある。この夫妻も“旅人”となった息子を持つ身で、大体の“旅人”の肉親や親友がそうであるように、今回の取材にこぎつけるまで大分骨を折った。ナオの例を挙げるまでもなく、手紙に書き置いて“旅”に出るような奴にはそれ相応の複雑な事情がある場合がうんざりするくらいに多い。
 しばらく大通りを走り、やがて目的地付近に辿り着くと、そこにはイマイチパッとしない感じの街並みが広がっていた。年季の入ったアパートや団地が無機質に広がっていているその一体は、総じて物寂しさを感じさせる。
「確か、事件があった直後に引っ越したんだったっけか?」
 スクーターを駐輪場に停めた俺は、目の前の古びたアパートを見上げながら呟く。
 調べたところ、大月夫妻の息子が“旅”に出る以前は北区に一軒家を構えていたようだ。しかし、息子が失踪したことによるショックと、息子に関する謂れのない噂話(“旅”に出るような奴にはそれ相応の複雑な事情があるのが常だ)が蔓延したことに母親が耐え切れなくなり、一軒家を引き払ったそうだ。
 向こうが承諾したとは言えども、三年前に“旅”に出た息子とのことを穿り返し、それを“都市伝説”の特集記事として取り上げようとしている自分という人間。
 そして、その“都市伝説”の当事者に恋人がいて、そのことで傷ついた過去を持つはずの自分という人間。
 ――トウヤくんは、やさしい人ね。
 やれやれ。
 俺はため息をつきながら、気だるく大月夫妻の部屋へと向かった。

       

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