Neetel Inside 文芸新都
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 すぐ近くから俺を呼ぶ声が聞こえて来る。
 善意などみじんも感じられない、明らかに対象を嘲ることを目的とした声色だ。
 俺はパジャマ姿で机の上に突っ伏し、浅い眠りについていた。眠った振りをしていたら本当に少しだけまどろんでいた、そんな感じの眠りだった。
 俺はこれが夢であることを理解した。
「おい、うじゆきっ!」
 夢の中くらい、いじめっ子に突っかかればいいのに。それでも俺は現実と同じように、オズオズと脅えながら顔を上げる。
 そこには案の定、男子クラスメイト達が立っていた。表情が全く分からない人形の集団。それがそびえ立つようにして俺の周りを取り囲む。俺は反射的に視線を下に逸らした。
「なっ、なに?」
「オレたちヒマなんだよー! いつもみたいにいっしょにあそんでくれよ、なー?」
 神経の特別にデリケートな部分を、ビニールで突いてくるかのような笑い声。それが複数、四方から無遠慮に飛んでくる。俺は身を縮めてガタガタと震えてただひたすらに恐怖し、ただ彼らが今すぐにここから消えてなくなってくれることを祈った。実際、夢の中なら望んだ途端に消えてくれてもいいようなものだが、いくら強く望んでも彼らは全く霞みもしなかった。
 その代わり、気がつけば俺は教壇の上に立っていた。そこから俺を取り囲む生徒たちの姿を見た瞬間、これから一体何をされるのかを悟る。胃が雑巾に絞られるような、キュウっとした痛みを訴える。
「おーいみんな! 今日もうじゆきの世界一受けたい授業がはじまるぜー!」
 先ほどの数百倍の存在感を伴った嘲笑が矢のように飛んでくる。檻に閉じ込めた珍獣を見るかのような、遠巻きで無遠慮な視線をぶつけてくるクラスメイトという名の人形、人形、人形。俺の歯はカチカチと無様なダンスを踊り、目からは涙が出そうになっていた。
 ――うっじゆき! うっじゆき! うっじゆき! うっじゆき!
 俺が震えながら立ち尽くしている間にも嘲りの声は高まり、俺が滑稽を晒すのを催促する手拍子は強くなっていく。
 主犯格の一人がニヤリと笑う。その次の瞬間、俺の顔面に向かって何か丸くて白いものを投げつけてきた。短い悲鳴を挙げながら反射的に避けると、ビチャっという妙に水っぽい音と共に背後の黒板へと叩き付けられた。
 果たして、投げつけられたものはたまごアイスだった。アイスの中身は黒板にぶちまけられ、深緑色の平面はバニラアイスの白色で暴力的に彩られていた。
「はい、じゃあ今日のジュギョーは、“黒板にぶちまけられたアイスはどんな味がするか”でーす! はくしゅー!」
 悪夢のような拍手喝采。訳の分からない人形たちが訳の分からない感情を剥き出しにして喜び猛る。そしてまた気がついた時には人形たちに全身を押さえつけられていた。逃げ出せないように全身を押さえつけられ、髪の毛は主犯格によって引っ張られる。得体の知れない怪物の舌に絡め取られたかのような気分だった。
「はいせんせー、めしあがれっと!」
 一度助走をつけるに俺の頭をスッと後ろに引いた後、主犯格は俺の顔面を思い切りアイスに打ち付けた。俺の右頬に冷たく粘っこく甘ったるく臭うバニラアイスの感触が襲う。
「うっわ、きったねー!」
 爆発的な嘲笑が耳朶を叩く。人形たちの笑い声は、ただそれだけ目の粗いノコギリのように俺の心を痛めつけるのだ。
「おら、さっさとなめろよきたねーな!」
 主犯格が無理やりに俺の口をこじ開けてアイスを舐めさせる。ハトの糞のようなバニラが強制的に舌に触れ、微かに残るチョークの粉の食感も感じた。
 目の前が真っ暗になり、そしてまた気がついた時には体育館の倉庫の中にいた。
 明かりの付かない、薄暗く薄汚れたかび臭い空間。即座に予感した通り、外に出ようとしてもドアは全くビクともしなかった。外からはケタケタと嘲笑が聞こえてくる。それは耳を澄まして確かめるまでもなく人形たちのそれだった。

 ――ホンットうじゆきってクソおもしれーよなー! 何やってもちっともていこーしねーんだもんな!
 ――そーそー、あいつオレたちに声かけられるだけでマジびびってやんの! だからうじゆきトーバツは止めらんねーんだよ!
 ――うじゆきマジうじゆき! つーかあいつ、ベンキョーとウンドウがあんだけ出来てもあのセーカクとか、マジ人生つんでるだろ!

 ひたすらに続く嘲笑。キリキリと痛む胃に、湧き出る冷や汗。
 しかし、俺が何かを言われることそれ自体に何かを感じるということはなかった。暴言にはすっかり慣れていたこともあって、彼らの一言一言の具体的な内容が俺の心に傷を作ることはなかった。最も、自分自身が貶められることに慣れるという精神状態そのものが、心に深い傷を負ったことを表してるのかも知れない。
 ただ一つだけ、その攻撃を加えてくる対象が人形たちであるという事実だけは、心の底から恐ろしさを感じていた。
 感情の一切分からない人形集団が、無表情のままに嘲笑ったり怒り出したりしつつ、俺のことを責め立てる。だから俺は、そんな人形たちに囲まれるたびに、正気を失いそうになるほどの恐怖を感じるのだ。

 ――お前、ホンットにいつも大島にべったりくっついてるよなー!
 ――つーかあいつブスじゃね? いちいち大きい声だしたりムダにがんばったり、見ててうざってーんだよな!
 ――さいきんあいつの笑ってるところ見ると、身体にうじがわいてくるんだよなー!

 やがて人形たちの悪罵は別の方向へと向かっていく。つまり、俺にいつも優しく付き添ってくれた晴香の方へと。
 瞬間、全身を突き破らんとばかりの怒りが広がる。可能であれば、今すぐに俺のことを閉じ込める倉庫の鉄扉を引きちぎり、返す刀で奴らのことも八つ裂きにしてやりたかった。
 しかし、同時に俺の背中にべったりと張り付くのは、無表情に嘲笑う人形たちの影だった。その人形の集団を連想するたびに、俺の怒りは瞬時に凍りつき、ただ無機物に取り囲まれる恐怖に心が染まりきってしまうのだ。
 掛け替えのない存在である晴香が、人形たちの嘲りによって貶められていく。天地がひっくり返ろうとも許しがたい行為であるにも関わらず、俺は何も出来ずに震えるばかり。
 全身から血が噴き出そうになるくらいの悔しさ。にも関わらず何も出来ない俺自身が本当に嫌になり、俺はその場で情けなく泣き崩れた。

 ――ごめんね……今までホントに、ごめんね。

 俺は逃げ出したかった。進むことも留まることも出来ずにいた俺は、ただ部屋の中に逃げ出したかった。
 怖かった。この世界は何もかもが怖かった。表情のない悪意が俺の身に降りかかるのが怖かった、表情のある善意が表情のない悪意に裏返る想像が怖かった。
 この世に存在する人形たちは、結局のところ全てが敵なのだった。

 ――この、出来損ないが! お前みたいな馬鹿は俺の息子なんかじゃない!

 かつて、俺がこんな風になってきっかけは何だったかと思い返した時、真っ先に頭に思い浮かぶのはあの出来事だ。
 小学一年生の頃の話。今となってはもう、これといって言うこともない出来事だ。
 その日、友人から借りていたスティックのりを壊したのだ。当時液体のりを使っていたために使い勝手が分からず、のりの部分を出しすぎて元に戻らなくなってしまったのである。
 本当に、今思い返すと呆れ返るくらいに下らない出来事。しかし、小学校一年生だった時の俺と友人にとってそれは、友情を引き裂きかねないくらいに重大な事件だった。
 確か、俺が下らない言い訳をしたんだったと思う。余りにも下らなすぎて内容は良く覚えていない。ただ、悪いことをしたのなら素直に謝らなければならないという、至って常識的な教訓がそこにあるだけだ。
 とにかく、俺の何かしらの言動が友人の気に著しく触り、瞬く間に大喧嘩――一方的に俺が手酷い言葉でなぶられ続ける大虐殺に発展した。
 結局、その友人とは絶交になった。
 確か俺へのイジメにも加わっていたはずだが、今となっては顔も名前も覚えていない。
 そこまではまだ良かった。そのショックを引きずり、泣きべそになりながら下校道をトボトボと歩いていた、そこまでは。
 その日の夕食の席。友人との絶交のことを引きずっていた俺は、ひたすら母親に泣き言を垂れ流していた。
 母親は苦笑いを浮かべながらもちゃんと聞いてくれていたが、父親の方はこちらに見向きもせずに、見るからに不機嫌そうな仏頂面で夕食を食べていた。故意か無意識か、父親のたてる食器のガチャ! という音が身の毛がよだつほどに暴力的で、母親の言葉を聞きながら嫌でもそちらに意識が言ってしまった。
 先にフォローしておくと、現在の父親はごく普通に、至って真っ当な意味で良い父親である。人並に、親に対して向ける感謝の気持ちを父親に対して持っているつもりだ。
 しかしこの頃の俺にとって、父親とは絶望的なまでに強大な石像の怪物だった。
 致命的な出来事は、俺が味噌汁をお代わりしようとした時に起こる。
 母親の「私がよそって来るわよ」という言葉も聞かずに、ふらふらと味噌汁をお椀によそう。友人との絶交のことしか頭になかった俺の手つきはフラフラと覚束ないもので、傍から見たらとんでもなく危うく見えたことだろう。
 そして自分の席へと戻ろうとしたその時、俺はコンセントにつまずいて派手にすっころんでしまったのだ。
 ――しまった!
 強かに打った身体に鈍い痛覚を覚える間もなく、床に出来上がった味噌汁の水溜りを前にして、俺は頭が真っ白になった。
 ――ガタッ!
 ところで俺は、決して人には言わないが、今でも乱暴に椅子を引く音が嫌いだったりする。
 この音を聞くたびにこれから起こることを無意識に思い出してしまうからだ。
 ゆっくりとこちらに近寄る父。棒立ちでそれを見つめる俺。母はその様子を、ただ何も出来ずに見つめていた。
 破裂音。
 空気を引き裂くような高音が鳴り響き、俺は右の頬に受けた衝撃のままに吹き飛んだ。
 床に投げ出され、呆然と見上げる先には父が立つ。立って見下ろす父と、倒れて見上げる子。父の表情は、さながら悪鬼を模した仮面のようだった。
 俺はこの日、始めて父親から体罰を受けた。
「……何なんだお前は?」
 孕む怒りに対し、余りにも静かすぎる父の声。
「下らない喧嘩ごときで食事の席でまでメソメソと泣き続けて俺の気分を害し、まるで脅えるように俺のことをチラチラと情けない目で見て、挙句の果てにお前の不注意で食べ物をぶちまける……しかも、俺の服まで汚しやがった」
 父の寝巻には確かに、薄茶色の味噌汁が付着していた。
 俺は既に涙を流していた。涙を流しながら、何かを拒否するように首を左右に振り続ける。
「ご……ごめんなさ――」
 言葉の途中、俺は髪の毛を強い力で引っ張られた。とても強引に、俺の眼と父の眼とが正面からぶつかる。
「最初から謝るくらいなら何故こんな愚かなことをするんだっ! お前は自分のやっていることの良し悪しすら判断出来ない馬鹿なのかっ! 俺はこんなにも働き、働き、働いているというのに、お前は醜く喚きながら涙を流して、一体何でここまで無神経でいられるんだ! 少しは俺の気持ちを考えたことがあるのか!」
 今の俺なら、例えこの事を完全には許せずとも、何故父がここまで怒っていたのかを理解することは出来る。
 要するに、この頃の父はとんでもなく疲れていたのだ。
 真面目すぎる性格が祟って出世レースに出遅れ、仕事の量は刻々と増えていき、会社の業績も伸び悩んでいた。それこそ、家族に目を向けるだけの精神的余裕が完全に消えてなくなる程度には。
 ちなみにこの出来事がきっかけで、父と母の仲は数年間、それこそ真剣に離婚を考える程度にはどん底まで悪化していくこととなる。

 ――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。

 しかしこの頃の俺は当然そんなことなど知るよしもなく、ただただ無分別に涙を流し続けた。いつしか俺の心は、父への恐怖から、自分の愚かさの懺悔に塗りつぶされていた。
「この、出来損ないが! お前みたいな馬鹿は俺の息子なんかじゃない!」
「あなたあっ!」
 母が怒声を上げて立ち上がると、父親へと思い切り平手を放った。
 再び響く破裂音。激しい怒りの表情に染まる母と、それを静かな怒りの表情で見返す父。
 ――ああ、まるでカイジュウとカイジュウがたたかってる見たいだなあ。
 逃避の心理でボンヤリと思う。
 人間じゃない二人の戦い――ボクの親なのに、人間じゃない、まるでウルトラマンの怪獣のような、人形同士の。
「あなた……自分が何を言ってるか分かってるの? 自分の息子に向かって、あんな、あんなことを……!」
「……お前もか? お前も理解してくれないのか、緑? 俺はお前らの為に、働き働き働き働き働いていると言うのに……何で俺のことをそんな目で――!」
 俺が聞こえたのはここまでだった。
 何故なら俺の視界は少しずつ白く塗りつぶされて、完全に意識を失ったからだ。

 それからしばらくして意識を取り戻した俺は、放心したように天井を見つめる。
 水の滴る音が聞こえたので首を横に向けると、そこでは母がタオルを絞っていた。
 彼女の顔は、人形のそれへと変容していた。
 母。彼女を人形として見てしまうと、もう何もかもが駄目だった。父も人形になり、教師も、生徒も、教師も、近所の住民も、赤の他人も。一人残らず上書きされていくように人形となってゆき、やがて俺は一人ぼっちになった。

 ――おーい! てるくーん、おはよー! いっしょにがっこーにいこー!

 この広すぎる人形たちの世界の中で、唯一人間であり続けてくれたのが晴香だった。
 布団の中で脅える俺のことをいつも優しく引っ張り出してくれて、俺と一緒にこの人形たちの世界を歩いてくれた、守ってくれた。俺にとって、掛けがえのない大切な人
 しかし、彼女はもういない。何故なら俺が、拒絶してしまったから。人形たちが怖くて、晴香が――その善意の重みが恐ろしくて、こうしてどこにも行きつくことない布団の中に閉じこもってしまったのだからら。
 だから、俺の脳裏に浮かぶのは、今この瞬間も晴香の微笑みだった。
 深く傷つきながらも、それでもなお「ごめんね」と呟きながら無理やり作って見せる笑顔。

 ――ごめんね……今までホントに、ごめんね。

「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 だから俺は夢の中でも謝り続けた。しかしその言葉は誰にも聞こえることなく、ただ倉庫の中で木霊し続けた。
 倉庫の外からは、相変わらず人形たちの笑い声が聞こえてきた。

       

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