Neetel Inside 文芸新都
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 空が群青色に染まった住宅街の中を、俺と晴香はゆっくりと歩いていく。
 十月下旬という冬の入り口のような時期。最低気温も知らずに薄着にしてしまった俺は、少しばかり肌寒さを感じる。しかしそれ以上に、普段はうるさいくらいに話しかけてくる晴香がムッツリと黙り込んでいることの方がよっぽど堪えた。飴は途中で噛んでしまって、奥歯の隙間には作り物のオレンジの強くて粘っこい甘みばかりが嫌味に残ったていた。
 こうして待ち合わせた俺たちが向かうのは、住宅街にある公園だといつも決まっていたし、そこで星を眺めることも決まっていた。
 とはいってもごく一般的な市民公園ではなく、小さな森や丘があるような、ちょっとした自然公園の体をなしている公園だ。桜の名所としても知られていて、花見の季節になると沢山の人々が訪れる。
 結局、俺たちは公園の入り口に着くまでずっと無言だった。
 公園は山の上にあり、公園に行くには階段を上っていく必要がある。
 彼女は一度こちらを振り返り、複雑な、敢えて言葉にするならば歯がゆそうな表情で一瞥した後、何も言うことなく階段を駆け上がって行った。仕方がないので、俺も黙ってその後ろについていく。
 聞いた話によると、この公園の山は東京でも一・二位を争うくらいに標高が低いらしい。実際、大の大人がこの山を登ろうとしたら五分もかからずに頂上まで辿り着くことだろう。それでも山を登っていることに変わりはなく、小学生の低学年にとってはちょっと疲れるような立地ではある。普通に歩いて登る分には問題ないのだが、流石に小学校低学年の女の子が駆け上がっていくともなると厳しいものがあった。現にその日も、半分に差しかかった辺りで息を切らし、欄干に寄りかかって立ち止まってしまった。心配になった俺は、少し迷った後に駆けよろうと思ったのだが、その前に再び、振り返りもせずに駆け上がって行ってしまった。
 間もなく、俺たちは公園に辿り着いた。流石にこの時間ともなると人の姿もあまりなく、物寂しい印象を受けた。一応外灯はあるのだが光は弱々しくて薄暗い。公園に植えられている木々がこの場合、返って気味の悪い雰囲気を作り出してしまっていた。空を見上げると、群青色だった空はほとんど闇夜のそれに変わっていて、まばらに散らばる星々が瞬いていた。
 先に到着していた晴香は中腰になり、ハアハアと荒い息をあげている。冷たい風が吹いている中で、晴香の額には汗がにじんでいた。
「はい、ハンカチ」
 見かねた俺はポケットから取り出したハンカチを晴香に差し出した。
「…………」
 晴香はそんな俺のことをジロリっと見つめてくる。そんな晴香が怖くなった俺は、思わず後ずさりをしてしまった。
 しかし晴香はすぐにハッとした表情になり、それから苦笑いのそれになった。
「うん、ありがとう」
 ハンカチを受けとった時の晴香の微笑みは、少し照れくさそうに見えた。まるで、作文の中にちょっとおかしな誤字があることを友人に指摘された時に浮かべるようなそれのように。
 一息つくと、俺たちはいつもの丘へと向かう。特に何かを喋った訳ではなかったが、晴香の表情はいつもの穏やかな笑顔のものになっていた。
 そこは、俺たちが星を眺める時にいつも腰掛ける場所なのである。階段を上った後、ずっと左手を歩き、遊具が置かれている児童エリアを抜けた先にその目的の丘はある。
 この丘周辺の空間を一言で言い表すと、ビリヤードのポケットと言ったところだろうか。
 公園の木々がうずたかい丘を遠巻きに囲むようにして半円を描いて生えわたっており、それが結果としてこの丘をちょっとした広場のような空間にしているのである。もし今の時刻が朝なら、太陽の光がスポットライトのように降り注ぐステージのような空間になったのだろうが、今は夜空に浮かぶ星々を映り出すプラネタリウムのような空間になっているのだった。
 俺はランドセルからタオルを取り出し、それを地面に敷く。余り大きくはないタオルだが、小学生二人くらいなら無理なく座れる程度の大きさはあった。晴香は「ありがとう」とお礼を言うと、そこに腰を下ろした。俺もその隣に座り、晴香に習って空を見上げた。星の瞬く夜空は、いつもと変わらず美しかった。
 一見すると何ともロマンチックな風景なのだろうが、実際のところはどうだっただろうか。
 確かに晴香はとても楽しそうだったし、俺としても晴香といること自体はとても楽しかった。しかし、少なくとも当時は夜空の星を見ることはそんなに言うほど楽しくもなかったのだ。
 そもそも、ごく一般的な小学校低学年の男の子にとって、劇的に変化する訳でもない夜空をずっと座って眺めることは、そんなに楽しいものでもないのだ。俺というか、普通の小学三年生の男の子からしたら、女の子と夜空を見上げるロマンよりも、肌寒い中でジッとしている窮屈さの方が問題だろう。しかし、そんな風に思っていることが晴香にばれた日には、とてつもない怒りを呼び込みそうだったので黙っていた。
「なにか、あったかい飲みもの買ってくるよ」
 だからこの一言も、先ほどの汗が乾いて少し寒そうにしている晴香を心配してというより、何かしらの口実を作って少しでも身体を動かすことにあった。無性に温かいココアを飲みたくなってきた、というのもあったのだけれども。
「おごってくれるの?」
「そ、それはムリだけど……」
「いいじゃん、おごってよー、てるくんのカイショーなしー」
「ごめん……そこまでお金ないし……」
 すっかり真に受けてションボリとした俺であったが、晴香はバカだねえと言わんばかりにクツクツと笑った。
「えへへ、ジョーダンだよー。わたし、コーンポタージュね」
「う、うん。わかった」
 俺はお金を受け取ると、とっとと自販機へと向かって駆けていったのだった。
 自販機は、児童コーナー内の売店のすぐそばにある。この売店は大変オンボロで、俺の知る限りではずっと閉まりっぱなしだった。
 自販機から出て来たコーンポタージュを手にとり、自分の分のココアを買おうとしたその時、ふと左手からかすかな足音が聞こえた気がして、俺は瞬間的にビクンと身体を震わせた。
 実はこれは、「気がした」だなんて曖昧な感覚ではなく、はっきりとした確信だった。
 ここ最近、俺のことを付け回している人間がいることは知っていたし、そいつがそのことを隠す気が全くないことも分かっていた。そして何よりも、そもそもそいつが一体何者であるのかもはっきりと見知っていたのだ。
 恐々と後ろを振り返ると、ここから十数メートル離れた程度の位置、程よく隠れられそうな草木の陰に、一人の女の子の姿があった。黒く淀んだ双眸で、彼女は地縛霊のような佇まいで俺のことを見据えていた。
 俺じゃなくても、ちょっとゾッとするようなシチュエーションではないだろうか。
 もっとも、彼女は幽霊でも何でもなくて、ただのストーカー女ではあったのだけれども。そして、いくら怖いシチュエーションでも、何度も繰り返されれば慣れてもくる。もっとも、臆病だったこの頃の俺にとってはそれでも十二分に恐怖を感じさせる状況ではあったのだが。
 そいつは俺の眼を見据え続ける。感情を感じられない目で、身動きも取らずに。
 俺は背筋をジワジワと上って来るような恐怖を感じてはいたのだが、視線を逸らしたり逃げ出すことは出来なかった。心臓が鋭く高鳴り、意識は白んでいく。
 やがて彼女はふいっと背中を見せ、ゆっくりと闇に溶けていくように去っていった。彼女が去ると、白んでいた意識がハッと元に戻り、その場にへたり込んだ。右手に持つコーンポタージュは、まだ熱いくらいの熱を放っていた。

       

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