Neetel Inside 文芸新都
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 たまに、晴香との日常の中にこんな一幕が入ることがあった。
 夕暮れのさす放課後の廊下を、俺は慌てながら駆けていく。晴香と待ち合わせている司書室に向かっているのだ。当時の彼女は図書係で、こっそりと待ち合わせをするために司書室を使っていたのである。もちろん私用のために司書室を使うのは禁止されていたのだが、当時の司書教諭や上級生が「恋する乙女」のために気を利かせてくれていたのだ。
「もーっ! おそいよてるくん! わたしすっごい待ちくたびれたんだけど!」
 こっそりと戸を開けて司書室に入った矢先、晴香のへその曲がった声が飛んできた。確かに今の時刻は四時を過ぎた辺りで、総下校時刻もとっくに過ぎてしまっている。
「ご、ごめん……そうじがちょっと長びいちゃって……」
「ええー? それにしてもなんかおそい気がするんだけどー?」
「いや、あの……今日は体育館の倉庫をそうじしてたんだけど……それで、その……一人でそうじ、してたから……」
 晴香はうっかり犬の尻尾を踏んでしまったようにアッと口をOの字に開けた。要するに、実に分かりやすいイジメの一例である。最も、掃除を押し付けられたついでに倉庫に閉じ込められていたことまでは言わなかったのだが。
 しかし俺にとっての救いは、晴香はそんなことで気まずさに沈まない女の子だったことだ。
 晴香はすぐにニッコリと笑顔を作ると、トコトコと俺のそばに近寄り、ポケットから一粒の飴玉を取り出した。
「図書係のセンパイからこっそりもらったの」
 キョトンとした心持で佇む俺に向かって、イタズラっぽくニヒヒと笑う。
「ほしい?」
 オレンジ味の飴玉は、空きっ腹の小学生にはなかなか魅力的だった。ただでさえ大変な体育館倉庫の掃除を押し付けられた挙句、閉じ込められた後ではなお更。
 しかし、俺はここで意地をはった。特に意味らしい意味など欠片もない、幼く内気な男子の下らない意地である。
「……いいよ、大島さん食べなよ」
「えー? ホントは食べたいんでしょー? っていうか、名字で呼ぶのと、さんづけはやめてっていっつも言ってるんだけどなー?」
「ご、ごめん、大島……さん」
「もー! ……まあ、いいか。それでけっきょくアメ玉いるの? いらないの?」
「い、いいよ、べ、べつにいらないから」
「いいの? ホントに食べちゃうよー?」
「だからいいってば、いらないよ……」
「じゃあ食べちゃおっ!」
 晴香はそう言うなり包み紙を開けると、ヒョイっと飴玉を口に放ってしまった。晴香はわざとらしいくらいに顔をほころばせながら飴玉を舐める。
 それを見つめる俺のお腹の虫は、キュルルと空しい鳴き声を鳴らすばかりだった。
「うん、すっごくおいしいっ!」
「そ、そう? ……それはよかったね」
「またまたー! ホントは食べたかったくせに、そういうこと言っちゃうんだー!」
「いや、だから別に……」
「あー、アメ玉おいしいなー! でもいじっぱりなてるくんはアメ玉食べられなーい!」
「い、いじなんかはってないよっ! アメなんていらないって言ってるだろっ!」
「あれ? てるくん怒っちゃった?」
「お、怒ってないよ! うるさいな! 黙って食べればいいだろっ!」
「だってアメ玉おいしいんだもん。おいしいものをおいしいって言ってなにが悪いの? っていうかそもそもてるくんはアメ玉なんていらないんでしょ? だったら黙るのはそっちだよ」
「う、ううっ……!」
 何も言い返せなくなり、俺はギリリッと唇を噛む。それを尻目に晴香は、ますます幸せそうな声をあげながら飴玉を舐めるのだった。
「……ねえ、どうしてもアメ玉食べたい?」
 しばらくして、晴香がそんなことを言い出した。その目は必要以上に笑っていて、何かしらよからぬことを企んでいることは明らかだった。
「え? だ、だってアメは、大島さんが……」
「アメ玉ならあるじゃん、ほら」
 そう言って、晴香は口を大きく開ける。そこにはもちろん、晴香の舐めていた飴があった。
 晴香の意図を悟った俺の頬は、瞬間的に真っ赤に熱くなった。
「は、はあ? なにバカなこといってるの大島さん? ジョウダンがきついよっ!」
「えー? わたしはべつにいいんだけどなー」
「だ、だって、それじゃあ……その……」
「キスって言いたいんでしょ?」
 晴香は口元にニヤリとした笑みを浮かべる。
「ねえ、わたしはいいって言ってるんだよ?」
「そ、そんな……」
「それとも、わたしとキスするのイヤ?」
 俺は固まったまま、何も言うことが出来なかった。晴香が嘘を言っていないことが表情から伝わってきて、どうしたらいいのか分からなくなってしまったのである。
 晴香はそんな俺を見て、口元に笑みを浮かべると、ジワジワと追い詰めるように詰め寄ってくる。俺はただ後ずさりをするしか出来ず、気がついたら壁際に追い詰められていた。
 それこそ、どちらかが後もう半歩ほど詰め寄ればキスが成立してしまいそうな距離。鼻先が紙一重で触れ合いそうなほどに近くで、晴香は俺の瞳を覗き込む。怖いくらいに真剣な表情を浮かべる晴香の瞳は本当に熱っぽく濡れていて、晴香の温度が俺にまで伝わってくるようだった。頭の中が真っ白になる。自分の顔が真っ赤っ赤になっていることも嫌というほどに自覚していた。しかし、顔を背けようにも、下手に動けば唇が触れてしまいそうだったし、何よりも晴香の瞳を前にした俺の方が、さながら釘付けにされたかのように固まってしまったからだ。
「ねえ、てるくん……目をつむって」
 晴香の声を聞いていると、頭がクラクラして気が遠くなりそうだった。まるでそれは、魔女の使う魔法(チャーム)のようだった。
「え……そ、そしたら……」
「それとも、てるくんは目をあけたままするのがスキなの?」
「そ、そんなの知らないよ……! ね、ねえ、やめてよ……やっぱり、こんなの……!」
「じゃあ、やっぱり目をつむりなよ」
「そ、そんな……」
「いいから早くしてってば……! 早く目をつむらないと、キスしちゃうよ?」
 本当の本当にやりかねないと思った俺は、観念するようにギュッと目をつむる。
「じゃあ、大きく口をあけてごらん」
 今度こそキスをする気だと思った俺は、首を思い切り振って拒絶した。しかし晴香はすぐに俺の顔を両手でガッチリと押さえ、「もう! いい加減にしないとホントにキスしちゃうぞってば!」と、少し苛立ったような声をあげた。
 逃げ場がなくなったのを悟った俺は、炎の中に身を投じる思いで口を思い切り開けた。しかし、この時の俺は、観念とはまた違った思いをその胸の内に抱いていた。
 それはすなわち、キスをする相手が晴香だったら良いかな、という感情。
 ――だってボク、ホントは晴香ちゃんのこと……。
 俺の口の中に何か丸くて甘い物が放り込まれたのはその時だった。
 真っ当な生物として、口の中に入り込んできた思わぬ異物を吐き出そうとするが、その口をすかさず晴香の小さな手が抑えこんだ。
「だいじょうぶだよ、わたしがなめてたやつじゃないから」
 俺が目を開けると、そこには先ほどまでとは打って変わって、俺の口を押さえ込みながらいかにも子どもらしいイタズラっぽい笑顔を浮かべる晴香が立っていた。
「たしかてるくん大好きだったよね? コーラ味のアメ玉?」
「……(コクコクッ)」
「どう、おいしいでしょ?」
「……(コクコクッ)」
 俺が頷くのを見た晴香は、満足げに笑みを深めると、ゆっくりとその右手を口から離した。
「このアメはどうしたの?」
「えへへ、家にあったのを持ってきたんだよ」
 つまり、最初からこの飴玉をくれるつもりだったのだろう。俺の口の中に、程よくシュワシュワとしていて、コーラ風味の大味な甘みが心地よく広がっていく。
「ねえ、てるくん」
 そう言って、晴香は俺に語りかけるようにして俺の目を真っ直ぐに見つめる。
「てるくんはもっと、自分の思ってることをスナオにはっきりと言った方がいいと思うな」
 それは紛れもなく、俺の弱さだ。
「てるくんは一人でそうじなんてしたくなかったんだよね? てるくんはアメ玉を食べたかったんだよね? だったらそれを言わないと、誰にもてるくんのこと分かってもらえないよ?」
 俺はそのことを自分でも分かっていたのだ。しかし、この時俺は何も言うことが出来ず、ただ気まずそうに視線を下に向けるしかなった。
 世界が美しいと知る前、俺の世界は果てしのない暗黒に包まれていた。それというのも、他でもない俺自身が、その暗黒になす術もなくやられてしまうくらいに弱かったからでもある。
「だーかーらっ、わたしとキスしたかったら、ちゃんとそう言うことー!」
「そ、それはいいよべつに……」
「もー、これでもわたしだってけっこうはずかしいんだよ? わたしみたいなかわいい女の子のキスをキョヒるなんて、ほんっとゼータクなんだからー!」
 そう言ってニヒヒと冗談めかして笑う晴香が、まるで太陽を見るかのように眩しくて、俺みたいな奴の目なんてあっという間に潰れてしまいそうだった。
「じゃ、そろそろいこっか!」
「ねえ!」
 司書室を出ようとした晴香を、俺は自分でもびっくりするほどに大きな声で呼び止めた。
「……ごめんね」
 俯いて、少しだけ泣きたいような気分でそう力なく言葉にする。
 自分のことを真剣に案じてくれる、俺自身も本当は大好きな女の子。そんな彼女の心から真剣な言葉に、情けないくらいに弱々しい言葉を返すしかない自分が大嫌いだった。
「ホントに、ごめんね……」
 こちらを振り返った時の晴香の表情は、とても悲しそうだった。悲しそうな表情を浮かべながら、晴香はその唇を思い切り噛んでいた。
 晴香はツカツカと近寄ると、俺の額に対して思い切りでこぴんを放つ。不意を突かれた俺は、短い悲鳴をあげてひるんだ。おでこを押さえながら晴香を見ると、彼女は笑顔を浮かべていた。しかしその笑顔は、笑顔になりきれていない、身体のどこかがとても痛むのを下手糞にごまかしてみせているような笑顔だった。
「もう……ホントにバカ……!」
 表情では辛くも笑っていても、目の方は全く笑えていなかった。怒っているようで哀れむようで、酷く複雑でそれでも酷く傷ついていることだけは酷く伝わってくる残酷な目で、晴香は俺の眼を真っ直ぐに見据えていた。俺はそんな晴香から目を逸らすことが出来なかった。他でもない俺自身が晴香にこんな表情をさせていることを思うと、俺は今すぐここで首をかききって死んでしまいたい気持ちになった。
 しばらくして晴香はツイッと顔を背け、早足に司書室から出ていった。晴香のいなくなった司書室は、気が遠くなるほどに無音だった。
 俺はこの時も泣かなかった。今回のことに限らず――例えば朝の登校時に「昨日は何かいいことあった?」と聞かれて、それに不細工な返答をすることになった時にもそうだったように――俺は自分自身の弱さによって晴香を傷つけてしまった時には、例えどれほどに惨めな思いをしようとも絶対に泣かないことにしていた。少なくとも晴香の前では絶対に泣かなかった。
 だから俺は身を縮める思いで晴香の後ろについていくのだ。泣いてはいけない――逃げてはいけない。掛け替えのない晴香を絶対に裏切ってはならないと、自分に言い聞かせながら。

       

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